●理屈と想い
「一度、頂上に行ってみないか?これだけあれば、直ぐに誘い出せるかも知れないだろう?」
礼野 智美(
ja3600)が、『餌』を一瞥しながら声をかけたのは、山を登る直前だった。
匂いに反応した、という情報を元に、各自が肉、フライドチキン、干物等、強い臭いの発する物やディアボロの好みそうな物を持ち寄ったのを見て、一つで誘うよりは、と考えた結果だ。
「――成る程な」
エカテリーナ・コドロワ(
jc0366)が小さく頷く。
「確かに山頂ならば、風向きにもよるが遠くまで匂いを飛ばす事が出来るだろう。だがしかし横穴等に居た場合は匂いも届きにくい。その場合タイムロスが気になるな」
「その時はその時じゃないかい?山頂まではそう遠くないし、ばらけるにしたって、あたしらの足ならそう時間も掛からないだろ。なら一度、様子を見るのも良いんじゃないかい?」
冷静に考えを述べるエカテリーナの懸念をぬぐうよう、アサニエル(
jb5431)が、口元をにやつかせ「それに、出てきてくれるなら全員で潰せるだろ?」と続ける。
「俺も、もし見つからなかったらおびき出そうと思っていたし問題ない。それに、だ。奴には早く、この拳を叩き込んでやらねば俺の気が治まらんからな……!」
後押しするよう、千葉 真一(
ja0070)が怒気を滲ませ、拳を握る。
「藍那、お前はどう思う?」
「そうだな……」と藍那湊(
jc0170)がゆっくりと口を開く。
「山頂に行くのは賛成だよ。でも誘い出すのは足跡とか、ディアボロが近くに来ていたって痕跡があるなら、かな。誰かが傷つくリスクは減らしたいし」
「確かに、な。ディアボロを撃破出来る確率が上がるならば、そちらの方が良いだろう」
「なら、少し急ごう。もし誘き出しが失敗した時、日が暮れてから捜索するのは避けたいからな」
言って、礼野が一歩足を踏み出した時だ。
「ま、待って!」
メフィス・ロットハール(
ja7041)の、ためらいがちだが鋭い声が響く。
「どうしたの?」
藍那の穏やかな声に促され、メフィスは少し考え、一瞬言い淀む。
「私は少しでも早く『ねぐら』の捜索に行きたいって……その、もし娘さんが生きてたら、一刻を争うだろうから」
「メフィス、それは……」
千葉が、戸惑いの声を上げる。
七歳の子供が、血だまりが出来るほどに出血し、骨を砕かれ、肉を貪られて生きている。
それが、どれほど絶望的な希望かと言う事を、また生きていたとして、決してそれが『幸運ではない』事を、撃退士である皆は嫌と言うほど知っている。
言葉に詰まる仲間に向かい「私だって」とメフィスが叫ぶ。
「分かってる!分かってるんだけれど……もし、もし奇跡でも、万が一でも娘さんが生きていて、それで助けを待ってるとしたらって思うと……っ」
言葉が紡げず、俯く。
そう、本人が一番理解しているのだ。
希望が無い事も、可能性はゼロに等しい事も、知っている。
しかしそれでも、理屈ではない物が生存、という可能性を捨てきれずにいたのだ。
「……なら尚更だ。もし、ねぐらで『保存食』として連れられていたら血液が点々と残ってる筈だし、場所が解っているなら全員で居た方が助けやすい……だろう?」
礼野が、宥めるように語り掛ける。
そうして、落ち着いたのか「そう、ね」とか細い声をして、メフィスが前を向いた。
「こうしてる間にも、娘さんは弱って行ってるかもだしね……早く敵を倒して、探してあげないとね」
●山頂
つい数時間前、母子が殺されたはずの山頂は酷く、心地良かった。
周囲を雑木林に囲まれ、ピクニックスペースという名目を保つためだけに設置され、風雨に曝され痛んだダイニングベンチが三つあるだけの、広々としたスペース。
遠くからは小鳥の囀りがこだまし、時折、僅かな風に撫でられた木の葉が、さわさわと柔らかな音を奏で、それに合わせて木漏れ日が揺れる。
だというのに、雑木林に近い地面には母子の――特に娘の物だろう。酸化し、黒ずんだ生々しい血痕が、嗅ぎ慣れた鉄さびの臭いをさせて、地面に吸い込まれながらもまだ、ありありと残されていた。
「ひどい……」
「まだ臭いが……残ってるな」
思わず口元を抑えるメフィスに続くようにして、千葉が強く唇を噛む。
目の前で家族を食い殺された男の心境は、どれほどの物だろう。
平和な光景を穢し、一つの家族の幸せを壊し、侵して。
それでも未だのうのうと生きる、ディアボロに対する怒りが煮えたぎる。
思わず、拳に力が入る。
「臭いは殆どないけれど、真新しい足跡があったよ。血痕は……ないみたいだね」
周囲を確認していた藍那が、雑木林から現れる。
どうやら、臭いで誘き出す作戦は決行らしい。
出来るだけ隙を無くすようにスペース中央で円陣を組み、互いを見やる。
「……よし、早速始めるか」
礼野の声を合図に、それぞれがそっと『餌』を入れていた容器の口を開ける。
焼けたソースの香ばしい匂いに、スパイス、ハーブ等の香辛料。
続いて、肉から溶け出た油、甘く、やさしいパンとマーガリン、塩気の混じった生臭さとが鼻奥を刺激し、思わず唾液が染み出る。
これらが全て、悪臭を放つ獣の為に用意された物だと思うと、勿体ない、とすら感じるラインナップだ。
木の葉が揺れる。それらの匂いが、風に乗って運ばれてゆく。
「これで、掛かってくれればいいのだが」
僅かな不安を滲ませ、神経を尖らせる。
そうして五分程した頃だろうか。
胃袋を刺激する匂いに混じって、鼻を侵す、汚物とも腐肉とも取れる異臭が混じる。
――来た。
一瞬にして空気が張り詰める。
その臭いは徐々に近づき、最後には、あれだけしていた弁当の匂いがかき消された。
余りの臭いに、胃液がせり上がる。
撃退士達はその生理反応を無理矢理飲み込み、聴覚と嗅覚に集中する。
しかし、どこにも姿が、ない。
藍那はその臭いから居場所を探ろうとするが、あまりにも強烈な臭いが鼻奥にこびりつき、正確な位置を絞る事が出来ない。
それは他の仲間達も同じようで、小さく頭を動かして位置を割り出そうとしている。
「大人しく顔を出せ。調教してやる……!」
威嚇するように、エカテリーナが低く唸る。
だが獣の気配は、臭い以外感じられなかった。
その時だ。
千葉の耳に、僅かな、それこそほんの一握りの違和感だが、一か所だけ木の葉の揺れ方が違う事に気付く。
更に耳をそばだてる。仲間の呼吸が、聞こえる。それとは別の、荒々しくも押し殺した、品の無い音に、気付く。
方向は――
「上だ!」
千葉が、声を張り上げる。
その瞬間、気付かれた事に気付いたのだろう。
身を隠す事をやめた、熊とも狼ともつかない体躯をした黒い塊が大きく枝葉をしならせ、飛び掛かる。
狙いは――自分の居場所を看破した、千葉。
牙を突き立てようと、大口を開け、涎を撒き散らし、生臭い息を吐き出して落ちて来る。
エカテリーナがすぐさま銃を向け、引き金を引く。
鮮やかな赤褐色をした鮮血が舞う。
だがしかし、重力に身を任せた獣の攻撃は、止まらなかった。
普段ならば、避けられた。
しかし、仲間に危険を知らせる為に注意を逸らした今。
反応が一瞬、遅れた。
体に衝撃が走る。バランスが、崩れる。よろめく。顔が歪む。血液が、飛ぶ。
傍にいたアサニエルが、咄嗟に千葉を突き飛ばしていた。
「やれやれ……急に飛び掛かるなんて、躾のなってない犬っころだね」
飄々と、面白そうに、愉快そうに、アサニエルが口にする。
しかしその腕は、獣の爪が掠ったのだろう。服が破れ、その下で肉が裂けているのが、見えた。
「っ!すまない」
「大丈夫、かすり傷さね――それよりも」
笑みを絶やさぬまま、獣に視線をやる。
攻撃に失敗した獣は落下の勢いを、爪で土を削りながら体を反転させて殺し、苛立たしげに鼻に皺を寄せている。
地面には、エカテリーナの狙撃した部位から零れたであろう血液が点々と、獣の軌道に沿って垂れていた。
毒が全身に回るよりも早く、アサニエルはアウルを高め、解毒し、痛みから、額にじっとりと浮かんだ脂汗を、無傷の腕で乱暴に拭い、目を細める。
「っ……!任せろ、仲間を傷つけた借りは、返させて貰う……っ!」
黒く短い、体毛。吐き気を催す、異臭。鋭い爪に、長々と伸びた牙。赤く不気味に輝く、両の眼。
――間違いない。奴が母娘を襲った、獣。
各々が、それぞれの得意な位置を陣取りながら、武器を構える。
その行動に、敵だと認識したのだろう。
異臭を放つ獣が撃退士達を睥睨し、牙を剥き、吼える。
●狂犬
エカテリーナが素早くライフルの照準を合わせ、獣の動きに合わせて連続して引き金を引く。
が、獣の動きは予想以上に、速い。
ジグザグと不規則に地面を蹴る。弾丸を、間一髪でよける。
そして他の誰かが攻撃をするよりも先に、自らの身体を傷付けたエカテリーナ目がけて、野太い前足を、振り上げる。が、しかし。
「――やらせないよ」
藍那が光の欠片を煌めかせながら、獣の動きを読んでいたかのように割って入り、がら空きの胴体に向けて氷の刃を放つ。
獣は、避ける事も、防ぐ事も出来ず、無様な悲鳴を上げる。
吐き出された、むっとした生温い息が、藍那の顔に掛かる。
「ひどい臭い……」
目が痛くなる粘着質な異臭に思わず眉を寄せ、嫌悪とは違う声色で、呟く。
獣は予期せぬ痛みから逃れようと、身体をよじらせ、距離を取ろうと地面を蹴る。
そこに軽快な「おっと!放し飼いなんて今時流行らないよ!」というアサニエルの声がした。
同時に、空中から鎖が現れ、さも意思があるかのようにうねり、蠢き、暴れる獣の身体に巻き付き、動きを止めさせる。
「お前がいると、都合が悪い」
続けて礼野が一足飛びに近付き、白銀に輝く大太刀を、獣の脇腹に突き立てる。
ぶっつりと、皮を突き破る感覚が伝わる。
切っ先が柔らかな脂肪を、緊張した筋肉を掻き分け、骨の上を滑らせ、腎臓を突き刺す。
獣が激痛に、苦しみ悶える。遠吠えにも似た声を上げ、あらん限りの力で持って暴れる。
それに伴い、鎖が、耳障りな軋みを上げ、一本、二本とちぎれて行く。
「なんて馬鹿力だい……!」
「今の内に……っ!」
この機を逃すわけには、行かない。
メフィスの背中に漆黒の、ジェットエンジンにも似た翼が出現し、轟音が耳を劈くよりも速く、獣に迫り、地面を蹴り上げて燃え盛る双剣を眼窩に突き立てる。
同時に「ゴウライソード!ビュートモードッ」千葉の声が響き、短い刃の連なった鞭が鋭く波打ち、最大の武器である牙を、薙ぎ払い、砕く。
苦痛に満ちた絶叫がこだまする。
次の瞬間、鎖が千切れる。
後ろ足を隆起させ、獣はなるべく撃退士達から離れようと飛び上がる。
が、麻痺があるのだろう。
着地に失敗し、痛んだダイニングベンチの上に落ちると、ぎゃん、と短い声を上げてベンチを押し潰し、木片をばらまく。
血が、涎が、毒液がまき散らされ、悪臭が強くなる。獣の浅く、早い呼吸が聞こえる。
限界が、近いらしい。
「……こんな姿に生み出された君も、早く楽になるといい」
藍那が、悲愴に満ちた声で、獣に語り掛ける。
このディアボロの素材が、人間だったのか、それとも他の動物だったのかは分からないが、少なくとも、こんな醜悪な化け物にされる謂れは無かったはずだ。
獣の足元から氷にも似た結晶が伸びる。
が、視力を失った獣にそれを察知する術はなく、あっさりと地面に縫い付けられる。
獣が、必死に逃れようと、足が折れそうな程身体を揺らし、抵抗する。
「もう逃がしやしないよ」
しかし、アサニエルが再び鎖を召喚して獣を、先程よりも強固に雁字搦めにする。
鎖と、結晶。
二つの枷で拘束を受けた瀕死の獣は、もはや動くことすら叶わず、恨みがましく呻り声をあげるだけとなった。
ゆっくりと、エカテリーナが獣の頭部を狙い、アサルトライフルを向ける。
銃口の先から、蒼白い光が漏れ出す。
不穏な気配を感じ取った獣が、くぐもった音を出す。
「終わりだ、狂犬」
指を、僅かに動かす。
吹き飛びそうな程の反動が、エカテリーナの身体にかかる。
照準がぶれないよう、反動を、殺す。力を、受け流す。
そうして閃光が収まった頃、母娘を食い殺した獣の頭は、跡形もなく、消えていた。
●エピローグ
母娘が弔われている墓地は、小山からそう遠くない、小さな寺の中にひっそりと建てられていた。
墓石の前には、途中で用意した花やジュースが置かれ、撃退士達が目を閉じ、手を合わせている。
「本当に……有難う、御座いました」
不意に、男の疲れ切った掠れ声が聞こえる。
目を開き、ゆっくりと、振り向く。
男――飯塚が深々と、力なく頭を下げているのが、見えた。
元々細身だったのだろうが、やつれているのもあってか、その体は枯れ枝を無理矢理しならせたようで、今にもぽっきりと折れてしまいそうだった。
「妻と娘の無念を、晴らして頂いて本当に、有難う御座います。きっと……二人も墓の下で喜んでくれている、と思います――尤も、娘は入ってませんけれど」
言って、小さく笑うが、その笑顔はどこまでも空っぽで、痛々しい。
「飯塚さん。少し、みて頂きたいものがあります」
礼野が、神妙な面持ちをしてポケットからあるものを取り出し、手を開く。
飯塚は最初、訝しがる様子だった。
だがしかし、礼野の握っていた物をみた瞬間「これを、どこ、でっ」と目を丸くし、息を詰まらせた。
「ディアボロの体内に残されて。その、ねぐらも隅々まで探したんですけれど、それしか……」
メフィスが言いづらそうにし、礼野が飯塚にソレを渡す。
しかし飯塚は、「十分、十分です……これでちゃんと、弔ってやれる……」とだけ言って、膝から崩れ落ち、人目も憚らず、慟哭した。
獣が絶命した後。
メフィスを筆頭に『娘』の捜索が行われたが、結局見つけられたのは礼野が腹を捌いて見つけたウサギのマスコットが付いた髪留めだけだった。
確かに、数本の毛はついていた。しかしそれを遺髪と呼んでいいのかすら、分からない。
それでも、この父親からしてみれば。
跡形もなくなったと思っていた娘の一部が、帰ってきた。
もう戻らないと思っていた物が、戻ってきたのだ。
この涙はきっと、喜びの涙だ。もしかしたら、妻子を無くしてから初めて流した涙かも知れない。
たっぷりと十数分ほどして、飯塚は漸く頭を上げた。
目は腫れぼったく、顔には涙の跡がはっきりと残っている。
しかし先程までの悲痛さはなく、不思議と、晴れ晴れとして見えた。
「貴方達のおかげで、私自身も救われました……本当に、有難うございます」
墓地には、穏やかな風が吹く。