Tシャツに上着を羽織っただけという格好のせいなのか、それとも高度のせいなのか、風が吹く度に肌寒さを覚えてルナリティス・P・アルコーン(
jb2890)は、僅かに身体を震わせて両手を使い身体を擦り合わせた。
高度三百メートル。
人里から離れているからか空気は冷たく澄み、近くに生える木々から香る、青臭さ、とはまた違う、一種清々しい香りが鼻を掠め、もしもこんな状況――天魔を誘い出すための囮になっている、という状況でなければ、もう少し楽しめたかもしれない。
尤も、被害者の死に方から敵はおそらく飛行を得意としていると判断しているし、仮に接近に気付かず、空から来られてもすぐさま地中に沈んで攻撃を避ける準備も、出来ている。
だがしかし、だ。
囮であるという条件からあまり不自然な動きは出来ないし、『無意識に不自然に』ならないように『自然に意識』しなければいけない、というのは、中々骨が折れるし、気を遣う事も多く、神経がすり減っていくのが解る。
上着のポケットに入れていた携帯電話が、震える。
どうやら誰かが、天魔の姿を見つけたらしい。ルナリティスは携帯電話に反応する事無く、不自然にならない程度に歩みを遅くすると、ゆっくりと、所定の位置にまで向かってゆく。
捕らえやすい『獲物』である為に、なるだけ、愚鈍そうに、ゆっくり、ゆっくりと。
どうやら、獣は『餌』に食いついたらしい。
藍那湊(
jc0170)は全員に『発見』を告げる為に出した携帯電話をしまうと再び、双眼鏡を覗き込む。
上半身は鷹で、下半身はライオン。そんな姿をした獣が、空の――多分、山頂よりも高い場所で、襲うタイミングを計るかのように同じ場所を大きく、そして静かに旋回して段々と、その円を小さくして狙いを定めているのが、見えた。
「……そろそろ、かな」
誰に言うでもなく呟くと、双眼鏡をしまい、藍那は大きく翼を広げて乗っていた枝を蹴り上げ、氷の結晶を煌めかせた。
同時に、獣が空中で急停止し――そのまま、滑空する。
獣が滑空を始めてから地上にいる『獲物』に辿り着くのには、数秒とかからなかった。
ルナリティスが襲撃に気が付くよりも早く、両足にある四本の鉤爪を広げ、獣は彼女の元へと一直線に飛び掛かる。
――が。
獣がルナリティスを掴もうとした時だ。突然、鮮やかな緑の軌跡が獣の前で踊る。
事前に、ヤナギ・エリューナク(
ja0006)が仕掛けられた結界が、現れた獣に反応し、発動したのだ。
眼に見えない程に細いワイヤーが幾本も獣の身体に纏わりつこうと弧を描き、獣の身体中に触れる。その感覚に獣は慌てふためき、翼をはためかせる。
だがワイヤーはそれ以上獣の動きを阻害する事は出来ず、振り払われ、異常事態を察した獣はそのまま上空へ帰ろうとする。が、しかし。
「いかせないよ……!」
声が聞こえると同時に突然、どこかから現れた、二本の鎖――一本は、周囲に氷で出来た百合の花を咲かせながら、もう一本は、重厚な鎖――が、僅かに動きを止めた獣の足に、身体に、頭に、絡みつきそのまま、地上へと伸びて引き摺り降ろす。
藍那とErie Schwagerin(
ja9642)が殆ど同時に放った鎖だ。
それが暴れる獣を押さえつけ、翼にも絡みつき、抑えて、飛行を妨げる。
「ふぅん、上手くいったみたいねぇ?」
鷲の上半身に、獅子の下半身。グリフォン。
獣は幾度か翼を、爪を、暴れさせ、嘴を鳴らして、再び空へと舞い上がろうとするが、飛ぶ事も叶わ無いと分かると、苛立たしげに甲高く啼き声を上げて全身の羽と毛を逆立て、撃退士達に向かい、射貫くような視線を投げつけ、走り出す。
●
獣がしなやかな、しかし力強く筋肉質な後ろ足で地を蹴り、目の前に居る敵――ルナリティスに向かうのと、鎖鎌が投げつけられたのは殆ど同時だった。
鎖鎌が、獣の視界に入る。慌てて、猫科の足と鷲の爪を地面に噛ませ、動きを止めようとするのが、分かる。
鮮血と羽根が舞う。続けて、舌打ち。
獣が急停止をした為に狙いが外れ、翼を切りつける事が出来た物の、風切り羽根を切るにはいたらなかったのだ。
「デカ物のクセに、ケッコー器用に動くんだな……ッ!」
鎖鎌を引き戻す。獣の視線がそれを追う。
そして、ヤナギの存在を認識すると、今度は明確な敵であるヤナギに向かって身体を捻り、嘴を突き立てようと地を踏み出す。が。
「……させない……」
獣の死角からSpica=Virgia=Azlight(
ja8786)が言うと同時に、銃の引き金が引かれ、広げられていたままの翼を弾丸が穿ち、幾本の羽が舞う。やわらかな羽毛。内羽だ。はたはたと地面に鮮血が零れ、土に染みてゆく。
放たれた銃弾は翼の、中心にほど近い場所に当たったらしく、そこからじんわりと血液が滲むのが、見えた。
短い苦痛を訴える悲鳴。痛みを誤魔化そうと、翼を大きく動かす。その度に、更に周囲へ血液が撒かれる。
再び、銃声。先程とは別の銃――何処かに身を隠している桜庭 ひなみ(
jb2471)が放ったものが今、傷付けられたばかりの翼と同じ翼を貫き、傷の具合を大きくして見せた。
獣が唸る。そして、度重なる翼への攻撃に、獣は自らの翼が狙われていると悟ったのだろう。獣は素早く、広げていた翼を折り曲げ、畳み込み、出来るだけ胴にぴったりとくっつけてしまう。
獣が勝ち誇ったようにギッギと耳障りな声を漏らす。
「あらぁ。それで大丈夫だと思ったのかしらぁ?」
嘲笑うかのようなErieの声。軽く、何かを獣に向かって放り投げる。瞬間、炎で出来たような腕が伸び、獣の身体を、翼を、胴体ごと掴み、薙ぎ払おうとする。
だが獣は、一瞬怯みはしたものの、すぐさまその場を駆け出し、飛び跳ねると、その腕から逃れそのままの勢いで森へ向かって――どこかにいるであろうひなみを狙い、駆ける。
「おっと、させるものか……!」
ルナリティスは言うが早いか、その身体に不釣り合いな程に巨大で無機質な翼を広げ、獣の前へと先回りし、銃口を突き付ける。
だが獣は、それが狙いだったとでも言わんばかりに嬉しそうな引きつくような声を立てると、走る勢いそのままに、腕を振り上げ、身体目掛けて爪を振るおうとする――が。
銃声。反響。振り上げていた獣の爪が一本、砕ける。
獣の唸りにも近い、短い、戸惑い。
続けて、銃声。二度目。三度目。それに伴い爪も、二本、三本。順々に砕けていく。
藍那の放った弾丸が、正確に、次々と、振り上げられていた獣の爪を砕いていったのだ。
だがそれでも、獣は攻撃の勢いを殺す事は無く、爪を失った鳥の足が、ルナリティスの肩から腰にかけてまでを殴りつけてゆく。骨が軋む。体内から、軽い、骨の折れる音がする。
「ぐ……」
身動ぎ所か、声を出すだけで鈍く痛みが走る。だがこの程度ならば、戦闘が終わった後にでも回復してしまえば良い。
そう判断すると、突き出したままになっていた銃口を獣の肩肉に当て、そのまま引き金を引き、肉を吹き飛ばし、獣が叫びだすのを聞く前にすぐさま武器の入れ替えを行う。
獣が、仰け反る。鮮血を零して踵を返し、背を向けて逃げて行く。
その背中に護符を振るい、氷にも似た刃を放ってやると、獅子の下半身にナイフで切り付けたような傷が出来て行き、小さく「これなら」と呟くと、再び得物を銃に持ち帰る。
苦痛から逃れる為にか、獣は再び翼を狙われる事も厭わず翼を広げ、空へ羽搏こうとはためかせる。
「逃がさないよ……!」
「だぁめ」
藍那とErieの声がして、再び、鎖が放たれる。
しかし今度は、「二度と同じ手は食わない」とでも言わんばかりに鎖を躱し、地面を蹴り上げて身体を浮かせて浮上する。
しかし――
「……折角降りてきたのに……逃がさない……」
Spicaが呟くと共に、手にしていた武器が変形し、雷を纏い、巨大な槌になる。
そしてそれを、そのまま羽ばたいて空に消えてしまおうとしていた獣の胴体へ向けて振りかぶり、横殴りにする。
咄嗟だったのだろう。
獣は更に大きく翼を広げる事によって槌の衝撃から翼を守り、そのまま弾き飛ばされる。
だが、翼を広げると言う事は、それだけ狙いやすくなる、と言う事。
羽根が幾枚も宙へ舞う。
風切り羽根だ。その一瞬のチャンスを逃さなかった撃退士達により、獣の両翼はずたずたに、切り裂かれ、穿たれ、撃たれ、その殆どを失う事になったのだ。
獣の巨体は地面に何度かバウンドし、勢いを殺して地面へと無様に転がる。
だが、すぐに飛び起き獣は攻撃を加えようと、姿勢を低くし――ズタズタになった翼を守るのもやめて――自身を傷付けたSpicaへ、突撃を加える。
素早い。しかし、先程までもダメージは残っているのか、今までに比べれば、遅い。
獣が、爪を振り上げ叩き付けるようにして肉を引き裂こうとする。
避けるのは、難しそうだ。
Spicaはそう判断するや否や、振り上げられた獣の腕の中に身体を滑り込ませて懐に潜り込み、アウルを集中させる。
――しかし、何かがいつもと違う。違和感。いつもよりも、もっと――しかしSpicaは、その違和感を呑み込むようにし、疑問を消化しそして、手にした剣を具現化させ――いつもと違う、攻撃的な形に驚きながらも、そのまま剣を、獣の身体に突き立て横に引き裂く。
絶叫。
体内を裂かれ、肉を壊され、獣は絞るように苦痛の声を、上げる。
獣はその巨体を、ボロボロになった翼を滅茶苦茶に振り回し、何とかこの場から逃れようと、距離を取ろうと、自然に、無意識に、選別し、武器らしい武器を唯一持たず、目を引く容姿と『体臭』をしたErieに向かい、がむしゃらに走りながら残った爪を剥き出し、突進してゆく。
小さく、Erieは微笑む。
最悪の判断をした、獣を憐れむ様に。
「忠告してあげる――逃げた方が、良いわよぉ?」
腕を伸ばす。同時に、Erieの髪よりも赤い色をした焔が、道を、森を、獣を、包み込み、舐めつくし、球状になりながら、焼き尽くして行く。
肉の燃える臭いが漂う。羽根の焼ける臭いが鼻を突く。草木が、地面が焼け焦げ、きな臭さが周囲を覆う。
――永遠に終わる事の無い、煉獄の焔。
その焔に耐えられるわけもなく、獣は声を上げる事も出来ずに身悶え、業火の中から飛び出し、無様に地面の上をのた打ち回り、苦痛から逃れようとしていた。
スコープを覗く。獣がもがき、苦しんでいる。
ひなみは息を殺し、心を落ちつかせながら手にしたライフルの照準を合わせ、淡々と、静かに、獣の動きが止まるのを待つ。
獣が、転がる。
羽根が、毛が、焼け焦げ、焼け落ち、風に乗って、生きた肉が焼かれた異臭が運ばれ、鼻を覆う。
それでもひなみは静かに、獣の急所――脳に、照準を合わせて、神経を集中させる。
そして、ゆっくりと、引き金を、引いた。
●
岩場に残された死の臭いは未だ生々しく、そして作り物染みて赤黒く残り、取り除き切れなかった細かな肉を、他の鳥達が啄んでいる。
ヤナギは手にしたベースを指でそっと撫で、弦を優しく、弾いてやる。
最初は一本。次は三本。その次はまた一本。
柔らでゆったりとしたリズムから、次第に激しく、時に泣き叫ぶように、時に祈る様に、無念の死を、苛む苦痛を、憐み、慈しみ、そして死後の幸せを願う歌を、つま弾き歌わせる。
「――」
何かが聞こえた気がしたが、それが声なのか、葉擦れなのか、それとも風の音なのかは、分からない。
そして最後の一音まで弾き切った瞬間、風が凪ぎ、低く穏やかなベースの音色は、どこか遠くへと運ばれ、余韻を残して、消えた。