●氷の上に
朝の冷え切った空気の中、少年少女の目の前には見事に凍りついた湖が広がっていた。
「ここが……」
呟いた礼野 智美(
ja3600)の息が白く立ちのぼる。温暖な地域で生まれ育った礼野にとって、凍りついた湖はあまりに馴染みの無いものだった。
(氷上での戦いか……、考えようによっては水上よりも厳しいか?)
内心に氷上での戦いへの不安が生まれる。
「うわー、本当に凍ってるよ!」
そんな礼野の不安を余所に、與那城 麻耶(
ja0250)は元気な声を上げつつ湖に下りた。そして、無邪気に凍りついた湖面に踵を振り下ろす。聞こえるのは踵のスパイクと氷面がぶつかり合う硬い音だ。
はしゃいでいるその横を無表情のままのアイリス・レイバルド(
jb1510)が水平移動で通り過ぎた。勿論、足にはスケート靴を履いているのだ。
その後をスケートを履いた少女たちが次々に湖に降り立つ。
「氷が綺麗だね」
光が反射する氷を眺め、紫ノ宮莉音(
ja6473)が目を細める。
あれから数日のうちに湖の周りには、氷とも雪とも言えるようなオブジェが山のように出来上がっていた。
「ええ、ですが……少々、品性に欠けると思いますねぇ。あれは装飾過多でしょう」
周囲の樹氷と言うには成長し過ぎた、氷の枝を広げたオブジェを一瞥し、三善 千種(
jb0872)が首を振ってため息をつく。彼女の美的感覚にはそぐわなかったようだ。
そして、氷の上に四足歩行の獣が現れた……。
「これなら安定感抜群なのっ!」
天魔? 残念、エルレーン・バルハザード(
ja0889)でした。
皆を真似てスケートで登場したエルレーン。しかし、手にもスケート靴という奇怪な姿であった。
「何やってんのよ」
咲・ギネヴィア・マックスウェル(
jb2817)が、エルレーンに「変なの」と視線を送る。かと言う咲は、スケートではなく自らの翼で宙に浮いていた。
「ぐぬぬ、飛べるとかずるいの……」
エルレーンが不思議すぎる格好のまま悔しがる。
「……緊張感が無いですね。いや、変に固まってしまうよりは良いんですが」
各務 与一(
jb2342)が苦笑している。
凍えるほどの冷気が、ひしひしと体と心を凍らせるのだ。
何気ない、日常の馬鹿騒ぎも、感情の温度を上げるのには効果的とも言える。
勿論、本人達が意識しているとは限らないが……。
「さ、気を引き締めてください。白鳥さんの登場のようですよ」
各務の声のトーンが落ち、皆が湖の真ん中に注目する。
魅惑的な演奏とともに、真ん中の氷の中にサーヴァントたちが降り立つののが見える。
さぁ、氷の上の舞台の開幕だ。
●白鳥と舞う湖
Mスワンたちが奏でる幻惑の調べは静かに。しかし、体の芯を震わせるかのように響く。
人々がその演奏に心奪われるのも仕方の無いことかもしれない。
「ぬぬっ、さーばんとのくせにうっとりとか……むかつくなのっ!」
四足の獣は開幕一番、白鳥の群れに飛び込んだ。
派手に!
その姿はスピードスケート選手……ではなく、カーリングのストーンのようにMスワンを弾き跳ばす勢いだ。
演奏の邪魔をしてきたエルレーンに対し、Mスワンたちは全く動じずに左右に隊列を分けた。
「うへへ……って、えーっ!? やり過ごされた〜」
エルレーンはモーセの十戒のワンシーンの如く、割れたMスワンの海を渡ってゆく。
凄く目立っていたよエルレーン。
しかし、Mスワンたちの興味は惹けなかったようだ。
「エ、エルレェェェェエンッ!?」
皆があたかも劇画調の顔で叫ぶなか、物凄く良い笑顔で「ホモゥ……」と呟き滑って行く。
そして、無常にも何事も無かったとばかりにMスワンたちは隊列を戻し、その影にエルレーンは消えた……。
「よくも、エルレーンちゃんを!」
與那城がMスワンたちを睨みつける。
「まだ、生きてるのーっ!」
遠くから声が聞こえる。
「……よくも、エルレーンちゃんを!」
言い直しましたね。
「そうよ! よくもエルレーンを(笑)! おいしそうな奴らめ!」
咲も與那城に続いて叫ぶ。というか、食べる気なのか……。
「……二人ともそうじゃないだろ」
アイリスの口調は静かだったが、良く耳に通った。
「エルレーンの仇。貴様らの芸術、すべて破壊してやる……くらい言うべきだろう」
「ちょっとー、皆! 私まだ生きてるのーっ!」
アイリスの確信犯的な言動に、ボケ担当っぽいはずのエルレーンが、なぜか突っ込みを入れることに……。
「芸術とは対極だろ……」
ポケットにしまった携帯音楽プレーヤーの再生ボタンを押し、礼野はSスワンに向い走る。プレーヤーのスピーカーからは、スワンたちのクラシカルな音楽とは違いメタルサウンドが響く。
氷の上を走る。礼野もはじめはスケート靴で戦う事も考えたが、やはり経験の少ないスケートで戦うのには気が引けた。それに靴とは言え、氷の上でバランスを取って動き回るのは中々骨の折れる動作だ。
礼野は体内の闘気を燃焼させ、Sスワンに迫るとワイヤーを閃かせる。
ワイヤーは金属の光を放ち軌跡を描く。
Sスワンは滑らかな動作でワイヤーをかわし氷上に軌跡を描く。
「速いっ」
礼野は氷の上で普段よりも踏み込みが甘くなった事を察する。
攻撃をかいくぐりSスワンが勢いをつけて滑走する。しなやかな動きで氷の翼がバレリィナの手指のように繊細な『感情表現』を真似てみせる。
もはや誰もその演技を止める事は出来ないのか……。
「私を魅了しょうとしてもそう簡単にはいきませんよ」
スワンの軌跡を映したかのように三善が並走する。手にしたチェーンをまるで新体操のリボンのように回転させ、スワンの足元へと振るう。
スワンはそれを予測していたのか。一旦、体を沈めるとチェーンの到達間際でジャンプ。
腕を胸元でクロスさせ、捻りの動作で二回転する。
そして着氷。
「これは味なまねをっ」
少しムキになって三善は、Sスワンを追いかける。
Sスワンは十分な助走をつけると、再びジャンプのための動作に入る。
合わせて、三善もジャンプの体制をとる。
Mスワンたちの演奏が煽る。
その旋律は、まるで激しい戦いの調べだ。
二人はほぼ同時に飛び上がる。
三善は体を捻り果敢にもトリプルアクセルを敢行した!
だが、相手はサーヴァント。
人とは身体の作りがそもそも違うのだ。
Sスワンの回転に合わせ、氷の翼が形状を変化する。
まるでプロペラのように空気抵抗を減らすために細く鋭くなった翼……。
否、はじめから空気抵抗など気にはしていないのだ。
迸る魔力を推進力に、高速回転したSスワンを中心に吹雪が荒れ狂う。
煽られた三善の体がぐらつき、バランスを崩して着氷。
転倒する寸前に三善は、遅れて着氷したSスワン目掛けてチェーンを伸ばす。
回転が遅くなったSスワンは、チェーンを弾ききることが出来ずにバランスを崩した。
そしてSスワンと三善は、喧嘩ゴマがぶつかりあったかの如く、左右に弾かれて滑っていった。
「まったく、ずいぶんおてんばなオデットだよ」
三善が湖面に膝を着いている。
「それなら、千種さんはさしずめオディールね」
紫ノ宮が手を差し伸べた。
その手をとって三善は立ち上がる。
「では、バトンタッチだよ莉音君。よろしくー」
●銀盤に響く旋律は
「けっこう美味しそうなんだけど食べられないのかしら。食べられそうなんだけど。食べちゃだめなのかしら。食べたいなあ」
凍りついた湖面で演奏をするMスワンたちを見て、咲は指を咥える。
透過能力で氷の中を進んで襲い掛かろうか……と、一瞬頭を過ぎったが、今はエルレーンが阻霊符を展開しているので無理だ。
天魔に備わる透過能力。その厄介な力を抑える阻霊符だが、結局は力を持たない人間たちには使えない。これはアウルを扱える撃退士たちにしか用を成さないのだ。
と、僅かに思考がぶれ、咲は再び視線を獲物へ向ける。
Mスワンたちは相変わらず、隊列を整えたまま綺麗に行軍しつつ演奏を続けていた。
「どうやら、Mスワンたちはスケートリンク内を演奏しながら移動するようだな」
與那城とエルレーンに追い立てられ、動き回るMスワンを観察していたアイリスはそう結論着けた。
「ならば、追い込むのは容易い」
アイリスは短く與那城に号令を飛ばす。
「分かったよアイリスちゃん。 いっくよー!」
與那城のアウルが炎と化して一直線にMスワンの群れを襲う。Mスワンたちは炎を避けるように左に転進。
その側面からはエルレーンが「シンシゼメェ……キチクウケケケケケェ」と呟きながら、奇妙な獣と化して牽制する。
今、彼女の聴覚を支配しているのは、めくるめく薔薇の世界。
氷の世界の音など一切聞く気も無ければ、地味に作戦すら聞こえていないのだった。
それは承知とばかりに、アイリスはエルレーンには指示を出しては居ない。
彼女の役目はイレギュラーな行動による追い込み。
そう割り切ったのだ。
メインで追い立てるのが與那城。場をかき乱すのがエルレーンならば……咲は後詰だろうか。
逃げてきたMスワンたちの真下から姿を現した咲に、流石のMスワンも隊列を崩す。
上手い事、エルレーンと挟み撃ちの形を作る。
そんな撃退士の連携の取れた追い込み作戦に、Mスワンたちは徐々に行動範囲を制限されていった。
動きを止められたMスワンたちは、覚悟を決めたかのように演奏に力を入れる。
銀盤の上でその音楽がSスワンに力を与え、そして周囲の人々を虜とする。
Sスワンの演技とその旋律が体を震わせ、心という曖昧な物を少しずつ凍らせていく。
「うっ、これは……」
曲調が変わった事に一瞬、意識を奪われた與那城の指先が震えだす。
「ううう、やっぱマズそうかも……」
咲の食欲も低下する。
「うへへ……ほ……もぅ……」
テンションは高いのに動きが緩慢になってきたエルレーンが、惰性だけで氷上を滑ってゆく。
「これが、芸術だというのか?」
曲というには不協和音に近い感覚に、アイリスは寧ろ怒りを覚える。
美しい。
確かに美しい光景だ。
Sスワンを抑えていた紫ノ宮と三善、礼野も動きを止める。
体から熱が奪われているのだ。
決して油断していたわけではないだろう。
だが気がついた時には、Sスワンの銀盤の上の演技に……誰もが目を離せなくなっていた。
Sスワンの一挙一動が、Mスワンの奏でる旋律が、遅効性の毒のよるに徐々に蝕んでいたのだ。
Sスワンは紫ノ宮たちへ目掛けて滑走する。
氷の翼は鋭い刃と化して――。
●発つ鳥後を濁さず
Sスワンは紫ノ宮たちの直前で軌道を変えた。
無理やりの動作だったため滑走は乱れ、つま先を湖面に突き立てるようにして勢いを殺す。
Sスワンの進むはずの先には、一条の矢が突き刺さって居た。
各務の放ったものだ。
彼は魅了から解き放たれるため、自らの足に矢を突き立てたのだ。
「舞いに心奪われることなかれ。己の弓に集中し、全霊を懸けて矢を放つ」
各務の顔には苦痛の色が見える。
無謀な行いだが、生き残り勝つための覚悟がそこにはあった。
Sスワンの動きが止まり、魅了の呪縛から解かれた礼野が再びワイヤーを放つ。ワイヤーはSスワンの四肢を絡めとった。
しかし、まだ演奏は続いている。
その演奏はSスワンに力を与えるのだ。
「みんなまとめて燃えつきろーっ!」
與那城の拳から放たれた炎がMスワンたちを襲う。
「焼き鳥! 焼き鳥よね!」
咲が炎から辛うじて逃げ出したMスワンに向かって止めの一撃を入れた。
Mスワンは燃え尽き、辺りを包んでいた旋律が止んだ。
そして、撃退士たちの体に熱が甦り、逆にSスワンの力は削がれることとなった。
これを好機とばかりに、各務は無数の矢をSスワンに放つ。
Sスワンはワイヤーを引きちぎり、無理やりスピンしてすべての矢を弾く。
「やはり、飛び道具では分が悪いですね」
「そんな事無いですよ」
スケートで滑ってきた紫ノ宮が各務の傍にしゃがみ、傷口の手当てをする。
一見、無駄に終わったかのようだが、回転は確かに鈍くなっていたのだ。
矢を撃ち落すと同時に回転が終わり無防備な姿を曝すはめになってしまった。
「先ほどは遅れをとりましたが、こんどはこちらの番ですよ」
Sスワンの背後に回り込むように、銀盤に軌跡を描いて三善が待ち構えていた。
「そんなに芸術したいなら、いっそ石像になっちゃいなさい☆」
背から胸を突き抜けるように打ち出された掌は、Sスワンを震わせ気で包み込む。
続けて、二打! ……三打!
打ち付けられた気がSスワンの体を硬直させようと襲い掛かる。
Sスワンは氷の翼でそれを防ごうとするが、軸のぶれた体はいう事を聞かず。
距離をとるように横へと逃れる。
白鳥は足掻く。
それは銀盤で優雅に踊り続けるために……。
作られた模倣の芸術。
天使の気まぐれで出来た虚像。
「確かに心惹かれる特化の仕方だった……。しかし、その芸術、淑女的に破壊し尽くすぞ」
アイリスの魔法鎌はもはや見る影も無くなった氷の翼を刈り取った。
「これで終わりだーっ」
與那城はSスワンの正面から、勢い良く拳を振り下ろす。アウルの爆発が光りとなりその拳を包み込む。その一撃を受け、Sスワンは氷の彫像のように砕け散ったのだった。
その身から溢れ出した冷気と氷礫があたりに舞い散り、あたかも白い羽のように見えた。
白い羽は銀盤に落ち、次の瞬間、湖面にヒビが走る。
サーヴァントの冷気によって作られていたスケートリンクが崩壊してゆく。
「大変だ! 氷が割れる」
慌てて撃退士たちがその場を離れると、程なく湖の氷は砕け散り、あっという間に溶けてしまった。
もはやそこには銀盤の跡形も無かった。
●幕は下り
「あれ……そういえば、この間作ったのどうなったっけなぁ」
星の輝きを持つ天使は、作ったは良いがすぐに興味を失ったサーヴァントを思い起こす。
しかし、収穫も無かったようなので、また直ぐに意識から消しさった。
結局、氷雪のバレリィナは喝采を受ける事は無かった。