●五月の空
五月晴れ。高いビルの上から見える空は青々として、浮かぶ白い雲が美しいコントラストとなっている。夏が近づいている。そんな予感のする清々しい日。
ビルの屋上で少年が佇んでいる。少年・黄昏 クロ(
jb5229)は無言で睨む。はるか先でも分かるほどの巨大な天を泳ぐ鯉の姿を――。
「おおー、すげーデッカイ! ここからでも良く見えるじゃん」
その横を花菱 彪臥(
ja4610)が駆けて行った。今にも飛び出さんとばかりに、屋上の柵から身を乗り出す。
「的がデカイと外す心配が少なくていいよなっ」
遠く。巨大な鯉を見た花菱の目が一瞬、猛獣を思わせるように細まる。
「えぇ、新しい銃が手に入りましたから、試し撃ちにちょうどいい標的ですわ」
斉凛(
ja6571)は優雅に微笑み、銃身を磨く。メイド服に大きな銃というミスマッチな組み合わせだが、何故か様になっているようにも見えた。
メイド服の隣には、着物に身を包んだ女性が立っている。
(ななななんじゃあの巨大魚は!)
腕組みをして飄々とした風を装いながらも、着物の女、ラヴ・イズ・オール(
jb2797)の心中は穏やかではなかった。周りの人間や天使たちには、臆した様子も無い。これは自分だけが取り乱すわけにはいかないな……。と、虚勢を張る。
「見事な体躯ではあるが所詮は悪魔のペットに過ぎぬ。ふっは、この金竜姫の敵では無い」
「おぉ、ラヴねーちゃんやる気だなーっ!」
「はっはっは、あたりまえじゃ。どれ、ひとつ魔魚退治といこうではないか」
花菱に乗せられ、ラヴは扇子を開いて高笑いを上げた。つられて、花菱も大笑いする。
その笑いが収まると、何か思い出したのか花菱が呟いた。
「ところでさ。鯉のぼりってさ、中に入って遊ぶものじゃなかったっけ? 俺、何となく記憶にある気がするんだよな……」
「ふふふ、確かに男の子ってそういう事するって聞くけれどね」
沙夜(
jb4635)は、花菱が鯉幟の中に入って転がる様を想像して、顔を綻ばせた。
(……魚に食べられる猫かしら?)
そんなイメージだ。
『ザッ……ザザッ……その想像はどうかと』
突然、通信機のイヤフォンから志方 優沙(jz0125)の声がした。
「あら、声に出てました?」
沙夜は可愛らしく苦笑い。通信機の向こうにいる、眉を寄せた志方の顔が想像できる。
「コホンッ……皆様、目標の移動を確認しました。間も無く先行隊と接触いたします。皆様も状況を開始してください」
志方は小さく咳払いをしてから告げた。
●天泳ぐ鯉
「うわぁ……これはまた、大きいねぇ」
先行していたアッシュ・スードニム(
jb3145)は、巨大な鯉を見上げ、びっくりだ。と、驚きの声を漏らす。先ほどまでは日向でポカポカしていたのに、今は日陰になってしまった。鯉が太陽を隠したのだ。
(どう動くか分からないから、まずは遠くから。顎やエラを狙って……)
まずは小手調べだとばかりに、アッシュは翼を広げると空へと舞い上がり、スレイプニルを召喚する。
「さ、出番だよ。アディ!」
召喚されたスレイプニルのアディは、目にも留まらぬ速さで鯉に向かってゆく。鯉は近づいてくる物影を意に介さず、悠々と泳ぎ続ける。アディは鯉の背の上辺りからぐるりと回って腹の下へともぐりこむ。そのまま加速し、鯉の顎を打つように下から攻撃を繰り出した。
直撃っ!
衝撃を受けた鯉の顎から昇った白煙と、鯉の髭が風にたなびく。しかし、何事もなかったかのように口を開け閉めしながら先へと進んで行く。
「これは硬いなぁ……」
アッシュは半ば呆れ加減で呟くと、鯉を追って翼をはためかした。
鯉はゆったりと泳いでいる。翼を広げたミズカ・カゲツ(
jb5543)はその横について飛ぶ。近くで見るとその巨体が、強靭な鱗で覆われていることがはっきりと見て取れた。
「ふむ。これは正攻法では、難しいようですね……それならば」
ミズカは翼を羽ばたかせて、鯉の頭上まで飛び上がると一直線に急降下。その勢いのまま、鱗の隙間を通すように手にした刃を振るう。重い一撃が鱗の隙間を通るたびに火花が散る。ミズカはそれを何度も繰り返した。
「手伝うよ〜、ミズカさ〜ん」
「えぇ。頼みます」
追いついたアッシュもミズカの攻撃にあわせ、同じ鱗を狙ってアディに攻撃させる。一点集中された攻撃は、ついに功を奏した。
黒い鱗が一枚剥がれ落ち、今まで悠々としていた鯉が、ぶるっと身を震わせた。その巨体の震えで、空気が押し出される。傍を飛んでいたミズカとアッシュは、風圧で押しのけられた。
「くっ、効いたと思いましたが……」
ミズカは風の間を縫うように飛び、なんとか空中で体勢を整えた。あの巨体が身震いするのだ。それだけで十分な破壊力となるのだと、改めてミズカは理解した。
震えが収まった鯉は、先ほどまでのコースなど忘れたのか進路など構わずに泳ぎ続ける。
「……少し、進路の調整をしないとですね」
ビルの屋上で待機していた番場論子(
jb2861)の眼鏡越しの瞳が、上空の鯉の動きを追う。
予定では最も高いビルで、一斉攻撃を仕掛ける手はずになっていた。しかし、今のルートではそちらに行かない。上手いこと、鯉の気を引かないと……。と、番場は魔法衝撃波を放った。
鱗は魔法の力に触れると大きく揺れる。鱗自体物理攻撃よりも魔法攻撃に弱いようだ……。
「それならば……」
番場はあまり人前では広げない翼を、大きく広げて飛び立った。空中から魔法攻撃で鯉を誘導しようと言うのだ。
「論子。手伝います!」
「ボクも手伝うよ〜」
「お願いしますね。ミズカさん、アッシュさん」
空中に集った三人の天使は、鯉の進路を変えるため攻撃を開始した。
アッシュは鯉の口を目掛けて、ブレス攻撃を指示。ミズカは先ほどの鱗の剥がれた箇所を狙う。そして、鯉が大きくルートを外れそうになると、番場が魔法攻撃で進路調整を繰り返した。
鯉は自身の周りを飛び交う物影を意識し始めていた。その矮小な存在は、自分の進路を妨害するようなものではなかったはずだった。
しかし、いつの間にかその矮小な存在に、自分の道を作られていた……。そして、行く手を阻む高層ビルと言う壁に向かって、鯉はただ泳ぐしかないのであった。
●迎え撃て
「ほほぅ、天使たちが上手く誘導してくれたみたいじゃな」
黒い翼を広げたラヴは眼下に佇む巨大な鯉を見下して悦に浸っていた。先ほどまで、周囲に強力な悪魔でも現われないかと、ビクビクしていたのは内緒である。
「おおっ、やっぱ間近だと、すげー迫力じゃんっ!」
「大きな鯉……それだけ見ればまだ可愛らしいものなのですけどね」
目を輝かす花菱とは対照的に、紗夜は嘆息をもらす。
「では、皆様。準備はよろしいでしょうか?」
斉は一同を見回す。そして、皆の視線を受け、大きく息を吸い――。勝利への笛を吹き鳴らした!
笛の音を聞くと、鯉の周囲を飛び回っていた天使たちは、散会し距離をとる。味方の射線を塞がないためだ。
「くらえっ!」
速攻とばかりに花菱が矢を放つ。それに続いて、紗夜が手にした符で攻撃を仕掛けた。矢は鱗に阻まれたが、符による雷撃は鱗を通って鯉の体を震わせた。
「落ちなさい! 鯉のぼりのまがい物は必要ありません!」
続いてビルの屋上に立つメイドが、近づいてくる鯉の脳天目掛けて発砲した。放たれた弾丸は鯉に直撃した甲高い音を立てた。これがただの弾丸ならば、鯉の鱗は弾いていただろう。しかし、それにはアウルの力が込められていたのだ。
一方の鯉はと言うと、甲高い音に驚いたのか進路を反転させようと、身をよじった。
「ちぇっ、魔法の方が効くみたいだなー!」
花菱が沙夜と斉の攻撃を見て口を尖らせた。
そこに、遅ればせながらの通信が入る。
『鱗のせいで物理攻撃の効きはいまいちです。狙うならばミズカさんが鱗を剥がした所を狙うと良いでしょう』
「おー、じゃぁ。そこに集中すれば良いんだなーっ」
花菱が張り切って声を上げた。
空の上。その通信を聞いた着物の悪魔は……。
「ほぅ、それは良いことを聞いたのじゃ。では、そろそろワシの舞を見せてやろう!」
意気揚々と翼をはためかせていた。逃げ腰の鯉に対して攻撃を仕掛ける。弱っている相手には滅法強いのが彼女の良い所なのだ。たぶんだが……。
狙うは、ミズカが鱗を剥いだ部分。ラヴは風に乗り、薙刀で舞うように刃を閃かせた。薙刀が鯉の鱗の無い体を切りつけると、今まで鈍感だった鯉が痛みを感じたのか、その身を大きくよじった。身を振るって、周囲の矮小な者たちを叩き落そうという魂胆だろうか。
「ぬおぉぉ!?」
巻き起こった突風に煽られ、ラヴは大きく吹き飛ばされた。あの巨体が起こす風だ。周囲を飛んでいた他の天使たちも飛ばされ、高層ビルのガラスにヒビが入る。
その風はそれだけに留まらず。ビルの屋上にも到達した。
「きゃぁっ!」
沙夜と斉は突風から身を守るように体を抱く。通り抜けていく風で長い髪とスカートの裾がはためく。しかし、このままでは二人とも耐え切れずに、ビルから吹き飛ばされてしまうだろう!
「……やらせはしない」
二人を守ると、約束したのだ! 突風の中、黄昏は前へと一歩踏み出した。彼の全身からアウルの光が溢れ、周囲に霊的な結界が形勢される。それは、二人を守る決意の表れだったのかもしれない。
「ありがとう。クロくん」
「助かりました。黄昏様」
突風が過ぎ去り、沙夜と斉は立ち上がる。それを見て、黄昏は無言で頷いた。
●竜門には至らず
鯉はぐるりとビルの前で旋回すると、再びビル目掛けて泳ぎ出す。ただ、先ほどとは違ってその速度が段違いに上がっている。鯉はビルの壁の寸前、尾びれで大きく空を叩く。地上では巻き起こった風圧により、木々や街灯が折れ、車や看板も吹き飛ばされる。不幸中の幸いなのは、避難誘導が完了していたために、人的被害が無かったことだろう。
「ぉおっ、昇り龍!?」
撃退士たちは見た。尾びれで空気を打った反動で、垂直に身を躍らせた鯉を。そして、ビルを……まるで滝を登る伝説のように越えて行く姿を。
放物線を描き、ビルを飛び越えた鯉を見て、あっけに取られていた花菱だったが、我に変えるとすぐに駆け出し、ビルの屋上から鯉の背中目掛けて飛び移った。
「うぉぉ、驚いたけど、逃がすかっ!」
それに続くように、アッシュはティアマットを召喚した。
「イア、続いて!」
召喚されたティアマットのイアは、アッシュの命令で花菱を追って鯉の背に跳んだ。
「追いかけてくださいスレイプニル! ……アレを此処で逃がす訳にはいかないのです」
同じく沙夜に召喚されたスレイプニルも飛び立つ。
「逃がしませんっ!」
斉は再び銃の照準を合わせて、アウルを込めた弾丸を放った。
空中にいた番場も、一点集中とばかりに攻撃を重ねる。鯉に並走するように飛ぶ、ミズカとラヴは空中で交錯しつつ、鯉の体に刃を叩き込む。その攻撃で、鱗がまた一枚。二枚と剥がれ落ちる。強靭な鱗は絶対の防御かと思われたが、度重なる攻撃によって、その鍍金は剥がれ落ちていった。確実にダメージは与えられているのだ。
鯉の背の上に乗った花菱は、振り落とされないように踏ん張る。手にした剣を振りかざし、全身のアウルを集中する。火花が散ったかと思うと橙の光が花菱の体を包み、剣が輝きを放つ。
「くらえっ!」
花菱は剣を鯉の背に突きたてた。衝撃が鯉の体の内を通り、腹下へと突き抜ける。巨大な鯉が一瞬仰け反ったような錯覚を覚えるほどだった。
それでも、鯉は泳ぎ続ける。全身の鱗がボロボロと砕け落ちても……。
「これでも落ちないなんて……」
アッシュは逡巡する。あの色違いの鱗、あれが突破口ではないのだろうか? と。
その思いに気がついたのか、黄昏がアッシュの手を引く。
「……駄目。あれは逆鱗かもしれない」
「でも、突破されてしまうなら、賭けるしかないんじゃないかなぁ?」
「……大丈夫。危険な賭けにでなくても、僕達は勝てます。仲間を信じましょう」
黄昏の眼差しは、まっすぐに仲間達を見ていた。
「ただの魚とは違う、空の舞い方を見せようぞ」
薙刀を振るい、空中で身を翻したラヴは鯉の下から頭上へと羽ばたく。そして、通り抜けざまに一閃。天空で優雅に舞うと、再び天空から急降下。薙刀がまた鯉の鱗をそぎ落とす。一度、剥がれてしまえば、そこから次々と刃は通る。相手の弱みが分かればこちらのモノだ。
ラヴの攻撃は止まらない。
ミズカも天を舞い。刃を振るう。天使と悪魔が交錯し、次々と鱗を落す。
「これでチェックメイトですわっ!」
斉が放った弾丸は、一直線に軌跡を描き鯉の体に吸い込まれた。既に、鱗の鎧は無い。アウルの力が込められた弾丸はその体を貫いた!
鯉は再び、天を仰ぐ。
尾が沈む。
しかし、体は浮き上がらない。
落下する鯉の背の花菱も、落下する重力を感じていた。
「うっ、うわぁぁあ!」
突きたてた剣が抜けると、そのまま空中に体が放り出される。人の身ではとうてい辿り着けない高さだ。翼の無い者は、大地に落ちるしかない。
「花菱さん!」
飛び散る鱗の隙間を縫い、白い翼を広げた番場が花菱を後ろから抱きとめた。それは天使に祝福を受けているかの光景だった。
鯉はその巨体を道路のアスファルトに叩き付けるように落下した。
痙攣していた体も、やがて沈黙する。
ビルを越えた鯉は、それでも龍にはなれなかったのだ。
そして、花菱と番場はゆっくりと滑空しながら、大地に降り立ったのだった。
●戦い終えて
『皆様、ご無事で何よりです』
オペレータの志方は、みなの無事を確認してほっと胸をなでおろした。
「……皆、お疲れ様」
黄昏は皆に労いの言葉をかける。
「さすがに疲れましたね……空を泳ぐ魚は鯉のぼりだけで充分です……」
沙夜は黄昏に手を振ると、ため息交じりに微笑んだ。
「うぉぉ、やっぱ、その色違いの鱗気になるなっ!」
花菱が興味津々と鯉の鱗を眺めている。
「やっぱり〜、これは逆鱗だったのでしょうか……」
「触らぬ神に祟りなし……と言いますから、触れずにすんでよかったと思うべきでしょう」
アッシュの言葉にミズカは目を伏せる。
あれだけの巨体が凶暴化したら、被害は今の何倍、いや何十倍にもなったのではないだろうか……。そんな想像をしてしまうミズカであった。
「何はともあれ、無事倒せましたね」
「ふん。しょせんは只の魚であったな」
番場の言葉に、ラヴはさも楽勝であったかのような口ぶりで返した。
戦闘後の疲労感はあるが、皆が勝利の空気で上機嫌になっていた。
「皆様お疲れさまでした。お茶の用意が整っていますわよ」
そこに、斉がティーセットを広げていた。
皆、誰ともなくそちらに足を運ぶ。
落ち着いた紅茶の香り。
空は五月晴れ。
清々しい風が吹いていた。