●甘い切ない 〜だべる〜
「実はまだ、どうしたらいいか悩んでいるのです」
甘い匂いで満ちた相談室で、苧環 志津乃(
ja7469)は重い口を開いた。
脳裏を過ぎるのは、チョコが苦手と言った彼の事……二度と会えないと覚悟はしたはずだった。そして、なぜか気になるあの人……。
苧環の白い指が空になった、ティーカップの縁を撫でる。
「そうねぇ。作るだけ作ってチョコレートを渡すかどうかは、後で考えればいいと思うわよ。」
上下 左右はそう言って立ち上がると、温めておいたティーポットで新しい紅茶の準備をする。
苧環は隅の上下の机のそばにいたのだが、今の相談室には他にも数名の生徒が居る。中央の大きなテーブルではバレンタインを控え、少女達がチョコレートトークに花を咲かせていたのだ。
上下は紅茶を入れたティーポットを持つと、苧環をそちらのテーブルに誘った。
「ちょっといいかしら? この子もお話に混ぜてちょうだい」
「いいですよ」
少女達は快く頷き、すぐさま話が再会される。
「チョコレートを渡すのは、家族やお世話になっている人に渡すのでもいいはずだよね」
椅子に座っていた久慈羅 菜都(
ja8631)は、上下をちらりと見た。
(不自由なく生活しているようだから、見えているんだと思うけど……。)
久慈羅は立ち上がって、上下の手からティーポットを受け取った。座っていると気がつかないが、とても背の高い少女である。久慈羅は上下の代わりに皆のカップに熱い紅茶を注ぐ。上下はやんわり微笑みお礼を言った。
「やっぱり、大切な人たちには手作りで渡したいな」
マリア=クリスファー(
ja5310)の柔らかな唇がティーカップにそっと触れる。湯気を立てた紅茶は喉を通り抜け、身体の芯を熱くする。彼女の頬は、ほのかに上気した。
「チョコじゃ、チョコじゃ」
イオ(
jb2517)はテーブルの上のチョコを手に取ると嬉しそうに口に放る。
「うん。美味いのぉ。しかし、チョコ作りなぞイオはやったことがないぞ。イオ以外に初めての奴はおるか?」
イオは勢いよく手を挙げる。自らに同調するものは挙げろと言う事だろう。
「あ、私も初めてで」
「あたしも……」
久慈羅とマリアもおずおずと手を挙げた。
「うむ。イオだけでなくて、少し安心……いや、なんでもないぞ!」
「私もよ〜」
上下も手を挙げた。手を挙げなかったのは一人だけだ。おのずと、皆の視線が苧環に集まる。
「えっと……」
流石に、教える立場となるのには気が引けたのか、苧環は困惑してしまう。
パタンッ――と、音が響く。音に釣られて、皆の視線がそちらに向いた。
「近頃はお菓子を作れない子が多くてね……(要は気持ちなんだが)」
今の音は、相談室の隅で本を読んでいた鴉乃宮 歌音(
ja0427)が、本を閉じたものだった。
「私でよければ手伝おうか?」
「鴉乃宮くんはチョコ作りの心得があるみたいね。どうかしら皆、ここは手伝ってもらったら?」
上下が皆に向き直る。
「そうですね。私だけで教えるというのも心許なかったですし、助かります」
鴉乃宮の助け舟に、苧環はほっと胸をなでおろした。
「くぅくぅ♪ ヒメもチョコ作り、手伝ってさしあげるわ」
相談室の扉を開けて、紅鬼 姫乃(
jb3683)が入ってきた。
「紅鬼さんもチョコ作れるんですか?」
久慈羅の言葉に、紅鬼はお嬢様スマイルを作る。
「こう見えて、ヒメはお料理得意なんですのよ」
「それは心強いです」
「じゃの〜」
マリアとイオは手をとり喜んだ。
「あ、自分! 試食係していいですか〜!」
紅鬼の後ろから入ってきた静馬 源一(
jb2368)が、小動物を思わせる笑顔を浮かべた。
「うん、いいよ。源一ちゃん」
「本当ですか! やった〜っ!」
元気良く、静馬は跳ね上がった。
「それに、女子ばっかりだったから男子の意見も聞きたいところだしね」
マリアは部屋の中の女子達に同意を求める。すると――。
「私、一応男だがな」
と、鴉乃宮は呟いた。マリアは一瞬、目を白黒させると慌てて叫んだ。
「うん、分かってる。分かってたよ。歌音ちゃん!」
「ふふふ、じゃぁ。調理実習室の使用許可もらってくるわね。明日からでいいかしら?」
「おねがいしまーす」
生徒達は上下に頭を下げる。それを見て上下は、うん。と頷き、席を立ち扉に手をかけた――。
「すまない、人間界にはチョコを送る風習がある聞いたのだが! 間違いなののであるか?」
上下の手が触れる瞬間、扉は勢い良く明け放たれた。
その大声と衝撃は部屋中を振動振動させ、上下の髪を跳ね上げるほどだった。
今にも上下にぶつかりそうな勢いで、マクセル・オールウェル(
jb2672)が駆け込んできたのだ。
「えぇ、そうよ」
つい、最近になってバレンタインを知ったばかりだと言うのに、上下はさも当たり前のように言ってのけた。
「そうであるか! 実は相談事があってな。チョコ作りをしたいのだが、設備を借りるにはどうしたらいいのだ?」
マクセルの言葉に、部屋の中の生徒達は顔を見合わせる。
「そう、それは丁度良かったわ」
そして、上下は微笑んだ。
●甘い苦い 〜つくる〜
「ふんふふんふーん♪」
調理実習室に軽快な鼻歌が響く。天使。そう、筋肉天使である。
「ご機嫌ですねマクセルさん」
静馬は調理している生徒たちの間をうろうろと歩き回っていた。
「はははっ、我輩、ちびっ子に人気間違いなしのチョコを大量生産し、小等部に配るのである!」
マクセルは自分で用意した特性の型を手に意気込んだ。
「良いですか? 艶のあるチョコレートにするには、テンパリングが重要ですわよ。やり直しは効きますから、お励みなさい」
紅鬼の号令に、エプロンを着た久慈羅、マリアは手を動かす。テンパリングに失敗するとチョコレートが白く濁ったり、きちんと固まらずに、口解けの悪い出来になってしまう。二人はチョコレートの温度を気にしながら、作業を続ける。
「ところで、チョコを直接溶かしてはいかんのかえ?」
「だ、ダメです。湯せんしてくださいっ!」
イオが鍋に入れたチョコレートを直接、火にかけようとするのを見て、苧環が慌てて止めた。
チョコレート初作り組はてんやわんやと騒がしい。
とは言え、注意されたイオは、チョコ作りが初めてなだけで、料理はできるらしく手際は良い。
紅鬼も放任主義かと思いきや、手は出さずとも助言はしており、中々良い先生のようだ。
そんな中、鴉乃宮は型を取り出す。それはチェスの駒をかたどっていた。
「うわぁ、どうしたんですかそれ?」
静馬が寄ってきて目を輝かせる。
「用意してきたのさ。これくらいの手間はかけないとね。かけた時間も愛情のうちさ」
鴉乃宮が自分で工作してきたものだと知り、静馬はさらに目を輝かせた。このあたりは男の子と言った感じである。
「テンパリングって難しい……」
マリアは紅鬼に教わった工程を何度も繰り返して、そっとため息をついた。
「くぅ? 諦めてしまわれるの?」
「でも……上手くいかなくて」
落ち込んだマリアに、紅鬼は厳しい口調で言う。
「上手くいかなくてもいいじゃない。貴方の手で作るということに意味があるのよ。綺麗な物を贈りたいと言うのなら、お店の物を買えばいい話ですわ」
マリアは顔を上げる。そこには、微笑んだ紅鬼の顔があった。
「思いを届けたいのでしょう? もう少しお励みなさい、ね?」
「はい。姫乃ちゃん」
決意をあらたにしたマリアは、その後、何度もテンパリングをやり直し、ようやく納得のいく物に仕上げることができた。
「皆喜んでくれるかな」
マリアの頬が思わず緩んだ。
「むふふ、今、渡す者の事を思い起こしておったな。一体、誰の事を思っておったのじゃ?」
いつのまにかマリアの隣に、怪しく笑う女悪魔が立っていた。
「えっっと……あ、私は親友で仲間で……家族みたいな人たちに」
「あら、それだけなの?」
チョコの出来具合を見に来ていた紅鬼も横からマリアの顔を覗く。
「う〜、あと好きな人に……っ! 何時も、凄くお世話になってるから……っ」
イオと紅鬼、二人の追及を受け、真っ赤になってマリアは叫んだのだった。
「えっと、イオさん。こんな感じかな?」
久慈羅は紅鬼に教わった動物の型抜きチョコを作り終えたあと、イオが作っていたヘルシーチョコなるものに挑戦していた。
「お〜、そうじゃ。そうじゃ。なかなか上手くできておる」
イオはココアがまぶされた丸いものを摘み、口に放り込んだ。
「まさかお豆腐を使うとは思わなかったよ」
久慈羅も一つ口に運ぶ。
イオが教えてくれたヘルシーチョコとは、豆腐と幾つかの材料を混ぜ合わせ、ビスケットとココアパウダーをまぶしたいわゆる『なんちゃってトリュフ』であった。
「ふむ、これは面白いな」
鴉乃宮もイオの発想の柔軟さに感心したようだ。
「オリジナリティを出すために、変なアレンジをして失敗する者もいるが、コレはなかなかの物だな」
「そうねぇ。意外と普通に美味しいわ」
上下も摘み食いをして言った。
「本当は呪術めいたものなのかと思っていたのよ」
「……イモリの黒焼きとか、好きな相手の髪の毛とかそういう類ですか? 先生」
「そうそう。 ラブレターと同じで相手の心を操る儀式だったり……とか少し期待していたの」
上下の指摘に、鴉乃宮も一度頷く。
「ふむ……恋する乙女にしてみれば、バレンタインもまた呪術でしょうが……その発想は無いです」
「でも、鴉乃宮くんは、私の発想に思い至ったのでしょ?」
「揚げ足をとらないで頂きたい」
「ふふふ、そうねぇ」
●苦い切ない 〜たべる〜
チョコレート作りは一通り終り、少女達はラッピングに試行錯誤していた。一名、未だにチョコレート鋳造(?)にいそしむ天使もいたが、後の生徒は相談室へと戻ってきていた。
さり気に、静馬も途中でイオや紅鬼、苧環らの手ほどきを受け簡単な型抜きチョコを作っていたりした。
「さて、包装もがんばりましょう」
マリアの手には包装用の箱。そしてリボンが三色。
早速、マリアは本命用として作っていたものをその箱に入れ、水色のリボンをかける。
「どうかな?」
「可愛いですね。こういうのも」
久慈羅がマリアのラッピングを見て感心する。実のところ、久慈羅は包装のことまでは考えていなかったのだ。
「皆も使う?」
マリアは手にしたリボンと、包装用の袋を差し出した。
「いいんですか?」
「もちろん」
では……と、久慈羅と苧環がマリアの用意した、花柄の透明な袋を手に取る。
「わぁ、ラッピングもですか〜。自分、食べることに夢中でした〜!」
静馬の言葉に、どっと笑いがこみ上げる。
「実は、ヒメも食べるために作っておってな。包装までは手が回っていなかった」
紅鬼もどのリボンにしようかと、指を伸ばした。
少しして、リボンや包装用の袋を広げたものを奥に追いやり、生徒たちは相談室の大テーブルに各々が作ったチョコレートを並べだした。
「えっと、そういえば試食してからの方がよかったかな?」
と、久慈羅が呟いたため、ラッピング作業は一旦中止されたのだ。
確かに、綺麗にラッピングした後に、試食したチョコレートが残念な味だったら、しかも、それに気付かずに贈ってしまったら、非常に苦い思い出になること間違いなしであった。
「途中で気がついてよかったであるな」
そんなわけで、鋳造作業の途中であったマクセルも合流していた。
「さぁ、さぁ、試食しましょう! 自分、これが楽しみで仕方なかったです!」
「そうじゃな。今日は沢山食べても怒られないのじゃ」
「もぅ、源一ちゃん、イオちゃん落ち着いて」
マリアが静馬をなだめる中、上下は珈琲ポットを――。続く、鴉乃宮はティーポットを持ってくる。紅鬼と苧環はティーカップ、珈琲カップをそれぞれに配った。
そして、温かい飲み物がカップを満たし、チョコレート試食会は始まったのだった。
テーブルに並べられたのは、マリアが作ったオレンジピールやマシュマロに竹串を刺してチョコでコーティングした物をはじめ、鴉乃宮の作ったチョコのチェスピースやクッキーが並べられた。
さらに、紅鬼の作ったグラサージュされたガトーショコラには、チョコ細工のバラが乗せられていた。
「わぁ……皆の凄く美味しそう……!」
マリアがため息を漏らす。
「本当に凄い……」
久慈羅も並べられたチョコレートに圧倒されていた。
「見事なものじゃのぉ」
「で、あるな」
「本当ですね」
イオ、マクセル、苧環も素直に感心したようだ。他にも、それぞれが作ったチョコレートの数々が、所狭しとテーブルに並べられている。
「食べましょ! はやく!」
静馬は早速、チョコレートを手に取る。口に放り込まれたそれは、蕩けてスウィートに、はたまたビターに広がっては消えてゆく。
「美味しいっ!」
静馬の声が響く。そして、同じ言葉が各人から齎された。
紅鬼はガトーショコラを切り分けて皿に乗せると、作っておいたチョコクランチを添えた。見た目もさることながら、味も一品だ。
「さあ、静馬少年と呟き悪魔(イオ殿)よ、これを食べるがいいのである」
満を持してマクセルが取り出したのは、彼自身を象った筋肉天使のチョコレートであった。
●苦い苦い 〜おくる〜
チョコ作りと試食会を終えた生徒たちはそれぞれが、それぞれの思いとラッピングされたチョコを胸に抱いてその日を迎える。
ある者は、恋慕う愛する者へ。
ある者は、絆で結ばれた友人へ。
ある者は、信頼する恩師へ。
ある者は、助け合う家族へ。
どのような形であれ、そこには愛がある。
バレンタインは愛を伝えるものだから……と、鴉乃宮が言っていたのを苧環は思い出した。
(それぞれが、最高の形でバレンタインを迎えられると良いですね……。)
そう願うことくらいは良いだろう。
相談室に最後まで残っていた苧環は、帰り際に扉の前でふと思い立ち、に上下に聞いた。
それは、何気ない質問だった。
「ところで、先生は誰か贈りたい相手はいらっしゃるのですか?」
その質問に、上下はただ静かに微笑んだ。