●ダム作業用通路
今回の任務に参加する面々が揃ったのは昼を過ぎた頃の事だった。
「さて………。準備完了」
そう言って声を上げたのは博士美月(
ja0044)だった。全身を学園の校章がプリントされたウェットスーツで包み、その足元には対天魔とのおよそ十五分前後水中での戦闘を想定した小型の酸素ボンベがある。
今、彼女を含めた面々は、ダム最下の作業用通路――今の水位でおよそ三メートル程水面から離れた場所で突入前最後の準備を終えた所だった。
「ほぉ〜。にしても、聴きしに勝り水が綺麗じゃのぉ。此処からでも水中の町並みが見えおる」
そう感心した声を上げたのは子猫巻璃琥(
ja6500)。見るからに小柄な彼女は、美月の様にその身にウェットスーツを纏っておらず、ここに来た時と同じ姿に救命胴衣を着込んでいる。
「確かに。これなら相手を狙うにも問題はないだろう」
そう独特な口調で話す璃琥に言葉を返したのは谷屋逸治(
ja0330)。今回、彼は美月と同じ様にウェットスーツを纏っているが、このキャットウォークからの支援が主な役割だ。その手には先程まで通路の柵にしっかりと結わえていたロープがあり、それを水面に向って放り投げる。
「それで? その夜刀神というのはどの辺にいるんだ?」
ギィネシアヌ(
ja5565)が璃琥の隣で水面を覗き込みつつ問うた。何か思う所があるのか先程から落ち着けずにしきりに水面を覗き込んでいる。
「どうやら丁度、あの集落の辺りに身を隠しているようですね。ただ実際に戦闘となった場合はかなり上の方まで上がって来る様です」
そう答えたのは、手に事前に渡された最新の観測情報が記された報告書を持った神月熾弦(
ja0358)だった。水中に潜る予定の彼女は既にその準備を終えており、最後の確認の最中の様である。
「ふぅん。それじゃ実際は奴が水底から昇ってきてから本番って所ね」
同じ様に資料に目を通していた東條美咲(
ja5909)が言う。彼女もほぼ準備を終え、後はボートに乗り込むのを待つだけの状態となっている。
「それにしても………すごい執念だ。ダムの壁があんなになるとは」
ダムを見上げていた七海マナ(
ja3521)が呻く様に言った。
彼の目の前にあるそれに刻まれていたのは大きな傷だ。ゆで卵の殻を机の角で叩いた時のそれを思えば分かり易いだろう。
もっともそのスケールはゆで卵の比ではなく、厚さだけで数十メートルもあるコンクリートの壁に刻まれているそのヒビ割れは、状況が如何に切迫した物であるかを物語っていた。不幸中の幸いはまだ致命的な一線を越えていない事だろう。
「補修工事だけでも既に年単位での時間が掛かると推察されています。直すだけならいっそ壊して立て直した方が早いと、ここまで案内なさってくれたダムの従業員の方が仰ってました」
マナと同じ様に準備を終え、その傷を見上げていたパール・ネロバレーナ(
ja6515)がそう補足する 。
ちなみに今このダムに居るのは派遣された彼ら八名のみだ。決壊の可能性も考慮され、既に決壊した際の被災区域全体の避難誘導は完了している。事実上、ダムのみならずこの地区一帯で残っているのは彼らのみという状況だ。その分、物資の支援はほぼ完璧に近く、連絡用の通信機など、戦闘に必要と思われる物は全て用意されていた。
「まぁ、とりあえず夜刀神が浮上してくるまで待ちって事よね」
美月が言う。それに対して特に誰も異論を挟む事はなく、何となく無言で各々の作業を再開した。
もっとも作業というほどする事もなく、それぞれ行うのは自分の持ち物の再確認や、装備の再点検程度。緊張が徐々に薄れて来た時、
「お?」
不意に水を眺め続けていた璃琥が声を上げた。そして彼女は通路に両手を着き、より水中が見える様に柵の下から身を外に乗り出す。
「? どうかいたしました?」
手持ち無沙汰気味にしていた熾弦が問う。その彼女の声に気付き、皆が璃琥に視線を向けた。
「あれっ!」
皆の視線を受け、璃琥が水中を指差す。それに皆も水中を覗き込んだ。
「あれは………」
パールが呟く。
彼らの視線の先。澄み切った水の中で異彩を放つ黒い筋が蠢く。
それは徐々に姿を大きくし、やがて余りに大きな影へとなった。
「っ………。 来るぞ!」
逸冶が叫んだ。それと同時、一瞬盛り上がった様に見えた水面が爆ぜる。
皆の眼前に、それが姿を現した。
最初は黒い柱かと思った。だが直後、それが水面から飛び出した異形である事に気付く。
それは水面から身をもたげた大蛇の姿だった。漆黒の鱗に全身を多い、鱗の一つ一つが鋭利な刃物として煌いている。その眼は皆の姿を捉えておらず、ダムを睨みつけており、そのまま大きく一旦身を後ろに下げたと思った瞬間――。
「っ………!」
そのまま全身に体重をかけダムの傷へむかって、身を叩き付けた。
全長何百メートルというダムの威容に対し、その姿は二十メートルを越える大蛇のといえど余りに小さい。だが、その命を削った一撃は爆発にもにた衝撃を生み、ダムの傷を更に拡大した。
「皆、行くわよっ」
夜刀神が水中に戻る中、美咲が声を上げ、いち早く作業通路の梯子に走った。その姿を追う様に、他のメンバーも梯子に向い、それぞれの持ち場につく。
戦闘の火蓋が切って落とされた。
●戦闘開始
水中に潜った、熾弦、パール、マナが目にしたのは、苦痛に喘ぐサーバントの姿だった。
まるで苦痛から逃れようとするかの様に身をよじらせるその様は余りに痛々しい。それが忌むべき人の敵であったとしても、先程の体当たりが夜刀神にとってどれ程の痛苦であったかは一目瞭然だった。
何があのサーバントにそれほどの事をさせるかは分からない。ただその行いを看過するには被害が大き過ぎる。マナは正面へと回り込み、その手の得物の切っ先を大蛇に向けた。
大蛇の目がこちらを見た。だが、止まるつもりもない。
思い切り水を蹴り、得物を振り切った。
苦痛に身悶えながら、夜刀神はとぐろを巻く様に身体を強張らせる。ギャリッと刃と刃が擦れる異音を刀身から直接感じた。刃はそのまま鋭利な鱗を引き剥がし、露出した肌を大きく切り裂く。
それに蛇は苦悶し、大きく身体をよじった。
「………ギィネシアヌ。見えているな」
「あぁ」
通信機越しに聴こえた逸冶の声に、ギィネシアヌが短く返す。その声には緊張が滲んでおり、銃のグリップを握る手はじんわり汗に湿っているのを自覚しつつ、赤い光纏越しに見る景色を睨み付ける。
「こちらに合わせろ」
短い言葉。それに頷き彼女は銃口を水面に向けた。
ボートの上と言う足場は予想以上に悪い。だが、相手が大きい事と水質の良さが幸いして、問題なく狙える。次の瞬間、一瞬、大きく水面から姿を晒した大蛇の身体に向けて発砲した。
ほぼ同時にもう一つの銃声が響き、ビクリッ、と黒い蛇体が痙攣し、再び水没する。
「いい狙いだ」
耳とから逸冶の声が響く。それにギィネシアヌは手応えを覚えた。
直後、バアンッと、水音が響き、大蛇の尾が高く宙に踊る。それをギィネシアヌの射線から外れた向かいのボートに立つ美咲が捉える。
「ふっ………!」
彼女の手にあるのは杖を眼前で沈もうとする尾へと振った。魔力が生んだ光の殴打が走る。狙える範囲は他の剣などと変わらないが、魔力をもった一撃は蛇にとって予想外のダメージを生んだ。鱗が爆ぜ飛び、皮膚が露になる。
「どうやら魔力に弱いようね………っ」
彼女が呟くと同時、水中で大きく巨体がうねった。
熾弦の身体を襲った衝撃は唐突の物だった。かろうじてシールドを掲げたのが幸いし、彼女自身へのダメージは薄い。だがあの巨体が圧倒的な膂力で放った一撃の生む水流は思った以上に強力な物だった。
水中の他二人がこちらに向おうとするが、夜刀神が体勢を立て直す。
どうやら熾弦を襲った一撃はあくまで事故の様だった。無差別に放った一撃をあくまで偶然に受けた物に過ぎない。
絡み付くような水流に熾弦が悪戦苦闘する中、水面から振り落ちた光弾が蛇の眉間を捉えた。
璃琥が放った魔法だ。おそらくマナの一撃と同等に大きい当たりだが、今度は先程の様に激しく怯みはしない。いや確かに怯みはしたが、すぐに体勢を立て直し、周囲へと露骨な敵意を撒き散らす。
それは夜刀神が彼らを、排除すべき障害、として認めた証であった。
パールが槍を構え、水を蹴った。
――初の実戦データ…存分にとらせてもらいます。
口を動かすだけの言葉。切っ先で狙うのは、鱗が剥がれ露出した皮膚。鎧を剥がれた身体は予想以上にもろく、いとも容易くそれを穿ち、横薙ぎに切り払う。
その直後、もう一つの美月の放った光弾が降り落ちるが、夜刀神は頭を狙ったそれを大きく頭を下げる事で直撃を回避。
悠然と水面直下を漂う威容はなおも健在である。
●焦燥
マナを襲った一撃が生み出した水流が彼をがんじがらめる。
戦いを意識してからの夜刀神の動きは俊敏だった。先程、彼の放った一撃が大蛇の額に大きな傷を付けるが、インフィルトレイターの二人の銃弾を避け、美咲の放った一撃をやすやす受けたその巨躯は傷つきこそすれ、まったく衰える事無く彼らに相対し続ける。
再び、水上から攻撃が降る。美月と璃琥の光だ。その攻撃の合間を縫い、パールが槍を放つが、
蛇はその姿からは想像できないほど俊敏に水中を動き回る。どうやら大蛇は防御を捨て、決死の覚悟で彼らに挑む事を決めた様だ。
水中で動けるのはパールのみ。他はなんとかロープを握る所まで来ているが、荒れ狂う水流が収まっても状況整理に脳が何処までついてくるかだ。
「これは………いけないかも知れないわね」
「そうかもしれんのぉ………」
同じボートに乗った美月と璃琥が呟く。手にある魔道書が次の攻撃を放つにはいま少しの猶予が必要だった。
インフィルトレイターの二人が銃弾を放つ。予想以上に挙動が早く、当たったのはギィネシアヌの放った一発のみだ。それもとても爬虫類もどきとは思えない見事な防御行動でダメージは薄い。
美月も璃琥も相手が万全の状態であった時の事を想像すると、ぞっとしない物を感じ眉根を顰めた。
「全く………こんな面倒な相手なら、単位弾んで貰いたいところだわ」
呻くような呟き。その時、再び水中で巨体がうねる。
パールの咥えたレギュレーターの脇から盛大に酸素が零れた。防御は成功したが、彼女の身にも水流が牙を剥く。
そんな彼女に向って、手が伸ばされた。パールは前後不覚の中でその手を掴むと、その手に何かを握らされる。
それがロープである事に気づいたのは彼女が体制を整えた頃の事。パールにロープを握らせたのは、ようやく復帰を果たした熾弦であった。彼女は槍と盾を構え直し、夜刀神の側面に移動する。
狙うのは脇に出来た銃創だ。水上の仲間が付けたその傷に向って、槍を放つ。
むしろ挑発を狙ったダメージの大きくない一撃。彼女が大蛇の側面へと動いたのは、正面で状態の立て直しをしている二人から注意を逸らす意図。それに乗った大蛇の視線が彼女を射抜く。
璃琥が光を放った。
だが、彼女のそれは運悪く大蛇が熾弦へと向き直った挙動で当たらず、だが直後に放たれた美月の光が見事、大蛇の身体の上で爆ぜた。
その時、その様を一部始終を見ていた逸冶が、深い眉間の皺をさらに深く刻むように眉根を顰める。
「………挙動が変わり始めている?」
確証はないが、焦りの様なものがある様に彼は思った。一番遠巻きに、だがもっともその挙動を
よく観察していた彼だからこそ見て取れた違和だ。
「奴の終わりが見え始めたな」
彼の確信の言葉は通信機を伝い、皆の耳に届いた。
●水神の沈む場所
水上からの攻撃は結果としは狙撃手二人の銃弾一発のみの命中という結果だった。
大蛇からの視線を一身にうける熾弦は盾を構えたまま、ダムに視線を向ける。二人とも復帰には今しばらく掛かりそうだった。おそらく次狙われるのは自分である事の自覚はある。そして自分は敵よりも水の中での挙動は遅い。先制されるのは間違いないだろう。
ならばせめて――。彼女はそう思い、大きく浮上を始めた。
視線を上に逸らす事で、水上の味方へのアシストになればと願う。そしてそれが叶わずとも、成功すればは大きく崩れる筈だ。
彼女の狙いに釣られ、大きく蛇も浮上。蛇の頭突きが彼女を水上へと跳ね上げた。
「っ………!」
彼女の華奢な身体が宙を舞う。一瞬の浮遊感と重力を明確に思った時は、既に水面に叩きつけられ、動ける状態ではなかった。
その隙を狙い、美月と璃琥が光球を放つが、当たらない。だが、蛇が沈んだ直後、マナが水を蹴る。
――ご先祖様だって海蛇倒したんだ…だから僕だってっ!
思うのは祖先の雄姿。狙うのは蛇の頭。沈んだ直後の蛇に回避は難しく、彼の剣が目元を大きく抉る。過去、もっとも大きなうねりで暴れる大蛇。
水面からそれを見ていたギィネシアヌがリボルバーを構え直す。逸冶の銃弾が走り、それを回避する為の挙動に合わせ、彼女の銃が火を噴いた。
着弾部から鮮血が迸る。急所を抉った様だ。
「よくやった。見事だ」
逸冶の声が無線越しに聴こえる。それになんと返せば良いかわからず、口ごもる中、美咲の魔力がその傷を更に大きく抉った。
「さぁ、そろそろ終わりにしましょうか」
彼女が呟く。
水中では最早、パニックも同然に暴れ狂う大蛇の攻撃を防ぎ、水流にマナが飲み込まれる。その彼をパールが自身も安定しない中で、抱きとめる様に彼を引き戻した。
「良い、璃琥ちゃん。よく狙ってよ………これで仕留めるつもりで撃って」
「了解にゃー」
美月は屈み、璃琥の腰を支えていた。その璃琥自身はその手の中にあるスクロールに有りっ丈の魔力を込め、既に臨界を越えようとしている。
チャンスはこちらに向いていた。既に夜刀神の決死も終わりの時刻だ。後は、止めを刺せば良い。
「三人ともすでに回収した。存分にやれ」
逸冶の声が通信機越しに美月の耳に届く。大蛇の姿が、水上に姿を現した時が勝負だ。
その瞬間。水が盛り上がった。
「今!」
「どでかいだけの蛇が、この猫魔導士様(自称)に敵うと思うにゃよー!」
二人が声を上げ、光の弾が姿を現した夜刀神の鼻先に着弾。次の瞬間、爆発が起き、大蛇はまるで空を仰いだような姿勢で静止する。今まで響いていた水音が嘘の様に静まり返った。
全員が固唾を呑む。刹那。黒い巨体は後ろに倒れ込むように、水の中へと戻った。ボートに乗っていたメンバーが盛大に水を被る。
水上から見る蛇の姿は、澄んだ水の中。まるで集落へと還るかの様に沈んで行き、やがて巻きあがった泥の中に消えた。
「やった………」
誰かが呆然と呟く。それは他のメンバーへと伝播し、次の瞬間。歓声となって蒼穹へと吸い込まれていった。