歪んだ空間の先から流れ込む、冷たい山の息吹。
一行はまだ知らない。
自分たちの行く末に、残酷な運命が待ち受けていることを―――。
●
「やっぱりおかしい」
青空・アルベール(
ja0732)が神社へと続く山道を走りながらに、後ろの仲間に向けて呟いた。
「依頼者はツアー会社勤務なのだよね。彼はこんな平日のど真ん中に、一人で何をしてたと言うの」
下見、という線を消すだけの証拠はどこにもない。
いやむしろそうであって欲しいと、願う気持ちの方が強い。
だがどうして、胸騒がせる不安は消えてはくれない。
「最悪の事態を想定しておくべきだろうな」
青空の横を行く翡翠 龍斗(
ja7594)が、彼に同意を示す言葉を口にした。
だが彼もまた言っててどうかその想定が間違えであって欲しい、と切に願う。
「考えるのは後にしようぜ」
綿貫 由太郎(
ja3564)は風に飛ばされそうな帽子を手で押さえつけながら、走りにくい冬の山道を駆けて行く。
「そうだった時用の策は練ってきただろう」
なら今俺たちがしなければならないのは一つなんじゃないのか? 由太郎は続ける。
「俺は俺にできることを」
彼の問いかけに答えるようにして浪風 悠人(
ja3452)は決意と覚悟を胸に、彼もまた目的の地へと向かう。
「敵がいる。ならばそれを切り刻むのが私に課せられた責務だ」
レイル=ティアリー(
ja9968)の目には山道の景色など入らない。代わりに、まだ見ぬ敵の姿を映している。
「‥‥大丈夫、だよね」
でももし護るべき命がそこにあったなら、とその先は胸の内に留め一 晴(
jb3195)が一行の最後尾を行く。
最悪でもいい、どうか私たちが辿り着くまでは―――
●
その者たちは今まで幾度となく聞かされてきたことだろう。
またはこれから幾度となく聞くことになるのだろう。
天魔を前にした無力な人間が放つ、悲痛な叫び声。
今まで見てきたのだろう、これから見ることになるのだろう。
この世に神さまなんていないんだ、と悟った瞬間の絶望に満ちた表情を。
「ちくしょう―――ッ!!!」
由太郎は叫んだ。
たとえ先程ああまで言ってのけた自分に殴られようとも、目の前に叩きつけられた残酷に向かってそう愚痴らずにはいられなかった。
出入り口付近の樹上に幼子が二人。その下には手足の生えたナマズが3体、彼らを手にかけんと群がっている。女児はぐったりとしていて、今にも奈落の底に落ちてしまいそうだ。そんな彼女の命をどうにか零すまいと、男児は身の限りを尽くしている。
「誰か助けて、助けてよぉ‥‥」
いったいどれほどの間叫び続けていたと言うのか。
すっかりと擦れ切った声で、それでも男児は声を上げることをやめない。
「く‥‥っ」
龍斗も顔を歪めた。自分はこの状況を背にしなければいけない、と言うのか。いかなる理由があろうともそれは撃退士の、いや人間の血が許さない。
だがそれでも、龍斗は足を止めた。
地面をえぐらんという勢いで踵を返し、彼らに背を向けた。
目指すは依頼主である伊能との合流。この状況は彼の身を危ういものにする、というまたしても最悪の想定を心の中のどこかで否定しながらに、彼は元来た道を、未だ知らぬ道を駆けて行く。
そしてさらなる悲劇は、残された一行の今まさに目の前で、起ころうとしていた。
「おねえちゃんっ!!!」
甲斐斗の目に映るは、とうとう自分の腕から離れてしまった侑那の姿。
あと数秒とかからずに全て溶けてなくなってしまうであろう、姉の最期。
いやだ、そんなのいやだ。
だのに甲斐斗の口からは、言の葉ひとつ出てこない。
「あああああっ!」
気が付けば悠人は叫び、地面を蹴っていた。全血を脚部に注ぎ込まんという勢いで、放たれた矢のごとく飛び出していた。
そして甲斐斗が閉じた目を再び開いたとき―――彼は今自分の目の前で何が起こったのか分からない、そんな表情を浮かべていた。
樹下にはあの怪物たちが相変わらずの様子でいる。だが神社前の広場には見知らぬ青年がいて、溶けてしまったはずの姉を抱えて地面に膝をついていた。
だが次訪れた光景に、少年の表情は再び凍りついた。
無事に着地を果たした悠人だったが、そこは近くに敵の一体が待ち構える場所。
目の前まで突進してきた生臭い体臭を放つそいつが、カパッと開いた大口をこちらに向ける。
「!」
悠人は咄嗟に侑那の身体を覆い隠すと、敵の酸撃をわざとに背に浴びた。
直後に上がる、甲斐斗の悲鳴。
ああおにいちゃんが死んじゃった、と血の気も吹き飛んだ顔で全身を細かく震わせる。
だがそんな彼の下で青空が
「少年。しっかりとそこに捕まっているのだよ」
目が合った甲斐斗にニコリ、と優しくほほ笑みかける。そして悠人の背後に忍び寄ろうとせん敵目がけて飛び出して行く。
意を解せぬ甲斐斗にレイルが言葉を重ねた。
「このくらいで死にはしないよ。私たちは――――」
不思議な雰囲気を纏ったレイルが樹下に群がる敵一体の注目を引くと、そいつをおびき寄せるようにしてじりじりと敷地内へと足を踏み入れる。
そんな彼の横後方で立ち込めていた白煙が晴れたのも、タイミング同じくしてのことだった。
甲斐斗は思わず目を逸らしたが、風斬り音の直後黒い閃光が走り抜けたかと思えば、そこには眼前の敵を火あぶりにした悠人が立っていたのである。
侑那もひとまずは無事な姿を確認すると、甲斐斗は呆然と木に体を預けた。
「‥‥‥なんで?」
「撃退士、だからねっ」
甲斐斗の疑問に間断なく晴が答えを返し、そして彼女もまた次の瞬間には地面を蹴っていた。
悠人の前に未だ立ちはだかろうとする敵の前まで来たところで、彼女の軸足が地面を抉る。遠心力が上乗せされた重たい一撃が、敵の前足目がけて振り下ろされる。
惜しくも狙いは逸らされ切っ先は地面を削るに留まったが、敵の食指を奪うことには成功したらしい。死んだような魚のよう目には、大剣構える晴の姿が映り込んでいた。
「そっちには行かせない」
青空のフルオート、アサルトライフルが火を吹いた。弾丸は悠人と侑那に向かおうとしていた敵のもう一体に見事命中し、被弾した箇所の身が弾け飛んでそこから半透明の体液が噴き出していく。
「こっち向けってぇの」
由太郎は未だ樹下に群がる敵二体を相手に、彼らを引き離さんとマシンガンの引き金に指をかけっぱなしている。
「このまま蜂の巣にしてやるでも、俺は構わないんだけどな」
だが敵も連続の攻撃を受けて、そのまま済ましてはいられない。いくらオツムが弱いとは言え、だ。
最初の一体がぐぅ、と低く唸って身体を半回転すると、短い足をバタつかせ由太郎目がけて突進した。
残っていた一体もその後に続くことに決めたようで、つまりはこれで悠人が侑那を避難させるための道は切り開かれた、ということだ。
そしてそれは同時に、悠人が初めて侑那の容態に触れることが出来た瞬間でもあった。
「‥‥‥っ」
両目から流れ出た血によって、赤黒く染まった侑那の顔。
だがそれに胸詰まらせてる時間はない。
出血は止まったようだが呼吸は浅く、脈に至っては今にも止まってしまいそうだ。
そうして彼は決断する。
「この子だけ、まずは下山させます―――!」
●
時間は少し遡る。
一人正規登山ルートは山道を下っていた龍斗は、道の脇に積もった雪山が不自然に欠けた跡―――つまり伊能が転げ落ちたであろう場所を発見し、そこで足を止めていた。
「ここを落ちた、のか」
窪地へと続く、急こう配。
常人の運動力のはるかに上いく自分にとってそこを降りるは容易いが、装備無しでは戻って来られなくなる可能性がある。
自分はこれが何者かが落ちた形跡であるとほぼ確信してはいるが、伊能が落ちた跡だという確証はどこにもない。
だがもう後には引けない。
時間がない。
龍斗は自身の背中を自分で押すかのようにして、携帯電話は予め登録済みの依頼主、伊能の電話番号を呼び出すと迷わずコールボタンに指の先を置いた。
出たのは女だった。
「イシリアか、アルヴか」
龍斗が質問を投げると
≪イシリアですわ。そちらはどなた様かしら。もしかして久遠ヶ原の生徒さま、ですの?≫
即ぐに答えが返ってくる。そして龍斗の返答待たずして
≪何か不測の事態でも?≫
こちらを案じてるようでいて何か不穏な気を感じさせる、イシリアの声。
この女は信用するべきではない。
前もって与えられていた情報と自分の第六感とが合わさって、彼をそう確信させるに至る。
「仲間とはぐれてしまったんだ。すまないが、」
その時すでに、龍斗の足は地面を離れていた。飛び込んだ先は急斜面を、滑るようにして下っていく。
「一旦、そちらと合流させて欲しい」
雪の白の中に残された痕跡を見失わぬようにして、龍斗は走り出す。この先に3人がいることを神にも祈る気持ちで願い、力の限りに地面を蹴った。
≪お仲間さんと連絡は取れないんですの?≫
予備の携帯電話を受け取ることが出来ていれば、それも出来たかもしれない。
結局時間的余裕がなくそれは叶わなかったわけだが、もしかしたら。
結果良し、だったのかもしれない。
龍斗は「かけたが繋がらないようだ」と受話口の先にいる相手に伝えて、白い息を吐く。
≪そうですの。それでは‥‥≫
お待ちしておりますわ、とその声は酷く冷ややかなものに聞こえた。
どれくらい経ったのだろう、どのくらい走ったのだろう。
龍斗は窪地は斜面を駆け上がった先で遠くに見える3人の姿を捉えると、さらに足を早めてそこに向かう。
乾いた空気と凍てつく風を潜り抜け―――龍斗は3人の前で足を止めた。
「道に迷わず、ようございましたわ」
出迎えたのはイシリア。だがそれよりまず先に、依頼主である伊能に龍斗は目を奪われた。
青い顔した彼がさらに顔青くすれば胸にひとつやふたつ、こみ上げてくるものがある。
喉元まで出かかったそれを飲み込み、龍斗は
「要救助者がいる。だが彼とは関係ない、一般の参拝客のようだ」
そういうことにしておけ、と伊能を睨みつけるような目で見据えた。
「まあ、それは大変ですわね。それでは伊能さまの護送はアルヴに任せて、貴方さまは私と一緒に。一刻も早く現場に向かうが、よろしいかと思いますの」
どうかしら、とイシリアはあくまでも穏やかに。
だがその瞳の奥には、狂気を孕んだ光を宿しながら。
「いや、救助は無事に完了した。仲間が今その者と一緒に麓に向かっているところだ。俺たちも神社に向かうにしろ、一旦下山すべきだと思うが」
嘘から出たなんとやら、だ。
このとき神社の境内では、侑那を抱えた悠人が下山を開始していた。
「そう、なんですの」
イシリアのその言葉は龍斗の耳には「それは残念ですこと」と同じ意味に聞こえていた。
一方―――。
侑那を腕に抱いた悠人は仲間が切り開いた道をくぐり、麓へと向かって落ちようかという勢いで走り出していた。高いところからは遠くに望める町を目指して、足元悪い道のひとつひとつを足の裏で踏みしめる。
アップダウンの激しい場所はときに跳び越えだが衝撃は全て関節に食わせて、懸命に、腕の中にある者を守る。
どれくらい走ったのだろう。
緩やかな斜面を抜けた先は林道に入ると、聞きなれたサイレンの音がすぐ近くで止まった。
悠人はそれが前もって連絡しておいた救急車の音であると確信し、さらに足早め疾駆する。
そして山の麓は駐車スペースに停められた救急車の前まで来ると雪を舞い上げながらに足を止め、腕の中で命の灯消えかけた侑那を救急隊員はその腕に託したのだった。
「悠人」
車外で待機していた龍斗が悠人の傍まで来たとき、車内から男の悲鳴が上がった。
伊能が涙し侑那に向かって何度も「ごめんなさい」を繰り返す光景が、閉じたハッチの窓越しから覗く。
―――彼はヒト。天魔の前では何の力も持たない、ただの人間。
「愚かなことを」
今はもう見えなくなった救急車に向かって、イシリアが吐き捨てるように言う。
「あの男は大した罪には、問われませんのですわよ」
顔を半分だけ振り向かせ、狂気を孕んだ瞳の片方で2人を睨みつける。
「‥‥あんたさぁ」
「待て、悠人」
喰ってかかろうとした悠人を龍斗が止め
「話しても無駄だ。時間が惜しい、行こう」
そうして睨みつけるようなイシリアの視線を背に、2人は再び山を登り始めたのだった。
●山劇を乗り越えて
「ここから先へは、行かせないんだからねっ」
額から血を流す晴は、眼前の敵が酸撃を浴びせんとしていることに気づいていながら直立不動の姿勢を譲らない。
次の瞬間ぶちまかれた溶解液が白煙をあげ、辺りに饐えた臭いが充満した。
その後ろに何がある、と言うのか。
彼女にとっての手の届く場所にある命とは、いかなるものであるのか。
その答えは今は自らの胸の内にだけ留めて、晴は己が身に宿る力を燃やした。
会心の一撃を脳天に貰った敵は地面で激しくのた打ち回り、そしてすぐに動かなくなる。
「バイバイであるな」
青空もこれが最後これで最期、と引き金に指をかける。
射出された弾丸は敵の胴体に直撃し、体液の半分以上を失ったそれは絶命した。
続けざま素早く身体の向きを変えるとレイルの傍で彼を襲っている敵に照準を合わせ、そして再び引き金を引く。
「呼びつけておいて、なんなんだけどな」
敵二体を同時に相手にしていた由太郎は傷だらけの身体を叱りつけながら、マシンガンの銃口を眼前の敵眉間に突きつけると
「ヒゲ面はタイプじゃないんだよなぁ」
ばら撒かれた弾丸が敵の体に無数の風穴を開ける。
だが背を向けた残りの一体を追いかけて、仕留めるだけの余力は今の自分にはない。
「レイルッ!」
青空と共に敵を撃滅し終えたところであったレイルが、由太郎の声でそのことに気づき地を蹴った。
中空から振り下ろされた両刃の一撃がナマズの首を切断し、その下にあった地面にも大きな刃痕をつけ―――
そして全てが、終わっていた。
「‥‥‥」
晴が守っていたもの、それは腕だった。
優しい感じのする、恐らくはきっと女性のもの。
晴がそれを両手で掬い上げたところに、青空に抱かれてやってきた甲斐斗が降り立った。
「‥それね、ママなんだ」
え、と晴の瞳が揺れる。気が付けば微かに震える手で、甲斐斗にそれを託していた。
「おねえちゃんたちが戦ってるとき、ママの声が聞こえた気がしたの。これからはパパとおねえちゃんと3人でがんばって生きなさい、て‥‥」
もう自分の頭を優しく撫でてくれることのない腕を胸に抱き、甲斐斗は一度伏せた顔を上げ
「ありがとう」
そう言って涙を流す。
神社の出入り口には、悠人と龍斗の姿。
一行は甲斐斗の涙に何を見たのか。
それは各々にのみ、知り得ることだろう。
こうして冬の山劇は、静かにその幕を閉じたのである。