●いつもと違う朝
喫茶店スミレノの朝は、めっきり遅くなって久しい。
だがその日は、少しだけ様子が違っていた。
「話が違う。店は畳むからもう仕入れは必要ないと言ってなかったか」
菖蒲の傍には中年の、見るからに職人気質の男が一人。
床に膝をつき、冷たいショーケースの中にケーキを収めていく。
「気まぐれで振り回されちゃ困るんだ」
男の言う事に、俯きただじっと耐えているだけの菖蒲。
「菫さんには親父が世話になったから、出来るなら手は貸してやりたいが。肝心の店がこの有様じゃ‥」
その時カラン、と。
お店の扉が開き、か細い鈴の音が響き渡った。
「あ、いらっしゃいませ」
顔を上げた菖蒲が、いつもの笑顔で客を出迎える。
だが次の瞬間飛び込んできた光景に、彼女は唖然と言った表情を浮かべた。
「ここ、座らせてもらいますね」
北斗 哲也(
ja9903)が菖蒲に向かってにこりと笑い、カウンター席の中央に腰を落ち着ける。
「お邪魔させていただきます」
その後ろをゆっくりと通り過ぎ、着物に身を包んだ七瀬 桜子(
ja0400)が窓際のテーブル席へ
「風情がありますね」
と雪成 藤花(
ja0292)がイヤーカフを揺らしながら、星杜 焔(
ja5378)と共に中央のテーブル席に座る。
これで終わりか、と思えば、扉の外にはまだ人の気配がする。
「ごめんなさい、遅くなって」
「ううん、大丈夫だよ」
栗色の綺麗な髪をさっと一撫でし伊那 璃音(
ja0686)が、そしてどこか日本人離れした顔の浅間・咲耶(
ja0247)が、共に店内へと入りテーブル席につく。
今度こそ、と思うも鈴の音は止まない。
「良い感じの店だな」
通学鞄と思しきものを肩から下げた月居 愁也(
ja6837)が、夜来野 遥久(
ja6843)と共にカウンター近くのテーブル席へ。
続いて入口を潜って来た空蝉 虚(
ja6965)と、彼に引かれるようにして入ってきた天音 みらい(
ja6376)がテーブル席へと移る。
それまでぽかん、と口を開けたままの菖蒲だったが、
「ちーっす」
邪魔するぜ、と店内に入ってきたかと思えば真っ直ぐにカウンターの端席へと向かい、そこにとすりと腰かけたテト・シュタイナー(
ja9202)を見て、とうとう手に持っていたお盆を床に落とした。
「ブレンドコーヒーをひとつ、お願いできますか」
哲也がそんな菖蒲に、注文を言い渡す。
「おい、何やってる」
男が菖蒲の脇を小突いたところで、やっと正気を取り戻した彼女は
「は、はい」
とちょっと調子の外れた声を上げるのだった。
●甘いひととき
男が出て行ったあとの店内。菖蒲が注文を取るのに忙しい様子で、床の上を移動している。
咲耶は璃音を前にしながらも、とある思いに馳せていた。
喫茶店で飲食し雑談を交わすのが目的だなんて、失礼だけど随分と変わってる。変わった依頼と言えば、前に子猫の里親探しなんていうのもあったけど‥‥。
そんな咲耶の前に座る璃音もまた、喫茶店独特の匂いに当てられ物思いに耽っていた。
父と父が営む喫茶店で看板娘として働いていた日々が、つい最近の出来事のように浮かび上がってくる。思い出の味をさらに楽しむなら紅茶だけど、でも今日はミルクたっぷりのカフェオレにしておこうかな、そう考えたところでメニューを手に取り
「咲耶くんは、何にする?」
「あ、え。なにが?」
クスクス笑う璃音に、咲耶がごめん、と照れくさそうに頬を赤らめる。
メニューとショーケースの間で視線を行ったり来たりさせていた璃音は、カフェオレとチーズケーキを頼むことにしたようだ。咲耶はそんな璃音を眺めながら、可愛いな、とこっそり胸の内で呟くのだった。
事前の許可を得て店内を撮影していた藤花。彼女のデジカメがパチリ、とフラッシュする。
「私はカフェラテと、ブルーベリータルトをお願いします」
菖蒲からどれもおススメです、との回答を貰ってしまい初めのうちこそ迷っていた彼女だったが、ショーケースの中のそれと目が合ってしまった。もちろんそんな気がしただけ、なのだがタルトの上のブルーベリーが何となく彼女の好きなぬいぐるみの円らな瞳と重なったのだ。
「そういえば‥‥」
いつもよりも優しく微笑む焔に、藤花が手を止め話し始める。
「遊園地で行ったお化け屋敷。楽しかったですね。ちょっぴり怖かったけど」
でも嬉しかった、そう言ってはにかんでみせる。
「俺も楽しかったよ。お客さん増えてるといいねえ」
そんな焔の言葉に、藤花はやはり照れくさそうに笑う。
「私はチーズケーキひとつに、コーヒーでお願いします。虚くんはなににする?」
ドキドキと高鳴る胸をなだめながら。
だがやっぱり精一杯楽しみたい、とみらいが虚にメニューを手渡す。
せっかくこうして大好きな人と一緒の時間を過ごせるのだから、それを大切にしたい。きっといつもより楽しい時間になる、そんな気がしてるから。
みらいは心の中で、そう考えていた。
虚もまた、やや緊張の面持ちで「僕はコーヒーとショートケーキにしましょうか」と注文を決める。
「チーズケーキも食いたいけどオレンジシフォンも捨てがたい‥」
愁也はそんな感じで迷いに迷い、結局オレンジシフォンとコーヒーのセットを頼み、そのあとに角砂糖はひとつで、と付け加える。
店内をざっと見渡し「大事な誰かと珈琲と。‥幸せだよなー」と思わず呟いて口の端を緩める。だがすぐに店内のゆったりとした空気に飲まれて、まるで借りてきた猫みたいになっているではないか。
意外な一面だな、と遥久が笑う。
カウンター席でコーヒーの味と香りを楽しみながら、哲也は菖蒲に「デザートにモンブランを」と注文を追加する。
間断なく、菖蒲がテトの傍に歩み寄り「お席、前の方も空いてますよ」という顔で注文を取ると
「‥‥ホットコーヒーと秋野菜サンド」
テトはそう答えるとそのすぐ後に「俺様は、隅の方でまったりと過ごすのが好きなんだよ」と付け加えた。
待ってる間に棚から引っ張り出してきた科学雑誌。それに目を通しながら、テトは出されたコーヒーを啜ると「(……確かにコーヒーは美味ぇな。さて、こいつはどうか?)」と野菜サンドに手を伸ばす。
窓際のテーブル席で、優雅に紅茶を啜る桜子。
店内にやんわりと響く歓談の声と、せわしない足音。カチャカチャと食器の揺れる音に、鼻腔を擽る甘い香り。それがなんとも言えず、心地良い。
きっと、時間ほど曖昧なものはないのだ。そんなものは結局ヒトが勝手に作り出したものに過ぎず、一見誰にとっても同じように流れているようで、誰にとっても同じように感じるわけではない。時間とはそういうものなのだ、きっと。
窓の前の棚の上に置かれた一鉢に咲く、渋い色の花。
桜子はそれを、ただじっと見つめていた。
●試される想い
焔のカボチャのパイを藤花が、藤花のブルーベリータルトを焔がパクリと。
そんな風にしてお互いの食べ物を分け合いながら、藤花が「美味しい」と忌憚ない感想を呟く。お店の雰囲気が琴線に触れたのか、瞳を潤ませる焔に慌てながらも、藤花は料理に詳しい彼の話を交えながら菖蒲から聞き出したレシピをメモに取っていく。
チーズケーキの味を楽しみながら、フォークをすすめるみらい。
虚と試験や日常生活のことで語り合ううちに、話題が前に一緒した水族館に移る。
そうしてあの日一緒に手を繋いだことに行きつき、顔を真っ赤にする虚。
みらいは彼の気持ちを確かめたくて、でも訊けずにいる。そんな自分をちょっぴり嫌いながら「このケーキ、美味しいです」と話題そらしに菖蒲に感想を告げる。
「やっぱり専門のとこって違うな」
ブラックコーヒーの中に角砂糖をひとつ溶かしながらに、愁也が感心を露わにする。
「二つ、だろう」
傍らでやはりその味に感心していた遥久が、愁也に自分の分の角砂糖を手渡した。
お互いのケーキの味を教え合いながら、咲耶はただ幸せだな、と思う。そんな彼に瑠音が
「咲耶くん」
とカフェオレの残るカップを手元に置き、ゆっくりと語り始めた。
「あのね。難しいな、て思うの。素敵なお店は皆に教えたいけど、自分のお気に入りが変わるのが怖くて。教えたくないって言う気持ちもあって。‥‥昔の常連さんが戻って来てくれたらいいのにな、て」
ガチャ、と大きく食器を揺らした菖蒲が「ごめんなさい」と。
桜子がその背中を、少し心配そうな面持ちで見つめる。
「そういや、その辺で耳にしたんだけどよ。この店、もうちょいで畳むんだって?」
テトの言葉がさらに追い打ちをかける。
菖蒲は「そんなこと、ありませんよ」と答えたが、不安と迷いに支配されたその言葉はテトの心に響かない。
「勿体無ぇな。良い店だとは思うんだが‥‥」
そう言って、コーヒーを啜る。
「本を読んでもよろしいですか」
モンブランを食べ終えた哲也が、唐突にそんなことを言った。
頷く菖蒲に礼を言い、哲也は文庫本の一ページ目を繰る。そして静かに
「その写真立てに映っている人は‥?」
視線を動かすことなく、尋ねた。
「これは私の祖母です。亡くなる前までは、ずっとこのお店を」
「このような雰囲気のお店はなかなかありませんよ、貴方のお婆様は物の分かるお方だったんですね。だからあの老紳士は‥」
ああ、失礼、と哲也はそこで言うのをやめてしまう。
菖蒲が「あの」と口を開きかけたところで、愁也がその言葉を遮った。
「俺たちはここには、頼まれて来たんです」
「愁也」
その隣で遥久が、強くもなく弱くもない口調で彼の名を呼ぶ。
その後ろで菖蒲と目があった咲耶がコクン、と頷き。
彼女は何かに頬を打たれたよう表情に変わると、くるりと背を向け写真立ての前で俯いた。
その姿に居た堪れなくなったのだろうか。桜子は席を立つと代金をカウンターの上を置き
「美味しい紅茶を、ありがとうございました。それではごきげんよう」
去り際に「お先に」と誰に向かってでもなく、やんわりとそんな言葉を残して、彼女はお店を去った。
「俺たち、これからその依頼主と会うんです」
そんな愁也に続きテトが
「気になるってーのなら、会ってみればいいじゃねぇか」
言葉を続ける。さらに哲也が
「‥お手伝いは、必要ですか?」
と菖蒲の背中にそんな台詞を投げかければ、俯いていた彼女がぼそりと何かを呟いた。
「あの時のお婆さまも、こんな気持ちだったのかしら」
そして振り返ると、哲也に向かって手の中のものを差し出し
「あの。ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
●角砂糖おふたつで
「はい。美味しい紅茶と、ゆったりとした時間を堪能させて頂きました」
一足先に公園に到着していた桜子が、老紳士に素直に感謝の気持ちを伝える。
「よい雰囲気のお店で、とても素晴しい時間を過ごせた事をありがたく思います」
そんな桜子の言葉に老紳士は「そうか」と一言だけ呟くと、あとは静かに残りの者たちの到着を待っていた。
程なくして公園に姿を現した他の面々が、二人を見つけて歩み寄ってくる。
「あのお店の、思い出になればと思って」
老紳士にメディアを差し出す藤花。だが
「私にはもう必要ない。それはあのお店がなくなると共に、忘れなければいけないものだ」
その言葉を聞き、テトは思う。
それは区切りのついてない人間の言葉だ、と。
「これを」
哲也がそう言って、老紳士の手に紙に包まれた角砂糖をふたつ、握らせる。
「何かね、これは。随分と古いものだな。これも思い出のつもり、なのかね」
「菫さんからです」
哲也のその言葉に、老紳士が目を剥く。
「何?」
「俺、思ったんですけど」
愁也が思っていた胸の内を、静かに打ち明け始めた。
「菫さんはあなたに、客として店に来てほしかったんじゃないですかね」
その一言に、全てを悟ったように。
老紳士は被っていた丸帽子を深く被り直すとだがやはり
「‥‥そうか」
と一言だけ。
「だがあのお店はもう‥」
「その角砂糖は、菖蒲さんから貴方に贈られたものでもあるんですよ」
哲也のあとに、テトが言葉を続ける。
「またコーヒー飲みに来てくれ、だとさ」
押し黙る老紳士。
彼が長年背負ってきた心のしこりが、熱いコーヒーに落とした角砂糖のように溶けていく瞬間を、一行はただ見守っていた。
「これは飲食代だ、受け取ってくれ」
老紳士が懐から取り出した白い封筒を差し出すと、愁也が首を振る。
「私たち、またおいしいケーキ食べに行きます」
みらいがそう言って、虚とともに背を向ける。顔を見合わせ嬉しそうに、自然と伸びたその手が繋がりあう。
「あばよ」
とそのあとにテトが素っ気なく、だがちょっと良い笑顔で続き、
「ボクたちもまた、来れたらいいね」
咲耶が愛しい恋人の手を取る。
「もちろん、私たちも」
頭を下げ公園を去り行く、藤花と焔の二人。
その後ろ姿はどこかで、彼らが共に夢ある将来に向かって行く。
何かそうヒトに思わせるものがあった。
桜子と哲也が、そして愁也と遥久が去った公園に一人残された老紳士が、
「やれやれ。アイツめ、わざと書き漏らしたな」
深いため息混じりにぼそり、と。
そうしてほろ苦い香りを放つ一滴の謎を残して、この物語は終わりを告げた。
それぞれの新しい物語を、始めるために。
●
「私たちがしたのは、余計なことだったのかしら」
帰路、桜子が誰に向かってでもなくそんな言葉を呟いた。
「いいんじゃないですかね。たまにはそういうお節介ってやつも」
だがそれに対し愁也が実にあっけらかん、と。
まるで晴れた秋の空のような台詞に、それを聞いていた桜子が、そして他の面々がただ頷き静かに同意を示すのだった。