まだ春を知らぬ山の息吹は、そこに踏み入れる者の頬を冷たく撫でる。
●未
「永久子ちゃん、ね‥‥。無事だといいんだが」
虎落 九朗(
jb0008)は一行とともに山道を駆け足で登りながら、まだ見ぬ救助者を思いその身を案じた。
先遣者から寄越された資料には、敵は傷ついた永久子は放ってどこかに隠れている、と記述されていた。だが状況が今もそうである、とは限らない。
「守り抜きます」
どんなことがあっても、黒井 明斗(
jb0525)はそう周りに、そして何より自分に言い聞かせる。
銀縁の眼鏡をくいとかけ直して、もう目の前に迫った闘いへの備えを、覚悟を固める。
「山岳戦闘では‥どうみても奇襲受ける‥‥。とにかく防戦するしかないの‥アラモみたいにはなりたくない‥‥」
それはいつか見た映画のワン・シーン。
小松 菜花(
jb0728)はこれから自分たちが向かう場所をそれに準えて、決して同じ結末は辿るまいと強く思う。
目的地との距離が縮まるほどに、手に投擲斧握る彼女の髪は銀に染まり、その表情は冷たいものになっていく。
「中々に面白そうな状況じゃないか」
対してヴィルヘルミナ(
jb2952)は鼻歌でもまじりそうな機嫌の良さで、その足取りもまた軽い。
この時の彼女には、ひとつの予感があったのだ。永久子を救いその魂に触れることが出来たなら、自分が失って久しいものを取り戻せるかもしれない、という予感が―――。
「人間に悪さする悪いお猿さんはお仕置きしないとねェ」
仄暗い瞳の奥を爛と輝かせ、黒百合(
ja0422)はまだ見ぬ敵への殺意を露わにする。
相手をどのように殺していくかを頭に思い浮かべながら、その瞬間が何よりの愉しみと言わんばかりに薄く笑う。
「‥‥‥」
炎とともに眠るもの(
jb4000)、ネムは何も考えない。何も思わない。ただコレと共にある炎が山を焼かねば良いな、とひとつ願うのみである。コレは爆せればそれで良い、と。だから永久子が誰で、誰が依頼主であるのか、ということに興味はない。ただふと頭の上に乗せた骨が気になり、ネムはそれに手を添え位置を直した。
「いた!」
九朗が叫ぶ。
資料通り、開けた休憩スペースの中央付近で、永久子と思しき少女が血を流しうつ伏せの状態で倒れている。敵の姿は見当たらない。
真っ先に九朗が駆け寄り、永久子の状態を確認する。衣服は破れ、噛み傷は全身に広がり、背中の裂傷は今なお出血が酷い。彼女が意識を失ったあとも執拗に攻撃し続けられたのだと、想像するに容易い。
「(ひでぇな)」
九朗はそう思うよりも先に、永久子の身体に治癒を施していく。
「近くに、いそうですか?」
二人の傍でそのガードに当たる明斗は、九朗に周辺の敵の有無を尋ねた。
自身も肉眼での警戒に当たるが、探知能力は彼の方が強い。
「駄目だ、引っかからなかった。近くにゃいねぇのか、それとも」
「敵の方が強いのかもねぇ」
黒百合もまた背後に九郎と永久子を置きながら、やはり愉しげにそんな台詞を吐き捨てた。
「今のところ、下山者の気配はせぬな」
休憩所頂上側の出入り口に立ち、下山者と敵、双方の警戒に当たるヴィルヘルミナ。
「私は、退路を‥‥確保する‥‥」
その逆に立つ菜花は、奇襲の一点に的を絞り、目と直感を働かせる。
そしてヴィルヘルミナの近くまで進み出たネムが
「術式展開――管理番号零零壱号解放要請――解放確認――C『L』顕現――」
静かに詠唱を、その後、彼女の胸に宿る炎がすぐ傍に具現化された。
小さな爆炎を纏う子竜は見るもの全てを主に伝え、そして―――。
「‥‥敵影‥樹上‥」
「木の上から、来るの」
ネムと菜花の声が重なる。
●囲
少し、色々なことが同時に起こり過ぎた。
ヴィルヘルミナは敵の落ちてきたところに攻撃を、と霊符を構えるもその直後、背後からはヒトの子の声。
まだ遠くではあるが、足音の間隔から察するに、駆け下りてきている可能性が高い。
仕方なし、ヴィルヘルミナは手札を攻撃から防衛にと、すり替える。
そして黒百合の頭上に降って来るであろうと思われた二匹目は、空中で器用にも身体の位置を変え、ネムに迫る。
次なる炎を呼び出すため詠唱始める、ネム。
二匹目の背後を狙い、地を蹴る黒百合。
だが、
「貴方たちは‥‥」
意識を取り戻した永久子が、目の前の九郎を見て驚いたような表情を見せ、身体を起こした。
苦痛に顔歪め片目を瞑りながらも、もう片方の目は見開き、状況の把握に努める。
「あら、起きたのねェ。でもまだ動いちゃダメよォ?」
「ここは俺たちに任せろ」
今にも動きだしそうな永久子を、黒百合と九郎が制す。
「危ない‥‥っ」
退路に降り立ち、菜花に牙剥く三匹目。
声を振り絞り、それを報せる永久子。
「平気‥‥」
猿は菜花に斧の柄で胸を突かれ、剥き出した牙は届かず爪も空を切る。
そして
「‥‥ストレイシオン、召喚。魔力供給、開始‥」
菜花の足元から沸き起こった光が竜の形を成し、彼女の肩に頭を凭れた。
間断なく、構え直した斧の切っ先を敵に向け魔力の塊を撃ち出せば、それを食らった相手が地に転がる。
だが敵も柔ではないらしい。即ぐ起き上り肩に貰った傷を手で押さえながら、ギロリ菜花を睨みつける。
「近づいてきてはならぬっ!」
初撃は回避で切り抜けたヴィルヘルミナが、自分の後ろに向かって叫んだ。
すぐそこまで寄ってきていた子供の一人が彼女の声に驚き、尻もちをつく。
「取り込み中だ、下がっておれっ」
駆け寄ってきた大人たちにぴしゃりと、その直後、ヴィルヘルミナは霊符に込めた禍々しい力を眼前の敵目がけて撃ち放った。
惜しくも狙いは逸れたが、牽制の効果は十分にあった。猿は彼女の後ろで一般人が離れていくのを、恨めし気に見ているしかない。
「‥‥‥」
腐っても野生か。
猿はネムが反撃の炎を見た途端に踵を返し、黒百合の脇を颯爽とかけ抜け明斗にその牙を向けた。
「僕から離れないで。必ず護ります」
片方の手は永久子に、そしてもう片方の手は槍を構え猿を迎え撃つために。
そうして明斗の槍の切っ先から撃ち出された光は鎖の形を成して、目の前に迫った猿の四肢に巻きついた。
中空より地に叩きつけられた猿が起き上り、もがいたところで、身をきつく縛る鎖は解けない。
「蜂の巣にしてあげるわァッ!」
そこへ後方より、黒百合のショットガンが火を噴いた。
背にその弾を受けた猿は苦痛に顔を歪めると、血反吐とともに悲鳴に似た声を上げる。
「‥‥すごい」
当然のことではあるが、自分では手も足も出なかった相手と対等に、いやそれ以上の力で戦う撃退士たちの姿。
それをただ茫然と、見てるでしかない永久子。
直後胸に忘れかけていた想いが蘇り、彼女はそれを否定するため、眉顰め顔を伏せる。
「まだどこか痛むか?」
永久子の治癒を続けていた九郎が、彼女の表情の変化に気づき、その身を案じる。
「いえ、大丈夫。大丈夫です」
こんな状況だと言うのに。
目の前の彼は自分の身を心配してここまでしてくれてるのに、自分は先のことを考えてる。無事に山を下りたらその後、のことを憂鬱に思ってる。
永久子はそんな自分を恥じ、ただ「ごめんなさい」と呟いた。
●散
「虎落さん!」
明斗の鎖を解き放った猿が地を蹴る。
彼が放った二発目の鎖は空を切り、敵は明斗の頭上を飛び越え九郎に、そして永久子に迫る。
「きゃ‥」
その一瞬の出来事に、地面に倒れる永久子。
だが
「おいっ猿公!」
九郎の背に現れていた大極図は、もはや黒がそのほとんどという状態で、左に勢い良く回り始める。
そして九郎の手から撃ち出された風刃は、見事猿の頭を削いだ。
「俺は戦力外って思ってたんだろうが、残念だったな」
だが敵は頭の一部を削がれてもなお、立ち上がり、戦意を失ってはいない。
後ろを見せていた黒百合に目をつけると、鈍ってはいるがまだ素早い身のこなしで彼女に迫り、その背を切り裂いた―――少なくとも、猿の目にはそう映った。
だがしかし切ったはずの爪は綺麗なままで、切り裂いたはずの背中に至ってはどこにも見当たらない。
目標喪失し惑う猿。次の瞬間、猿の背に突き刺さった漆黒の大鎌はその切っ先が胸を突き破り、周囲に鮮血が舞った。
「あはァ、モズの早贄の完成ェ♪」
黒百合が動かなくなった猿の身体を、地面に投げ捨てる。
それを見て逆上したのか、三匹目は己が牙をさらに鋭く剥きだすと、眼前の菜花に深々と突き立てた。
「‥‥ッ」
菜花は苦痛に少し眉を潜めるも、噛みつかれた腕ごと振り回し、敵を陣形の内側に放り込む。
そして
「あとで褒めてあげるから‥‥」
ぼそりと呟き二体目の竜、スレイプニルを召喚すると、猿の背に斧が一撃を叩きつけた。
「私に背中を見せてどうするつもりだ?」
ヴィルヘルミナの前に構えていた敵もまた、黒百合目がけて突進しようかと踵を返した直後、彼女の一撃を真面に食らい顔に泥をつけた。
身体蝕む毒にグェッと鳴き、身体を縮ませる一匹目の猿。
真横に熱を感じ顔を上げ見やれば、そこに待ち受けるはネムと、彼女の瞳に宿りし業火の竜。
「好きなだけ‥‥爆せ‥‥‥」
その一声に竜が爆炎の翼羽ばたかせれば、周囲に激しく火の粉が舞う。猿の上に落ちたそれが、体毛の一部を焼き、ヂリリと嫌な音を立てた。
次の瞬間にも訪れるであろう、死の恐怖。
怯えたような表情を見せる猿を前に、ネムは我ガ友より受け取った力を構えた直剣に乗せる。
そうして彼女と彼女の竜が放つ炎は情け容赦なく、猿の身を二つに爆した。
●光
全てを終えた一行が、永久子と下山者の数人を連れ、山を下っていく。
「何故、逃げなかったのだ」
その途中でヴィルヘルミナが永久子に近づき、唐突に、そんなことを尋ねた。
「え‥‥?」
どういう意味ですか、と訊き返した永久子に
「話は聞いたぞ。お前はアウル適合者なのだろう」
ヴィルヘルミナは言葉を続ける。
「自分がそうであることを晒してまで、守る価値はあったのか」
永久子がどうして今まで嘘をついて生きてきたのか、は分からない。
だが彼女にとってそれは、本当に大切なものであったはずなのだ。だからこそ守る必要があった、そういう考えなら悪魔の自分にだってできる。
だから彼女が捨てる選択をしたからには、それなりの理由がないとおかしいだろう。
―――ヒトが持つ気の迷いのような、一時の感傷に流されてのことだとしたら、がっかりしてしまうが。
しかし永久子の答えは
「‥‥‥分かりません」
「なに?」
自分のことだろう、とヴィルヘルミナに再度答えを求められても、永久子はただ首を振るしかない。
ヴィルヘルミナは一言「つまらぬ」と吐き捨てると、永久子の傍を離れる。
表情暗くしてふさぎ込んだような彼女に、黒百合が近づき、
「貴女は本当の英雄よォ‥♪」
ぼそり呟き聞かせた。
「‥え‥‥」
刹那、永久子の胸にまたあの感情が蘇ろうとしたとき、
「永久子!」
その声に永久子はビクリと身体を震わせ、足を止める。
駆け寄ってきた女性は、恐らくは依頼主、彼女の母親だろう。
そしてその後ろには、彼女の教師、そして先輩たちと見られる女子数人の姿も見られる。
永久子の無事に皆ほっと胸を撫で下ろすも、彼女たちは永久子に近寄ろうとはしない。
「‥‥‥」
明斗はその光景に何か思うことがあったのか、一瞬胸詰まらせたような表情を浮かべると、一行と永久子を背に彼女たちの元へと歩み寄って行く。
「すみません、ちょっとだけ。僕の話を聞いてもらえませんか」
だが面と向かった彼女らの顔は昔見た誰かに似ていて―――明斗は少しくじけそうになりながらも勇気を振り絞る。
「貴方たちは永久子さんがそうだと知って、傷ついてます‥‥よね。だけど彼女は、それ以上に傷ついてると思うんです。だからお願いです。どうか、今までと同じでいてくれませんか」
深く頭を下げる。
だが反応はなく、その肩には沈黙だけが、重くのしかかる。
やっぱり駄目なのかな、そう諦めかけたとき
「いいよ」
女子の一声に明斗が顔を上げ、そして母親に抱かれていた永久子が振り向いた。
「永久子は、それでもヘタレのままだと、思うし」
「うちらの部活一のダメ部員だからね。永久子が何で、どこ行ったって、それは変わらないから」
その言葉の意味、そして「ありがとう」と嬉しそうな明斗の姿に、心打たれた永久子が踵を返した。
「あのね、お母さん。私、知りたいことがあるんだ。心配させるかもしれないけど、ごめん」
今までになく真剣な表情の永久子に、とうとうその時が来たのだと悟った登紀子は、何も言わずに己が娘の頭を優しく撫でる。
その光景を遠くで見ていたネム。彼女は思うことなど何もない。だがふと頭の上に乗せた骨が気になり、彼女はそれに手を添えると静かに位置を直すのだった。