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冷酷なまでの白さで、夜を見下ろす月があった。
静けさを湛え、微動だに揺れもしない真円の輪郭。
いっそ無慈悲で無感動だ。この夜に優しさなんてひとかけらもなかった。
どんな殺戮が起こり、残酷な悪夢が地に根を下ろしても、月はその色と形を変えない。
まるで過去を覗き映し出す鏡のよう。そんな白々しさは見上げた九十九(
ja1149)の記憶を抉る。
何があっても、月は空からその手を差し伸べない。そんなことがあるのは御伽噺だと理解しながら、暗紫の風を纏って駆ける九十九。
気に障る。苛立つ。冷静にと理性が告げても、感情が熱を帯びていくのだ。
「……そうさ、ねぇ。理不尽から助けて、護るのは空じゃなく、うち達さね」
堪えるように、或いは自分へと言い聞かせるように呟けば、目の前には孤児院の硝子窓。月光を浴び、ぬらりと赤い模様を浮かび上がらせる姿。
残酷な物語の表紙のように。せせら笑う死神の顔のようなそれに、神埼 煉(
ja8082)の撃拳が叩き付けられる。
砕け散る硝子の欠片たちを浴びながら、救うための舞台へと駆け上がる二人。
「私達の護る意思は、死神の指先さえ砕くと知りなさい」
けれど握り締めた煉の拳はほどかれない。むしろ、骨が軋む程に強く握り締められていく。
無差別な殺戮を全て防ぎ、護ることなどできはしない。判っている。護ることの難しさは。
だが、飛び込んだ食堂らしき場で転がる遺体と、むせ返るような血の海が理想論だと突きつける。もっと早く駆けつければ、切り離されて転がる腕の持ち主を救えただろうか。
沸騰する怒りが顎に染み渡り、堪えきれぬ思いで奥歯が軋みを立てた。
「……いいや、遅くは、ないさね」
九十九の四方から吹き抜ける風が、闇に攫われ怯える少女の姿を捉える。
真っ二つに叩き斬られた机の影に隠れていたお陰だろう。殺戮の場で生き残っていた。
傷こそはないが、喘ぐような呼吸を繰り返す。周りを見渡せば、天魔の姿はない。
死体に一瞥。湧き上がる悔恨に唇を噛み切りながら、九十九は手を差し伸べる。
まだ、救いを求める子供達がいるのだ。
「そして、止めなければいけない殺戮も」
二階より聞こえる、斬撃と悲鳴。
正面玄関を蹴破り、中へと突入した攻撃班六名。
戦力の分担のリスクは承知の上だろう。自分達が傷つくことを恐れなどしない。
あるのはただ、助けたいという一年だけ。燦然と輝く光と夢の結晶で血の匂いの染み付いた闇を祓い、神崎・倭子(
ja0063)が叫ぶ。
「二階だよ、急いで!」
阻霊符を発動する同時に一際派手な破砕音が響く。中央エントランスから続く階段には血の跡。逆に一階は静まり返っていた。
「お喋りをしている暇などないか。急がねば……な」
言葉と共に疾走する天風 静流(
ja0373)。すれ違い様に階段の電灯のスイッチに触れたが、電源は完全に死んでいる。突入では後詰め、不意打ちを避ける為にも視界を確保した仲間達の後ろに回る。
幸い、天風の持つ薙刀を振るうには十分な広さ。青白い刀身が、仄かに暗闇の中で煌く。
「既に出遅れているなら、後はもう何処までも早く……細かいことは後だ」
この場で取るべきは拙速。久遠 仁刀(
ja2464)達が天魔を止め、撃滅しなければ犠牲は拡大するのみ。救助も必要だろう。六名で勝てるかも判らない。だが、成し遂げなければ止まらず、終わらない。
階段の踊り場で転がる子供の遺体。その姿に悼むことさえ、今は出来ない。
「……かような幼子達をも手にかけるとは……酷いことよ」
ケイオス・フィーニクス(
jb2664)が出来たのは、すれ違いざまの一瞬の黙祷だけ。
冷静さはそのままに、奥では義の心が焔のように揺らめいている。死より救われた黒き不死鳥は、その翼でひとの子を救うべく、階段を駆け抜けた。
そして、ついに鮮血を撒き散らす死の舞踏と出会う。
或いは、触れ合うのか。大鎌の鋭さで惨劇を歌う死神と。
「お前らか……」
不自然、違和感。殺戮の為に孤児院を襲うというのは、妙だ――そんな思考、桝本 侑吾(
ja8758)は一瞬で弾けて飛んで消えてしまう。
転がる死体は首がなかった。足がなかった。胴が両断され、右と左が分かれている。
それらが全て子供。固まりきらない血の海で、黒い死神が鎌を滑らせた。
その先にいるのは、今だ幼い一人の少年。用意に、無残に、切り裂かれる未来がある。
――そんなこと、認められるか。
激昂で桝本の意識が切り替わる。ここは戦。護るが為に武を振るい、許されぬ天魔を断つ刃を握り締める。
「……もう一人たりとも、お前達の鎌刃に奪われるものか」
言葉と重なるように、桝本と久遠の放つ魔光が赤と黒の死神へと伸びる。
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意識を侵す魔力の光。それで注意を引けたのは僅か数秒だろう。
掛かったと久遠も桝本も手ごたえを感じた。事実、黒い死神の鎌が一瞬は止まったのだ。
だが、注目をひきつける対象より優先すべきものがあるかのように、躊躇いを引きちぎって奔る死の鎌刃。
けれど、蒼き燐光と焔を伴い、幽玄の閃光が空奔る。
それは幻想的なまでに美しくも、黄泉へと誘う疾風の刺突だ。神速の迅と黒の死神の肉体へと打ち込まれ、衝撃で後方へと吹き飛ばす。
「遅いぞ。私達を見縊るな」
透き通るような薙刀の刀身を構え、次撃へと備える天風。直撃した技は内と外から破壊する浸透撃に属するものだが、これのみで決まる訳がない。
「それとも、女子供を殺すしか能がない死神なのかな? ……笑えるね?」
追撃と叩き込まれた神喰 朔桜(
ja2099)が無挙動で放った五つの雷撃槍。魔術の技に容赦などあるわけがない。壊すことこそ、神喰が謳う愛なのだから。
「さ、早くこっちに。君は、ボクが助ける。そういう運命だよ……ううん、君たちを助けるために、ここに来たんだから」
白き双騎士の剣を構え、少年の間に割って入る神崎。足元に転がる遺体は見ない。そんなものは見えない。
助けを求めている。まだ助けられる。待っている子供たちを、これ以上待たせたりは出来ないのだ。
「一人でも多く、助けて見せる。だから、必ず待っていてくれ!」
場を奮わす凄烈な声。祈るように戦を告げる神崎の声に、遅れてなるかと最前線へと身を投じる久遠と桝本。武器を切り替える余裕はなく、携えるのは魔法書やチェーン。身を護るための鋼などその手にはない。
だが、赤と黒を押さえるため、白兵戦と間合いを詰める。
無視などさせない。後ろに、そしてきっとまだ近くにいる子供にその鎌を振り下ろさせなどしないために。
先んじた注目の効果もあるだろう。だが何より、久遠と桝本のその裂帛の気迫に怯み、死神はその大鎌を奮う。
この二人を無視など出来るはずがない。
黒き斬舞と、赤い斬閃に切り裂かれても、一向に怯むまない気炎を放つこの二人を前に、無視など不可能。
確かに切り裂いた。肉を断ち、骨を削ったというのに。
「この場で断たれた命を思えば、この程度の痛みなど退く理由になど、なるものか」
苦鳴を押し殺し、赤き死神を睨みつける久遠。桝本も範囲を薙ぎ払う斬撃を受けてなお、その戦意を鈍らせなどしない。
「そう簡単には倒れねえよ。無視もさせなねぇ。……今、子供を狙っただろう?」
言葉を返すだけの知能はない死神たち。だが、事実、接近しなければ黒の死神は桝本を飛び越えて子供と神崎を狙っただろう。間に割って入り、庇う。ああ、ならばこの程度の傷、たいしたことなどない。
我が身は楯。不退転。二階での戦闘と、要救助者の存在をハンズレスの通信機で救助班に伝える。
そして炸裂するのはケイオスの放つ業火の呪雨。巨大な焔が無数の炎弾と化して、黒と赤の死神を焼き払っていく。
「この夜に凍てつき、黎明の光の元に爆ぜよ! 我が領域にいたずらに踏み込んだその愚かさをその身を持って思い知るがいい!」
死神に訪れる朝はない。焼かれて消えよと、ケイオスの掌から赤光が爆ぜていく。
だが、ほぼそれと同時に、白き刃が瞬いたていた。
天光を得た白き死神の刃。冥魔の気を纏った天風には余りにも重い一撃だ。神崎のオーラにも引き寄せられていない。
だが、負傷の度合いで見れば黒の死神のほうが深い。最初の一撃で吹き飛ばし、子供を救ったことも士気の上昇に繋がっている。
「つまり、私達が優勢だ」
再び黒い薙刀の柄を握りなおし、呟く天風。ただ勝つだけではなく、救うことも視野に入れれば一目瞭 然。静かに、切っ先のように冷たく、黒の死神の隙を伺う。
そんな中にいるからこそ。
――ダメだなぁ、私。
超越と破壊こそが神喰の精神性。意識の根を構成するものだ。
だからこそ、こんな惨劇の場で怒りを抱かない自分を知っている。この場の誰よりも救うことに向かない自分を理解している。
全てを認めるからか。それとも。
「ねぇ、でもそこのところ、どう思う? せめて死神なら……」
再び一陣の風と化して凄烈な刺突を繰り出す天風に続き、黒き雷撃の槍を繰り出す神喰。
「死が隣人である、ということを身を以って教えてよ」
殺戮は好みじゃない。これだけ殺したのだから、死を伴としていると覚悟しているのだろうと、雷撃が獣の如く吼える。
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青白い焔を伴い、突き出された透き通る薙刀の刺突。翻った斬撃は下から上へ。味方の動きを阻害せず、むしろ敵を誘導する天風の武技。
桝本と久遠が武器を持ち替え、必殺の機を見て構えたと気づいたときには遅い。
黒雷槍がその身を貫き、黒き死神は完全に無防備を晒した。かちゃりと、抜刀と直刀が鍔を鳴らす。
鞘走る久遠の、研ぎ澄まされた居合いの一閃。研鑽を繰り返された一太刀の武は早く、そして僅かな狂いもない。いっそ静謐なまでの斬閃に、黒と赤の二体が纏めて切り裂かれる。
太陽の如きアウルの刃の煌きに反する、武技の静けさ。
ずるりと揺れた黒の死神。その動を見逃さず、桝本が振う美しき剣閃。
藍々とした刀身が過ぎた後には、胴から切り離された首が転がるのみ。
「後、少しだ。おとなしくしていると良い」
負傷も痛みも無視して施設中へと届けと桝本が叫ぶ中、再び白き煌きが冥魔に属するものへと振るわれる。
狙われたのはケイオス。
距離は限界までとりつつも、大鎌の射程の長さに、避けるには後一歩足りない。吹き出る鮮血とともによろめくが、眼光の鋭さは衰えない。
後一撃も耐えられないだろう、その身でなお、想いを叩き付ける。
「このような痛み……汝等に命を絶たれた幼子達を思えばかすり傷にも入らぬ……っ」
命の簒奪しか知らぬものに、救いたいというこの祈り、忠誠から成る誓いなど判るまい。故に散れ、眠れよと巻き起こる氷の夜想曲。眠りに誘うことは出来ずとも、一瞬だけ鈍る白の動き。
だが、赤の死神の瞳が動く。甚大な負傷、死の匂いを嗅ぎ付け、鎌刃の切っ先がケイオスへと向く。
「……っ…。ケイオス君、下がるんだ!」
注目が利かず、防壁陣へと切り替えた神崎だが、不味い。神崎の用意したスキルに庇うような技はなく、幾らケイオスが後退しても、たとえ残る前衛で赤をとめても、白は確実にトドメを刺す。
だが、その白の足を止める一矢が飛翔する。
「一階の生き残りは全て外に送り届けたさねぇ……さあ、償って貰おうか」
通信を聞き、二階へと上がって来た九十九と、そして突貫して白い死神の鎌刃を篭手ごしに握り締める煉。
「守護の意思は、時として矛となる」
どれだけの死を見たのだろう。どれだけ悲惨な場から救って、救えなかったのだろう。
だからこそと、ここに武威が高まる。もう決して、決してと。
周りにある、扉を切り裂かれた部屋。きっと安らかに、眠っていた子供たち。まだ、救えると信じるから。手遅れなどではなく、怯えた子供たちのために、この手を差し出したい。
故に、まずはこの死神を砕くのだ。
全身全霊を注ぎ込む煉の腕に、無色の陽炎が纏われる瞬間、己が矛として言葉を突きつける。
「――死神は死神らしく、地獄へ還れ」
愚直なまでに、しかし基礎を極めた撃拳の一打。折れた肋骨の感触。でも、離さない。ケイオスが後退しきるまでは。
「子供はまだいるさねぇ。……ぁぁ、この死神たちさえ倒せば、理不尽は終わるさね」
風にて闇の中でも視界を確保している九十九。その言葉に捺されるように、最後の激突が始まる。
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天風へと赤の死神が飛び、そして赤く染まった鎌の乱舞を繰り出す。
刃が届く中でもっとも負傷したものはと、死神の瞳が探していたのだ。
一瞬にして四撃。倒れた黒の力も乗せたかのような死舞は、けれど天風に届かない。
後方より伸びた煉の庇護の翼が全てを受け止め、己は切り裂かれながらも天風を護りきる。
「見え見えですよ」
剣戟の調べが響き、一瞬の静寂が場を満たす。
それは武気の練り上げ。無防備を晒した赤い死神へと天風が薙刀を構える。
「殺した以上、殺されることも覚悟しておけ……などと、死神に説くのも無粋か」
虹のように七色へと変色を続けるアウル。研ぎ澄まされた斬気が薙刀の先、刃筋に集う。
「――ならば、刃にて告げよう。ここはお前のような者のいる場ではない」
刺突からの斬撃に払って、更に突き出される切っ先。
神速では言葉が足りない。常軌を逸脱した武の一端。一息の間に繰り出される五連の斬閃は煌く虹の残滓を残し、死神の身を貫き、切り裂いて両断する。
散る赤き姿。
「……そして」
残るは白のみ。
ケイオスを追いかけようとした身体を縫いとめたのは、横手から差し込まれた騎士の双剣。
身体からぶつかり、その動きを縫い止めたのは神崎だ。まるで冥魔憎しと動く純白の死神は、何としてでもとめねばならず、楯のように、あるいは壁として、その剣を振るっていた。
「予備の盾ってね。……そう簡単に突破も、逃がしたりもしないよ」
戦線の維持こそが神崎が己に課した役目。その間にケイオスを連れて九十九と煉が子供たちを探し、戦域から離れていく。
「さあ、ボク達の勝ち、だよ」
その言葉に続くのは、朝焼けを告げるかのような金色の飛翔刃。抜刀の煌きの剣華を誇示することなく、久遠が納刀した瞬間。
「誇れることなんてない」
疾走する桝本。手に握られた直刀は、まるで削れたかのように声を漏らす。
「失われた命のある戦いに、誇りなんて、ない」
それでもと、閃く刃。これ以上、続けさせることなんて出来ないから。
「身を切られ、削られても、斬られて刺されて殴られても、こんなに痛くはないさ」
自らが作った血と屍の海へと、沈む白き死神の姿。
悔しさも後悔も、足りないと想う心も、全てを叱咤して。
救うのだ。助かった子供を、一人だけでも。
まだ終わっていない。この場所から、連れ出すまでは。
死神の影から、手を取り助け出すまでは。
――孤児院の事件を調べると、一人の少年が行方不明となっていた。
親に虐待され、収容れた、人が大嫌いな少年が。