手を伸ばさなければ、何も変わりはしない。
いや、だからこそだろう。天魔の伏する神社を見つめる和泉 優太(
ja1160)は掌を握り締めた。
怯えてばかりでは何も変わらない。和泉が胸に起こしたいのは勇気という火。それによって得られた自信は、きっと自分を変えてくれる筈だ。
だからこそ、未熟な力でも精一杯に。震える身体が緊張と恐怖の織り交ぜでも、決して脚を鈍らせはしない。
「やっぱり、少し怖い……です。……でも、頑張りたいな」
石段の先に、いつも隠れていた従妹の背はない。瞼を閉じて、その背中を追い抜く瞬間を想像する和泉。少しでも、僅かでもいい。勇気の欠片を求める少年。
「怖い、ね」
くすりと静かに笑うのは、小夜華・クレメンティア(
jb6045)だ。戦いの予感を前に、けれど清廉な雰囲気を纏い崩さない。瞳こそ妖しげな紅色を湛えているが、歩みも口調も穏やかさそのものだ。
「狐は人を化かして怖がらせるのが得意ってよく言うわよね。ならこの狐どうなのかしら? 化かして、驚かすのかしら?」
囁くような言葉もやはり流れるように。
「或いは、もう化かされているから、この石段を上り続けているのかしら?」
小夜華のそれが冗談だと解る程に柔らかいからこそ、緊張もするりと溶けて行く。
横では霙 凍雨(
jb0692)が自分の召喚獣であるヒリュウのクロを呼び出し、頭を撫でる。初任務で緊張しているのは凍雨もクロもだが、若干薄らいだ気はしていた。
役目は偵察。クロだけではなく、翼を持つはぐれ天魔もまた上空から偵察する予定ではある。何も解らない敵地へ乗り込むのは危険過ぎるのだ。
「では、任務開始ですね」
その言葉に送られて飛び立つクロ。フォリー・クルーン(
jb2778)も大正時代を思わせる黒いマントを靡かせ、後に続く。
「久々の実戦ですね」
特にフォリーが事前に知らされた情報から優先するのは狐剣の討伐。群れを率いる長を打ち取れば、後は崩壊するのが常というものだろう。問題は時間。チェーンで結んだ懐中時計で一度確認するが、長時間の偵察はそのまま相手から逆に発見されて迎撃態勢を取られる事となる。
その結果を待つ、短い間。ぽつりと、言葉が零れる。
「獣の相手とは云え……――楽しませて欲しいものですねえ」
戦に狂するディアン(
jb8095)は高鳴る鼓動を押さえつける。天魔と戦う方が人と戟を交えるよりも激しいものとなるという予感。悪魔であるディアンの胸の奥底は、戦の熱に焦がれている。
冥界を離れての初の依頼であり、血を躍らせる場だ。高揚しない方が可笑しいと、唇を笑みの形へと歪めた。
「天界の眷属か……何も悪さをしないならば放置もいいのだが、そういう状況でもないらしいな」
一方、淡々と語るのは堕天使のコリトス=ポリマ(
jb8030)だ。手にしたリボルバーの具合を確かめながら、するりと瞼を伏せる。
元は天界に為か、この地にいるという狐へはむしろ愛着さえ抱いた。愛らしいものであれば、戯れるともありだろう。尤も、それが人に害を成さなければというのが前提。故に胸の中のみに留めるコリトス。
「キツネさんモフモフしたい……」
が、コトリスの内面を表すかのようなシノン=ルーセントハート(
jb7062)の言葉にぴくりと眉を動かす。
シノンには他意はない。だから鋭く反応された事に慌てて、両の手と首を振る。
「ゴメンなさい、倒す事が目的ですねっ。間違えませんから……っ…」
「そうだな。気を切り替えていこう」
視線を返せば、偵察へと飛んだ者達が戻って来ようとしている。
これより乗り込む事となる狐の支配する神社。
人の手から離れて、誰もいなくなった場所へと足を踏み入れる。
●
阻霊符を展開し、恙祓 篝(
jb7851)は瞼を細めた。
「頼むから言う事聞けよ、『紅炎』さんよ」
扱いに早く慣れないといけいない力。それが周囲から突き刺さるような、けれど何処から来るか解らない敵意に煽られて炎のように揺らめく。消えるのではなく、燃え盛っていく感覚。
不安。或いはそれの引き起こした錯覚か。それとも本物の敵意に心の中の何かが反応しているのか。判別は付かない。
だからこそ、ディアンは一石を投じる。
「足を踏み入れる度、何やら愉しげな敵意が刺すようで――こんなにも愉快なのです。先手の探り合いはこの辺りで止めましょう」
そして投擲される石。木陰と茂みの近くへと、跳ねた瞬間、影が走る。石が二つに割れる。
その様は疾風。知能を持たないサーバントだからこそ用意に引っかかったトラップ。初撃の不意打ちを狙ったのだろうが、結果は空振り。警戒していた撃退士達に隙を晒す事となる。
「狐殿よ、そなたに恨みはない。翻意するなら……と説得しても無駄であろうな」
一瞬で間合いを詰めたコリトスが手にしているのはリボルバー。銃の間合いというには近すぎる距離まで肉薄し、引き鉄を絞る。
無論、狙うは速攻。故に出し惜しみない全力。烈の威を帯びた弾丸がほぼ至近距離から黒狐の胴に撃ち込まれ、身動きを止める。
「主の命こそ絶対。その序列の絶対性。自我より優先される事、悲しく思うよ」
銃口より上がる轟音に続いたコリトスの言葉に続き、空を翔ける小夜華の銀の鎌が滑る。冬風より冷たく、そして鋭い切っ先が煌めいた刹那、噴き上がる血飛沫。
刃が綺麗なだけな筈はない。誘いとして切り上げられた軌道を鮮血が辿る。
「そういう意味でも、ちょっと頭が足りない狐のようね?」
妖しく濡れる、小夜華の紅の瞳。聖女のような静けさはそのままに、悪魔としての妖艶さを見せた。
そして続くは必殺の気配。五本の指輪より発生した炎を刀に紡ぎあげ、抜刀するが如く放つ篝の一閃。飛翔する炎刃のように黒狐を斬り裂いて焼き尽くす。冥魔の劫火は、如何に敏捷であろうと反応する隙など与えない威力を秘めている。
「置いてけぼりってのは同情するけどさ。人に迷惑掛けるのは勘弁な?」
残心を取り、息を吐く篝。
が、途端に響く声。凍雨の警告だ。
「左手側、もう一匹います!」
空を飛ぶクロと視界を共有している為に即座に判る。一匹が先行し、もう一匹が反撃した直後の隙を狙ったのだ。完全な不意打ちだった筈が、黒風と化したサーバントに対して小夜華は咄嗟に反応する。
避けられないならば、後はどう負傷を減じさせるかだ。旋風のように転ずる一撃は足元を掠めて小夜華を転倒させるが、地に落ちた勢いでそのまま横手へと転がり追撃から逃れる。
そして反撃。ディアン(
jb8095)が間合いを詰めて鷲爪を模した手甲を振るう。
空を裂き、刻む跡。黒狐の脇腹に走った朱線は浅くはない。その感触に懐かしさを感じ、戦狂の熱を瞳に浮かべるディアン。爛々と、爛々と。冷たい戦術眼と、灼の戦法の武法が蘇るのだ。
「転倒した、或いは負傷の大きいものは即座に治癒を受けて下さい」
繋がるように、凍雨の放つ矢と声。
「遠距離は任せてください」
召喚獣との同時攻撃は不可能である以上、片方が偵察などの支援、片方が壁という役割になる。
続くのはフォリー。斬り下ろす戦斧には痛烈なる勢いによる衝撃が乗っている。
意識の点滅する黒狐は、よろよろと地に伏せ、その場で動けなくなる。重い剛撃を放ったフォリーは、けれど涼やかに口にする。
「相性が悪いようですね。そのまま消えると良いですよ」
銀の瞳は、既にこれは終った存在と見ている。抵抗する余力などある筈もなく、逃げる事も不可能。事実、シノンの放った火矢にて貫かれ、和泉の虹色の球に吹き飛ばされて動きを止めた。
が、呆気ないと笑うものはいない。最後に黒狐の上げた鳴き声に、呼応する甲高い獣声。
狐が哭いている。同胞を更に失い、土地を踏み荒らされたと静かな怒りを湛えて。
「ち、治療しますっ」
故にあるとすれば一拍の猶予。前哨戦は終りだと、奔る獣の気配が伝えている。
「ん、有難う……けれど、これは少し拙い、かしら」
和泉が即座に小夜華を癒すが、想定より傷は深い。元は冥魔という存在だからこそ、天の眷属の一撃は芯さえも削る。
となれば前衛にて攻撃を引き受けるに適しているのは二人。コトリスと凍雨の召喚したクロのみだ。
「怪我をした者は無理をするな、特に闇の眷属の力の者はダメージも大きくなろう」
銃口を凝らし、来るであろう敵へと視線を向けるコトリス。
「私の後ろから攻撃するなり、癒すなりするがいい。退きはしない、役割分担、己の意志を貫かせて貰うだけだ」
「無理な深追いはせずに――と」
頷きながら呟くディアン。そしてほぼ同時、コトリスの正面へと駆けだし、躍り出る巨躯の狐。尾は剣。ひとつ、その刃に誓うように鳴くと、剣たる尾を一閃させて鎌鼬を巻き起こす。
身構えた瞬間、左右より挟撃の黒狐。疾風と化して、駆け抜ける。
●
三つの黒の翔空。
フォリー、小夜華、ディアンは共に避けられない。端的に言えば相性が悪いのだ。血を流し、苦痛を堪えて構えるが、その時には既に間合いの外にまで抜けられている。
「舐めんな!」
だが、逆に言えば追撃を誘うという事は敵もそれぞれ孤立しているという事。一撃離脱ならば、遠距離での追撃をと篝が指輪から紡いだ魔炎が、地を擦る切っ先のように走る。
燃え盛る黒い獣毛。追撃はコトリスの強烈なる弾丸。圧縮したアウルのそれは黒狐の腹部を深く射抜いた。
「……舐めてかかれる相手でもない、な」
が、コトリスの肩と脇腹も深く斬り裂かれている。先の剣風に続き、尾で斬り付けられたのだ。滴り落ちる赤い雫は止まらない。かといって、和泉とシノンはフォリーとディアンの治療へと向かっている。コトリスは耐えるしかないのだ。
先に自ら言ったように。
それが己の意志であり、正しいと思ったのならば貫くのみ。
「まずは、一匹」
一直線に駆け抜けたのはディアンだ。篝が一撃を与えた対象へと、鷲爪を模した三つの刃を突き立てる。文字通り、獣を狩る猛禽のような苛烈にして迅速なる切っ先。返り血を浴びるディアンの身には、血染めのような深緋のアウルで包まれている。
「ちょっと総力戦だとキツいけど、やれない事はないわね」
そして闇の翼にて舞う小夜華。受けた傷の治療を受けるより早く、追撃と共に鎌刃を振るって切り上げる。正面に立ったデイアンに意識が向いたその瞬間、黒狐の首へと突き刺さる大鎌の切っ先。
都合三体。これで依頼の目標は達したと言っても良いだろう。最初の不意打ちを逸らし、かつ逃走させる暇を与えず、本戦に雪崩れ込む前に決着と優勢は付いたのだが。
「狙うなら、首級というものでしょう」
戦斧を振るうフォリー。狙いは狐剣と横薙ぎに払う刃。痛烈なる剛撃は決まれば動きを止め、致命的な隙を作る。その筈だが、肉を深々と斬り裂かれても意に介さぬ狐剣。
小さく狐が鳴いた。
瞬間、転の風を纏い、残る二体がフォリーとコトリスを狙い、転倒した二人へと、狐剣の切っ先が煌めいた。
狐の舞は、死の色を産むのだろう。つまり、赤。鮮血を散らせ、奉じる花となれと。
その寸前、炸裂したのは黒の爆炎。狙いを付ける余裕はなく、ただ全力で振り抜かれた篝の一撃。
「させるか――ASH to ASHってな!」
灰は灰にと告げる篝の拳には石の破片が食い込み、血を流しているが苦痛は堪える。攻撃の機会を一手失った事になるが、変わりに仲間一人の戦闘不能を回避した。のみならず、爆炎から飛びのいた隙に、和泉の放った聖なる短刀に肩口を貫かれている。
「つまり、燃え散れ」
「援護します……!」
更に、フォリーと狐剣の間に立つのはシノン。盾を構え、壁となって追撃を阻止しようと立ちはだかる。
「キツネさん……モフモフしてあげるから攻撃しないでー……」
そう口にするシノンは僅かに涙声だ。それに何を想った訳ではないだろうが、狐剣が振るったのは斬風。先の邪魔の返しだと、篝を斬り裂くが、意識を断つには至らない。
そして、そうであるならばシノンと和泉が癒す。癒し手が無事な以上、負けはない。いや、誰も倒れさせないと、癒しの光を放つ二人。
欲しかった勇気。戦場で癒すこの手は、それを掴めているのだろうか?
変われるのだうか。変わっているのだろうか。
●
そして拳銃の轟音と戦斧の激。疾爪の烈が踊り、鎌が首を跳ね飛ばす。
最後の黒狐は後衛である凍雨を狙って転風を繰り出すが、転倒する瞬間に巴投げで同時に転ばされ、篝の炎撃と小夜華の鎌刃にて切り伏せられる。
最後に残るのは孤立した狐剣。それでもと己を囲む三人へと舞うが、寸前にディアンの与えた幻覚による束縛で思うようにいかず、刃は誰一人掠る事なく虚空を流れるのみ。
身体はあちこちが焼け焦げ、刃で斬り裂かれ、そして弾丸に貫かれている。それでもなお、静かに、けれど明確な敵意を以て対峙している。
「貴方の居場所は、もう此処には在りませんよ」
髪による幻覚を操作するディアンの呟き。共に、呼応する気迫。
「お還りなさい、――大好きなこの土へ身を捧ぐのも、悪くないでしょう?」
一点に凝縮して直突きへと繰り出す鷲爪。山をも崩すと、剛撃が狐剣を打ち据える。身を折り曲げながら、それでも狐剣に後退の二文字はない。
そんな姿を悲しいと想う心を置き去りに、光の翼にて上空へと飛翔するコトリス。空中で翼をはためかせ、曲芸の如く転身。空から狐剣の背を取り、再び零距離で銃口を凝らした。
「文字通り天に帰ってもらおうか、私もいずれそちらへ行くであろう、なんの慰めにもならないがな」
引金に躊躇いはない。どうしてこれほど軽いのかと思う程に呆気なく、軽い。けれど込められた強烈な武威は銃撃の威力と化して、狐の頭部を射抜いた。
待ち続けたけれど、抱き締められる事も、褒められる事もなかった忠義の狐は、血を冬のはなびらと散らして地に転がる。
●
上空と地上から周辺の地図を作る面々の中、小夜華が狐剣の遺体を見て、ぽつりと零した。
「もしかして、この狐自体が化かされて、魅入られたのかもね」
主の影に。戻ってこない筈なのに。
「せめて、よくやったと撫でてやって欲しいものだが。叶わないか」
狐という種を好きなコトリスは呟くと同時に、眉を顰めた。それでも敵なのだと、心を鬼にして。
凍雨が傷ついたヒリュウに、良くやったと褒めている。良い子と、あやすように。それでも主従の関係としては良いのだろう。少なくとも、一方的な忠など、見ていて悲しいのだ。
「もふもふは出来ないけれど……埋めてあげた方が良いでしょうか?」
いずれは人の手に戻る地だからこそ、シノンの呟きだ。
少なくとも、見捨てられて傷ついて死んでしまったものを、そのままにするのは人の心ではなく。
ここはもう戦場ではない、いずれ、元に戻る神社なのだから。
此処に人が祈る為に訪れた時。
その時は血で染まった跡があるだなんて、似合わない。
いずれ、必ず。その時の為に。