●
――既に信用云々の問題の時期ではない。
夕暮れの藍色の空を見上げ、フィオナ・ボールドウィン(
ja2611)は胸の中に言葉を浮かべた。
夏の暑さは激しく、日が沈んだというのに熱気が籠っている。
強い風がなければ、この空気は流れていかないだろう。そして大気も水も、人の動きも止まり続ければ淀んでいく。
回し続け、変化させなければいけないのだ。
「我らが如何に応えるか、それのみだ。それのみで、どのように回るかが決まる」
所詮は天界の端末。たかが使徒の一人と、フィオナは菖蒲を軽く見るつもりはない。
平和を求む者を軽んじて、どうして王と言えるのだろう?
「天魔は所詮、人の領域に踏み込んだ族だ。戦う事に躊躇はないが……小さな芽を摘む事もあるまい」
地平の先に咲く花の色を思い浮かべるのも一興。
それが血色の花びらでなければ、更にその上に流血を零して染める必要もあるまい。
流石に街中には入れないのだろう。だが、山の開けた場所で少しずつ話し合いの準備は整っていた。
「まさか使徒様とお話出来るご時世になるとはね。変わるもんだな、色々と……と」
ネームレス(
jb6475)は呟きながら、背の大剣に触れる。
剣を持って語らう事は多々ある。いや、それは叫び合いで塗りつぶしだったのかもしれない。
弱い者の声が、一方的に消されていく世界。戦争はそういうもの。だが、意志があった。信念があった。戦いの中で散っていったそれらが、決して軽いものではないと知っている。
幾つもの戦場で、無慈悲に終ってしまった人生。
「なあ、この先どうなるのか。使徒様の思惑通り、戦いはなくなるのかね?」
「さてな。ただし、好き好んで戦を始める者は騎士でも剣士でもあるまい。それは虐殺者だ、名誉も誇りも、信念の欠片もあるまいよ」
戦闘狂どころではない。ネームレスも自分の中にある殺戮の意は知っている。
だが、それらは時制と制御がある。無秩序に殺し尽くす先、何があるのか。
「……問うまでもないな」
それこそ屍と鮮血の地平。
瞼の裏に浮かんだのは、共食いをするように、互いに剣を突き立てるダレカとダレカ。
「けれど、もう戦争中よ」
そんな思考を断ち斬るように、冷たい声が響く。
使徒である菖蒲との語らいに向け、懐疑の念を抱く九鬼 紫乃(
jb6923)だ。
紫乃の言った通り、既に天界との戦いは始まっている。協力する義理はない、というのは確かな事だ。
実験など潰れた所で問題ない。成功した後、どうなるかも解っていないのだ。成功したその先に興味こそあるが、利敵行為を取れる筈がないのだ。
それはどちらも同じ事。
異なる意志を持って、挑む平穏への道。
人の意志と、天の意志。二つが相容れる場所は、何処だろうと。
●
「さあ、『ディアボロ』の討伐はお疲れ様。共に冥魔と戦う者同士、胸に秘めた言葉を口にしながら」
倒した『ディアボロ』などいない。だが、酷く律儀に菖蒲はその形を続けようとする。
共に冥魔と戦う者同士。そんな建前があるからこそ、その者達の意見は上へと伝わり易いのかもしれない。
四国の天魔の勢力は荒れている。
元より人への対応が違い過ぎる為に天使達の中でも軋轢は強く、その上に冥魔のゲートまで作られた。
だが、菖蒲の眼差しは力を失っていない。宿った覚悟も、在りし日の儘に。
「貴女の想いと御覚悟は、剣鬼と交えた彼の地で信じるに足りるとされ」
そんな言葉を吟ずるのは姫宮 うらら(
ja4932)だ。
何処までも真摯に、想いを込めて口にする。
純白の斬糸を手繰る指先は、今は礼節の形に整え胸へ添える。そのまま優雅に菖蒲へと一礼をする姫宮。
「信には信を以て答えましょう。武ではなく、言葉を以て。願わくばこの先、夢を重ねし対の鞘とならん事を」
信頼には信頼を。並び立つ者がいなくては、どうしようもない。
互いが互いの鞘となれば、どれ程の争いが収まるだろう。巻き起こる戦乱で傷つく者がどれだけ減る。
それが全ては出来ない今を、変える為に。
「故に、そのような建前は捨てて下さいまし。言葉を交わすなら、信頼と真実を以て」
「そうね」
姫宮の僅かに苦笑する菖蒲。
そしてその黒い瞳が、ついっと横へと流れる。
そこにいるのは、最初に語らった修道女、柊 朔哉(
ja2302)だ。
「……菖蒲、逢えたな」
唇が紡いだのは、僅かに擦れた声。
天と人の共存。天と人の未来。誰もが望む訳ではないと、柊も理解している。
唱える言葉と、振う刃が離れる事もある。想いの先とは違う場所に、切っ先を向けざるを得ない事も。
だが、迷っている時間はないのだと、瞼を閉じた。柊は、自分の信仰に、祈りに殉じるのみ。
「そうだな。うららの言う通り、普通に菖蒲と話が出来れば良い。顏を見て、話したかった」
菖蒲の言う幸せ、平穏。信じたいと、柊は思うのだ。
故に助けたいと、他者への祈りと救済に柊の心は向く。ただ、どうすれば良いか解らないからこそ、言葉は続けられない。
「……よ、久しぶり。覚えてるか?」
僅かな沈黙に入り込む、ルナジョーカー(
jb2309)の声。
たった一度、合って話をしただけの撃退士。それに対して菖蒲は即答した。
「此処にいるという事は、刎頸の交わりに異はないと?」
「さてね。ただ、互いに首を斬り落としても悔いはないっていうのは無理だろう? 死んだら終わりだ」
恐らくは皮肉だっただろう冷たい菖蒲の言葉に、やはりルナジョーカーも皮肉と笑みで応じる。
「命は惜しい。死んで悔いがないとか、理想を叶えた後でも難しいぜ」
「…………」
取り繕った所でも意味はない。
有りの侭に振る舞い、天と人を繋げる為に。
殺人の過ちは繰り返したくない。繰り返す輪廻など許せないし、認められない。
だからルナジョーカーは殺し合う世界に、終わりを穿ちたい。
「……という訳で、本当の意見交換にいきましょうか」
言葉を呑んだ菖蒲に、 ユウ(
jb5639)は告げる。
もしも振り返る事があれば、この場に意義があったと思える為に。ユウは自由に空を飛び、そこで 笑う人の顏を見ていたい。その為には否定も肯定もないのだ。
地には笑顔という花が咲けば良い。誓いは笑みと優しさ。では、この菖蒲という使徒が作ろうとしている場所では、笑っていられるのだろうか。
それを確かめる為に、胸の中で言葉を噛み締める。
「意志、意見を出し合って良いと……真実のみを語って良いのですね?」
「ええ、非公式だから記録には残らない。どんな提案も、お互いの関係の亀裂にはならないわ。逆に、此処で交わした言葉が約束にもなりはしないけれど……」
「構わないさ。持ち帰って検討して貰えればそれで良い。何が有益か、その瞬間で判断など出来まい」
そう告げるフィオナに続けて、久遠 栄(
ja2400)が語る。
「ああ。この場、この瞬間で全てが決まる訳じゃない。決められるような事ではない……」
一旦口を閉ざす久遠。だが、意を決したように眦を菖蒲へと向ける。
「森野菖蒲、君の事は許せない」
あの燃え尽きた村の事は覚えている。忘れられない。
あれを必要だったと言うのなら、今とて否定する。認められる訳がないのだ。
「だが、今穏健派の動きが無くなると被害は、あの時より大きくなる。その時、止められなかったからこそ、被害が出る事は止めたい。その為に、俺が出来る事はするべきだと思っている」
「……そう」
返答は冷淡。だが、否定の気配はないからこそ、続ける。
「これ以上、助けられる人を助けられないのは嫌なんだ。俺は俺の為に、君の理想の現実を願っているよ」
だからこそ。
「さあ、早速進めていこうか」
ルナジョーカーが告げ、フィオナが引き継ぐ。
「さて、そちらの出した件の内2点に関してだが……」
言葉と共にちらりと姫宮を見れば、頷いてパンフレットが取り出される。
急遽用意したものであり、まだまだ作りが甘い部分はある。だが、土台の意見として述べるには十分だ。
「まずは人の出入りについて言及させて貰う」
天と人の橋になるかしれない会話が始まった。
●
出入りについて、恐らく菖蒲が危惧しているのはこれだと確信を持って口にするフィオナ。
「撃退士であるかに関わらず、街の入居希望者にはアウルを持っているか、検査を必須とするべきだろう」
先日起きたテロの一件もある。一度あれば二度、三度と続くのが世の流れだ。
「人を信用していないわけではない。だが、一度事が起きてしまった以上、どうしてもタガは緩んでいる。これ以上緩まぬための措置と考えてくれればいい」
緩めば締め直す。それで元に戻る訳ではないが、決して繰り返す為の隙を作る訳にはいかない。
「成程、道理ではあるわね。下手に過激な手に出るよりは、反発も少ない」
「そういう事だ。無論、それだけで手を打てる訳ではないがな」
騎士道、王の矜持。使徒を相手にフィオナは怯まず、また対等な相手として言葉を並べる。
フィオナの抱く王星の誇りであり、同時に相手の対応を伺う必要などないとの判断だった。少なくとも、自分達は同じテーブルに座っているのだから。
「そして、同時に制限する事になるのであれば、事情説明を必須だと思いますわ」
言葉を繋ぐ姫宮。テーブルの上に出されたパンフレットには、簡潔ではあるが菖蒲の支配する街の事情が書かれている。そして、その街を支配する菖蒲の理念も。
禍津に臆する事はない。獅子の誇りと想い、全てを乗せ、懸けて。
「鞘走らぬ事が理想と云われましたわね。ならば刃と敵意ではなく、誠意と言葉を以てと私は考えます。外から見た景色と、中から見た景色では違いますわ。『こんな事は望んでいなかった』とならない為に」
此処に勝ち負けはない。ただ信念があるだけだと、菖蒲の黒い瞳の中に姫宮は感じ取る。
切り拓き、共に往く道。ならば、胸に抱いた想い、理解して貰わなければ始まらないのだろう。
戦いがない世界。でも現実は違う。
安住の地は天界でも用意出来ない。この四国だからこそ菖蒲の理想を目指す街は出来た事だが、今のこの地の情勢は不透明に過ぎる。
「……生きる為に天の庇護を求める人もいましょう。ですが、共に道往き、街を築く人……同志に対して移住を許可されては如何かと」
「同志、ね」
「……天も人も、胸に抱いた心を同じくし、手を取れる者とならば。大きな一歩とはならなくとも、前を見据えた前進にはなる筈です」
加え、パンフレットには医者や生活の発展、安定に貢献出来る人を優先させるという一文もある。
それに対して、僅かに沈黙を守る菖蒲。何を考えているのが、冷たい瞳からは読み取れない。ならばと、踏み込む白き獅子の娘。
「では、禍津の使徒から見て、あの街の現状を尋ねたく」
「……概ね安定はしているわ。ただし、物資は慢性的に不足しているし、医者は特に少ない。居住区や新しい施設を立てるには、現場で働く人員も資材もないのが現状ね」
「…………」
「ただし、それらは少しずつ改善されているわ。今までの貴女達撃退士の働きや共闘があった分、信頼も出来た。ただし……武断派からは、最近、集める精神エネルギーを多くしろと言われているけれど」
「それは、武断派の意志が菖蒲の街に及んでいると?」
久遠の問いに、首を振る菖蒲。
「そうではなく、四国全体への天界の動きでしょうね。……こちらとしては、少し困っているけれど」
だが、細められた眼には鋭利さが宿っていた。
「私は私の信じる天の光がある。ええ、街に干渉はさせないわ。道を閉ざさせる訳には、いかない」
それこそ、夢のように消え去りたくないのだから。
菖蒲の瞳に浮かんだ刃物のように鋭い意志は背筋に冷たいものを走らせる。
何処までも一途に理想を求めた結果、触れれば斬る氷刃となった信念。恐らく、菖蒲という使徒の在り方の中心はそれだ。
「つまり、使徒の持つ権限の限りは、街の住民は守ると? その証拠は?」
そこに何故か嫌な予感を覚えて、紫乃が口を挟む。政情不安定な場で、なお此処まで断言するのは何故だろうかと。
「私の命を懸けて今まで駆けて来た。天を信じる事に変わりはなくとも、この身の全てを以て証明し続けるわ」
「…………」
一種の狂信。求めた理想の為、それが掻き消えぬ為に走り続けた使徒の少女。
「さて、話を戻そうか。そういうパンフレットやアウルの検査を含めて話を通した人に対して、登録証のようなものを発行出来ればと思っている」
名前、性別、年齢、職業。そして、種族。
「……これだけあれば、管理もし易いから出入りも簡単になるだろう?」
「そうね。後は出身地、と言いたい所だけれど、そこまでは難しいかしら」
「後は補足として、簡単な身の回りの検査は街の住民に当って欲しい。天界も学園も流石にそこまで手は回らない」
「もしくは、、隠して中に入った人間がいれば厳罰を。そうでない者も、滞在中や、入って一定の期間は監視か状況の報告義務を付ければ、管理し易く暴動やテロなどは起きにくくなるだろう」
「……成程」
瞼を閉じて、ルナジョーカーとフィオナの思案する菖蒲。
言葉は少なくないが、異論や否定もない。むしろ肯定的であり、持ち帰って思案するつもりなのだろう。
その姿を見て、柊は思う。
自分には何が出来るのだろう。何が出来るのか、解らない。
何をすればいいのか解らない自分が馬鹿だという事だけは自分が一番理解している。最初に問いを投げかけたのは自分だというのに、何も言葉に出来ないのが悔しかった。
だからこそ。
「柊……貴女は、どういう人を街への移住には優先すべきだと思う?」
瞼を伏せた儘、菖蒲に名指しされた瞬間に驚いたのだ。
確かにそうだ。共存出来ないのかと聞いたのは柊。その時に揺れたのは菖蒲。
そして、共存の可能性としてある場に、何を言うのか。
一瞬白くなった思考。だが、唇は確かに言葉を紡いだ。
「……天を信じて、けれど、人を愛せる人」
「…………」
「天を盲信しても仕方ない。考えを放棄しては何も出来ない。どんなに苦しくても、天と人の共存を考え、共に歩いてくれる人を優先すべきだと俺は思う。沈黙した儘で傍にいても、決して溝は消えないから、語らえる人だ」
間違っていて良い。どちらかが間違えば、片方が正せるような――姫宮の謳った対の鞘となれるように。
ああ、それは何と理想論で。
「曖昧ね」
端的な菖蒲の言葉に、けれど温もりを感じるのは何故だろう。
「……とても長い道よ。だからこそ、そうね、人を愛せなければ――天と人は共にあれないものね」
幾千、幾万の言葉でも埋められない溝がある。
それを、埋めるのは時。そして想い。どちらか片方に寄った者では、支配する側とされる側になる。
それは、共存と云わない。
「……恐怖で押し付けるのは、正しい統治ではない」
久遠も、前に言葉にした想いを繰り返す。
「許せない。認められない。灰になったものは戻らない。けれど、理想を実現したいのなら、俺達、いや、撃退士ではなく人間の言葉を聞いて欲しい」
「と、言うと?」
「街から出る人々について、だ」
と久遠は真っ直ぐに菖蒲を見つめる。
「希望は出来るだけ出して欲しいという事。でも、それが叶わないのは解っている」
大義名分、理由が必要。だからこそ、全員は出せない。
或いは街の維持の為に。
「健康に問題のある人、高度な治療を必要とする人は優先して出して欲しい。そして、街の外に縁故が居る者や、或いは家族と離ればなれになった人も。……人は、絆を大事にする。命も、信念も、けれど、それより大切なヒトがいる」
「…………」
「今ある大切なモノを失いたくない。それが、人だ。理解してくれ、菖蒲」
かつて、人ではなくなった時間が長すぎて、人の心を理解出来ないと言った菖蒲に、重ねた言葉。
返答は、大きな呼吸と共に。
「……了解したわ」
更には紫乃の提案で脱走や侵入がないように条件を明確に外に提示する事。
加えて、住民の数を揃える為、出る者と入る者の数を合わせる事が提案された。
「そして、数が合わなければ、金銭や資源のやり取りで大義名分は出来る筈よ」
武断派に睨まれない為に。此処と視察さえクリアすれば、更に深く切り込めるであろう場所に、紫乃は踏み入る。これが通れば、人、一人に対して資材や金銭等での交換で、街の外に出す事も可能となる。
「いいえ、それは出来ないわ」
天と人の決定的な違いを、此処に出した。
●
そも、侵略や進行は利益がなければ起きたりはしない。
資源となる金属資源や、食糧地域。その地を支配する事で得られるものがなければ、わざわざ世界を超えてまで来ないのだ。
では、天魔が求めるものは?
金属、重油、薬品に機械?
そんなものは要らないのだ。天使は、悪魔は、たった一つを求め、世界を超えてやって来たのだ。
「私達天界が求めるのは、精神エネルギーただ一つよ」
それは生きる為の糧であり、戦う為の力。それらがあるから冥界の悪魔と戦える。
それは使徒である菖蒲とて同じ事。それらがなくなれば、死ぬのだ。
「だから、他の資源で精神エネルギーの元である人と取引をする、というのは不可能よ」
一人、二人の人数ならば或いは可能かもしれない。だが、一度通せば二度目がある。そうして穴はどんどん大きくなる。紫乃の狙いはそれでもあるが、菖蒲は必要以上と言える程にそれを警戒していた。
人の常識では計れない事。仮に人間が別の代替エネルギーを提供出来れば、話は違ったのだろう。
だが、現実はそうではない。それしかないのだから、それのみを求める。
「……では、聞くけれど。今の不安定な四国の状態であの街は何時まで実験を続けられるのかしら?」
実験を支える権力は何処に。
だが、それに対する返答はあまりにも冷たかった。
「武断派と穏健派。ツインバベルと云われる所以がある限りよ。そもそも、内部の事情は話す必要はないわね」
これはあくまで菖蒲との話し合い。その一線を越えたが為に、逆に菖蒲も踏み込んだ。
「では、不可侵条約と対冥魔の共戦条約を守ってくれる代表者は誰かしら? こちらは私。私の命を懸けている。破れば私が殺される可能性のある場に、何度も立っている。では、貴女は?」
「……………」
菖蒲の担保が存在しない訳ではない。
既に何度も危険な橋を渡っているのだ。命を懸けているのに、嘘偽りはない。
だからこそ、これ以上紫乃に放てる言葉はない。極論、この精神エネルギー回収実験も、成功すれば食糧と軍事エネルギーの新たな入手方法が確立されるから容認されているのだろう。
それほどに天界にとって精神エネルギーは重要なのだ。替えなどはない。
凍え始めた空気に息を呑む中、それでもと姫宮が提案する。
「成程。それ程に重要なのでしたら、他の方法も色々模索するのは如何でしょう?」
何も取引、交渉は諦めていないのだと、言葉を形作る。
「お祭りなどを催し物開き、そこで出た喜びや楽しみといった感情エネルギーを分けて頂く、というものですわね」
「と、なると、その祭りなどの開催は天界側から、かしら?」
「ええ。出来れば、ですが。元より天は祀るもの。祭りとして、互いに利益が上がるようにすれば、ただ奪うだけではなく、共に与え合う事が出来るのではと」
「成程。それは、ありね……紫乃、だったかしら」
出来れば退出希望者が大義名分なければ出られない今を聞きたい姫宮だったが、天界との違いという根本を強く知らされる。
精神エネルギーを失わない為に戦わなければ良いという問題ではないのだ。
もしも、東北で暴れた過激派のような悪魔が天界の支配地域に来れば、戦いに否応なくなる。
人から奪うしかない現状。成程、それでは戦いが増えるだけで、菖蒲の目指す所から遠くなるのだ。故に、是が非でも成功させる必要がでる。
「さて、長引いてしまったな。最後だ、視察の話をしよう」
静まり返りそうになった場に、フィオナが手を叩く音が響く。
●
「さて、では視察の件ですが、こちらから確認したい事が」
そう切り出すユウに、菖蒲は頷いた。
「まずは総意として肯定です。が、視察場所はこちらが指定しても宜しいですか?」
「勿論よ。こちらが無理な場所は無理と言うけれど、可能な限り解放したいと思っているわ」
ならばとユウが提示していくのは、学校や病院といった施設。こちらはすんなりと通る。
希望している人全員を出したいのがユウの本音。笑顔でいられない場所は、決して安住の地にはならないのだ。
だからといって全員を一度に出す事は出来ない。長期的な目で見る必要があるかもしれない。
加えて。
「教育機関でしっかりとガキ共を見ておきたいしな……後は出来れば軍事施設みたいなものだが」
「そちらも構わないわ」
その言葉に、口を出したネームレスの方が驚く。無理なら無理で良いと思っていたのだが、二つ返事で通るとは思わなかったのだ。
といっても、街の外周を囲むサーバントの詰所のような場所らしい。万が一、冥魔が攻めて来た時の対応として配備されているとの事だ。ただ、久遠の希望だったゲートは、コアを破壊される危険性が出る為、近くまでしか許可出来ないとの事だった。
「では二つ目、人によって違うでしょうが、住民からは天魔や撃退士はどう見えているでしょうか? そして、貴女から見た街の人々は」
「前者には流石にそれは応えられないわね。天魔に憎悪している人もいる。撃退士に憎悪している人もいる。千差万別よ。ただ、私から見れば、庇護すべき人々、ね」
「………では、視察のメンバーに関してですが、お忍びか大々的に撃退士が来たのだとするのか。また、はぐれ悪魔や堕天使の方でも大丈夫ですか?」
「私としては大々的、といかなくてもある程度明確に住民に知らせるつもりね。種族は問わないけれど、はぐれ悪魔であるなら、出来るだけ容姿は隠した方がいいわね……少なくとも、天界に帰属した街だもの」
成程、と頷くユウ。菖蒲は律儀ではあり、ある意味堅いが、目的に対しては直線的である。
だからこそ、真っ直ぐ突き刺すようにユウは告げる。
「そして最後に、撃退士として視察中、街の住民が助けを求めて接触して来た場合、その人物は処罰に問いますか?」
それこそ、譲れない事。助けを求められて、見捨てるなど出来ないのだ。
だからこそだろうか。菖蒲は首を振る。
「……いいえ。天界を恐怖して言えない住民もいるのでしょう。場合によっては、視察中はその住民を貴女達撃退士が保護し、視察の間か後の話し合いに加えても良いわ」
「…………」
「それから、前に言った通り、私は人でなくなった期間が長すぎる。教育施設に行くのであれば、撃退士として、人として見て欲しい。人間として正しい状態であるか、見極めれるのは貴女達だもの。……この街が上手くいけば、この街で育った子供達が天と人の共存の話を広げてくれるかもしれない」
そういうと一旦、口を閉ざす菖蒲。
相談の議題として挙がったのはほぼこれが全てだ。だからこそ、弛緩したような、安堵したような空気が流れる。
ネームレスも呟いた。
「――なんつ〜か、変な気分だな」
使徒と会話している今。切り結ぶべき人類の敵であり、天魔の眷属だ。
だが、結局の所、心のある存在で昔は人間。加えて、今も会話出来るし、信念を持っている。
「なあ、使徒様。お前はどうしたい?」
「?」
「人の意見を聞いて、何を見つけた。目的も道も、見つけるのは森野菖蒲って個体だ」
「……そうね」
「周囲の状況に流されるな。自分の心を掻き乱すな。手前の生き方は、手前で決めろ」
使徒様にこう言うのは可笑しいのかもしれない。だが、言葉と信念をぶつけない事の方が侮辱だ。抜き身の己で対して、初めて対等だと思うからこそ。
「胸の奥、何かに響く声があったなら、それはお前が望んでいた声なんだろうさ」
「…………」
独りごとは終りと席を立つネームレス。
折れるなよと視線だけで意を伝える。争いのない世界。それをどう手に入れるのか、少しばかりの興味があるのだ。
現状を見れば、不安定な今、撃退士とより強く手を結ぶ事で何かを得ようとしている気がする。
それが何なのか、未だ解らない。それが争いのない世界へと続く道になると、そう見えたのだろうか。
ただ、今は解らない。けれど、次に繋がっている。
「そちらから視察の話を持ち出したのだ、次も期待してよいのだな?」
フィオナは腕を組み、菖蒲に語りかける。
「次は酒でも酌み交わしながら語らいたいところだ――幼馴染の故郷と遣り合う必要が無くなるかもしれないのなら、どんなに小さな芽であろうと誰にも摘ませぬ」
王者としての矜持を瞳に宿し、鋭い刃のような菖蒲の瞳を見据えるフィオナ。
世界は変わった。天魔在りて人は脅かされ、けれど、天魔の友も得ている。世界は混ざり合い、変わっていく。
「私の道は、あの時からずっと変わらず、この胸に。禍津の刃として、畏怖も流血も是と」
けれど、夜空を見上げる菖蒲の姿を見て、姫宮はざわりと胸が騒いだ。
それは敵意や悪意を感じたからではない。余りにも一途な反面、削り落として来た荒々しい跡を見た気がしたのだ。
「ただ、この地で平穏を手に入れられれば、それが印となる。無明の闇でも導く星となる。迷う事なく、次へと繋げられる」
「或いは、友に、か?」
そう尋ねるルナジョーカー。
「願いを夢想、幻想で終らせたくない。人と天で作る道を、手伝いたい。出来れば友人として」
争い合うだけが人ではないと信じている。それに対して、菖蒲は冷たく笑った。
「道共に往く者を、何故貴方は友と呼ばないのかしら? 本当に志同じく、道を同じくする同志なら、友でしょう?」
それこそ、刎頸の交わりではないのが現実であっても。ともすれば、互いを斬り殺す果てが可能性として転がっていても、話は出来た・
そう言って机を立つ菖蒲。彼女にとって、元々食事は意味を成さない。
となれば、この会食のような形式も、人に倣ったのか、或いは人だった頃の習慣か。
刀を手に、立ち去ろうとする菖蒲を、柊が引き留めた。
「……菖蒲、少し手伝ってくれないか?」
大した事ではないのだ。最初に問い、けれど何も言えない柊。どうすれば良いか解らない修道。
相容れない世界。けれど、同じ方向を見た夢。天との共存を夢見て、柊は何をすべきか。
それらに比べたら些細な事。
「大した事じゃない。この髪、ばっさり斬ってくれないか?」
けれど、踏み出す切っ掛けとなりたい。あの時、切り結ぶ下が交わした言葉のように、もう一度。
責任があると思うのだ。
「髪は、女の命よ?」
「ああ。生まれ変わりたい」
「……そう」
そしてあの時のように冷たく、荒々しく、けれど綺麗な声と、鞘走りの音。
居合刀が柊の髪の毛に当てられて、するりと斬り裂いていく。冷ややかな感触の後、ばさりと落ちて、風に乗って広がる柊の黒髪。
それを視線で追い、唇を動かす。
「今ここに、『修道女』の私は消えた」
それは意を決して唱える、祈りの言葉。
「新たに生まれたのは、天の為に戦う『戦士』の俺だ」
戦う。戦おう。
信じるモノの為にと、柊が見上げる夜天。
ぱんっ、と乾いた音が響いた。
一瞬だった。
まるで激昂したかのように腕を震わせ、柊の頬を平手で打った菖蒲がそこにいた。
友人の口から信じられない言葉が出たのだと。
裏切られたかのように。
凍えるような怒りを瞳に乗せて、見据える菖蒲。
「違うでしょう。幾ら斬られても、幾ら自分の血を流しても、平和を唱えた『修道女』だった貴女に、私は人は化け物ではないと思った」
「……え?」
「似た夢を、人と、天で見ていると再認したのに。魂に刻んだ夢、愛しいと思う気持ちを刃に宿し、どんな道も斬り拓き進めると」
だというのに。
「――天と人の争いのない世界の為に、どうして天の戦士になるの?」
余りにも冷たい声は、けれど、怒りと恐怖に震える少女のそれだった。
硝子より脆い。氷の刃は、鋭くて冷たく、酷く脆い。
「貴女は、人の道を行きなさい。柊 朔哉――天の道と人の道が交わる場所で私は待っている」
余りにも冷たい声は、けれど、怒りと恐怖に震える少女のそれだった。
脆い。硝子より。氷の刃は、鋭くて冷たくて、そして酷く脆い。
「理想へ戦士である事と、祈る修道女である事を捨てないで。それらは、共にあれる筈だと、貴女は示している。天を信じ、人の道を往くのだから」
つまる所。
「菖蒲、貴様が天からでは届かない場所に、柊が人だから届く手と、声を差し伸べろと?」
フィオナのその言葉に、菖蒲は無言という肯定で返す。
「共に戦うは良しとし、けれど、互いの場所からでしか出来ない事をしろと、そういう事か?」
「ええ」
だというのならと、緑色の瞳が二人を見た。
「既に、菖蒲も柊も、天を信じる『戦士』ではないか。菖蒲、貴様は天を信じて戦うのだろう? 剣にて、言葉にて。ならば柊とて既に、いや、昔から同じだったのではないか? だから、理想と夢を、共に語らうのだろう」
そして愉快そうに笑みを浮かべるフィオナ。
「――その姿は双方、理想を求める烈士のものだ」
「或いは、鞘足り得る刀の姿ですわね。……武を以て切り結び、けれど誇りと祈りを抱いて今は此処に至る。お二人は既に対たる鞘かもしれませんわね」
既に同志、同胞であると語る姫宮。
「……森野、本当に君が言っている話が本当であるなら、俺や、柊が理想を可能にする為に広めていける。学園に、そして外に、語らえる。……もしかして、それを求めたのか? だとしたら、もうそうしている。俺達は」
そう重ねる久遠。そして、柊も意を決して語った。
「菖蒲、俺は人の力で、理想を実現させる。言葉で、武で、祈りで」
「…………」
「貴女が天で祈るように、私は地で祈る。それが、争いをなくす為の……戦いだ」
「…………そうね。貴女は、そんなヒトだったわね」
視線を落とす菖蒲。そして、ぽつりと零した。
「……頬を、ごめんね」
「刃でなかった分、マシだよ」
そうならない事を、祈りながら、痛む頬を緩ませる柊。
空には金色の月。
道筋を示す事なく、浮かぶ光円。
夜明けは、きっと遠い。だが、絶対に来ない訳ではない。
ちりん、と鈴が鳴る。