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迎えられた一室にして、黒い着物の少女、使徒である森野菖蒲は撃退士を迎え入れた。
冷たい表情も瞳も変わっていない。けれど、使徒である菖蒲も僅かな緊張を滲ませている。
「菖蒲、久しぶり……かな? また会えて嬉しい」
一番に口を開いたのは柊 朔哉(
ja2302)だ。交渉相手として、何度か対話した事のある菖蒲がいて安堵したかもしれない。
争いのない世界を求める者がいて。
戦場では常に血が流れ、炎の熱で全てが灰となる。机上の会話で幕を閉じるそれは、流血と失った温もりなど元からなかったと否定する、冷たいインクで結ばれるのだろう。
傷を癒す時間は余りにも、悲しく成程緩やか。故に、争いなどなければ良いのに。
「そうね。共に争いのない世界へ。柊、貴女の問いかけと行動も、『また会えた』を作ったのでしょうね」
交わされた視線で共に交戦や敵意はないと感じたのか、菖蒲も吐息を付いて答えた。緊張が抜ける。が、何度か会っている柊としては、不自然さを感じずにはいられない。
緊張と、恐怖、だろうか。
「盗聴器などはないか。そちらを疑う訳ではないけれど、盗聴などで未確定の情報が飛び交うのは避けたいから。……特に、歪められた情報は危険過ぎる」
簡単な仕掛けならば発見出来るよう、アウルで産み出した画面越しに周囲を観察したのは鴉乃宮 歌音(
ja0427)だ。
決して間違った情報が互いの行かないようにと、手にはノート型PCと小型印刷機。テーブルの上に置いて、言葉を口にする鴉乃宮。
「今回、中立の書記として参加させて貰おう」
「ええ。中立である事を望むならそれでもいいわ。結局の所、交渉というのは互いの利となる所へ辿り着く為のもの、ね」
そして、その中でどれだけ利益を追求できるか。この場を任されたという重圧に足が震えそうになるのを巫 聖羅(
ja3916)は自らを叱咤し、視線を真っ直ぐに投げかける。
舐められる訳にはいかない。これから先が掛かっている。この会談が与える影響の先にいるのは、自分だけではないのだ。
一方、菖蒲を信頼出来る相手として星杜 焔(
ja5378)は見ていた。
種族関係なく、平穏に暮らせる世界は焔も望むもの。ならば、それを求める相手として菖蒲は良い『窓口』かもしれない。
少なくとも、信頼を置いて対話出来る相手は貴重だ。冥魔との一時的な停戦条約といえど、その重要性は変わらない。
「……出来れば、長く続いて欲しいのですが、ね」
「ワふー、天界との停戦は大歓迎なのですワ―っ!」
落ち着いた様子のアクセル・ランパード(
jb2482)も、ようやく地球の輝きを知り大切に想うミリオール=アステローザ(
jb2746)も、共に堕天した身だからこそ、より一層の平和を求めていた。
掲げられた条件は概ね諸手を挙げて賛同したい。
だが、まだ足りないと思う故に、対話となる。どれだけ利を得られるか。
「さあ、では話し合いを始めましょう?」
その姿勢こそが、最大の過ち。
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白衣を着た鴉乃宮がタイプの準備を終えた所で、柊が進行として口を開く。
ミカエルの提案した事に対して、一つ一つ確認を取り、この内容で宜しいですねと重ねた上で。
「さて、交渉ですが、まずは一つ目は了承です。皆さんも同じですね?」
議論が拡散しては仕方がない。
あくまで対冥魔への共同戦線、並びに停戦協定への話へと焦点は絞る。でなければ、一つ一つの事柄や知りたい事など山程あるのだから。
加えて現段階で出せない情報とてあるだろう。これは仕方がないと割り切る他ない。
「そして私達からでは二つ目に対して焦点を当てて話したいと思います。私としては肯定です。……高知の、あの領域も無事、だったしね」
ただ、此処からが問題だった。様々な思惑が交錯する。視線を受けて柊が振り返れば、緩やかな微笑みを浮かべた焔と、毅然とした眼差しを向ける巫がいる。
「では、焔様より……」
皆の鼓動が早くなる。これからが始まりだと、肌で呼吸で、そして刺さる瞳で理解しているから。
「俺は懸念、かな。可能な限り、という条件では安心して冥魔と戦えない。冥魔との戦闘で疲弊した所を攻撃されたら、辛い所ではないしね」
ゆったりとした焔の口調も引き締まる。菖蒲の目が薄らと細められ、まるで刃物のように見えたせいで、自然と息がし辛い。
だからと続けたのは巫だ。怜悧な眼差しに負けない、責務を背負った真紅の瞳を菖蒲へと向ける。
貫くように。これからの舌戦、負けられないのだと。
「信じない訳ではないわ。ただ、ミカエルの言う事をそのまま鵜呑みには出来なないの。確かに四国では高位の天使と聞いているけれど、『穏健派』の全ての天使が従うとは限らない。ましてや派閥の違う『過激派』なら尚更じゃないかしら?」
沈黙を選び、黒の瞳で巫を見据える菖蒲。何か失敗をしているような焦燥を感じつつも、重ねるしかない。
「私達が欲しいのは『証拠』で『保険』ね。『過激派』を抑えるには『何らかの結果』を示さないといけないのに、それが今はない。それを学園に提示出来ないのであれば、『自分達を信じろ』と云われても、それは無理よ」
背後を刺される可能性。それこそ、仲間の命を預かる場でもあるのだ。
引けないと、視線に意志を込めて射抜くように菖蒲を見た巫。
それへと鋭い目をむけ、菖蒲は真剣に応えた。その意思を受け取り、けれど、こちらも譲れないものがあると。
背負ったのは巫達だけではない。菖蒲もまた、穏健派の意思を背負っていた。
「まずは『天使側を信じろ』、という言葉に返すわ。では、どうやって『人間を信じれば良い?』。私達が守衛となっている間、逆に冥魔と手を結ぶ可能性はゼロではないと言い切れるのかしら?』
背後を突かれる可能性があるのは何も撃退士側だけではない。冥魔ゲートという城を作られれば、天使側も大きな問題となるのだから。そして、菖蒲の言う可能性を上げられれば、『ないという保障』を撃退士達も用意出来ない。
「個人的にはより誠意をと言われれば示したいし、その代案もある。けれど、問題なのは天界の一勢力組織との対話という事……私の一存では変わらないし、変えられない。私がどんなに撃退士を信じていても、組織の皆が信じてはいられない」
これは協定の前提よ、菖蒲はと付け加えて。
「相手を信頼しなければ停戦協定は成り立たない。私達はあなた達を信じて、この場を設けた。それで不十分? どれだけ私達に危険を犯させれば気が済むのかしら?」
これは異例の事態。そもそもが穏健派というのは数が少なく、主流ではないのだ。それが『敵対者』である人間と対話どころか、組織同士として会談をするなど、そこに関わった者達の地位や命も危うい。
「もう提示した条件、これが既に『誠意と保障』よ。過激派を可能な限り抑えるというのも、全てを従える事は出来ないだろうという予測から。本来なら『過激派』に任せて、人の街の被害を気にせず戦っても良い。それを抑えるだけの札を私達は人の為に使う」
曰く、穏健派が今まで上げた成果。過激派より先に冥魔の動きを察知出来た事。そして、今まで撃退士との関係を良好に保てている事。
柊が気にかけていた三月末という提示は、それらを使って過激派を抑えられる期限がそこだった。
その間に新しい札や材料があれば停戦協定を更新し、更に踏み入った内容にも出来ただろう。信頼を見せる必要がある所で、逆に信頼を問うのは交渉の失策。
「上げれば数が多すぎるし、喋れない内容まで含むわ。その上で命令無視する過激派がいるだろうと、そこは組織といえど行動を完全に制する事が出来ない以上、『可能な限り』と言葉を取った。絶対など存在しないのだから。故に、話すのであれば従わなかった過激派に対する対策ではないかしら? そして、此処において共に信頼をしなければ――この場はなかったという事で、終りね」
「……っ…!?」
一瞬での切り替え。対談は終りだと、菖蒲は告げる。
そもそも、過激派を抑えるメリットは穏健派にどれだけあるのか。そして、抑えた所で撃退士と停戦協定を結ぶ理由はあるのか。この対談の意義は。……加えて、天界側は、『何も要求していない』。
人の生活区域を守るなど、天使からしてみれば戦術的な価値はない。撃退士側が有利になるようにと譲歩されていたのだ。巫の言う学園側のへの『誠意』は人の生活圏の安全と、わざわざ過激派を可能な限り抑えるという手段で出ていた。
最初から限界ギリギリまでの譲歩を先に持ちかけられていたのだ。そこに要求すれば、天は利など失う。
そうすればこの会談、する必要はない。一蹴するに十分な事を要求してしまっていた。
「……っ…」
失策である。鴉乃宮が書記をしたのも痛い。逆に撃退士側が信頼できるものを先に提示しなければ、もうこれで終わりだ。既にタイプされた記録した発言は取り消せない。先のは無しと言えば、信頼を失う。
平たく言って詰みである。人は天界と冥界の両方をこの四国で相手取る事になる。
このままでは。だからと焔が口にする。
「冥魔探知というこちらの技術はどうでしょう? 悪魔は何に化けているか解らないと皆殺しに来た悪魔がいて」
「……その手の技術は、むしろ天界の方が確立しているわ。数千年戦っているの、私達の戦いを舐めないで。長く戦ってきた中での同胞の死、その上に培して来た技術を愚弄する気?」
咄嗟の焔の言葉は、むしろ決裂一歩手前を呼び寄せる。当たり前と言えば当たり前だ。天使は悪魔と戦う術を撃退士以上に持っている。それだけの経験と歴史の積み重ねがある。
「悪魔を探知する術はある。けれど、それを一々、人の住む地域で使用していれば時間の無駄。その間に悪魔が動いて目的を果たされる。名残や形跡があれば、草の根一本残さず殲滅してしまえば良い。いてもいなくても『感知した悪魔を倒した』……と、過激派あたりは考えるわね。加えて、戦いを嫌って人里に紛れたはぐれ悪魔に、アナタの言う技術が反応したら?」
「……っ……」
「殺す? 悪魔が化けていたと、皆殺し?」
意図していなかった言葉に焔の顔色が青ざめた。
「そして――まさか前田やその主が敗北した事を言及するかしら? 手法と道を違えども同胞。その敗北を、負傷を、詠われて私が喜ぶとでも……?」
迫る菖蒲の冷たい怒気。最早、これ以上焔がこの場で発言する事は出来ない。精神的な圧迫と困惑で、思考が止まっている。
庇うように、アクセルが口を挟んだ。
「では、菖蒲さんの言う形ですと、穏健派が過激派を抑えられなかった場合にどうするか? が問題ですね」
場の流れは菖蒲、天界へと傾いている。テーブルを離れないようにする為には、話題を継続させるしかない。
「暴走した過激派、その情報を出来る限り教えて貰えませんか?」
焔が止めようとした発言を、庇って出たアクセルがしてしまう。
「……それは交渉を続ける気はある、と見做して良いのかしら?」
「ええ。内密に、ですが」
「私は同胞を売らないとは再三言ったけれど、ね」
最早此処までくればテーブルから離れるのは自然の事だった。
ただし――菖蒲が人を信じている使徒があるから、何とか僅かに繋がる。
溜息。そして菖蒲は続けた。
「こちらの指示に従わない過激派、穏健派問わず、討って出た天使の所在位置は撃退士に伝えるわ。それこそがこちらの提示した『人の生活区域の保護』にも当るでしょうしね。ただ、此処まで言われたのなら、私から追加で一つ要求するわ」
「何でしょう?」
このテーブルが紙一重で繋がったのだとアクセルも理解した。故に、告げられる内容を拒絶は出来ない。
「例え過激派がどのような行動を起こしたとしても、私達穏健派はその責任を取らない。また、その責任を押し付けない……これだけの譲歩は、許されるわよね?」
「……了解、したわ」
負けられないと決めた舌戦の中、勝ち取る筈だったもの所か、手に出来るものさえ、ボロボロと崩れて行くのを巫は感じた。
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「さて、三つ目も纏めて了承を得られた所で……」
「少し待って下さいですワ」
ミリオールが静かに口にする。
この儘では終れない。ほぼ全て肯定の上に、撃退士側への利が提案された条件より逆に薄くなったこの状態では。
「これだけでも、確かに悪い話ではないのですワ。そして、だからこそお願いがあるのですワ」
「さあ、何かしら?」
「……この話の肝は、停戦の期限切れだと思うのですワ。故に、三月中頃に、再び会談を申し込みたいです」
深くは言及しない。が、最悪の展開では冥魔との戦いで疲弊した所を突かれる可能性がある。
それを言葉の裡に含み、ミリオールは語る。今までの遣り取りの中、人的どころか、兵器の技術交換もあり得ないと断念せざるを得ないが。
「その際での冥魔の動き、過激派の勢力や動向。そういったものを含めてもう一度話せれば」
或いはこの形こそ今回の天界の交渉で必要な形だったのかもしれない。与えられた利は受け取り、相手へと損失を押し付けず、穏健派と撃退士の両方が利益に繋がる交渉の場として。
その可能性に気づいたのが遅かった。撃退士はこれだけの利益を前に、更に求めるのなら手を組む事は危険であるかもしれないと計られていたと、鴉乃宮は無言で、表情一つ変えず、けれど胸の中でかみ締める。
「そうね。共に利を得られるのなら争う必要はない。むしろ手を取り合っていける筈で、それが共存と共栄の道よ。争いの武器を取らずにいける道」
それを肯定するような、菖蒲の声が続く。
「そして……そうね、確約は出来ないけれど、撃退士と冥魔の戦っている後方などに天使の勢力は配置しない。或いは冥魔へと当たると出撃して天使勢力は出来るだけ撃退士側に報告するわ」
「感謝しますですワ」
無論、それを絶対だと確証は取れないし示せない。菖蒲個人が切り出した言である。
が、これが恐らく正解の道。共に利益と安全を手に出来ての協定。片方が損失や被害、そして一方的に信頼を形に成すなど交渉で成立しない。
信には信をとは、以前、菖蒲が言った言葉だったのだから。
「……より良い関係が、築けると良いね。菖蒲」
共に道行く事が出来るのだろうか。戸惑いを打ち消して、柊が口にする。
「お互い、助け合って行こう。つまり、そういうことだよね」
菖蒲の口にして天の道とは、そういうものではないだろうかと、思うのだ。
得られた筈の安全も、保障も失い、形だけ成立した停戦条約。恐らくは天使からの増援などはないだろう。そこまで信頼を勝ち取れる提案や意見を出せなかったのだから。
ただ。
「そうね。これから次第、常に期待しているわ」
そう応える菖蒲のように、人と交渉の余地ありと看做す天使が増えれば。
或いは、それこそが平和であるのかもしれない。
三月――天の停戦と冥の動乱が始まる。
天使達の住まう天界も、また一つの組織である。
利と損、感情と理論の天秤を胸の持つ。
初めて交渉相手となった『人間』達。
ミカエル達、『穏健派』は、人間と共に利益を手にする事の出来るのではと僅かな期待を抱いていた。
「が……それもまだ早い、という事だったでしょうか」
緩やかに苦笑を浮かべ、報告からこの手は危険過ぎると手を引く事を決断したミカエル。
これは利と損の天秤において、損に傾き過ぎている――無理に声を上げればミカエルの名と地位で通るものもあるだろうが、ミカエルとて倒れる訳にはいかない。彼が倒れれば、穏健派の天使はその後ろ盾を失う。
「若い世代に任せる為にも、今はまだ」
今はまだ。今はまだ。今はまだ。
ただ只管に耐えるしかない。
「ただし、次の機を失わない為、可能な限り過激派達を抑える事にしましょう」
危険な橋は渡れない。ミカエル個人で出来る限界を見極め、多少の過激派の天使達が押し通って攻め立てるのは止められないと判断する。が、人の営みを壊す程の勢力、数が動く事はないだろう。
「そう。今はまだ……その時ではなく」
ミカエルが失脚すれば穏健派の天使達はどうなる。ただでさえ肩身の狭い彼ら彼女らは、堕天する程に追い詰められるのでは?
庇護してくれる者を失い、天に居場所のなくなった旧来派を知っている。
「故に、私が倒れる訳にはいかない……」
故にそっと目を伏せるミカエル。
失望で僅かに胸が痛めど、既にそれは何度も経験した事。
――今はまだ、今はまだ、今はまだ。
耐えるしかない。
次へと繋ぐ為に。