ああ、拙いなと久瀬 悠人(
jb0684)は段々と白くなっていく意識の中で思う。
まず、体温が酷く低下している。
もう十二月だ。行き倒れのフリをしているだけでも、かなりの体力を寒気に奪われていく。だというのに先日から断食をし、更に一睡も取っていない。
寒気に対抗するだけの熱を生み出せないのだ。
その状態でいつ来るか解らない夏夜を待っている間に、消耗はもう軽視できない程になっていた。
行き倒れる計画だったが、予想以上であり危険だった。
動きたくても、ただ震えるしか出来ない。思考も途切れ途切れで、寝たら終わると感じている。
「く、久瀬さん……?」
そんな状態を見て、僅かに涙声になるのは地領院 夢(
jb0762)。
撃退士とはいえ、自力で動けない男性は重い。引き摺るようにして動かしているが、本当に叫び声を上げて助けを求めたかった。
本気で拙い。本当に危ない。
他力本願であった久瀬にも問題があるが、このままだと風邪どころの騒ぎではないだろう。
だから夏夜の足音が聞こえ、その姿が見えた時には、安堵と不安で夢の胸が掻き乱された。
「ご、ごめんなさい。ちょっと運ぶのを手伝ってもらっていいですか!?」
最早藁を掴む思いで声を上げる。これで駄目だったら携帯で誰かを呼ばないといけなくて。夏夜に構う余裕などなくて。
夢にとって本気の叫びであり、願いだった。困ったでは済まないと、今さらになって後悔する。
けれど声は聞こえず、つかつかと規則正しく、無感情に歩いていく夏夜。無視しているような、忌避しているような。
通り過ぎる。
でも、ふと、その瞬間、引き摺る久瀬の重さが減った。
「それで、何処まで」
端的に、突き放すように。反面、久瀬の肩を支えながら、夢へと問う。
「え、えと。とりあえず、校門まで……」
「そう。とりあえず、肩を支える感じで引き摺っていくわよ。校舎についたら、保健室に放り込むと良いわ」
「あ、は、はい」
声は冷たく、やはり拒絶の響きがあった。が、言われた通りに面倒見は良いらしい。
そこに僅かに安心して、夢は溜息を。一瞬、本当にどうしようかと思ったが、どうにかなった。
だが、夢は運ぶのに手一杯。久瀬も、意識が朦朧としている。
都合の良いような展開は訪れず、用意した会話も切り出す余裕がなかった。
冷たい風。
響いた久瀬の腹の音。
「貴方、何も食べていないの?」
「……悪い。昨日、ずっと音ゲーやっていて、気づいたら朝だった」
加えて寝てないのね、と僅かに目を細めて夏夜は呟く。
「協力プレイの曲をクリアしようとして、必死になって……」
うつらうつらと、震える身体から振り絞るように声を掛ける久瀬。夢も応援したいが、それは無理だった。
「気づいたら朝で、クリアは出来ていた。けれど、みんなでやるものを独りで終らせても、つまらなかったな」
だから、朦朧とした意識の中からも言葉を紡ぐ。届いてくれと。
誰かと一緒じゃないと、意味がないのだと。楽しいのか、一人でいて。
久瀬だったら嫌だ。夢も嫌だ。価値観の押し付けはしないけれど。そのままでいたら、今の久瀬みたいに倒れるのでは。
身体ではなく、心が。
そう、祈るのに対して。
「それはね」
夏夜は鞄の中から、何か布に包まれた箱を取り出す。
小さなランチボックスだった。
「貴方が一日中いても楽しいと思える人がいないからでしょう? その、多人数での協力プレイ? 結局、独りを選んだのは貴方。一人の方が楽だったからそうした。違う?」
少なくとも今は。夏夜がそうであるように。
「つまらなくとも、『苦痛』ではないだけマシね」
そう呟いて、ランチボックスを久瀬に渡す夏夜。
夢にはそれが、夏夜の独白に思えた。人と一緒にいると『苦痛』。『痛い』。刺さった棘が抜けていないからずっと血を流している。
だから、笑えないの?
誰かに親切にしたり世話を焼いても。
こうして誰かといる今も。
――苦痛なんでしょうか。
違うと、信じたい。
人といる事が苦痛である筈が、ないと。
●
ランチボックスは渡したのだから、夏夜の手元には何も残っていない。
昼食など抜けば良い。渡したのは自分の意志だし、その結果なら当然だ。選択とその結末。
ただ、久しぶりに人と話したせいだろうか。無様で、ともすればなんて頭の悪いと思うような先輩の姿が浮かぶのだ。名は聞いていない。そして、一緒に運んだ少女の笑顔と『有難う』という言葉も。
妙に空虚な気分だった。
胃ではなく、胸がからっぽだった。
だからだろう。久しぶりに購買部に出て、なんとかサンドイッチと飲み物を確保した時には、かなり疲労してしまっていた。
喧騒が胸に響く。
一人が良いのだ。音は静かに。ノイズのない場所が。
笑い声が、きりきりと夏夜の精神を締め付ける。
それは表情に出る程に。怒りと苦しみと、そして激しい悲しみを帯びた顔。
言葉をかけ辛い。見なければよかった。触れなければよかった。
それでもと、浪風 威鈴(
ja8371)は言葉を掛けた。
「ぇと……静かな…場所……って…ある……かな?」
一度声を掛けたら、もっと深い所でもがく夏夜の顔を見てしまいそうで。でも、一人は。一人では。
ずっとそんな顔をしているのだろうか。胸の奥、決して溶けない氷の中にいるように。それは嫌だと思って。
「全く、今日はいろんな人に声をかけられる日ね」
サンドイッチを片手に、溜息を付いて威鈴を見つめる夏夜。
僅かにたじろいでしまう。会話をする気はなく、けれど、言われた事にはせめて応えようと。
「貴方もこの喧騒が嫌い?」
いや、それとも偶々いた少年に独白を漏らしているのか。
「私は、嫌いよ。……笑い声が。楽しそうな言葉が」
怒りや憎悪より、悲しみが多い声。もう届かない何かに、手を伸ばそうとしているような。
決して届かない過去を、見せつけられているような。絶望に似た声色。威鈴はそう思った。
「まあ、良いわ。私の音楽室の隣は、あまり人が来ないし」
それは、やはり拒絶で、一緒にいたくないという意志の表れだっただろう。
けれど、先の言葉と表情から、本音ではないと思って。思いたくて。
「ボク……ひとりで…食べるの…寂しい…から……一緒に、食べていい……?」
「嫌よ」
そう告げ、けれど背を向けながらも威鈴を先導していく。人気が段々なくなる。音楽関係の部屋が集まった一角。
そこで。
「すみません」
街他構えていた神棟星嵐(
jb1397)が声を掛けた。
「こんにちは。神棟星嵐と言います」
「…………」
瞼を閉じて、深い溜息。厄日かしら、と夏夜が呟いた。
それでも、止まる訳にはいかない。踏み込む必要があるから。
独りきりの音楽室に。
少なくとも諦めたような、脱力した姿ならばと。
「今回お願いがあって訪ねて来たんですけど、中に入っても良いですか?」
「駄目よ」
通ると思った声は一蹴される。
「なんでお願いを聞かないといけないの? 少なくとも、私はその部屋に誰かをいれるつもりはないわ。神棟さん、貴方は、出逢ったばかりの誰か、よ」
「…………」
即座に反論しなかったのは、攻撃の意志ではなく、防るという意志を感じたからだろう。
ただ引き籠っているのではない。彼女にとって安心できる場所があの音楽室。ならば、その聖域に人を入れる事はあり得ない。知り合ってすぐの他人ならなおさらだ。
けれど引き下がれないと、神棟は言葉にする。
「あのですね。静かに出来る場所が欲しくて探していたら、そこの音楽室を一人で使っている人がいると聞いて、混ぜて貰えないかと頼みたいのですけれど……」
「隣の部屋、大抵空いているから使ったら?」
けれど、まさに壁に跳ね返されるように神棟の声は届かない。
この音楽室は彼女の最後の場所なのだろう。だったら、と。
「ね……神棟さん、と、えっと……その、夏夜さん。隣の部屋で…せめて、一緒に食べません……か?」
威鈴の提案。これは決して折れないと見て、せめて一緒に食事をするという目的だけを果たそうと。
「一人だと……美味しくない…よ……?」
「出来れば、話とか聞いて欲しいんですけれど。あ、これは差し入れです」
そう二人掛かりで夏夜を説得し、更に神棟は夏夜の何時も飲んでいたカフェオレを差し出す。
「……全く」
何の日なのかしらと呟いて、夏夜は折れた。
●
ランチボックスの中身は、久瀬には少なかった。
授業が始まる前に食べ、そのお蔭である程度体力は回復したのだが。
「何か、虚しい」
軽いランチボックス。返して、とも、返さないで良いとも言わなかった。二度と逢う事はないだろうと、そんな感じで。
「絶対、このランチボックスは返すからな。中身、詰めて。食べ物じゃなくて、こう……」
胸に響くもの。無感動そうに応じたあの仮面が壊れるようなもの。
だからせめてもの糸口にと情報を集めようとするが。
「見つからない……ですね」
夢の言う通り、夏夜のクラスメイトは一日では見つからない。広すぎる学園を回るには、一日では足りない。
せめて出来たのは五十鈴 響(
ja6602)の依頼主であるクラスの委員長や、同じクラスで心配する人達から言葉を貰う事だけ。
情報収集をするに当って、あまりにもか細い糸と、入り口だった。
だからこそ。
●
「ねぇ、なら失った場所からは、ずっと血が流れるのかしら?」
神棟の過去。家族を失った事に対して、ぽつりと夏夜は呟いた。
「身体の傷って治るし、心だって、きっと、そうよね。でも、亡くなったものは返らない。心と一体だと言う程に大切なものが失ったら」
流れる視線。
「ずっと、その喪失を抱えるのかしら? ダレかの笑顔を失って、別のダレかの笑顔と声を聞いて、ずっと失ったと、戻らないと、自分に言い聞かせるの?」
それは独白じみて。漏れ出した弱音のようで。
「代わりなんて、ないの。 神棟さん、貴方の家族のように」
結局、何が起きたのかは解らなくて。
彼女の思い悩んでいるもの。そして苦しめているのが笑顔というだけが解って。
それ以上はなかった。
また、一緒に食べようと果物を渡した威鈴。それを手に取ってくれた事だけが、せめてもの救いで繋ぎだろうか。
「無様な姿じゃなくて、或いは……」
それは推測だったけれど。
重荷となるのは嫌だったのでは。
好きな相手の、重荷になるなんて。
献身さとはともすれば危ういもので、倒れる時は互いに共倒れてしまう。
だから、少年は去ったのではないかと。ふと、思うのだ。
●
そして、刻むように流れるヴァイオリンのソロ。
デュオで奏でる筈のそれは比翼を失い、けれど悲しく、ただ切なく音を響かせる。
弦が擦り切れていそうだった。
ヴァイオリンではなく、心のそれが。
今にもぷつんと切れそうな想いを乗せて、流れる。
或いは、切れる事を願って、失った片割れを思い出すように。
「とても綺麗な音色ね……」
なんで、物悲しいものは綺麗なのだろう。
もういない誰かを思う、旋律。唇だけで言葉にする瑠璃堂 藍(
ja0632)。でも、これは余りにも儚かったから。
孤高で孤独な部屋の扉を、叩くのだ。
響が扉をノックする。返事は、あるだろうか。
情的、というよりは叙情的。静かに泣いている、弦の音色。
胸に響くのは悲しみの響きだ。気になってしまう。だって、これは奏でる人の想いを十全に乗せたものだから。
だから、今、この時だけは止まって欲しい。
言葉にして、と。
その願いは、聞き届けられた。
ヴァイオリンが止み、かちゃりと鍵の開く音。けれど、それは扉ではなく、窓だった。
「何かしら?」
既に今日だけで四名に出逢っている夏夜。心の警戒が緩んだのか、それとも、拒絶が緩んだのか。声は、少しだけ柔らかかった。
僅かにほっとしつつ、藍は声にする。
「歩いてたら、綺麗な音色が聞こえてきたから。この音を聴きながら本を読めたら素敵だなって思って、つい……ね、良かったら少しお話できないかしら?」
僅かに胸につっかえそうになる藍の言葉。綺麗だ。触れれば切れてしまいそうな程。
壊れてしまいそうなくらいにる
「そんなに、私のヴァイオリンはいいものじゃないわよ……足りないし、悲しいだけ。悲しいから、弾いているだけ。それを聞きながらなんて、本と貴女が可哀想よ」
ああ、と。
彼女には通じないとこの時、藍は気づいた。
既に胸の奥は泣き叫んでいる。でも、その感情の表し方がヴァイオリンしか思い出せていないのだ。
泣き叫ぶその時が、くればいいのに。
黄昏の夕日は、緩やかな時を飾る。
「御免なさい。嘘よ。本当はね、七峰さんのクラスのクラス委員長さんに心配だから、って頼まれたの」
此処で嘘をついても仕方ない。
こちらは嘘を並べて、相手にだけ真実を求めても、そんなの不誠実。そして、詐欺だ。
心を弄びたくはない。だから、言葉も選ぶ。
「どうしたらいいのか解らなかったんでしょうね……貴女も、彼女も、彼も」
「……っ……」
それは夏夜の激情を刺激しても。此処で背を向けられても、言うべきもの。
「『心配』だったから。潰れないかと、ずっと心配で、そのせいで自分が潰れた。責任という重みで」
きっと、そうだと思うから。これ以上繰り返して欲しくないのだ。
夏夜が『心配』した少年は、その『心配』で夏夜自身が潰れないかと、黙って去ったのだろう。
何か言えば、そんな事はないと反論して譲らないだろうから。
こうして、音楽室で追想の音を奏でる程に。
「自分だけは忘れない、失わないって気持ち……なんとなく、解ります。だから、潰れないで下さい。自分の道を、自分で潰さないで」
響が後を継いで続ける。だって、あんなに美しい音を響かせるのなら。
まだ心はある。先はある。
辛い事や苦しい事、怒りと嘆き。吐き出して、良いのに。
なんで、夏夜は目を背けるだけなのだろう。肩だけは震わせて、泣いているように。涙だけ枯れたように。
「……手紙です。出来れば、読んで下さい。貴女を心配しているのは、あのクラスにもまだ沢山いるんです」
それは昼休みの間に響が夏夜のクラスにいって、自分と、そして心配しているクラスメイトの言葉を綴った手紙。
軽くて小さなそれを、静かに、震える指で夏夜は受け取った。
「忘れない。その為に、貴女まで、消えないで下さい」
「ね? 次は、音楽室に入れて貰えないかしら?」
「その時は、私にオルガンを共に弾かせて下さい」
「可哀想というなら、そうじゃない曲で本を読ませて?」
その答えは沈黙。
ただ、紅く染まっていく夕暮れ。
そして窓は閉まり、再びヴァイオリンが流れる。
ぼろぼろと、音階を外した嘆きの音が。
稚拙でミスだらけで、決して美しくない、心の嗚咽が。
ただ、流れゆく。