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鬼の嘆きは森を打ち振るわせていた。
切実な悲嘆の叫びは、木々を、夜を、千に万に砕かんと吠え猛る。
遠くからでも解ってしまう。風より強く、何よりもこの静かな夜を震わせ、赤き紅葉を散らして行く、この慟哭。
それは伝えている。鬼までかなり近くまで来たという事。そして、これが嘆きであるという事も。
「……何時もと、変わらない筈だ」
はらりと落ちた紅葉。焔の序曲と名付けた波打つ片手半剣を手に、君田 夢野(
ja0561)は呟いていた。
何時もと変わらない心構えで、対峙し撃退する。これ以上の被害が出る前に。
進むしかないのだ。君田の心は前進しか知らない。
どのような壁、悲劇もこの剣で貫くと柄を強く握り締める。
「泣いているような、声だな……」
まるで泣き叫ぶかのようなこの鬼の声。用意した灯りに気付いたのか、段々と叫びは大きく、そして近づいて来る。
香具山 燎 (
ja9673)も口にしてしまう。
もうあれは終っている。殺され、遺体を利用されてディアボロとなった存在。心がある筈ない。記憶もある筈もない。
終わった過去は取り戻せないし、また埋もれた真実は探る事も出来ない。
燃えるような赤い髪をさわりと揺らし、眼前を見据える燎。
「私に出来る事は、一刻も早く、終わらせてやる事だけなのだろう」
「…………」
終焉。それを与える事こそ己の役目だと、マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)も包帯の巻かれた鋼鉄の義腕の掌を、軋むような音が立つ程に握り締めた。表情に変化はなく、声もない。
ただ、曇りなく、己が道のみを見て。
「氷に閉ざされた鮮烈な赤い紅葉の森の中、響く鬼の慟哭か……ひどく悲しげで、幻想的だね」
有り得ない世界。赤い氷も、鬼の嘆きも。
故にこれは天魔の業。ならば自分の手でと静かに思う鳳 覚羅(
ja0562)に対し、ザラーム・シャムス・カダル(
ja7518)は酷く苦々しい口にした。
「鬼が哭くか、わらわは泣き虫は嫌いじゃ…とっととカタを付けるかのぅ」
怒りにも似た口調は同族嫌悪の一種なのかもしれない。悪魔と呼ばれ、悪魔とされていた幼き頃。
どうしても重なる記憶。
故、込める想いは何処までも純粋だった。断じてお前はわらわではないのだと。
お前のように、今、ただ嘆くだけのものではない。
そして。
「わらわは決しておぬしにはならぬ……なってはならぬのじゃ……ニャハハ!」
鬼にはならぬ。泣き叫ばぬ。決してだ。お前のように成って果てたりなどしない。
そう笑い飛ばし、右腕へと魔具【アルモタヘル】を装着するカダル。
「ディアボロである以上、最早魂の欠片もないと、そう理解はしている筈ですが」
故にこの哭き声も、ただの叫び。感情など一かけらもない死体だと、撃退士である久遠 冴弥(
jb0754)も知識としては理解していたし、承知の上。
無視すべきだ。
意味のない感傷だ。
何を思ってもどうしようもない。殺される前に殺すしかない戦の鉄則。
何か思う余地などありはしない。
「……そう徹せない。無視出来ない。そんな私は、撃退士として甘いという事でしょうか」
それとも、例え死体であっても、ディアボロであっても、人であったモノへの想いこそが、撃退士の証なのか。
泣くモノを無視していて、救う事は出来ないだろう。救えないからと、何も思わないでいたら、きっと戦いの中心が死んでいく。
それだけは嫌だと思い、けれど、後は何も解らない。
ただ、時は動いている。灯りを見つけ、血の匂いを嗅ぎつけたかのように、木々を破砕して、鬼が迫って来ていた。
叫びは何処まで何処までも、孤独だった。
分かち合うものも、理解してくれるものもいない。
言葉はただ、呪いとして世界を氷結させていく。
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迫る勢いは獅子の如く。
そして全てが凍えていく世界は、死の具現であるかのようだ。
苦笑する藤白 朔耶(
jb0612)。山道を歩いたせいで傷口は開き、もう血が零れている。
脚も震えていて、機動力もない。
「うん。ごめん……役に立ちそうにないかもね」
そして、そんな死に瀕している彼女を、いや、瀕しているからこそ。鬼の瞳は、藤白を捉えて離さない。
自分から突撃したくとも、移動力が足りない。腰を落とし、グルカナイフを構える。
「できることは……陽動としての囮役だね」
彼女を最優先として突撃してくる鬼。
迎え撃つように、左右に広がった撃退士。冴弥は蒼煙を噴き上げる布都御魂を召喚し、マキナは義腕から黒焔を燃え上がらせて身に纏う。
カダルの紡いだ星の光は周囲を照らし、燎は背後を取ろうと左へと回りながら小天使の翼を発動させる。
そして走る鬼。来る凍結の呪言。
君田や覚羅、燎の用意していた防寒具は意味を持たない。これは魔性によるもの。幾ら防寒を身に纏い、暖を取ろうとしても、それらを透過して直接、身から熱を奪われていく。
煙草の紫煙も消えた平山 尚幸(
ja8488)。見れば咥えていた煙草の全体が霜で覆われている。
「やれやれ、ああなると哀れだね」
凍った煙草を投げ捨て、口にする平山。
「何を探しているのか見えないんだろうね。苦しいだけで、もう目も見えてないんだろう」
そう言って君田共に前進する平山。巨大な野太刀を振り回す鬼を迎え撃つ。
「苦しくなくなれば、見える物もあるだろうし。さあ、殺してやろう。探し物が見つかるように!」
発砲される君田のライフルは腹部へと弾丸を連続で叩き込み、平山は香辛料入りの瓶を鬼の眼前へと投擲し、それを討ち抜く。
氷呪言による氷結と体温の略奪は脅威の一言。範囲に入った藤白は、その身の負傷に重なる形となって、それだけで膝を付いている。体力を奪っていくそれを止め、速攻を狙うのだ。
だが。
「……っ…!?」
散った赤い粉末を透過して過ぎていく鬼。天魔の基礎である透過能力は自動で発動し、基本、物質による攻撃・効果は意味をなさない。
阻霊符や阻霊陣を展開せねば、この手のものは何の効果も出ない。基礎である。
そして何も平山だけではない。この手の事を忘れていたのは。
アウルで作り出した翼で飛行する燎以外、滑り止めにスパイク付きの靴を用意している者達でさえ移動速度が低下し、踏ん張りが効いていない。だというのに、鬼は疾走しており、全くその速度を失っていない。
氷結した地面を透過しているのだ。
「阻霊符を……!」
後方で叫ぶ冴弥だが、それに反応出来たものはいない。唐突であり、予想外の事だったのだから。
ならば、今出来る事をするのみ。
宙を駆け抜ける布都御魂が嘶きを上げ、角から放つのは直線に走る雷撃。
凍えた空気を砕くように奔る光の奔流であり、魔力の一撃。身体の自由を奪うには十分。
「ほれ、暴れるでないわ。上手く縛れぬじゃろうが…!」
更に夜の中、重なるように放たれた光。じゃらりと音を立て、冥魔を制する聖なる縛鎖が鬼の身体へと巻き付く。
「……この程度」
身体から奪われる熱。だが、それがどうした。
マキナの纏う黒焔が更に激しさを増す。奪われるよりなお熱く、そして激しく。
この身に抱いた破滅の炎は凍てつかない。万象、世界にあるもの全て、宿すこの身ごと焼き焦がすものこそマキナの終焉の焔なれば。
瞬間的に解放され、高まる渇望は燃え上がり、奪われた以上の熱と力を彼女に与える。偽神の腕でその力を溜め、握り込み、次の一撃へと収束されていくマキナの武威。
鬼がそれを脅威と感じる暇は、けれど与えられない。
「来いよ。耳障りなその歌声、掻き消してやる」
正面より迫る君田の片手半剣。燃えるように波打つ刀身が、鬼の肩を捉えて斬り裂く。
飛び散る血の滴。抉るように切り裂く刃は確かな手応えを君田に伝えている。
だが、それよりもふと感じるのは鬼の顔。慟哭を上げるその鬼の頬には、凍えた一筋の跡が。
飛び散る雫も真紅のそれだけではなく、透明なものもあった。痛みではない。ただ悲しいと、果てるまで叫ぶその姿。
「君田!」
叫ぶのは覚羅。ほんの一瞬、君田が鬼の涙に気を取られた瞬間、上段から離れた野太刀の一刀。振り抜かれる勢いと重さで大気が爆ぜ、斬撃だというのに爆裂に似た響きを伴う剛斬剣。
「……っ…」
迎え討ったのは覚羅の手繰る紅の斬糸。鉄塊の如き太刀を振るう手首へと滑らせ、絡め取るように巻き付く。
鋼糸越しに感じたのは恐ろしい程の重さと力。ただ絡め取り方向を逸らそうとすれば、力負けして転倒する。ならばと糸で斬り裂いて、ほんの僅かに勢いと軌道を狂わせるものの。
「……がっ」
凍結した地面を気にして激しい回避出来なかった君田へと落ちる鬼の刃。
朦朧とする意識。すぐには立ち上がれない。
滑り止めの靴を用意していれば、は今さらである。
けれど。
「悪いが、速攻で決めさせてもらうぞ!」
飛行し背後へと回り込んだ燎が杖をその頭部へと振るう。
纏うのは緑色の輝き。刃の如く研ぎ澄まされたアウルは鬼の額を斬り裂き、大量の血を流させる。
こつん、と宙を舞った鬼角が落ちる。
「さあ、パーティーの始まりだ」
そりこそが本当の開始の合図だったというかのように、密着して銃口を凝らす平山。
「あんたの、罪も悲しみの全部食らってやるよ……」
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狙うは速攻。故に、体勢を整える暇を与えてはならない。
同時に氷呪言は厄介に過ぎる能力。それを止めての猛撃こそが理想。
麻痺でも鬼の叫びは止まらなかった。ならば。
「…………」
黒焔を纏い、鬼の懐へと飛び込んだのは黒衣の姿。マキナだ。
想いも言葉も不要。ただ終わらせるのだと、黒焔噴き上げる偽神の腕を振り被る。
ただ、一つの事実を告げて。
「――その慟哭に、幕を」
決して止まらぬ黒き終末の炎を纏い、放たれた一撃。
鬼の胸部に衝突し、轟音が響き渡る。堅い皮膚を貫通し、折れた筈の骨の感触。
重い一撃。続けて周囲の空間から黒焔で紡がれた縛鎖が放たれ、鬼を絡め取る。燃やすのは肉体ではなく、その意識と魂。
気失。膝が崩れ、その喉から放たれ続けていた氷呪言も消え失せる。
今だと冴弥の操る布都御魂がアウルの稲妻を放つ。畳み掛けるのは、この瞬間を置いて他ならない。
「見よ……この黒き炎を。燃焼せず、窒息もないが只天魔を滅ぼすわらわの煉獄じゃ」
それこそ、魔を悪魔を、聖を天使を焼く幻想の炎。腕に装着したアルモタヘルから放たれるそれを眺めながら、ぽつりとカダルは呟く。
「地獄はここより暖かいとよいのぅ、なぁ鬼よ」
余りにも寒い、この場より。どのような痛みを受けても、泣くしか出来ないような冷酷なものでなければ、それはきっと救いだ。
言葉に出して、救いを求められれば、それだけで。
再び振るわれる燎の杖と、その先に作られた緑光の刃。鬼の頭部を十字に斬り裂いて血が噴き出る。
喪失は筆舌に尽くしがたい。他者にその重さと痛みは理解出来ない。
意味なく言葉にならず、ただ泣き叫ぶというのはきっと絶望の一つ。壊れた心の終わり方。
そう思うから。
「我が身体は鋼……我が心は刃……。我、魂は人にありて天を断ち魔を斬る、天魔屠る剣也」
疑念も雑念も全て捨て、心は透明に。言葉通り、己は唯一振りの剣であろうとハイランダーを構える覚羅。刀身に集まる光は眩い程。
ただ刃を振り抜く一瞬だけ、言葉を零して。
「終らせてあげるよ……その悲しみと存在と偽りの命を」
鬼の左腕を斬り飛ばす、覚羅の滅光。
それでも倒れないのかと平山が再び放つ赤黒いアウルの連射。腹部に胸に肩に、穿っていく弾痕。
「終わらせてやるよ。そうすれば、見つけられるさ。向こうの世界で」
故に断つのだと、トリガーを引き続ける平山。
そうして。
「…く……っ…」
膝をつき、未だ到着出来ていない藤白。まともに脚も動かない。
死力を尽くす気で、けれど身体は動かず。
ただ、鬼の眼が開くのを見た。
黒い瞳が、自分の身を濡らす血を、噴き出た血潮の赤さを映して――真紅に染まる。
「みんな、気をつけて!」
遠くにいたからこそ気づけた瞬間だった。
鬼の意識が戻り、再び張り上げられる哀しみの絶叫。
そして鬼の身から噴き出た血は蛇のように鬼の身へと巻き付き、その力と気質を高めていく。
喪失の叫びだった。放たれる圧力は、ただただ負のそれ。
そして繰り出される剛刀。隻腕となっても、むしろ威力が上がった斬撃の向かった先には平山。
元より頑丈とは言えない平山だ。頭部を叩き斬ろうとした刃を避けるものの、肩口から深く斬り裂かれ、スパイクつきの靴でなんとか踏み耐える。
鬼は満身創痍だ。だが、同時に一気に増した武力。怖気が走る程のただただ純粋な力。
だが、止まらない。
前進しか知らない君田の精神は、意識を取り戻すと同時に刃を繰り出していた。
それは白く輝く音の刃。讃美歌の如き余韻を響かせる、天の剣。
「もういい……お前は十分に苦しんだだろう? だから眠れよ、哭くのはやめろよ、取って置きのレクイエムを手向けてやるから……ッ!」
だから止まれ。鬼が止まれ。
これ以上、血で染まる前に。
繰り出された一閃はすれ違いざまに鬼の左腕を斬り飛ばし、両腕を失わせる。
それでも首だけでもと動くのは、喪失の激痛故か。楽にしてやりたいと、そう思わせる無様で、そして哀れな鬼。
果てよと。
飛び込むのはマキナ。
お前にこそ終わりは相応しい。引き伸ばされ、ただ苦しむだけの姿、見るだけで苦いのだ。
求道者であるが故に、曇った眼で己の道を失い、鬼と果てた彼を。終わりを告げるのがマキナの道なれば、この男にこそ与えよう。
「――sollst sanft in meinen Armen schlafe――」
故に眠れと、嘆きの魂宿る心臓を貫くマキナの全身全霊の一打。
後は知らぬ。全力を放ったマキナの身体は死に体だ。それでよい。絶対に終わらせると、確信し己を信じた一撃なだから。
終焉が下りた。
沈黙の森の中、鬼の身が倒れていく。
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君田が奏でる鎮魂の歌の中、燎は鬼の遺体を調べていた。
何か身元の解るものさえあれば。せめて供養に、墓に。
魂だけは安らかに。泣き止ませる事出来ず、そもそもこんな事が起きた事、それを許した事に苦悩を抱く冴弥もまた。
そして、鬼の懐から見つかったのは結婚指輪だった。
宝石の嵌った銀色のそれは、誓いのもので。
「……っ……!」
激怒に値るする文句が、表面へと刻まれていたのだ。
――カレ ノ ツギ ニ カノジョ モ オニトシテ コロシテ ミマス?――
悪魔の彫った、嘲笑の文句。
「……僕達はいつまでこのいたちごっこを続けなければいけないのだろうね」
覚羅の言葉に。
「帰って寝るかのぅ……今日は夢見悪そうじゃが」
吐き捨てるようにして口にする、カダル。
悪魔の遊戯は、魂さえも弄ぶ。
舞い降りる紅葉が、鬼の遺体を隠すよう、せめて闇から救うようにと。
燃えるような温かい赤い色で、染めて埋めていく。
もう、彼の慟哭は終ったのだと。