●
天魔同士が争う旧支配エリア。
此処もかつては人の街だったとしても、あるのはその残滓だけ。
それすらも、夕焼けのように刻々と薄らぎ、消えていく。
遠くで響くのは、派遣された撃退士達の戦闘音だろうか。
一体、どれだけの撃退士がこの旧支配エリアに集まってきているのだろう。
そして、そんな中に舞い込んだ一人の『少女』の為の救助依頼。
「……まともな依頼じゃないよね。わたしには関係ないことだけど」
橙に染まる街並みを見つめながら、ユウ(
ja0591)は呟く。
使徒であるナターシャ、前田走矢の二名が派遣されるエリアへの依頼。だというのに詳細は伏せられ、ただ救ってこいという。
「命を助けるのが撃退士。確かにその通りだ」
学生故に告げられない事があり、得られない信用もあるだろう。
挑発めいた言葉はアニエス・ブランネージュ(
ja8264)の脳裏にまだ響いていたが、撃退士の役割とはそもそも救う事だ。
「急ごう」
呟くアニエス。鋭敏感覚を用いて、気配を探る彼女は敵と遭遇しない為の生命線だった。
少なくとも告げられた空白エリア……サーバントとディアボロの争ったという、今はどちらの占領も受けていない場所を遭遇戦なしにすり抜けていく事は出来ている。
急がなければ、また此処にサーバント達が戻って来るのだろうが、行きは順調。
「使徒に追われる少女、か」
その順調さに乗せられて、鳳 静矢(
ja3856)も思考を始めてしまう。
明らかに只者ではない。
が、これが終わればその少女の口から直接聞けるだろう。
その為にも。
「少女を必ず救出しますなのですよっ」
無邪気とも言える鳳 優希(
ja3762)の言葉と、満面の笑みに、彼女を愛する静矢も微笑んでしまう。
そう、全ては終わらせてからだ。
「何にしても、救える命は救うで御座るよ」
胸のお守りを指でなぞる断神 朔樂(
ja5116)。
己に出来る事で救える存在があるなら、見捨てる事はありえないのだから。
●
雑居ビル群に到達した後には、陽動班と救出班で二手に分かれた。陽動が五人で、救出が三人。
「此処は、さっきよりサーバントの監視が数段はキツイね」
無音歩行と遁甲の術を使い、先行偵察を行っていた與那城 麻耶(
ja0250)は呟く。
建物の中から見下ろせば黒豹が何かを探すように徘徊し、黒い鴉が地を見張るように旋回している。
もう『少女』の近くまで探索を進められてしまっているのだろう。
「待っていて、今すぐ行くから……!」
口の中で小さく、けれど強く言葉にし、後続の二人へと進路の安全を伝える。
屋根のある廃墟ビル群の窓から窓を渡る三人。
故に天からの監視、鴉の眼は誤魔化せる。
加えて建物の中に黒豹は入ってこないようだ。血の匂いがすればどうなるかは不明であるが。
「しかし、緊張するねぇ」
言葉とは裏腹に、何処か楽しげなのは鷺谷 明(
ja0776)だった。
常に笑い、楽しむ享楽主義者。今の危険と隣り合わせの状況すら、起爆剤として楽しむのが鷺谷という青年だった。
そんな彼がやっているのはマッピング。
「戦闘とか、その余波とか。その影響でだいぶ地形や建物が変わっているね。私のマッピングも、帰る時には役に立ちそうだ」
帰り道、隠れながら移動出来る場所を記録出来ているというのは大きい。
過去の情報ではなく、現在の情報。
手元にある携帯用の筆記器具に速筆で書き込む鷺谷。
「…………」
が、一方で黙すのは中津 謳華(
ja4212)。
嫌な匂いがする。不吉な匂いがする。
だが、決定打はない。ただ、依頼を遂行するしかない。
命を救う。目の前にあるのは、それだけ。
「慎重に行く事に越した事はない……だが、命を捨てる事は、俺が俺を許せなくなる」
中津荒神流は、潰えそうな命を見捨てるものだろうか。
否と、中津は思うのだ。
そして近づいて来る目的の雑居ビル。
全ての謎は、あの中にある筈だと。
●
薄汚れ、傾いた雑居ビル。
救助対象は、その三階の一室にいた。
暗がりの中、息を潜めるようにして、壁に寄りかかり一人の少女が蹲っていた。
長い金髪も床に投げ出され、汚れている。身に纏う白いローブも所々裂けて、血で赤黒く染まっていた。
息も荒い。熱に魘されているかのように震える、余りにも弱々しいその姿。
「…………」
救助対象という言葉が浮かぶ。
本当に、この少女は救いを求めていたのだ。
助けがなければ、きっと消えていた命。
どんなに異常な状況で違和感を覚えていたとしても、救いを求めていたのは真実なのだ。
驚かせないようにゆっくりと近づき、声を掛ける與那城。
「安心して、助けに来たよっ」
何があっても救出する。それを第一としていた與那城は、ボロボロの姿であれ少女を発見して安堵していた。
だが、それに対する反応は、怯えだ。
「……っ…」
声に反応して、飛びのこうとする。だが、負傷と疲労で弱った足は自重さえ支えきれずに転倒した。
身を打ち、倒れ込む少女。そんな彼女へと、中津が膝をついて手を差し出す。
「……お前が『少女』か?」
「…ぁ……え…っ………」
少女は完全に怯え切り、ショックで混乱していた。負傷によるものもあるだろうが、精神的なものもが大きい。
「落ち着いて、私達は君を助けにきたんだから」
安心させるよう口にして、與那城は持参していた麦茶を差し出す。
「これはまた……。このままではダメですね、怪我の手当を」
予想より消耗が激しい。そう判断し、鷺谷は応急箱を取り出し、応急手当を行っていく。深手の傷の前では焼石に水だが、ないよりはマシだ。
きつく包帯を縛って血を止め、與那城は塗れタオルで血の匂いを少しでも消そうとする。
更に中津の持ち込んだ制服と黒髪のウィッグを取り出し、同性である與那城へと変装の為の着替えを任せる直前。
「……『少女』だと呼び難いね。名前、教えて貰えるかな?」
別室へと肩を借りて連れていかれるその背に、鷺谷が質問を投げかける。
「ア……アルドラ……です……」
敵意などは微塵もない。
恐怖と痛みに侵され、震える唇でなんとか紡いだ名前。シュトラッサーと無数のサーバントに追われ、まともに会話が出来ない程のショックを受けているのだろう。
「……やれやれ」
『仲間』と認定すべきか、鷺谷は悩む。明らかに敵ではなく、捨てれば消え去る危うい命。
そんなアルドラという少女を、どう扱うべきかと悩みながら、陽動班の仲間へと連絡を入れる。
「アルドラか……あの『少女』一人に、天魔達が此処まで固執する価値があるのか?」
中津の疑問に答えるものはいなかった。
沈黙。
そして静寂。
答えは見つからない。
●
イヤホンを差した耳に手を当てながら、優希が呟く。
「連絡が来ましたね」
「……こっちも確認。救助対象は無事保護」
応じるユウもスマホを仕舞い、遠くへと眼差しを向ける。
背負う命は一つだけでも重すぎる。けれど、これから命を賭け、そして命を背負う戦場へと立つのだ。
凍えるような冷たい銀の瞳を、僅かに伏せるユウ。
「…………死地か」
鋭敏感覚を使っているアニエスの声。いや、スキルに頼った五感ではなくとも感じられる。
無数のサーバントの気配。空を羽ばたく翼。アスファルトを削る爪。狂獣の匂い。
確かに、此処から脱出するのは難しすぎる。
「入るのは構わない、けれど、絶対に出さない……か」
事前に気が付けばまだ対策が取れただろう。
苦い静矢の呟きが漏れるが、もう既に遅い。救出班は動き出しており、止める事は出来ない。日没までの制限時間もある。
このエリアから脱出させなければ、『少女』は少しずつ、確実に追いつめて捕まえられる。これは決して脱出させないという布陣。
だから簡単に入る事は出来た。
けれど、脱出はどうだ。
「その為に、か……」
自分達の動きに全てが掛かっているのだと、静矢は柳一文字の柄を強く握り締める。
傍らで微笑む最愛の人。彼女を失わない為にも。
「……進行開始で御座るな」
「うん。出来るだけ隠れて、奥へ行こう」
少女のいたビルとは反対方向の奥へ、離れれば離れる程、救出班の安全は確保される。
それは、余りにも危険な事だったが。
「……やるしか、ないね」
その有様は、本来は避けたかった決死隊に近い。
だが、此処まで来て逃げるという選択は出来ないのだ。
そうして、鴉が鳴く。
残酷で理不尽で、絶望的な戦いの開幕を告げるように。
不吉なその声に釣られて、多くの獣が引き寄せられていく。
「……走ろう」
一か所に留まるのは危険だ。
発見されたからにはと疾走して駆け抜けていく五人の影。
その後を付ける鴉の色は黒。翼を広げ、二、三羽とその数を増やしていく。
「ファイアレーベンではないのが救いですね」
後方を確認する優希。それだけが唯一の救いだろう。
だが、物陰から後方へと視線を向けた優希に黒豹が飛び掛かる。
鋭い牙。肉を抉り、切り裂く為の凶器。
それを迎え撃つのは、紫の剣閃。瞬く間もなく一瞬で踏み込み、目にも止まらぬ高速の一閃を繰り出したのは静矢だ。
鋭利な一刀の元に切り伏せられた所にアニエスのショットガンSA6が全身へと散弾を浴びせてトドメを刺す。
「優希、大丈夫か?」
残身を整えつつ問い、視線を巡らせれば周囲に無数の黒豹の姿。
そしてそれらは急激に興奮し始めていた。
黒豹の死体の流す鮮血と、静矢の袖にかかった返り血に反応しているのだ。
血に反応し、血に刺激されるサーバント。
この匂いに釣られて、続々と群がり始めるだろう。
「動き続けるしかないで御座るな……っ…」
己の役目は道を切り開く事と、断神が黒漆太刀を振り翳して黒豹へと突き進む。
その太刀筋は奇にして不規則だ。連続したフェイントに翻弄されて出来た黒豹の隙を見逃さない。
「ッ! 断ち切る!!」
黒き刀身が滑り、黒豹の肩を切り裂く。
軽やかな優希の舞の動作と共に、放たれる蒼の稲妻。血と肉を焼き焦がし、二体目の黒豹も倒れる。
けれど、動き、走り回る黒の影。
気配は無数、数えきれない。
「……常に動き続けて。止まったら、囲まれるよ」
走るしかない。この時点で既に血の匂いに反応し、恐ろしい数のサーバントが迫っている。
「……っ…!」
後方から飛び掛かって来た黒豹へと散弾を浴びせ、動きを止めるアニエス。優希が舞えば再び蒼い雷撃が走り、また一匹を倒す。
だが、その後ろから更に二匹。
「キリがない……!」
そう叫ぶアニエスの二の腕を食い千切っていく黒豹。更に血が零れる。
文字通り数の暴力に押し込まれつつも、前へと切り進むべく振るわれる二振りの刃。
静矢が紫の残像を残す高速の一太刀が黒豹を深々と切り裂き、奇術めいた動作で刺突を繰り出す断神。
鮮血が飛び散り、切り伏せられる黒豹。
だが味方の死体を飛び越え、静矢へと迫るもう一匹。
柳一文字を閃かせ、その爪の一撃を捌くが、更に左から静矢へ襲いかかるもう一匹。武器による護法にて直撃こそは避けている。
「だが、数が多いかっ!」
追撃は右から。再び迎撃の一閃を放つが、今度は止まらずに静矢の肩へと牙を突き立てる。
「静矢殿……っ…!?」
助けようとした断神だが、空から鴉の滑空の爪で切り裂かれ、動きが止まる。
「……不味いね、これは」
それはまさしく爪牙の乱舞。
縦横無尽、前後左右から次々と現れるサーバント達は撃退士の肉を切り裂いて血を噴き出させ、歓喜するように勢いを増していく。
だが、止まる訳にも、ましてや引く訳にもいかないのだ。
迫る敵を切り裂いて薙ぎ払い、走り抜けようとする剣閃と魔術。放たれる弾丸。
此処で稼いだ時間が仲間の、そして救助の助けになるのだから。
刀身は止まる事を知らず血の薔薇を描き、魔の雷撃は迫るもの撃ち抜いていく。
だが、ついに撃退士達の疾走は止まる。絶望的な物量さ。夕焼けの赤い世界の中で黒き豹が五人を包囲している。
打ち倒すしかない。そう思った、瞬間。
飛来する紫電の飛刃。
完全な意識の外からの一撃だった。攻撃を認識した時には静矢へと突き刺さり、雷撃を放って炸裂する。
「……がっ…!」
その威力、尋常ではない。骨まで裂けて爆ぜる左腕。即座に静矢は剣魂を使用し、アウルを循環させて自己治癒を図るが、回復が追いつかない。
恐ろしいまでの純度で練り上げられた霊力の刃。
こんなものを放てる存在などそうはいない。
夕日で朱に染まった中、建物に立つのはパンツスーツの女性だ。
夏の風に靡くブロンドの髪。手には光輝く短剣を持つ姿。
「あら、此処は子供がピクニックに来るのはちょっと危険な場所なのだけれど」
京都でその力を見せたシュトラッサーの一人、ナターシャ。
「それに、貴方達みたいな子供がこんな時間まで遊んでいると帰れなくなるわよ?」
くすりと冷たい微笑みを浮かべ、遠回しな皮肉を告げるナターシャ。
「……こんにちは、ナターシャ様。今日もクールでカッコいい」
ユウは憧れの感情を抱いている。それこそ、依頼でなければ手を貸したかもしれない程の深さで。
だが、向けられたその感情を意に介するナターシャではない。
向けられた圧力の正体は、冷たく、鋭い意志。
そして感じるのは絶望的なまでに開いているこのナターシャと自分達の力量差と、周囲を囲む黒豹は自分達を逃す気がないという事。
もう既に半ば詰みのようなもので、此処からの打開は武力では無理だ。
あるとすれば、それは会話による交渉。
「それで、どうしてこんな場所で遊んでいるのかしら? 私も忙しいから、あまり相手をしている時間はないのだけれど」
溜息を付いて建物から飛び降りるナターシャへ、優希が言葉を投げかける。
「ある目的の為に来たのです」
天界と冥界の争う、この場所に。
「…………」
「まあ、人命救助が任務でね、簡単に退く訳にもいかないんだ。その辺りはナターシャさんも解るだろ?」
ショットガンを構えるアニエス。
例えナターシャとの戦力差が絶望的なものでも、即座に退く事は出来ない。そんな事をすれば怪しまれるだけだ。
故に交戦して撃退された形で撤退を。
不自然にならない程度で撤退。
そう思っていた、のに。
「そう。でもね、私は忙しいの」
ナターシャの掌に集められたのは紫電の投剣。先ほど静矢に向けたものに似ているが、より純度は高く、それも一度に三つも練り上げられたもの。
「ね、何をするか解らない不確定要素は、消せる時に消した方がいいでしょう? 放置した玩具に躓く前に、片付けないと」
そして振るわる右腕。
一度に放たれ稲妻の飛刃は三つ。
全て別々の対象へと、文字通り迅雷の速度で投擲する妙技であり、一つ一つが恐ろしい破壊力を秘めていた。
切っ先が狙ったのは、ユウ、優希、そしてアニエス。
避ける間もなく着弾し、炸裂する霊力の雷。
「……っ…!」
咄嗟に銀の魔法障壁を張り、ユウは投剣の威力を拡散させて減退させるが、突き抜けて身に刃が刺さる。
優希は防ぎきれずに直撃を受けてその生命力を一気に半減させられ、魔術への抵抗力の低いアニエスに至っては一撃で危険域の深手を負っている。
「……劣勢になる、とは思っていたけれど」
アニエスの左肩に着弾した刃は炸裂して肉を裂いて骨を砕き、左腕が動かなくなる程の重傷を一撃で与えていた。
「此処まで、とはね」
危険なのは呟くアニエスだけではない。魔法障壁による防御が間に合わなかった優希も、次の一撃が再び直撃すれば無事ではすまない。
たった五人だけでは、シュトラッサーに対抗出来ない。ただ圧倒的な力の前に蹂躙されるだけだ。
初撃でいきなり戦闘不能者が出る前という撤退条件となり、視線を後ろへと向けた断神。
けれど、そこにあるのは絶望だった。
前にはナターシャ、残る三方向に三匹ずつの黒豹が待ち構えており、退路を防いでいる。
いや、そもそもどうやってシュトラッサーから撃退される形で撤退しようとしたのか。具体的な撤退案、ルート、戦術や殿の有無。言ってしまえば撤退する方法と作戦が抜けおちていた。
加え、傷だらけの彼らはいわば穴の開いた血液の詰まった袋だ。
ただいるだけで血を流し、黒豹にその位置を知らせ誘き寄せる。一度でも戦闘をすれば、それは避けられない。
それでも足掻くしかない。
此処で諦めれば、全員が死ぬ。
ただ黙って屍となる訳にはいかない。
「静矢殿、アニエス殿、退路を切り開くは任せたで御座る!」
故に突き進むしかない。断神は脚部に集めたアウルを爆発させ、加速する。
急激な速度上昇による突撃に反応仕切れていないナターシャへと銀炎を纏う刀が振るわれる。
「拙者は貴様ら、使徒を斬る。それしかない!」
実力に天と地ほどの隔たりがあるのは解っている。
だが、ナターシャを放置していれば即座に五人は倒される。例え捨身の攻勢だとしても、攻め立てて動きを牽制し、止めるものがいるのだ。
故に振る刃へと断神は全身全霊を込めるのだ。
限界まで圧縮して刀身に込めた銀炎は長大な刃となり、上段から振り下ろされた。
「天の使徒は、斬る!」
それしかない。ただ、ただ全力の一閃。ナターシャの肩口を捕え、飛び散る鮮血。
砕け散る刀身はまるで舞い散る銀の花びら。
後方で響く轟音は静矢の紫鳳翔と、アニエスのショットガンか。けれど、振り返る事は出来ない。
「あら、意外とやるわね」
バックステップを踏み、後退するナターシャ。同時に左腕に三対の紫電の刃が産み出される。
振るわれ、投擲される稲妻の投剣。断神の腹部に二つ、胸に一つ突き刺さり、炸裂する。落雷の如き威力で断神の膝が落ちかける。
腹部の二発は内臓を傷つけている。胸の一刀は肺にまで達している。息をする度に朱の泡が喉の奥からせり上がる。
それでも。
「……ま、まだで御座る!」
あるのは気合。
断神を立たせているのは想い。
裂帛の気合を上げ、漆黒の太刀を振るい再びナターシャへと距離を詰める。十分な余裕を持って迎え撃つナターシャだったが、その肩を飛翔する雷撃の短剣が掠めていった。
「……ナターシャ様のまねっこ。デッドコピーだけど」
無機質なユウの声。
憧れ故に、その技を模して造り出したユウの魔術。それは光輝く紫電の短剣を生み出し、連続して投擲する。
ステップを踏み、紙一重で避けていくナターシャ。
劣化模造品。その事をユウは強く理解してしまう。
魔力の純度に錬度、更には純粋な力量差が、似た技だからこそはっきりと浮かびあがる。
けれど、憧れとはただその背を見る事ではない。近づき、追いつきたいと願うからの憧憬だ。
「……ナターシャ様、悪いけれど、今は全力で戦う」
連続してばら撒かれるユウの雷光の短剣。幾条にも閃く雷閃。直撃はせずとも、ばら撒かれたそれは確かにナターシャの動きを妨害していた。
足を掠め、感電させる憧憬戯剣。ナターシャのステップが止まる。
故に、この瞬間を逃すまいと燃え盛る銀炎。断神の身体と魂をも燃焼させるような劫火を纏い、振るわれる銀の一閃。
太刀筋は奇の連続。剣術とは思えない機と動作の連続から、再び銀華を繰り出す断神。
だが。
「あら、パーティーにはまだ早いわよ、曲芸師さん?」
剣術を素手で捌き、断神の手首を掴んで太刀筋を逸らしていたナターシャ。
断神の背筋が凍る。
「……っ……!」
「芸は一つだけだと足りないでしょう? 私から一つ教えてあげる」
言葉と同時に捻り上げられる断神の手首。抵抗する暇もなく、ただそれだけの挙動で宙に浮く身体。無防備なそこへ三対の紫電刃が飛翔して迫る。
飛び散る血飛沫は大輪の牡丹のよう。
天を斬るという意思は、稲妻の刃の元に儚く散った。
「断神さんっ!」
衝撃で吹き飛ばされて来た断神を受け止める優希。既に彼に意識はなく、呼吸と共にとめどなく溢れる血の熱が、未だなんとか生きているという事を知らせる。
だが、時は稼いだ。
振るわれる静矢の刀から放たれるのは紫のアウルの塊。眼前にいた三体を薙ぎ払い、消し飛ばす。
「撤退だよ。これ以上は無理だ」
血の気を失った青白い顔でアニエスが言葉にし、優希が気絶した断神を抱えて撤退を開始する。
背後から漏れる、ナターシャの冷たい微笑の気配。
「あら、そんな怪我で何処に逃げるというのかしら?」
振るわれるナターシャの右腕。三つの雷刃が投げられ、逃げようとする静矢、ユウ、優希の背中へと裂き刺さる。
弾ける紫電。血は一瞬で沸騰し、裂けた肉も焦げ付く。
苦痛に顔が歪む。だが、だからといって足を止める訳にはいかない。
走り抜けるしかない。何処をどう逃げればいいか、ルートも先陣を走るものも決めていない。だが、生きる為には走り続けるしかないのだ。
「……私は、ナターシャ様に追いつくから」
血飛沫を零し、黒豹に追われながら、それでも呟くユウ。
「……此処で倒れられないの」
誓うように。祈るように。
ナターシャは追撃に両の腕を振り翳す。
左右に握られたのは、合計六つの紫電刃。今までは余裕を持たせていたのか、先ほどの倍の数を錬成していた。
「…………」
だが、ふ、とその戦意が霧散する。
霊力で編まれた刃を霧散させ、変わりに掌を振って黒豹達に撃退士への追撃を命じる。
それは慈悲でも何でもない。冷徹な判断。
「あの傷なら、このエリアから脱出するのは無理ね」
仮に出来たとしても、もう戻ってくる事は不可能。戦力として、そしてこの街という盤上での駒として、彼らは『死んでいる』。
そして、それは覆らないからこそ。
「彼女たちの探していたという救出対象……一応調べてみましょうか」
●
一方、『少女』の救出の為、素早く危険エリアから脱しようしている三人。
しかし、その動きは鈍り始めていた。
「不味いね」
そう呟き、先行偵察から廃墟の中へと戻る鷺谷。
「外の様子はどうだ?」
「予想よりは悪いね。後少しの筈だけれど、サーバントの動きが慌ただしい。興奮しているみたいだ。……そっちは?」
中津の疑問に答え、鷺谷は與那城へと問いかける。
その意味する所は、背負っている少女、アルドラの安否だ。
「こちらも良いとは言えないよ。早く本格的な治療を受けさせないと……」
アルドラの負傷は深手であり、背負って移動するだけでも彼女の体力を奪っているようだった。
更に。
「血が滲み始めたか」
後ろに回った中津が低く唸った。包帯をきつく縛ったのだが、傷がまた開きかけてきている。
それはつまり、黒豹に察知される可能性が高まっているという事。
陽動班が動いていたお蔭で、サーバントの警戒がより雑居ビル群に向いているのは確か。そうでなければ既に発見されて可笑しくない。
「こうなってしまったら、走り抜けるしかないね」
斜陽が沈み始めた地平。灯りをつけるという選択はあり得ない。そんなものを付ければ、遠目からでも存在がバレてしまう。
「それしかあるまい。慎重に越した事はないが、もう時間がない」
中津も頷き、鷺谷が再び先頭に立って移動を開始する。
ただ早く、一秒でも早く此処から抜け出す必要がある。
何故だか、そんな気がするのだ。背後から、見えない刃が迫ってきているかのようなプレッシャーを感じる。
それは時間との勝負でもあった。
●
駆け抜ける姿は、鮮血に塗れていた。
追い縋る黒豹の爪牙に肉を裂かれ、食い千切れるその道は茨の道。
「寄らせんよ!」
迎え撃つ静矢の刃。だが、それも最早鋭さを失っている。切り裂いたものも致命傷には遠く、逆に静矢の脇腹へと牙を立てる黒豹。
「……っ」
過ぎ去り様のその黒豹にショットガンの散弾を叩き込むアニエス。
狙い違わず、地をバウンドする身体が起き上がる事はない。
けれど、仲間の死を意に介さずに連続して襲い掛かるサーバント。
優希を、ユウを、静矢を切り裂いていく爪と牙。赤い世界の中で、黒い豹は影のように乱れ舞う。
息を突く間もない。
撤退路の確認、確保もしておらず、何処をどう走れば良いのか解らない。来た道を同様に帰れば、救出班が危険に晒されるという本末転倒。ただ勘と、死ぬ訳にはいかないという想いが彼らを突き動かす。
文字通りの敗走であり、追撃は容赦なくその身を切り裂く。
倒れる訳にはいかないと何度も倒れそうになる身体から力を振り絞り、地を蹴る。
けれど、それも限界だった。
「……え……?」
背後の建物の屋上から飛び掛かって来た黒豹。その牙が狙うのはアニエス。
飛び降りて来た豹との衝突の勢いで橋から落下し、川へと落ちる。
「……アニエスせんせー……」
高い場所からの落下で上がる水飛沫。救出は不可能。そのような事をしていれば、全員が包囲される。
「クソ……っ…!」
自分の甘さ、力の足りなさを強く感じながら、それでも愛する少女を死なせない為に静矢は走る。
腕の中で荒い息をつく彼女もまた、もう戦闘不能の重傷だ。
このままではただ削り殺されるだけの未来しか見えなかった。
●
世界が真紅に染まった。
それは地平の向こうに沈む太陽の最後の輝き。
この世の全てを有り得ざる鮮烈さに染め上げ、最後の輝きを齎す。
一瞬目を細めた中津だが、鼻を僅かに動かした。
「……嫌な匂いだ。戦と刃の匂いがする」
振り返る。
まるで燃えているかのような視界の中、一匹の黒豹を従えた青年の姿がそこにはあった。
片腕は失われ、袖が揺れている。もう片方の手には光を帯びた刀を携えていたが、その身体は傷だらけだ。
だが、吹き付けてくる闘志と戦意は衰えを見せない。
鋭く、強く、全てを切り裂く刃のような気配。
隻腕の使徒、前田走矢。
何処で何と戦っていたのか。深手を負ってこそいるが、その威、減じてはいない。
「撃退士か。丁度良い、少し物足りなかった所だ」
ゆらりと揺らぐ刀。膨れ上がる戦意に。
「……鷺谷、與那城。『水瀬』を連れて先に行ってくれ。時間を稼ぐ」
中津は決死とも取れる言葉を漏らす。
返答は。
「いや、一人では稼げる時間も、生き残れる確率も低いよ。此処は二人で、だ」
鷺谷も飛燕翔扇を構え、前田の前へと立つ。
「仲間と共に生還するって決めたんだ。その為の事はするさ」
そう言い、臨戦態勢を整える鷺谷と中津。感じる実力差は圧倒的で、絶望を通り越して死が見える。
そんな二人を繋ぎ止める光が舞った。
紅蓮に染まる街に、羽根と光が。
「……ぁ……」
その言葉はアルドラのもの。その光と羽根は、彼女の背の翼から。
純白の翼の生えた少女、アルドラ。いや。
「やはり、お前は……」
「…………」
口に仕掛けたものを閉ざす二人。与えられた光は祝福の鎧であり、二人を包み込み守るものだと身体が感じていた。
「いき……て……」
最早尽きかけている体力から、絞り出したアルドラの防護術。
「いきて……平和に……くらし、ましょう……?」
そこまで呟き、気絶するアルドラ。
「……全く、本当に」
仲間と呼ぶべきなのか、ただの救出対象と呼ぶべきなのか、理解に苦しむ。
だが、これだけはと。
「人は弱い。弱い故に頭ばかり働かせる……油断はするな」
アルドラへと呟いた鷺谷。そして與那城も二人へと告げた。
「御免、私はこの女の子を助ける! それに全力投球だ!」
「ああ、行け。馬鹿な少女の一人、助けてみせるさ」
そうして全力で走り去る與那城。反対に気を練り上げ、戦場へと踏み出す二人。
「中津流伝承者、中津 謳華、推して参る!」
「逆境って楽しいよねぇ?」
天の祝福の鎧を受けた二人。それを愉快そうに笑う前田も、また名乗りを上げた。
「前田走矢……貴様らを斬って捨て、アルドラを捕獲させて貰う!」
奔る刃は早すぎて視認不能。隻腕で辿り着ける領域ではなく、明らかに人外の剣だった。
光が過ぎ去り、鮮血の飛沫を零す中津。
中津の膝が崩れかける。だが、アルドラの施した鎧がギリギリで戦闘の続行を可能にしていた。
「中津荒神流、嘗めてもらっては困るな!」
肘の先から飛びしたのはまるで闇の牙。黒焔から成るそれは肘打の射程を瞬間的に伸ばし、前田の胸部を撃つ。
だが、裂けない。砕けない。
手応えは確かだというのに、僅かな勢いも減じない前田。
喉の奥で静かに笑う前田。斜めから飛翔してきた鷺谷の扇を打ち払いながら、刀身へと光が凝縮される。
「耐えるか。……なら、これはどうだ?」
それは静寂と言って何ら問題のない神速の一閃。
光輝の斬刃。京都で見せた技は、その冴えを失ってはいなかった。
軌道も残像も見せない一刀の元に中津が斬り飛ばされる。過剰とも言える一撃で腹部を裂かれ、背後の建物へと衝突する中津。
起き上がる事は不可能。鷺谷もそれを瞬時に理解した。
「くっ……」
胡椒玉と小麦粉袋を投擲する。
そんなものが無意味と知っていても、帰る為に足掻き抜くしかないのだ。
●
「ねぇ、お願い!」
安全エリアまで帰還し、回収班を名乗る者達にアルドラを預けて、與那城は叫んでいた。
手にしているのはスマートフォン。
陽動班の全員へとコールを掛けるが、反応はない。
どうして、もう日は暮れ、前田との戦闘で重傷を負った中津も鷺谷も帰還出来たというのに。
「なんで、誰も出てくれないの!」
一体何度コールしたか解らない。誰にコールしているかもわからない。
ただ不安と恐怖が渦巻く中、ぷっ、と回線が『繋がった』。
表示は、ユウの名前。
けれど、すぐに返答はなく、荒い息と沈黙が聞こえてくる。
冷たい、恐怖を感じた。
『……御免』
ユウの、無機質な声は氷のようだった。
『……帰れそうに、ない』
落ちるスマートフォン。
あの支配エリアに、取り残された久遠ヶ原の撃退士達がいる。
そして、彼ら彼女らは自力では帰れない。
誰も笑えない結末。
天魔の隙をついても、人に出来る限界はこの程度だったのだろうか。