●日差しと祈り
どうか。
どうか、どうかと。
淡い恋が結ばれるようにと祈るのは雪成 藤花(
ja0292)。
思えばこの二人、筑城 菫と日田 柊一の関係は人の想いと祈りあってこその今だった。
願って、動いてくれて。こうやってのんびりと旅行に向かうなんて、多くの人の想いがなければ出来なかった事だろう。
この旅行に来た人も、来なかった人にも。
多くの人に支えられて、叶った今という現実。
桐原 雅(
ja1822)が傍から見ていて意識しあっているのが解って、お節介かもとしれないけれどと背中を押したくなる。坂城 冬真(
ja6064)も初めて会うのにひと押しとして応援をしたくなっていた。
佐倉 葵(
ja7804)も微笑ましいと二人を見ている。
若くて、そここそが青春で。この一年、この夏が、この旅が輝かしい記憶になるような、大切な一ページになるだろう。
陽気に気軽に、けれど何処までも真摯に葵は願うのだ。若き日、大切な人との思い出を多く残して欲しいと。
そう。物語の終わりとして、おめでとうと言えたらどんなに素敵だろうかと、伊那 璃音(
ja0686)も思う。
お節介焼きな彼女としては、やはり幸せな形になって欲しいと思ってしまうのだ。
夏は来る。
この夏の夜に咲く花は、恋の色であるように。
皆の心が連ねる、一晩の旅行が始まる。
一行が旅館に到着してすぐ。
川辺へ出かけようとするメンバーと周囲への聞き込みに分かれる前に、日田と筑城へと感謝を述べる少年がいた。
鈴代 征治(
ja1305)だ。
今となっては事件は過ぎたもので、楽しむ為に来た旅行で言うのは無粋だったかもしれない。
けれど鈴代という真面目な少年は言葉にしたかったのだろう。
その真剣さ、真っ直ぐさでどれだけの事件の問題に向かっていってくれただろうか。
「まずは日田さん、最初に依頼を出してくれて有難う御座います」
いきなりの事に虚を突かれる日田。荷物の整理が終わり、これから川辺に向かう前にと集まった所では驚かれるのも仕方がないだろう。
けれど。
「日田さんが誰かを頼ってでも筑城さんを救いたいと思って行動してくれなければ、僕たちは気づく事も出来ませんでした」
苦しんでいる少女が同じ学び舎に、すぐ近くにいたというのに。知る事さえ、出来なかったのだと。
「多くの人の命が危機に晒される依頼や作戦は勿論大事です。でも、たった一人、たった一人の心を救うのも難しくて、とても大事な事なんだと思います」
真正面から『不幸の噂』と向き合った鈴代だからの言葉だろう。
「いや、でも俺は何も出来なくて……鈴代さん達に頼るしか出来なかったから、なんだかカッコ悪いなって」
「そんな事はないですよ。たった一人の為に懸命になったんでしょうし、一人で出来る事には限界があります」
そして、と鈴代は筑城の方へと視線を向ける。
「筑城さんにも感謝をさせて下さい。誰も傷ついて欲しくないという貴方の意思がなかったら、きっと諍いの火種は大きくなって、色んな人へ長い傷跡として残ったでしょう。だから、誰も傷ついて欲しくないと言葉にして貰って、有難う御座います」
「…………」
人付き合いが苦手なのは変わらないのだろう。筑城の表情はあまり変わらない。深く窺えば、自分の感情を伝えただけで、全ては皆のお蔭だというようだが。
「その優しさも、そろそろ別の形で報われて欲しいと、そう思うんですけれどね」
「……それ、は」
一瞬言葉に詰まる筑城。視線をそのまま逸らそうとする彼女へ、伊那が声をかける。
「楽しんで良い思い出、作りましょう」
今までの分も取り戻すように、と。
「そうです。メールでも言ったように、この旅行は楽しみにしていたんですから。楽しみましょう」
そう言って笑うのは道明寺 詩愛(
ja3388)だ。
にこにこと笑うと、少し戸惑っていた日田と筑城を先導するように歩き始める。
「ん、じゃあ、ボク達はちょっと周辺を調べにいってきますね」
「ですね。場所の下見や調べは私達に任せて、川辺で遊んで来て下さい。こちらも時間に余裕があれば、そちらに向かいますので」
浅間に続いて、坂城の言葉。
二人ともそれは善意によるもの。浅間は日田に見所をこっそり教えるつもりでの行動だったし、坂城もまた同様。苦労性で、そして人の面倒見の良い性格からのものだったのだが。
「それは、悪いですよ。俺たちだけが遊んで、一部の人だけに調べて貰うだなんて」
「そうね。出来れば、みんなて楽しみたいし」
日田と筑城がともに水辺へと行こうと誘う。
それは旅行という事を考えればごく自然な事かもしれない。
二人だけ別行動、というのは寂しいものがある。……或いは、日田も筑城もお互いを意識して、出来るだけ多くの人といて誤魔化したかったのかもしれないが。
そこにふるふるとゆっとくりと首を振って、浅間が告げる。
「『浅間』だからなのか、不思議と縁もあってね。少し知識としては齧ってるんだ。こういう時に色々調べておけるのなら、調べておきたいしね」
付近の神社仏閣の事を調べるのも楽しみになると、浅間は言うのだ。
それが本心かどうかは解らない。けれど、と。
一瞬、浅間と伊那の視線が交差する。はにかむように二人は笑って、伊那が後を引き継ぐ。
「本番は夜の蛍なんですし、ね?」
その言葉に一瞬戸惑い、揺れる日田と筑城。
そんなやり取りを微笑ましそうに、そして面白そうに見ていた葵も口にする。
「ま、みんな思い思い楽しもうぜ? あの時、ああすればよかった、なんて言っても時は戻らないんだしよ」
折角ここまで来れた。後悔するような事なんて一つもない筈。
なら、もっと気楽に楽しもうと葵は言うのだ。それこそが青春で、一度失えば取り戻せないものだからと。
「さ、行こうぜ。楽しい旅の、始まりだ」
●川の水はまだ冷たく
水飛沫が舞い、日差しを反射してキラキラと輝いていた。
限りなく透明な水。都会では見られないような美しい水は、二人の少女の動きに合わせてぱしゃぱしゃと跳ね上がり、宝石のように光りながら舞う。
「きゃっ、つ、冷たいですね」
水に濡れないよう、身軽なワンピースに着替えた雪成が口にする。
小川の水はやはり冷たい。六月という事で、水遊びには少し早かったかもしれない。
それでも綺麗な光景だった。肌に触れる冷水にびっくりして脚を上げれば、飛び散る水の飛沫。
黄金色とはいかないけれど、陽の光とはこんなに暖かい色だったのだろうかと、飛び散る水の光が、ふと思わせた。
「流石に長い時間は辛いでしょうけれど、日差しが熱い分、なかなかいいかもしれませんね」
ばしゃばしゃと水を弾いていく中、詩愛も呟く。
素足で水を跳ね上げて、その冷たさと綺麗さに何度か瞬く。肺に吸い込む空気も澄みきっていて、何処か楽しい気分にさせられてしまう。
「蛍が育つ水は綺麗と言いますが、本当に澄んでいますね。本当に硝子みたいに透明で、川底までしっかりと見える」
逆に伊那と桐原は岩場に腰かけて、足先だけを水につけている。賑やかに遊ぶのも良いが、静かに川の流れを眺め、涼やかな風を感じるのも一つの楽しみ方だ。
遠くで冷たい水飛沫と踊るようにはしゃぐ詩愛と雪成を眺めつつ、ちらりと桐原が日田を見た後、葵へと訴えるように視線を送る。
「よし、日田。ちょっと飲み物用意しているから、取ってきてくるのを手伝ってくれるか?」
「飲み物も用意していたんですか。解りました、ちょっと離れますね、筑城さん」
と、さり気無い様子で日田と筑城を一度離す葵。少女には、少女同士で話したい事もあるだろう。なら、その為の場を用意するのも悪くはない。
「なあ、日田。笑っている女の子って良いよな。みんなが笑っている姿を見れたら、男としてはそれがめっけもんだろう」
にやっと笑いつつ、続ける葵。
「お前も、特に筑城には笑っていて欲しいだろ? 頑張れよ、その為に出来る事はしようぜ」
それが、葵なりの日田への激励だった。
十分に日田が離れたのを確認してから、伊那は筑城へと口を開いた。
「筑城さん、日田さんに何かお礼をしました?」
「……え?」
首を傾げる筑城に、くすりと微笑んで伊那は続ける。
「モノとかのお礼じゃなくて、一曲、日田さんの為にピアノを弾いてあげるとか、お茶に誘うとか。……何時もピアノは弾いて、日田さんは聞いているみたいですけれど、彼の為の一曲、ですね」
それは普段よりもう一歩、心の奥へと踏み出すという事。日田は、彼は筑城にとって特別な人だと伝える事。
それを伝えるのは、難しくて、けれど大切な事だろうから。
俯いて頬を紅く染める筑城に、優しく伊那が囁く。
「もう少し筑城さんは色々望んで良いんですよ。我儘じやありませんから」
「…………」
人付き合いが苦手で、けれど優しい少女は黙す。
けれどそれは嫌なものではなくて、何処か暖かくて微笑ましいもの。思わず、見ている方の表情が緩んでしまいそうな程に。
そんな筑城への助け舟は、雪成からだった。
「ほら、筑城さん。一緒にどうですか? 気持ちいいですよ」
ふんわりとした声に誘われるように、筑城は立ち上がって水へと脚を入れて、二人の元へと行こうとする。
だが、予想外に水が冷たったのかひゃっ、と短い悲鳴を上げて途中で立ち止まってしまい、雪成と詩愛が笑う。
「わたしも慣れるまでは冷たかったですけれど、慣れてしまえば楽しいですよ?」
「そうそう。筑城さんは、もう少しアクティブになった方が良いでしょうね。楽しい事を、どんどん楽しまないと」
手で掬った水を、水の冷たさに動きを止めた筑城へとぱしゃりとかける詩愛。
一瞬怯んだのを見逃さず、そのまま筑城へと詩愛はぱしゃぱしゃと水を連続で投げかける。
流れた水が雪成にかかり、今度は雪成から詩愛へと水が飛ぶ。
それはちょっとした悪戯。皆一様に笑顔で、筑城もその微笑ましさと飛び散る水飛沫の美しさに、水の冷たさを忘れる。
「筑城先輩にお願いごとがあるんだけれどいいかな?」
そんな時に投げかけられたのは、桐原の相談だった。
「ボク自身の事なんだけれどね。恋愛の事で……今、好きな先輩がいるんだ」
こういう楽しい場だから。そして何時もと違う場所だから言えるのかもしれない桐原の恋愛の悩み。
きっと似たような状態にある筑城にだからこそ、言えるであろう事を。
「自分なりにその先輩にアプローチは掛けているんだけれど、そういう恋愛対象として見てくれているのか解らなくて」
それは桐原にとって大事な事。恋愛対象として見てくれるのか、見てくれていないのか。
自分を見て欲しいとは、誰だって思う筈。好きな人には、なおさら特別な対象として見て欲しい。
恋する少女は何時だって真剣で、そして、どうしても揺れるのだ。
「そういう時、筑城先輩だったらどうするのかなって」
「そう、ね……」
逡巡は一瞬。川の流れのように淀みなく、筑城は言葉を紡ぎ出した。
「確信できるまで、傍にいるわね、私は。相手の想いは聞かないと解らないけれど、どうやっても仕草に感情は乗るもの。言葉を交わして、視線を交わして、本当に小さな所からでも相手の感情を拾う。それが出来なくても、出来るだけ傍にいるって大切で……不安だろうけれど、お互いの距離を縮めるのに、一番大切じゃないかしら」
「……そう、かな」
筑城の出した応えは、桐原にとって満足できるものではなかったかもしれない。
恋愛対象として見て貰えていないかもしれない。その不安を抱えた間々、傍に居続けるのは、怖い。
「或いは、共通の趣味も……良いかもね」
「それは、音楽とか楽器とか?」
「私としては、そういうの、素敵だと思うけれど? 二人の共通の、二人だけのナニカって」
くすりと笑う筑城。
その顔に、再び詩愛が水をかける。短い悲鳴と、笑い声。
恋に恋する年頃である雪成は、そのやり取りを興味深そうにふむふむと眺めていた。
一方、飲み物を取りに行った葵と日田は、近くで聞き込みをしていた浅間達と遭遇していた。
彼らも一通り聞き込みと情報収集を終えて、川原へとやってきたのだ。
「お疲れ様です」
「気にしないでください。自分達でやろうと思った事ですから」
クーラーボックスに入っていた飲み物を渡してくる日田に、坂城は笑って応じる。
視線を巡らせれば、筑城達は川の中で遊んでいる所。坂城にとってはチャンスだった。
「そういえば、筑城さんってピアノが上手なんですよね。彼女が弾いてるところ、聞いたことあります?」
坂城の、日田への問いかけ。
「ええ、ありますけれど。とても綺麗で……そういえば、最初に出逢ったのも、そのピアノの音に釣られて、でした」
「そうですか」
それは坂城が日田へと聞きたかった事。
繋ぎたくて、伝えたい事。この言葉が背を押す事になればと思って、言葉にする。
「曲は誰かに想いを届けたいから作られ、弾かれるそうです。今度、筑城さんはどんな想いで弾いてたか、聞いてみたらどうですか?」
それこそ、最初の出会いは人寂しいという想いで弾かれた音楽で、日田はそれに導かれるようにして出会ったのかもしれない。
けれど、今は違うだろう。筑城は日田と一緒にいたくて、何時もあの音楽室で、ピアノを弾いている筈。
ただ、一緒にいたい。純粋な、その想いが綴った音。
それこそ、坂城はそのピアノを聞いた事はない。それでもきっと、奏でられる曲に想いはある筈だと信じていた。
「事件が終わって、それでもずっと日田さんと一緒にいた時に弾いていた曲への、想いを」
「…………」
言葉に詰まる日田。
それを後押しするように、浅間が口にした。
「聞くだけじゃなくて……素直に、自分の気持ちを伝えればいいんじゃないかな?」
すれ違いは怖いからと。
浅間のそれはありきたりな言葉ではあった。
でも、日田と筑城には、きっとそれが一番いいと思っているから。
浅間には、二人が秘めた想いを素直に言葉にすれば、それだけでいいと感じられていたから。
「応援しているよ」
微笑んで、日田を勇気づける。それが、浅間に出来る事だと。
「でも、本当に……今日のこの日を迎えられて良かった」
川原から眺める自然。川のせせらぎと木々の葉の奏でる風の音を聞きながら、鈴代は過去を振り返る。
最初にあった不幸の噂。梅の花見。そして事件と、その解決。
助かりたいのは皆同じで、欲しかったのは許されるという事だったのかもしれない。
そして、事件の関係者にみなそれらが与えられた。それは、鈴代だけではきっと出来なかった事だろうから。
「皆がいなければ、きっと出来なかった事でしょうね」
感謝をしつつ、空を仰ぎ見る。
何処までも高く遠い、夏間近の青空。
「さて、女の子達にも飲み物を渡さないとな。それに、ちゃんと写真も撮らないと」
停滞した場を動かすように葵が口にしてクーラーボックスを背負う。片手にはデジカメだ。
「楽しそうにしている女の子の姿を、写真として取りたいしな」
その言葉に反応してか、一瞬、誰かの鋭い視線が葵の背に突き刺さる。が、にししと葵は笑って手を振った。
「盗撮とかじゃねぇよ。記念だよ。こんな時間があったんだって、記念にとっておきたいだろう?」
後で振り返られるように。
写真立てに収まった、綺麗な思い出の一枚として。
「お前達も一緒に取って欲しい女の子がいるなら言っておきな。それとなく自然に戸っておいてやるよ。……代わりに、俺の分も頼むけれどな?」
笑顔で告げ、葵は川へと向かっていく。
●旅館での一コマ
旅館の売店にして、お土産を買いこむ鈴代と、どれが良いかと選ぶ詩愛の姿があった。
箱詰めのお菓子を手に取り、悩む詩愛。
「宮野先輩と、水泳部の子たちにはこれが良いでしょうか……」
敵対に近い関係だったのは、昔の話。
今は出来る限り仲良くしたい。それも筑城の願いの一つだろう。特に宮野は、この旅行を企画してくれた人でもある。
何かお土産を持っていった方が良いだろうと、そしてどれが良いだろうかと悩む詩愛。
そこに、自分の恋人へのお土産を買いこんでいた鈴代が声を掛けた。
「そういえば宮野先輩ですけれど、お土産の事も聞いていたんですよ。一応、何が良いでしょうかって」
「鈴代さんは手回しが良いですね……ふむふむ、それで、何が良いんでしょうか?」
出発前に今回のお礼と、どんなお土産が良いかと鈴代が聞いた時、宮野が答えた言葉を、鈴代はその時の真面目な口調を真似るようにして、なぞるように口にする。
「『お土産は一つだけ絶対として命令するよよ。筑城と日田の二人がどんな風にくっ付いたか、というお土産話を用意しなさい』……だそうですよ」
「それは、なんというか」
面倒見は良いの確かで、確かに後輩からも慕われるのだろうと詩愛は思う。
少し強引な所があるのは確か。けれど、あの梅見の時から思っていたのだが、あの二人は進展して欲しい。その為には、他の友達たちが背中を押す必要もあるのだろう。
何処か、肝心な所で奥手な二人だから。
「ふーむ。でも、お土産は何が良いか本当に悩みますね」
そういう鈴代だが、既に大量のお土産がその手元にはある。幾つかは恋人に渡すものだろうが、それにしても多い。
「帰ったら、蛍の写真も見せたいですね……」
此処に来なかった恋人にも、これから見る蛍を見せたいと思い。
「あ、これは……日田くんと筑城さんには丁度いいかもしれませんね」
詩愛が見つけたのは、ペアになっている携帯のストラップ。
後で日田に教えようと思いつつ、そろそろ夕食の時間だと時計を見る。
●夏の夜
日が沈む。
夕食の前に浴衣に着替えていた面々は、辺りが暗くなる同時に外へと出る。
蛍が最も光るのは二十時から二十一時までらしい。
少し早いだろうか。そう思いながらも、やはり皆楽しみにしていたようだ。
「うーん……肝試しはしてみたかったんですけれどね」
そう呟くのは詩愛。気合も十分。日田と筑城を驚かそうと色々な細工をしていた彼女だ。ホラー系なら任せてと言わんばかりの用意があったのだが、残念ながら参加希望者が少ない。最も、彼女が幽霊役をすれば、蛍が逃げ出しそうなほどの悲鳴が響き渡っていただろうが。
「でも、素敵な浴衣をレンタルできましたし。それで良いとしましょう」
そう呟いて、気合を入れる詩愛。身に着けているのは青地に朝顔刺繍の浴衣で、少し早い夏を連想させるもの。鳥の塗れ羽色の髪が、歩調に合わせて揺れていた。
「そうですね。一足早い、夏のお洒落、ということで」
優しく微笑みながら伊那が筑城へと視線を送る。
懐中電灯の僅かな光に照れされた筑城の浴衣は、伊那と雪成が選んだものだ。しっとりとしたものが似合いそう、いや、此処は明るいものの方がと二人が言いながら見繕った結果は、藍色の生地に紫陽花の刺繍。髪はアップに整えて、小さな髪飾りを刺していた。
比較的落ち着いたものとなってしまったが、元々クールそうな筑城にはこういうものが似合うのだろう。
並んで歩く伊那は紺地に雪輪朝顔柄。彼女も落ち着いた物を選んでいる。何処なく大人びたような二人の雰囲気に、雪成は僅かに表情を暗くする。
「ちょっと、子供っぽかったでしょうか?」
そういう雪成が選んだのは白地に赤い金魚の柄、赤い帯のもの。確かに子供っぽいと言われればそうかもしれないが。
「いえ、可愛くていいと思いますよ。雪成さんには雪成さんらしい良さがあるわけですし」
少し前を歩く坂城が振り返り、口にする。
釣られるように葵も振り返り、日田へと肘で何か言えと牽制を入れる。
「あ、えっと……ですね。筑城さんも、綺麗です。何時もとは違う感じで、でもやっぱり筑城さんらしいというか」
一瞬、葵と坂城が『も』とは何だという顔をしたが、筑城はくすりと笑って、有難うと応じる。
「さて、もうそろそろの筈ですよ。神社の横に川が流れているらしくて、運が良ければ蛍も集まっているだろうって聞いていますから」
先頭を歩いていた鈴代も口を開く。
都会の喧騒では見られない蛍の舞。それはどんなものだろうかと、期待と好奇心を擽られながら。
そして、それはぽつりぽつりと姿を現し始めた。
「…………あ」
桐原の呟きに応じるように、仄かな光が瞬き、その数を増やしていく。
夜闇の中では、月より頼りない小さ輝き。けれど、それが舞うように空を舞い、仲間を求めるように宙を泳ぐ。
星達が泳いでいるよう。雪成はそう感じた。無数の星達が空から地に降りてきて、泳いでいるかのようだと。
「素敵ですね、まるで夢のよう……」
蛍は人の魂だとは、誰がいったのだろう。
綺麗で儚くて、指を伸ばせば届きそうなのに、けれど触れたら壊れてしまそう。
魂で、心で、それは人は死んだら星になるという伝承とよく似ている。夜空に上がった魂たちと、地上で揺れる魂たち。
そんなことを、つい信じてしまいそうなほどに。
気づけば、蛍の数は数えきれないほどに増えていた。
地面すれすれ、あるいは視線ぐらい。もっと高くて、空を仰ぎ見るようにしなければ目に入らないような位置。様々な場所で、思い思いに光る蛍たちは、まるで皆を歓迎しているかのよう。
思わず目を奪われる。心奪われる。
現実感を失わせる、自然の作った美しさ。
「璃音さん」
だからというように、浅間は伊那へと声をかけた。
遭遇した蛍の群れに意識を奪われている間に、少しずつ抜けて、日田と筑城を二人にしてあげようと。
散策の好きな、浅間と伊那。
眺めがよくて、静かな場所を求めて。
――ちゃんと連れていって下さいね?
日田へと視線を流し、伊那はそっとその場から立ち去る。
そう意識したかどうか関わらず、離れていく面々。思い思いのメンバーで、蛍狩りへと流れていった。
●蛍の夜
「これは……難しいね」
苦笑しながら桐原が行っているのは、光量を抑えて光纏を展開するというもの。
蛍を脅かさないように光の強さを絞る、というのは簡単だったが、同期させるように明滅させ誘うというのは思っていたよりも難しい。
けれど。
「……身を委ねる、のかな」
そんな不自然な発光をはぐれて寂しがっている仲間と思ったのか、桐原の周りには漂うように蛍たちが集まってきていた。
その様子を見て、呼吸を整えるように光の点滅のタイミングを計る。少しずつ合っていけば、その分蛍達は近づいてくる。
舞う蛍達。光の演舞。
求めて、探して、擦れ違うように踊る光。
その様子に、ふと筑城と日田のことを思ったが、大丈夫と安心して桐原は瞼を閉じる。
そんな彼女たちを驚かせないように、小さく葵は口にした。
「辞めた。これは、撮るものじゃないな」
記念にデシカメで蛍をとるつもりだった葵。けれど、光の群れを見つめて、デジカメをポケットにしまう。
「蛍二十日に蝉三日……幻想的なのはこの一瞬だけで、切り取ってしまったら、きっと幻想じゃなくなる」
消える泡沫こそ、幻想の夢というのならそれは確か。
目の前で蛍と踊る桐原も、幻想戯れる少女。思い出だけに残して、物に残さないのが風流だと葵は思って。
仰ぎ見る空。月と星と、蛍があった。
「蛍……小学生の時以来ですね」
「あの学園にいたら、なかなか蛍なんて見れないでしょうし、ね」
何時の間にいたのか、詩愛の隣には坂城がいた。
驚く彼女に、坂城は苦笑して、『二人』から離れつつ蛍を見ようとしたら、どうしても一か所に固まってしまうようですよ、と告げる。
そして視線を向けると、そこには写真を撮ろうとする鈴代と雪成の姿があった。
一緒に行動していたわけではないだろう。
だが、共に筑城と日田の邪魔をせず、幻想的な蛍の光を写真に撮ろうとすれば、近くに来てしまうのかもしれない。
けれど、二人ともそれに気づかずに、そっとデジカメとスマフォのシッャターを切る。
切り取られた幻想は、現実の一枚に。けれど、それは無粋なものではない。
一緒に、この風景を一緒にみたい人がいた。
この綺麗な光の夢を、見せてあげたい人がいる。
純粋な思いは、他を想う心。人を救い、愛し、そして己も救われる一途な感情。
この一夜、記憶に鮮やかに残るだろう。
ただひたすら純粋に、想いを連ねて。心震わせて。願い、叶えるために。
そうして、震える日田の指が、あるものを筑城に渡そうとしていた。
周囲に人はおらず、気が付けば蛍が日田と筑城を取り込んでいる。川のせせらぎの音は涼しくて、心臓の鼓動だけが煩くて、早くて、熱い。
冷たい蛍の光に照らされて、赤く染まった二人の頬が夜に浮かび上がっていた。
「これ、受け取って貰えますか?」
「…………」
それは詩愛が売店で見つけたお揃いの携帯ストラップ。
情景は綺麗なのに、なんて子供っぽいのだろうと筑城は思わず小さく微笑む。けれど、だからといって自分の胸の高鳴りが静まるわけではなかった。
そして、そこに掛けられる日田の声。
「うん、笑ってくれた」
「……え?」
「俺は、筑城さんに笑っていて欲しいんです。あったときからずっとそう思ってました。寂しそうにするんじゃなくて、ただ、ただ笑って欲しいって」
「…………」
「その為なら、俺は何でもやります。……筑城さんが、笑顔でいれるように。そうするに、俺じゃ器は足りないかもしれませんけれど……けど……」
その先の言葉を封じるように、一匹の蛍が日田の鼻先に止まる。思わず驚いて口を閉ざす日田。その様を、やはり可笑しそうに、微笑ましそうに、筑城は見て。
「帰ったら日田くん。貴方のために、貴方の為だけに曲を作ります。その曲を私が弾きます。それは……」
その先は、唐突に吹いた風に浚われて聞こえなかった。
けれど、唇の動きだけで、瞳に映る感情だけで、十分だった。
そうして、もう一つ。
秘めた想いが、蛍の光で露わになる。
普段とは違う浴衣姿の伊那。仄かな蛍の光が彼女を取り囲み、断続的に伊那の姿を闇から救い出していた。
浅間は思わず見惚れてしまう。
何時もとは違う。日常との差異。幻想と現実。夢と今の境。
魅入られるように。けれど、零した言葉は偽りなく、浅間のものだった。
「綺麗だね……いや蛍じゃなくて璃音さんが」
「え……?」
揺れる想い、またここにひとつ。
一夜に咲いた、二つの花。
●眠る前に
明かりの消された女部屋では、ガールズトークが繰り広げられていた。
頬を赤く染めた筑城と日田は当然のように槍玉に上がり、どうなったのかをしっかりとその顛末を聞かれることとなった。
尤も、筑城は暗喩などを用いてできる限り流そうとしていたようだが……それは無駄な抵抗だったのかもしれない。
今や何も聞こえないといわんばかりに布団をかぶり、枕へと頭を押し付けて完全防御の姿勢をとっている筑城。ある意味、戦闘不能でこれ以上の追撃は危険だ。
「先輩たちは好きな方っていらっしゃいますか?」
そうして流れた話題。雪成が言い出したのは、彼女もまた、好きな人がいるということから。ただ年齢差があって、恋愛対象に見てくれないだろうということを、ぽつぽつと零す。
「…………」
似たような状態にいる桐原も、しっかりと聞いていた。
思うのは、本当は二人で蛍を見たかったということ。
同じ綺麗なものを、二人一緒に見れるという幸せを、どうしても願ってしまう。
来年は、想い人と来ることは出来るのだろうか。
不安と期待。混ざり合った、けれど何処か心地よい感情が胸の奥で転がっている。
「私は……穏やかで、芯のある人が好きです。けど、今の空気がとても心地良くて…」
それだけではない何かを含ませ、揺れる感情を言葉に乗せる伊那。
「私は……」
そんな中、詩愛が口を開く。彼氏どころか、好きな人もいない身だけれどと。
「こんな世の中ですし、いつ誰が傷つくかもわからない……だからこそ好きっていう気持ちは大事にした方がいいんじゃないかな? って思うんです」
何時消えて潰えるかは解らない。
撃退士として、久遠ヶ原の学生としているというのは、そういうことで。
「だから、好きという気持ちは……伝えたい、大切にしたいって思います。それが、何より大切な宝石で、原動力になるって、そう思いますから」
まだ見ぬ感情を瞼の裏に描いて、詩愛は告げた。
一方、男部屋でも、寝静まった頃を見計らって、坂城が日田へと声をかけた。
「大切な人を持つと言うのは、その人のためにも生きると言うこと」
それは、生き残ろうとする力であり意志。
どんな絶望の前でも砕けない、大切な人への想い。
「それだけで人は強くなれるんです。撃退士としてそれは大切なことじゃないかと思いますよ」
あるいは、人としても。
そう呟く坂城に、日田は頷いていた。
「曲も、生きることも、大切なものがあるからこそ……ですよ」
「若い、うらやましいぜ」
そこでくつくつと、我慢出来なくなったのか葵が口にする。
「撃退士とかそんなの関係なく、な。女の子を守るのが男の役目で、それが好きな子ならなおのことだ……頑張れよ、若人」
ずっと年下を見守る形でいた葵の、応援の一声だった。
そうして、明日の朝には学園に変えるのだ。
変わった日常に。
大切な人のいる場所に。
蛍の光で照らされた、赤い心を持って。