●
夏の伸び切った夕暮れの中で、祭りは始まる。
静かなのは最初だけ。人の感情に暖かいものが寄り添えば、言葉は弾む。
強い風に煽られて、色取り取りの花びらが踊るように。或いは、無数の色彩が擦れ違うように。
けれど、それらは互いを踏みにじることなどないのだ。
祭りの中で、擦れ違う人々もいる。顔も見ない。
でも、確かに笑っているのを遠くから眺めるのは柊 朔哉(
ja2302)。
かつて吐露した言葉を反芻して、花と人を見てしまう。
「何故、相容れないのだろう――そう問いかけたのは、俺だったな」
あの言葉は、何故零れたのだろう。
そんな想いを今だに、ずっと、それこそ種が芽吹き、花と結ぶ程の時間、胸に抱いている。
「それでも、俺の願いで理想なんだ」
少女の胸に抱くには、きっと一途で凄絶な想い。
歳相応に花壇の花びらを愛でるのも、ひとつの人生。けれど、柊は戦うことから逃げはしない。
天と魔が争えば、ずっと続くのだ。理由を忘れる程にずっと続いて、幾つもの花びらが、花園が忘れて散らされて来た。どけだけの嘆きがあっただろう。それはこの星だけではない筈。
けれど。
「……天魔の間に俺達が入る事が出来たなら」
まずはこの四国の動乱。天魔乱れる地でこそ、理想の花を咲かせよう。
近くの店で買った鉄砲百合の意匠を凝らしたブレスレットに、そっと指先で触れる。
花は同じ品種でれそれぞれ花言葉が違う。百合は百合でも鉄砲百合であれば、威厳と純潔。
戦いを止める為の威厳と、平和を求める純潔をこそ、柊は求めていた。
では、その胸に咲いた花に、どんな言葉という願いを託すのだろう。天が地を照らし、月夜の雫が育む、理想と幻想の花びらには、どんな花言葉が似合うのだろうか。
禍津の幻想花、今だ色艶見えずとも此処に花、綻ぶ。
そんな揺れる想いと裏腹に、愚直な眼差しが幾重にも紫の層が連なる空を見上げた。
「その想い入れが、血で濡れたものではないとは信じよう」
花など柄にはない久遠 仁刀(
ja2464)には、花言葉などまるで解らない。
あくまで真っ直ぐで、純粋で、危うい程ひたむきな瞳の持ち主。警備こそしていたが、平穏な祭りの中では思わず過去を振り返ってしまう。目の前の花の美しさより、意思の凛々しさと、そして剣呑さを。
人間は共食いをする生き物。そう口にして天の道を歩んだ。それ故の信念と行動。今更、菖蒲という禍津の使徒が何かしでかすとは久遠には思えない。
「その根拠が、あの剣鬼が認めたから、というのも情けないが」
花占いに星占い。
言葉や願いを託すものなら久遠は、一振りの剣をこそ根拠にしたい。
「情けない」
苦く、けれど何処か綻ぶように笑う。
剣も花も星も、言葉を乗せて願い託すのではなく――掴み取るものだろうと。
人としての想い入れ結構。使徒とて名残ある。ならば、この花祭りに、氷刃は何を映す。
少しずつ、少しずつ、夕闇が迫って。
淡いランタンの光に、紫や青の花びらが照らし出される様は、天と地の境が消えたかのよう。
夜空が、無数の花たちに宿されている。
ならば、そこで笑う瞳は、きっと星に違いない。
その物語たちを、ひとつずつ語っていこう。
●
華は散る際こそが美しければ、きっとまだこの花園は未完成なのだ。
終わり往く道筋で孕む想いの色彩。舞い散るその最後まで、花びらはより綺麗になる。
ならばとフェリクス・アルヴィエ(
jc0434)は瞼を閉じた。
夢見る最期は、どんな様なのだろう。
破滅と耽美。喪失という名の理想。そんな想いで染まった紫の瞳に浮かぶ感情は敗退的でありながら輝いている。最愛の妹へと万感の想いを宿し続けているのだ。
「似合っている。存在するどの華よりも美しい」
フェリクスよりも、何倍も、比べることが愚かな程に、シャルロット・アルヴィエ(
jc0435)は美しいと信じている。
だから千代簪で、そっと乱れたシャルロットの髪の毛を梳いて整えるのは当たり前。
シャルロットの瞳に、僅かな困惑が浮かぶのも気付かぬに。
「御上手ね、愉しませてくれるんでしょう?」
兄であるフェリクスの愛は重たいのだ。口にこそしないが、買い与えられた黒地に紫と青の薔薇の浴衣も、今、金糸のような髪に刺された簪も、重たい。
まるで鳥籠の重荷だ。羽ばたくこと、赦してくれない気がする。自由に、満足するまで危うい夜空を飛ばせてはくれない気がしてならないのだ。
「美しき華一夜を存分に愉しみなさい」
シャルロットに買い与えられる雨林檎。甘酸っぱくとも、まだ物足りない。
フェリクスが白薔薇を買い与えれば、その刺にこそ愛しさを憶える壊れた感情。シャルロットが頬擦りした瞬間、刺で柔肌が裂かれるのでは兄の秀麗な眉が潜められ、途端に興味をなくしてしまう。
結局、互いが何を求めているのか、まるで理解しない美麗に二輪。寄り添うには、遠すぎる心の距離と壊れた情動。
だから、道往く少女に白薔薇を手渡しても、まるお互いの感情を汲んだりは出来ない。
「あげるわ、お嬢さん」
「受け取って頂けたなら光栄です」
何処か擦れ違っている。何処か間違っている。悲しくなるくらいに。
その薔薇をもらったのはシャルロット。でも、買い与えたのはフェリクス。何故、大切にされないことが光栄なのだろう。
ただ妹の為に散る華でありたいと、フェリクスは壊れた献身を晒すばかり。
空と地は、こんなにも遠い。
変わりにと花壇から一輪、シャルロットによって手折られた名も知らぬ花。即座に指先でほどくように花びらを散らす。
「私、散った花びらはそのまま捨て置く主義だけれど、許してね、お兄ちゃん」
「もちろん」
――嗚呼、私もお前の為に、その花のよう散る瞬間を迎えられたならこれ以上ない喜びなのだから。
差し出された腕は、舞踏への誘い。
触れ合うのに遠く、近いのに星同士のように離れている。
まるで一組の星座のような、兄と妹、
そんな、物悲しいものばかりではなくて。
冷たい星の雫だけではなく、暖かな星の音色を届けよう。
聞こえない?
それは、ただ雑踏に紛れてしまっているだけ。耳を澄ませれば、届くはず。
からんっ、と軽やかな音を立てて踏みとどまる。
弾むような足取りは目当ての人をみつけたから。思わず強く響かせてしまったのは、嬉しかったから。
「お待たせ、緑さんっ」
訪れた夕闇の中、柔らかな水玉模様の浴衣姿で微笑む杷野 ゆかり(
ja3378)。一歩踏み出したその勢いで、可愛らしい猫の付け根がにゃっ、と跳ねるように弾んでいる。
眠たげだった点喰 縁(
ja7176)の目つきも、そんなゆかりの姿で思わず一瞬で醒めるほど。緑にとって着慣れた浴衣でも、見るのは違う。ましてや、自分が恋する少女のものならば。
「いんや、ふらりと歩くには丁度いいさ。身内にもあんまり贈らねぇからな……花は」
互いにプレゼントとする花を秘密で探そう。そんな約束を交わした。
ゆかりという少女にはどんな花が似合うだろう。
花言葉なんて解らない。残念ながら花の名前さえわからない。
喜んでもらえるだろうか。失望されないだろうか。
そういう想いは、きっと互いに。だからゆかりも、後ろ手で隠していた花を、すっと差し出すのだ。
踊るように流れる浴衣の裾。花にも決して負けない、綺麗な眼差し。
「私からは……これ」
細い指が持つのはアサガオに似た紫の花。きょとんとする緑に、ゆかりは笑って説明する。
「ペチニュア。花言葉は『あなたと一緒だとやすらぐ』……『心の安らぎ』。何時の間にか、隣りにいることが当たり前な貴方に」
手渡される、安らぎ。指先だけが一瞬重なり、口に出来なかった言葉が、ゆかりから漏れる。
「……私が、あなたにとってそんな人であればいいって想っているんだけれど」
この花をこそ、私として。
花が宿した想いを、私の理想と重ねて。
――ああ、だから、人は心に迷えば花を見たくなるのだろう。
無数の花の中から、心を支える言葉を、想い重ねる色彩を探して――
「お、おう……当たり前だろう。けど、悪い。俺は感覚で選んでしまってな」
貰った花を大事そうに。そして、同じくらい、大切そうに緑が取り出したのはセンニチコウ。
名も知らない。ただ、ランタンの灯りの下でも、明るく球状の花を咲かせる様を見て、ゆかりに似合いそうだと想ったのだ。
「こう、風で揺れる様が、なんつーか、色々首を突っ込むお前に似ている気がして」
「……センニチコウって、ね」
ざわりと、風が喧騒を攫っていった。
熱を帯びたゆかりの声だけが、静寂の中を貫く。
微笑みさえ崩れてしまう程の、強くて暖かすぎる喜びと共に。
「センニチコウの花言葉は、『変わらない愛情』、だよ?」
「……っ……」
指摘されて、全力で視線を逸らしながら頬を赤らめる緑。
そんな花言葉、知らなかったし、感じただけ。でも、心で感じたのであれば、きっと正しいのかもしれない。
似合うと想ったから。
そう感じたから。そう感じているから。
後付けでも、ゆかりがセンニチコウが似合うと、緑が感じた時点で、既に『変わらぬ愛情』があったのかもしれない。
恥ずかしさに潰されそうになりながら、祭りの気配へと戻る二人。もう、二人だけの静けさはなかった。
「少し強引かと思ったが、悪いものではなそうだな」
呟く咲村 氷雅(
jb0731)の視線の先、小さく微笑む水無瀬 雫(
jb9544)の姿があった。
今だ少し強張りながら、物静かな花を見つめている。何かへと想い馳せながら、ふらりと足を進める二人。
雫は夏なのに青い蛇のついたマフラーを巻き、歩くたびにふわりと揺れる。蒼い髪結いの紐についた鈴が、ちりん、と静かに鳴る。
喧騒から離れ、祭りの外周。楽しい気配より、今は心埋める美しさが欲しかったから。
「……誘って頂いて有難う御座いますね、氷雅さん」
雫の唇から零れたのは感嘆。薄い青から段々に青、深い青、紫と重なっていく様は教会のステンドグラスのように規則正しい美しさを描いている。
大切に整えられているのだろう。誰がどうしてかはわからない。昔からずっと、大事にされ続けてきたことだけが、花壇の石縁が自然と削れているので解る。
長い時間、割き続けた花園。
代々、受け継がれてきたもののように。
「これほどの花園を見るのは初めてです。綺麗ですね」
「そうだな。一年、二年では花は綻ばない。十年立って咲き誇り、それからずっと整えられてきたんだろう」
だから、大事な場所なのだろう。
想い募り、綺麗と溜息を付かせる程に。
だから少しだけ二人の胸は痛んだ。家族、血族、失ってしまったものを感じさせるのだ、ここは。
繋がっていたものを思い出させる。でも、何故だろう。同じく位に疼くのだ。決して消えない絆があると、花たちが夜風に謳うようなのだ。
「……どの花を買っていこうか」
「どんな花が、いいでしょうね」
儚んだ身へと、捧げる花。けれど、決して繋がりが絶たれている訳ではないと思えたのだ。
まだ言葉は花に込めて届けられる。星ほどの距離はない。ましてや、咲村と雫は囁きが届くほどに誓いのだ。
最近、何か悩んでいるようだと咲村は雫を見て思っていた。今も少しだけ強張っている表情。無理に明るくしようとして、息と共に少し沈む。そんな様を見ていられなくて、誘ったこの花園。
あの花は何だろう。
名前は。由来は、花言葉は。
まるで夜空の星座を言い当てるように言葉重ねていく咲村と雫。それが、どれだけ続いただろう。
静かに、深く。ゆったりと心から痛みが滲み、夜に溶けるまで、そうしていた。
「……何時までも落ち込んでばかりではいけませんね」
気を使わせて申し訳ないと、頭を下げようとする雫に、咲村が先んじて首を振る。
「気にするな、俺も新しい武器の製作に煮詰まってたところだから丁度いい。……それより、これからまた忙しくなる、休めるときに休まないとな」
「ええ。おかげで少し気が紛れました。私、もっと強くなります」
視線を上げ、見詰め合う。
それこそ、誓うかのように。祈りも願いも託すもので、自分でするものではないのだ。
なら、ここに宣言を立てようと、雫は口にする。花にも星にも頼らずに、この足で立つのだと、切実な響きを声色に乗せて。
「もう誰も失わない為に、氷雅さんと並んで歩けるように……」
誰かに寄り添うのではなく、並んで歩くことがどれだけ難しいか。
失うのではと振り返ることもある。背中を歩ければ見失いはしないけれど守れない。前を歩けば危険に晒さずにさむけれど、振り返ったときいないこともある。
「だから、氷雅さんもあまり無理しないでくださいね」
一歩も乱れず、一息も狂わず、隣を歩こう。この足だとしても。
そんな懸命さだったのに、微笑まれると雫の心が緩むのはどうして。
「頼りにしているぞ雫。だからあまり思いつめるな。俺はお前を置いて先にいったりしない」
沈黙が僅かに降りた。
幸せの鐘はならない。ただ、言葉が要らなかっただけ。
花が揺れる風ばかり、二人を包んでいた。ただ、ずっとはそうしていられない。並んで歩けるようにと、前へと進む宣言をした雫の前で、立ち続けるのはすこし男らしくないと咲村は感じたのだ。
だから、声を切り替えて告げていく。
しあわせな静けさを、自分から破って。まるで雛が殻を砕いたかのように。
「命日は過ぎたけれど、花を買っていこうか」
「ええ、それが良いでしょうね」
二人は、まだ知らない明日という空に羽ばたく。ようやく、今日という殻を砕いたばかりの身で。
それをずっと続けるのだ。
「あの……もし迷惑でなければ、またご一緒してもよろしいでしょうか?」
続けた先、明日へ、明日へと進んだ先で、この庭園はどう移ろうのだろう。
雫はそんな疑問を浮かべながら、けれど澄んだ声で紡ぐ。それこそ、断わられることはないと、もう何処かで知っていたから。
「そうだな、機会があればまた一緒に来るか」
何時かの話。けれど、きっと何時か来る日の約束を、ここで交わす。
そして果たされる、夢と理想と約束。
花園の中央ではライブステージが用意されている。
鑑賞の妨げにならないようにと演目はチェックされ、けれど。熱気と楽しげな音色の響く中央。
そこで、ついに叶うひとつのこと。
「念願のセッション……よし……っ」
舞台に上がる際、魔法の言葉を唱えるようにソフィスティケ(
jb8219)は口にする。
緊張だってするのだ。大好きな姉貴分、まこ姉こと川知 真(
jb5501)とのそれは、本当に念願。夢叶うといってもいいだろう。
指で一度だけ、強くガットギターの弦を弾く。調音は完璧に。これを記憶に残る、いや、記憶の中で奏でるものにしたいのだ。
「ソフィスも似合って、いますね」
「まこ姉も凄く似合っているよ」
だから舞台衣装だって凝っている。ソフィスティケも川知も浴衣姿でそろえた上、髪の毛はお揃いの鈴を飾り、身体を揺らせば、ちりん、ちりんと楽しげに鳴り響く。
釣られるように、何処からか現れたのは蛍たち。雪のように儚い光を点々と、ひらひらと舞わせて舞台を飾る。いや、きっと釣られて来たのなら。
「月明かりに蛍の光、今宵の役者は揃ったね」
「時期的に死者に鎮魂歌を……ですね」
ソフィスティケの弾むような言葉に、くすりと笑いながら川知はふと思い出す。
蛍は人の魂だという。なら、このお祭りに集まったのはどうしてだろう。首を傾げれば、ちりんと鈴が鳴り響く。ちらちらと、蛍が瞬く。
「きっと、一夜の夢と物語を聞きに来たのでしょうね」
ある意味の幻想。平穏と平和と、花と星と蛍。
そんな舞台に立つ川知は金魚の泳ぐ白いミニ浴衣。下の方でサイドテールに結んだ髪の毛がショルダーキーボードにさらりと流れる。
ソフィスティケも紺地に赤と白のトンボ柄。ガットギターを手に、まこ姉が作曲してくれた歌を奏でるのだと、胸の高鳴りが止まらない。その為のトンボ。その為の浴衣。
楽器を携えた浴衣の少女二人の姿に会場をざわめき立ち、テストで調整するマイクが起こすハウリングが、一瞬の静寂を呼んだ。
始まるのだ。
夜空に染みこんでいくような、川知のしっとりとした歌声が、開幕の合図。
ソフィスティケのギターの弦が指先に従って打ち鳴らされ、曲を導くように音を連ねていく。重なる音はキーヘボードを滑る指先。
静けさを壊さずに、響く音色。そして歌。
「蛍よ」
「蛍さんよ」
けれど、ソフィスティケの念願のセッション。
熱を帯びない筈がない。その想い汲み、連ねた川知の曲の筈がない。
想いは、胸から喉へ、そして唇から夜気を震わせていく。
「この歌を届けておくれ」
ソフィスティケの歌が、鳴り響く弦が遠く、何処までもと。
「この想いを届けておくれ」
川知とてそう。鳴り出だす心は止まらない。
走り抜けて、走り抜けて、もっと先に。この夜だけでは足りないの。
一夜限りの夢なんて、砂糖菓子のように甘くても、その余韻は物悲しい。
そんなもので満足するほど、もう子供じゃないの。
『ここにいない私の大切な人へ』
痛いのも切ないのも構わない。苦味を帯びた音は、寂しさを知る歌は、だから心と魂さえ揺さぶるのだ。
共に人の隙間へと、入り込むから。
『私はここにいると』
願いは果たされるまでが夢。
叶う瞬間に花開き、色を得る。
『ずっと待っていると』
だから二人の重なる歌声は、奇妙な二重奏。
ここにいない人へと想い馳せる川知の歌と、姉貴分と歌える喜びを弦に伝わらせて響かせるソフィスティケ。
送り火のように穏やかで、なのに熱と光を持つような歌。
蛍の冷たい光。星の冴え冴えとした雫。どれも違う、人の心の輝きを解き放つように。
「貴方の帰りを」
川知は歌うのだ。
その背に届くようにと、ソフィスティケも。
「貴方が来るのを」
だから最期は、魂が燃えるような、蛍の翅さえその歌声で舞いあがるような僅かな語り。
その中に、万感の想いを込めて。
最期に燃え尽きる、斜陽のような優しさと光を一筋、歌声に乗せる。
『鎮魂と祈りのこの歌があの人への元へ届きますように』
重ねた二人の歌声を留めるように、ぽろりんと、揺らめくようなガットギターの音色。
幕は落ちて、夜の静けさが戻る。
静寂の一瞬の後――ぱちりと一つ、瞬くような音。
拍手がひとつとおもえば、みっつに増える。七つ、八つと数えて、もう無数に。
夜闇の中で花が開く音のように。静かに、静かに、沢山の拍手が止まらず流れて揺れる。
「心に届いた、のかな」
ソフィスティケは熱っぽい喉で、掠れた声を漏らす。
「――胸に、花が咲いたのかな」
そうであって欲しいと願うのだ。それこそが、二人へと贈る花束になるのだから。
●
そんな歌の余韻を吸い込む、しじまの夜空。
見上げる瞳は黒く、冷たい。その貌に浮かぶものもやはり氷のよう。
ただ、ずっと昔よりは真っ直ぐなのかもしれない。周囲に与える冷ややかさが薄らいでいる。
端的に言えば周囲に向ける意識の変化だろう。昔の彼女であれば、花祭りをみたいなどと、口にしない。
そんな禍津の氷刃、森野 菖蒲は一つ拍手を鳴らすとその場を立ち去ろうとする。
護衛は仕方ない。むしろ、何時、『始まるのか』とも思っている位なのだから。
けれど、そこで行き合う縁もある。
視線が触れ合い、言葉が交わされるのだ。
「どうも」
「お久しぶりですね、森野さん」
宇田川 千鶴(
ja1613)と、その肩で支えられる石田 神楽(
ja4485)。
白と黒の二人は体重を支えあい、息が合わせて前に進んでいる。それがどれだけお互いを信頼していなければ出来ないことかなんて、無自覚なのだろう。
にこにこと微笑みを浮かべる石田も、もう片手には沢山の買い物を抱える宇田川も。
寄り添うのに、支えるのに、苦なんてないということがどれだけの絆で結ばれているかなんて、考える必要もないのだ。
「……久しいわね。どうしたの、女性の肩なんて借りて。疲れたのかしら?」
冷ややかな菖蒲の声が指すのは、石田が負傷している身であるということ。
怪我しているの、と直接言葉にしないのは菖蒲なりの配慮だろう。隠そうとして、所々、包帯で巻かれている部分が見えているけれど、見なかったことにしてつい、と視線を流す。
「いえいえ、やはり戦いの後はお休みしたいですよね〜……という所です」
「そうやけど、休みなんやし、無理は禁物やで」
小さな、目立たないけれど優しい花が咲くように微笑みあう石田と宇田川。
多少苦いものが混ざっても、それは仕方のないこと。むしろ、無茶をする大切な人を、魂の片割れのような恋人を、気遣うかのよう。
「そう、疲れたのなら向こうの広場は人が少ないから、そちらで休むといいわ。歩き続けて酷くなっても大変だものね」
流し目を向ける菖蒲の黒い瞳はやはり冷たくて、物静かだ。
情動が感じ取れず、綺麗なのに何処か近寄りがたい雰囲気を纏っている。
楽しんでいるのだろうか。花を愛でたくて、或いは祭りに思うことがある筈だろうに。
こんなにも華やかな一夜の中でも笑う気配のない菖蒲の表情に、宇田川は眉を寄せた。
この少女は誠実で、だから不器用だ。見ていて、少しだけ痛ましい。
微笑み、安らぐことがあるのだろうか。あって欲しい。求めて、ここに来たのでは。
「その顔は頂けんよ。冷たくて綺麗でも、祭りでは笑っておらんとね」
その後はもう半ば反射だ。理由なんて後から沸いて来るだけ。
「どうぞ。どうせ神楽さんは疲れを理由に食べへんし」
さっと宇田川が腕を出し、押し付けたのはタコ焼きや綿飴、リンゴ飴などの出店の定番の数々。
何も持っていなかった両腕で受け取りことしたが、僅かに戸惑い、どうすればいいのかと揺れる菖蒲の瞳に、宇田川は告げる。
「本当に、折角の祭りなんや。周囲の人のためにもその顔は頂けんよ。せめて何か食べて、緩めてや」
「……なるほど」
納得したのか、頷く菖蒲。だがごっそりと渡された量は明らかに一人分には多すぎる。
だからこそ、菖蒲が付け足した返事には微かな微笑みの気配が含まれている。少しだけ、意地悪を仕返すかのような。
「そこの彼と、食べたかったの? 無理してでも食べないとダメね、痛いのは身体より心、自分より大切な伴侶でしょう?」
思わず宇田川の息が詰まり、石田が含むように笑ってしまう。
そうしている間にするりと二人を避わすようにして、屋台の近くへと行ってしまう菖蒲。その背中に続ける言葉はなく、溜息を一つ。
靡く長い黒髪の先端に、届くか届かないかの小さな囁きを一つ、石田は漏らした。
「……ふむ、昔と雰囲気が違いますね。方向性が徐々に固まって来た、というカタチでしょうか」
にこにこと。それは望ましいことなのか解らないけれどと。
少なくとも人間、撃退士とみれば敵意を向けるような抜き身の刀身じみたものはなくなっている。居合いを放つと、身構えている風でもない。ヒトとしてみれば、それは良いことなのだろう。
「話しかけて、斬られることもありませんでしたし」
などと過去を振り返りつつ、花壇の近くに座るスペースを見つけて、のんびりと身体を伸ばす石田。
本調子ではないのは確かで食べ物を食べきれなかったのも確か。けれど、ならばせめて宇田川に何か渡せないかと、指先を揺らす。銃を握るのではなく、花を摘むための柔らかな動きで。
「撃退士というのは凄いですよね」
これだけの傷を負ってもまだ動ける。
十全に銃を扱うことは出来なくとも、繊細な動きで茎と茎を織り上げていく石田。
意思の力もあるだろうが、それだけではありえない。痛みは慣れっこで、だったらと連なり紡がれていく花たち。
「せやな。けど、 感覚が麻痺して死ぬって事、忘れそうで怖いわ……」
触れ合っいた肩の温もりも、すぐに溶けてしまっている。
忘れてしまうのだろうか。些細過ぎて。戦いに比べれば小さな出来事だからと。日常の紙を一枚、一枚連ねるようなものこそが、愛おしいのに。
「忘れんでやね」
念を押すように、振り返りざまに強く口にした宇田川の頭に、そっと何かが載せられる。
それは花冠。石田が指先で紡いだ、繊細で柔らかな、数日しか持たない大切なもの。
「忘れませんよ。そうやって、毎日、移ろう花びらを記憶にとどめていきましょう?」
「…こんな可愛いの似合わんよ」
恥ずかしくて、笑って誤魔化そうとするけれど、花冠を外したり出来ない宇田川。
風、揺れて、流れて、移ろう。
穏やかに、緩やかに、夜は深まるばかり。
使徒に、里心でも今更ついたの。
などと、六道 鈴音(
ja4192)は思ったものだ。
今更可笑しいと思うのは当然で、だから露骨なほど、やや離れて、監視していると告げるように後をつけていた。
菖蒲は使徒。一瞬でも油断ならない相手だし、天界と人との隔たりはそれこそ星空と大地ほどに。それを繋げようと苦心するものがいるからこそ、それが成り立たない今がそれを証明している。
「ちょっとでもおかしな真似をしたら、私がケシズミにしてやるわ」
無論、穏便に済めればいい。被害などなければいい。
血で美しく染まる花などなく、淡い光に照らされるものが全て。
宇田川と石田と話しこんでいる間、あの二人向き合っている間ならば、大丈夫だろう。そう判断して屋台で買い込んだお好み焼きを頬張り、英気を養う六道。
「いっひゅんたりとも、ゆひゃんはひゃらない(一瞬たりとも油断はならない)」
もぐもぐと、大人しそうな外見からは想像も出来ない勢いで食べられていくお好み焼き。
食べながら監視は出来るはず。それにしてもイケるお好み焼きだ、なんて思っているのは少し油断していた証拠だろう。
事実、何度も買っている。何度も食べている。短気な性格は、一瞬の油断を生んでしまう。
「そんなに美味しいの?」
綺麗で冷たい声が、間近で聞こえた。
ぞっとするというのはこういうことだろう。背筋からひやりとしたものが這い上がり、硬直する身体。
けれど恐怖よりも、緊張の方が強い不思議。
視線を向ければ、何時の間にか、すぐ傍に菖蒲が立っていた。
鈴の音のような声は、続く。
「お疲れ様。これをどうぞ、私だけでは食べきれないわ」
少し困ったように、両手で抱えている宇田川に押し付けられた数々の品を差し出している。
少し困惑してしまう六道。露骨といっていいほどに警戒を向けていたし、感じていたはずなのだ。
「……あ、えっと。私はあなたを警戒しているのだけれど?」
「そうね。慣れているわ、そういうの。でも私が何もしなければいいのだし、迷惑をかけている意識はあるから、少しの罪滅ぼしね。……さっき、その顔は頂けない、なんて言われてしまったし」
くすりと小さく苦笑する菖蒲。
「あなたも、眉を寄せてばかりではなくて、楽しみましょう? お祭りだもの」
冷たい声色はそのままに、焼きソバのパックを渡してくる菖蒲。それは余裕なのか、慣れなのか、それとも信頼なのか、目の前にいる筈の六道でもよく解らなくなる。
だから、直感をこそ、この場では信じるのだ。
「有難う。どう? お祭りは堪能できたかしら?」
受け取って、空になってしまったお好み焼きの代わりに食べ始める。
少なくとも信頼しているのだと感じた。警戒に対して、むしろ好印象を持ったから近寄ったのだろう。それこそ、迷惑をかけているのだろうと。
「……今、堪能している途中よ。まだ、お祭りは終わらない。花の色も、消えないわ」
散れ違い様、するりと流れる声色は変わらず冷ややかで、ぞっとする何かを秘めているのに。
「じゃあ、終わったら聞くわね。お祭りは堪能できたかしら? って」
終わりまでの時間を、少しだけ悼んでいる気がするのだ。
このままずっと続けばいいのにと、祭りを楽しむ少女のように。
神凪 宗(
ja0435)の手の中で揺れるのは桔梗の花束。
妻に渡す為の、『最愛』の言葉を宿された花たち。共に祭りにはこれなくとも、渡したいものはあるし、土産話は楽しく綺麗なものを渡したい。花ならばなおさらに。
少しの腹ごしらをした後、屋台の連なる一角で菖蒲を見つけた神凪。気付くのに遅れたのは、あの触れれば切れるような冷たさが、撤退した冷ややかさと排他性が薄らいでいるからだろう。
存在感が良い意味が薄くなった、理想を共にする戦友である菖蒲に声をかける。
「久しぶりだな、森野。相変わらず、というと少し違うが、無事で何より」
「そうね。相変わらずというには、四国は揺れすぎているわね。薄氷なら振動だけで割れてしまいそうなほどに」
「違いない」
そういう意味では『薄氷』の上に街を支配する菖蒲の心労はあるだろう。
花祭りにいきたい――などと、言い出したのは解る気がする。まず動けない。『薄氷の平穏』を踏み砕かぬ為に。接触の機会が持てない。『薄氷』の上だから。
故にこんな無茶の方がマシと判断されたのだと神凪も理解する。無事で安全で、自分の身だけは危うくとも信頼出来る相手ならば会話を出来るこんな場所に、花祭りに。
だからこそ、言葉を重ねて、たった一本だけ買った花を渡すのだ。
勿論、花を愛でるような心もある筈だろうし、花言葉に敏感なはずだから。
「四国では武闘派が随分と動いているようだし、今後も目を離せないな……ああ、どうなるか解らない。けれど」
神凪が森野に渡したのはユキワリソウ。薄い紫の花びらが、屋台の光でするりと濡れる。
これが神凪の本音、たった一つの伝えたい真実。
「これから先も変わらず戦友でありたい。信頼の証に」
それを受け取らない筈はない。そっと伸ばされた指先が一輪の紫花を受け取り、静かに瞼は閉じられる。
「花を買う、というのも忘れていたわね。屋台で買うのも忘れて、見ているだけだったわ」
開かれた瞳が少し揺れていたのは動揺したからだろう。
それこそ、菖蒲が最も求める『信頼』を込められたユキワリソウ。手折るばかりではなく、自然にあるものを愛でるだけでもなく、渡すことも人はするのだ。
「忘れていたのかもしれない。本当に」
「だとすれば思い出せばいいさ。人と天の道を繋ぐなら、少しずつ取り戻さないとな」
だとすれば、とくるりと背を向けてまた歩き出す菖蒲。
「私は、この花園の中から、どんな花言葉を託されたものを見つけて、渡せばいいのかしら?」
最愛も平穏も少し違う。
信頼は一番大事で、だからこちらから渡す必要があるけれど、それだけでは足りないのだ。
万の言葉で伝わらないものがあるように、千の花言葉を連ねても、理想へはまだ遠い。
「だから、やる価値があるのね」
「そうでなければ、理想といわないさ」
互いに背を向ける、戦友同士。
少しの予感がした。そろそろ祭りも終わりに近づき、人が減る。
ならばこそ、会話の糸口を求めるモノが、信頼の上に出来るものが始まるはずだと。
●
誰か否定して欲しい。鏡は正しい真実しか述べてくれない。
それがどんなに残酷だろうか。人の心のありのまま、それを認めることがどれだけ苦しいか。
心という花についた茨は、宿した心にこそ突き刺さっている。
「さ、みんな花は持ったね。武器ではなく、草花をこそ、と言うと平和への歌詞みたいじゃん?」
それが今に相応しい。ルドルフ・ストゥルルソン(
ja0051)は無理に、自分のいったことだけで心を埋める。
各自に似合う花を【B.G.】の閣員に配るルドルフ。だがそれも自分より他人を見ようと、中身を感じようとしないかのようだった。自分の感情を直視したくなくて、他ばかりを見ている。
だから容易に見つけてしまうのだ。暮居 凪(
ja0503)を。
「女の子が完全武装で壁の花とか、勿体ないじゃなーい?」
「私達は警戒要員よ? 壁の花ではなく、楯であるべきじゃないかしら? 今日は遠慮しておくは」
「では、森野さんが虐殺の為に動いたと……動くと?」
貴族然とした秀麗で、淀みの欠片もないアクセル・ランパード(
jb2482)の微笑みと言葉に、暮居は肩を竦めた。
別に何かするはずがない。するのであれば、本領である土佐市でするはず。
生半可な相手ではないというのは使徒の上で承知。だが。
「大切なゲスト、ね。穏健派の、天使ではなく使徒というまだ会話し易い」
「私もそう想います。幸い、敵意を持っているひとがいなくて幸いですよ」
各々立場があるのは当然のこと。騎士であれば、騎士の責務があるとアクセルも暮居もわかっているし、天使ならば天使で、使徒ならば使徒の。
今居る立場で、出来ることと出来ないことが本人の意思で変わってしまうのだ。
けれど、それを貫いたものが一人。
遠目、この薄暗がり。それでも解る黒い着物と、黒い髪。
迷うことなく、真っ直ぐ進んでいく足取りは、怪我していた筈のあの時と変わらない。
「彼女は――あぁ、久しぶりね。本当に……」
「そうやって溜息をつくぐらいなら、話してもいいでしょう」
ヒリュウを召喚して出店のチェックをしていた戸蔵 悠市 (
jb5251)が口を開く。
袋に買い込んだお好み焼きを円卓のメンバー、更に暮居にも無理矢理押し付けて、腹ごしらえだと微笑んで告げるのだ。
「少しでも祭りの雰囲気を楽しみながら、ですね。彼女とて、使徒でもそのような気持ちになっているのでしょうから」
恐らくは簡単な話にはならない。
和気藹々と結べる内容なら、戦争なんて起きないのだ。ならばと戸蔵は何処に落とし所があるのかと一瞬悩み、出店のタコ焼きを口に運ぶ。
表情に出してはいけない。最初から暗く、厳しくしてどうするのだ。
が、そんなものとは無縁なのがフィオナ・ボールドウィン(
ja2611)。強引かつ尊大で、暗さや悲観など吹き払う輝かしい金髪を手で払う。
それが合図のように場が引き仕切るのは王者の資質か。一挙一動で空気が変わる。特にルドルフなどは王に使える従者のように、女性と間違えられるような顔に凛々しさも湛えてしまうほどだ。
「では、行こうか。何、出来ぬと思ってやる阿呆はおらぬ――この中に一人たりとも」
断言さえしてしまうフィオナ。上に立つものからの、下への信頼。
応えるのは忠か、苦笑か、或いは……。
見たくない。感じたくない。嘘だと言って欲しい。
自分へとルドルフが買った菫の花が、目の前で揺れている。
好きなのだ。慕情は鼓動と共に高鳴り、息を苦しくさせるのは何時もののこと。
そして、フィオナの横に立つアクセルが気に入らないのは、その澄ました顔のせい。
そうだと誰か言って。
嘘だと否定して。
鏡のように、菫の花が揺れる。
四国の動乱より、ひとつの恋へと想い馳せることに――恥などありはしない。
想いに貴賎はない。願いに差などない。それを言えば、星や花に託された言葉で、星花の価値が変わってしまう。
そんなはず、ない。
●
人気のない所を、歩く菖蒲。
ちりんと帯に結んだ鈴が鳴り、まるで誘っているかのようにその位置を知らせている。
機を見ていたのだろう。準備と心を整えていたのだろう。そして今だと、鈴が知らせる。
そんな冷たい黒の使徒に、金色の神を靡かせてフィオナは告げる。
「久しいな。息災か?」
熱や光といったものがフィオナの声色から感じる。そういうもので、懐かしいと菖蒲は思うのだ。
方向性は違えど、恐らく突き進む者としては似た者ではないか、と。
「ええ、そちらは少し足取りが重いようね。声色からするに、自信がありそうだけれど」
「何、戦うつもりはないからな。言葉の矛交える気も今はない」
その間に周囲を警戒する暮居やアクセル。だが、敵意のようなものはなく、他の護衛も何名か近くにいるだけだ。
戸蔵とアクセルは沈黙と観察を選ぶ。少なくとも、切り出すのはフィオナだと決まっているのだ。
ルドルフもそこは同じ。後ろに控えるひとりだ。
「久しぶりね。今でも、応援はしているわ」
「…………」
立ち位置や警戒の方向性が外、菖蒲を守る形となる暮居が告げる。
元より敵意はない。菖蒲も、そしてフィオナたちも。
「これから話すことに答える必要は無い。耳に入れておくだけで構わん」
「そう。つまり、知識として何処からか知っていた、ということにしておけと」
尊大な口調に、冷たく切り返す菖蒲にフィオナは小さく笑う。頭の回転が悪い訳ではないのだ。少なくとも、求める立場に立ってもらうには十分な程に。
それが変わっていないことにこそ、喜びを覚えて声は張りを増す。
「分の悪い博打だが…騎士団の連中に少々仕込みを試みているところでな」
ぴくりと、菖蒲の眉がつりあがる。ほんの一瞬だが、それは危険を感じたものの反応だった。
今、騎士団というのであれば、あれに違いない。ウリエルを警護し、また親衛隊のような立場を持つ『焔劫の騎士団』。穏健派の使徒である菖蒲としては動かれては、ただ単純に格の違いでどうしようもない相手。
四国、穏健派の長であるミカエルが動けば話は別ではあるのだが、下手な身動きが出来ないのが現状だ。
それに対して、フィオナは告げるのだ。分は悪くとも、仕込みを試みているのだと。
「そして、その時が来たら我等、貴様等穏健派……そして武闘派が一堂に会する場を設ける。どうだ、実現出来たら面白いと思わんか?」
不敵に笑うフィオナの前で、可能か不可能かの論は意味をなさないだろう。
それこそ手段を選ばず、穿つべき点のみを捉えれば、或いは……。いいや、確かにそれでも夢物語、幻想と笑われるだろう。
故に、氷刀の切っ先がフィオナを貫く。
それは敵意の欠片も混じっていない、純粋な意思の怜悧さ。
禍津の氷刃という使徒が、共存という幻想を追うならばこそ見せる鋭さだ。
「面白いわね。そんな時がくれば、穏健派の天使との窓口として、私が立てるといいわ。そんな日が来るように、その時、立てられるように、今から動かないと」
それが話してくれた、いいや、言葉や情報を流してくれた礼であり、信だろう。
菖蒲の手にしたユキワリソウが、揺れる。
信頼を花のみではなく、言葉にしたものがここにもまたいるのだ。
「出来るさ。出来ぬと思ってやる阿呆はおらぬ」
「問題はどうって、天使という組織と、人間という組織の接点を繋ぐかね。私達天界に利すると確実に判断出来なければ、天界は動かない。いいえ、天使という組織は動かない」
穏健派が、武闘派がという話ではなく、天使の一部の組織が、未知ともいえる組織に接触するのだ。
それが短期間で見てではなく、長期で利となるか損となるか。それを多重世界とはいわずとも、地球全ての天使に認めさせる必要があるだろう。
「――個人であれば、私の理想は共存よ。そして、それは個では成立しないと、知っている」
それでもと、続けた菖蒲にアクセルが言葉を投げかける。
堕天してとはいえアクセルは元は穏健派。彼女らを支えることが出来るのであれば、この足で地を歩く意味がある。
祭りを楽しむならば、そう、古い日本の風習で、祝福が最期に訪れる筈なのだから。
「森野さん、そもそも俺達天界側のやり方が間違っていたんですよ。協力が必要ならば対等の立場に立ち、交友を図れば良かった」
まずは戦いをではなく、まずは会話を。獣同士ではないのだ。共食いをするモノではないと今は断じられる。
アクセルも、そして、共存を口にした菖蒲も。口にしたのなら、会話できる相手なのだ。畜生などではない。外道ではない。共に理想を抱くもの。
「なのにそれをしなかった」
「……そうね」
過去を反芻し、瞼を閉じる菖蒲。ある意味、真っ直ぐに走りすぎた使徒は、少女然とした儚さで、風になぶられる。
殺戮ではなく、対話を。それが出来なかった、などと、今、過去を振り返って、誤魔化して、それが何になるのだろう。
軋むことはない。痛みはない。苦味と後悔があるから、ひとつだけ確信するのだ。
「ですが、今からでも遅くはありません。俺は穏健派を影ながら支えて行くつもりですよ」
「……長く掛かるわよ、それでも?」
菖蒲の言葉の意味は、単純なものではない。
「これは伝え聞いたウリエル様の言葉だけれど……新しい芽が吹き、花と結ばれることを願っていると。争いで壊すことではなく、そればかりに目を向ける者達ではなく、平穏を望む新しい芽をこそと」
そして、一輪の花を手折るのだ。
これが私達というかのように。簡単に踏みにじられる、平和への願い。
「この花が咲くのに何年かかったでしょう。種を撒き、芽が出て、花となり、花園と化す――ねぇ、それまで、あなたは耐えられる?」
だから、ここが落とし所なのか戸蔵は思う。
数年単位ではなく、十年でも足りず、もっとかけて思想を、平和を願うものを増やすこと。
それは天界の星に願いを、地の花に祈りをかけるように。
「力の差を思い知らされる度、与えて貰った平和を享受するのが一番の早道なのかも知れんと思うことはある」
だからこそ、返答は真摯に。妥協点など存在せず、常に理想に歩み続け、ともすれば次の世代にまで託すこと。花が散っても、種は残る。それをまた増やして、道を作ろう。
「しかしそれは奴隷の安寧だ」
力で平伏され、天の光で干からびた大地なんて戸蔵は望んでいない。
こんな花園の美しさの中で、愚かと言われても。ただ、それを真っ直ぐに誓う。
「人間は自立しなければならない、天魔の恩恵からも恐怖からも」
その先にこそ、理想の共存と平和はあると口にするのだ。
正しいか間違っているかはわからない。ただ、天魔に縋るのは間違っていると、そういいきる。
「…………そこは私とは違うわね」
天の光、恩恵と導きが必要だと菖蒲は思っている。
「が、ずっとそのままでは愚かに過ぎるだろう。共食いをする生き物だとして、ならば変わらねばならぬ」
フィオナが引き取った言葉。
これが花園で、祭りの中、禍津の使徒に奉じた花だ。
言葉であり、祈りであり、願いであり行動であり献身。それをどうするかは、この使徒次第。主たる禍津に災禍などいらぬと告げるか、それとも彼女がまた切り開くかは、これからの物語。
聞き届けた花が、全ての想いをその色に秘める。
いずれ花開く、平和の色を宿した蕾を、夢見て。
でも、今は今だ。
難しいことを神喰 朔桜(
ja2099)は解らない。感性、感受性の高い彼女は論理など棄てている。
天性の才。超越したからの神喰。未来の平和など、常に歩けばいいだけ。
「今日は約束の日だからね! いやいや、に遊ぼうって約束したからね、それが今日なんだよ!」
思わず絶句したのは菖蒲さえ含めたその場の全員。その隙間を縫う猫のように、神喰は菖蒲の手を引いて走り出す。
友達が祭りの最期で顔をしかめている。悩んでいる。なら、その最期を笑顔で終わらせてあげるのも、友達だと思うのだ。そう決めたのだ。
誰より友人らしく、何よりも友達らしく。
――この手を握るのは、誰にも譲らない。
平穏も解らない。平和への道って何だろう。
今笑っていないで、どうしてそんなこと言えるのかな?
「よしっ、拉致っ」
「……えっと………」
流石に戸惑いをみせ、神喰に手を引かれていく菖蒲。
それこそ神喰に敵意があれば完全に隙を晒していることになるが、菖蒲はそんな自分が可笑しくて、くすりと笑うのだ。冷たくて、鈴を転がすような、小さな小さな、それを。
「じゃあ、何処に拉致するのかしら?」
冷たい流し目に、くすくすと笑う神喰。決めていない。そんなの今から行く先がそうなるだけ。
そう信じている。
「折角だから、八月の花だよ」
護衛の最中に買っていた花束を渡す神喰。
「芙蓉、『繊細な美』と『お淑やか』。黄槿、『楽しい思い出』……それに」
「菖蒲ちゃんぴったりで、そして今日がそんな日であれば良いとおもったからねっ」
目ざとく、敏感で、やはり繊細な少女。氷のような冷たい感情を浮かべた瞳は、けれど、ひとつだけ混じったものを見つけてしまう。
「犬彦――」
「――『アナタの役に立ちたい』」
言葉と共に、花園の中へと菖蒲を連れ立って倒れこむ神喰。
舞い散る花びら。それに何を思うのか。
壊れるものは美しいと、壊すことが愛と謳った神喰は、散華の群れの中で微笑む。
「――今の戦争を壊すのは、明日にしてしまおう」
色取り取りの花びらが舞う。視界を覆う。その中で倒れ伏す、二人の少女。
誰よりも友人らしく。何よりも少女らしく。散る花びらの刹那を、瞳に焼き付けて。
真実、破壊の愛を謳う光さえ、菖蒲の願いはステキだと思うのだ。
花びらを揺らし、散らせて往く風よ。
この夜に起きた物語を載せて、共に駆け抜けておくれ。
何処までも、何処までも。
幻想の果てまで。