「人を襲わず、居座る獣か。何か理由があるのだろうか……」
戦闘になったときのことを想定し、周囲の地形を確認しているリョウ(
ja0563)がつぶやく。
「交渉で、獣を退去させることができればよいのですが」
解決の糸口になりそうなものはないかと、目を凝らす天道郁代(
ja1198)。
黒い獣の目撃場所へと赴いた撃退士たちは、状況を把握するため、各々、周囲の偵察を行っている。
「さっきからあの獣、時々、木の方を見ているようなんだけど、何か見えないかな?」
「獣のそばの木ですか?」
「そう、後ろの木。頼むね、ユウさん」
獣の動きを追っていた鈴原 賢司(
jb9180)の呼びかけに、ユウ(
jb5639)は、指定された木へと視線を移す。
「あれは紙でしょうか。それと、黒い輪のようなものが枝に通されています。もう少し、近くで見ればはっきりするのですが」
離れた場所からの視認では、それだけしかわからない。
「それが居座る理由なのでしょうか?」
まだ、断定できるだけの情報が集まっていないため、竜胆 椛(
jb2854)の問いに、誰も答えられない。
「何にせよ、穏便に解決したいところだな」
沈黙を破った鳳 静矢(
ja3856)一言が、作戦開始の合図となった。
ゆっくりと近づく撃退士たちの様子を探るように、身を伏せたままの獣の耳がぴくぴくと動く。
さらに近づくと、むくりと身を起こした獣が、撃退士たちの行く手をふさいだ。
「ここからは、ひとりで」
事前に打ち合わせた通り、獣の説得を試みる椛は、ヒヒイロカネと武器を地面に置く。
「先程の黒い輪はチョーカーみたいです。獣の首輪と同じデザインのようなので、可能でしたら確認を。椛さん、お気をつけて」
ひとり、獣に近づこうとする椛に、黒い輪に注意を向けていたリョウが耳打ちをした。
地面に置かれた武器のそばに立つ郁代は、わずかな状況の変化も見逃すまいと、椛と獣の動向を注視している。
「あなたに危害を加えるつもりはありません。言っていることがわかるのでしたら、一回、吠えてもらえませんか?」
攻撃する意思のないこと示すため、両手を広げてみせる椛をじっと見据える獣。
間をおき、獣がひとつ吠えた。
「本当に言葉がわかるようだな」
様子を見守る静矢から、感嘆がこぼれる。
交渉が始まったことを確認したリョウは、気配を消し、近くの木の幹を駆け上がっていく。
中程で立ち止まると、飛び移り、隣の木へ。
木々の間を渡るリョウは、音もなく、獣の裏手へと回り込んでいった。
「私たちは、あなたを立ち退かせてほしいという依頼を受け、ここに来ました。居座るわけがあるのなら、教えてくれませんか?」
木を見上げる獣、その視線の先には、チョーカーと紙片の結ばれた枝が。
「あの紙とチョーカーを取ってもいいでしょうか? どんな意味があるのかを、知りたいんです。もちろん、両方とも、あなたに渡します。肯定なら一度、否定なら二度、吠えてください」
二度吠えた獣の返答は、拒否。
「交渉決裂ですの?」
「待ってください。椛さん、まだ、あきらめていません」
説得に臨む椛から強い意志を感じたユウは、武器を拾い上げようとした郁代を止めた。
「なら、まずは紙片だけ。あなたも、どんな意味があるのか知りたいでしょう?」
椛の提案に、道をあける獣。
「ありがとう」
胸をなでおろした椛の手が、木の枝へと伸びる。
だが、小柄な椛の手は、宙をかくばかり。
「私では届きません。仲間に手を貸してもらってもいいですか?」
離れた場所に待機している撃退士をちらりと見た獣は一声、吠えた。
「鈴原さん、私では手が届きません。手伝ってください」
大声で椛に呼ばれた賢司が、枝の下に立つ。
「紙片だけ、取ればいいのかい?」
「はい。チョーカーには、極力触れないようにお願いします」
長身の賢司なら、十分に手の届く高さだが、万全を期して、背に生み出した翼で飛び上がる。
地に降り立った賢司が、折りたたまれた紙片を開くと、文字が書かれていた。
「日が昇るまで待っていたが、戻ってこなかったな。自由に野山を駆ける生活の方がお前には合っているのかもしれない。今まで、ありがとう、か。どういう意味なんだろう?」
読み上げた内容に、賢司は首をかしげる。
「森の中を駆けたいのか?」
そうだ、と言わんばかりの鳴き声。
「いいぞ、行って来い。ただし、夜が明けるまでにはここに戻って来い。いいな?」
頭をなでようと、近づいてくる男の手。
「なんだったのでしょうか?」
「獣の記憶かもしれないな」
「記憶ですか?」
「今の映像、声は聞こえたが、獣の全身は見えなかった。それに、僕の疑問に答えるタイミングだったしね」
突然、見せられた映像に対する推測を述べた賢司に、その通りだ、とばかりに、獣が小さく吠える。
「みんなにも考えてもらった方がいいかもな。君には絶対に手出しはさせない。呼んでもいいかい?」
偽りがないと判断し、獣は賢司の言葉に応じた。
椛と賢司に呼ばれ、待機していた郁代、静矢、ユウが近寄ってくる。
木の裏手にまわり、身を潜めていたリョウも姿を現す。
「二人が見た映像と紙に書かれた内容、それに、居座り続ける状況から考えると、主とはぐれた、というところだろうか」
「見捨てられたのでなければ、獣と主のパスはつながったままかもしれないな」
腕を組む静矢が口にした仮定を、リョウが広げる。
「主と引き合わせることは、依頼の達成につながりますわね」
「ですが、コンタクトする方法がありません」
名案だと言わんばかりに顔を輝かせた郁代に対し、ユウは困り顔のまま。
「できることから片付けていこうか」
「そうですね。今度は、チョーカーを取らせてください。ちゃんと、あなたに渡しますから」
賢司の言葉を受け、椛が獣に話しかける。
すると今まで、おとなしかった獣が牙を剥き、低くうなる。
「君に、あのチョーカーを返したいんだ。すぐに渡す!」
真摯な賢司の声音に、一瞬、気を取られる獣。
そのわずかな隙を逃さず、静矢が手にした太刀、その刃が紫紺の霧にけむる。
チョーカーを気にしつつも、強く静矢にひきつけられ、獣は意識をそらすことができない。
「鳳さん。攻撃はしないでください」
「わかっている。大きな犬とじゃれていると思えば、そう悪くは無いな」
椛の言葉にそう返す静矢の目的は、獣の注意を自分に向けることであり、攻撃を加えることではなかった。
木のそばに立っていたリョウは、静矢の目配せを受け、葉の茂る枝先をつかみ、手早くチョーカーを枝から取り外す。
次の瞬間、チョーカーはリョウの手を離れ、郁代に。
「落ち着いて。ちゃんとあなたに渡しますから」
更に、郁代からユウに投げ渡される。
「あなたの大事なものに勝手に触れてしまい、申し訳ありません」
三人の手を渡り、ユウの手で獣に差し出されるチョーカー。
警戒を解かず、ユウとチョーカーを交互に眺めていたが、うなることをやめた獣は、首輪を見せるように、横を向く。
獣の望みを理解したユウの手で、チョーカーは獣の首輪へと通された。
チョーカーを返された獣は、落ち着きを取り戻し、その場に伏せた。
「うまく返せたようだな」
安堵のため息をついた静矢の手に、太刀はもうなかった。
「君の首輪と同じデザインだ。君の主のチョーカーかい?」
近づき、賢司が獣に問う。
「こっちに来い。いいものをやる」
男の手で、獣の首に首輪がはめられる。
「俺と、おそろいだ。格好いいだろ」
視線の先の男の首には、同じデザインの黒革のチョーカーが。
再び、賢司の問いに答えるように見せられた、獣の記憶の断片。
「よく似合っているよ、君にとって、よい主だったのだろうね」
伸ばされた賢司の手を拒むことなく、獣は受け入れた。
「黒き獣よ、よく聞くのですわ。主はあなたの忠義に報い、自由を与えたのです。ここに居座ることを、望んではいませんわ」
主からの手紙を獣の眼前に突き出す郁代に、びしっと指差されても、獣は動こうとはしない。
「ここにいても、お前の望みはかなわない。お前の主が残した言葉のように野山で暮らしてもいいが、自分から捜しに行ってはどうだ?」
この場を離れるように勧めるリョウは、健康状態を確かめるため、獣の体に触れた。
「お前の主人は、自然の中を駆け巡り、自由に暮らして欲しいと願っているらしい。今までありがとう、と感謝もしているようだよ」
言い聞かせながら、静矢は優しく獣の頭をなでる。
「お前、義理堅いよな。ほとんどのディアボロは、好き勝手に生きてる。お前も自由に生きていいんだぞ?」
男に擦り寄り、獣がじゃれつく。
「わかったわかった。ほんとに甘ったれだな、お前」
わしわしと、男が獣の頭をなでた。
頭をなでる静矢の手の感触に、思い出された獣と主の日常。
「こんなの見せられたらあきらめろとは、言いづらいな」
映像を見せられた静矢の言葉に、苦さがにじむ。
「毛づやもいいし、筋肉も衰えていない。エネルギーは、まだ供給されているようだ。ひょっとしたら、俺たちの声、お前の主に届いているかもしれないな」
状態確認を終え、リョウが獣から手を離す。
「人や動物を襲わず、自由に生きていくようにお願いするだけでも、よいのではないでしょうか?」
やり取りを見守っていたユウが、皆に提案する。
「賢いお前なら分かっているだろうが、今回のように穏便に済むことは稀だ。危険は侵さない方がいい。俺もお前を討ちたくはないしな」
最悪の事態を望まぬリョウの忠告。
「主の言葉を胸に、達者で暮らすのだ」
紙片をきれいに折りたたみ、郁代は首輪に結ぶ。
「君と君の主の意思を、僕は尊重する。好きにするといい」
黒毛に覆われた背を、賢治は何度もやさしくなでる。
「人や動物を攻撃せず、平和に過ごすことを望みます」
そう言いながら、椛は獣の前足をぎゅっと握り締めた。
「束縛するものは何もないんだ。好きなだけ、野山を駆けるといい」
獣の耳の後ろを、静矢は軽くもむ。
「どうぞ、むやみに生き物を襲わないと、約束してください」
思いが伝わるようにと、ユウは獣の瞳をじっと見つめた。
人や動物を襲わないように、よくよく獣に言い聞かせ、撃退士たちはその場を去る。
立ち上がった獣は、遠ざかる撃退士の背をいつまでも見送っていた。
「また、依頼ですか?」
「違う違う。事後報告だ。この前の黒い獣のな」
「そういえば、現場から戻ってきた撃退士たち、その後の経過をとても気にしていましたね」
男性職員の言葉を聞き、女性職員は獣を気にかけていた撃退士たちの様子を思い出す。
「その獣だが、数日前に姿を消したそうだ。あきらめて立ち去ったのかもしれないな」
「ひょっとしたら、主が迎えに来たのかもしれませんね。ほら、前にディアボロを通して、悪魔が応答した事例があったじゃないですか。撃退士たちの話を聞いていた主が迎えに来たのかもしれませんよ?」
「そう考えた方が、救われるか。悪魔とディアボロだがな」
「いいじゃないですか。獣を追い払うという依頼内容を達成できたんですから」
報告書への追記を済ませた男性職員は、パソコンのディスプレイに依頼に参加した撃退士たちの連絡先を表示する。
「撃退士たちにも知らせておくか」
「そうですね」
連絡先を確認し、男性職員と女性職員は、近くの受話器を取り上げた。
木の根元に残された、大きな足跡。
獣がその場にいた証に、柔らかな木漏れ日が揺れていた。