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人影の無い夕方の住宅街をおぼつかない足取りで一人の女が歩いていた。
「自業自得とは言え、痛いもんは痛いねぇ……」
アサニエル(
jb5431)は自身の腹部を擦りながら呟く。
そんな彼女の後ろから一台の車が忍び寄る。アサニエルは、捕縛対象の女かと一瞬顔を緊張させる。しかし、運転席にいたのは見知った顔だった。
「A班の奴らが確認したらしいが、警察は天魔を警戒してか洞窟の場所は大まかにしか絞り込めてないみたいだよ」
ユエ(
jb2506)は窓から顔を覗かせながらそう告げる。目で車に乗るように促すのにしたがってアサニエルは傷を庇うようにゆっくりと乗車する。
「予定通り、白蛇が囮だよ。この先の公園にいる」
そう言いながらユエは車を走らせる。その横でアサニエルはガサガサとビニール袋を漁り、中からアンパンを取り出す。
「……食いついてくれるといいんだけどねぇ」
おもむろにアンパンに齧りつきながら、視界に入ってきた公園を睨む。
「ノコノコ出て来てくれれば良いけどねぇ……」
仲間から送られてきた女の写真を眺めながら、ユエもそれに同調して深く頷いた。
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夕暮れ時。門限が厳しい家庭ならそろそろ子供も帰り始める頃である。しかし、公園には白蛇(
jb0889)以外誰も居なかった。
公園の側で、仲間が車の中で待機しているのが視界の端に確認できた。
子供らしく見えるように傍らに縄跳びを置きながら、手慰みにトランプを切る。
それほど待たない内に一人の女が公園内に入ってきた。白蛇の近くで立ち止まって、白蛇を見下ろす。
「……君こんな所で何してるの?」
「わっ、見つかっちゃった」
女の声に反応するように、白蛇はトランプ以外の荷物をそのままにベンチを盾にするように隠れる。
「外、出歩いちゃいけないって言われなかったの?」
周囲の学校で勧告されていることは、当然白蛇も知っている。知っているからこそのこの行動なのだが。
「お部屋の中飽きちゃった」
我慢の足りない子供、白蛇はそうなりきっていた。
「そう、でも帰らないとお母さんが心配するわ。ほら、家まで送ってあげるから」
「ダメだよお母さんに知らない人についてっちゃダメって……え、お母さんに頼まれたの?」
白蛇自ら、誘拐を促すように発した言葉に女は頷く。
「分かった、付いてく!」
「じゃあ、車で送ってあげるわ」
そういって女は白蛇の手をとって歩き出す。
「そういえば……」
女はふと、何かに気づいた様に立ち止まって白蛇の方に顔を向ける。
「部屋の中飽きたのよね……じゃあ、すこしだけ寄り道しましょう」
そう言って微笑んだ女の顔は常軌を逸して狂気に染まっていた。
白蛇はそれに気付かないふりをして、
「ぴくにっく♪ ぴくにっく♪」
と無邪気にはしゃいでみせた。
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「洞窟の場所、絞り込めてなかったね……」
藤井 雪彦(
jb4731)は落胆したように、大まかに囲われた地図を見下ろす。
「天魔がいる所に普通の人が近づくのは危ないからしかたない……。 女性の写真が手に入っただけ収穫はあったよ」
藤井を励ます様に常塚 咲月(
ja0156)は携帯に保存した女の写真を再度確認する。
男と幸せそうに腕を組んでいるその姿は、今となっては痛ましさを覚えるばかりだ。
二人の前を先行して各務 与一(
jb2342)が歩く。彼らはまさにおおまかに絞られた林の中にいた。
各務は周囲を油断なく伺いながら移動する。程なくして各務は足を止める。
「あれが……?」
藤井の声に各務はおそらくと頷く。二人の目線の先には小高い丘の麓にぽっかりあいた空洞があった。
「女性は丁度、囮にかかったみたい……」
常塚は携帯を確認して、別働班の状況を知らせる。
「どうしようか、このまま突入する?」
藤井の言葉に二人はそれぞれ目線を合わせ、両者は無言のまま頷く。
「ここじゃなければ……囮班の所に向かえばいい」
「ここが『そう』だった場合、女性と天魔の両方を相手にするのも骨が折れるだろうしね」
常塚の言葉に追従するように、各務が続ける。
「そうだね……じゃあ行こう」
藤井の言葉を合図に、三人は警戒しながらゆっくりと暗がりへと足を踏み入れた。
「――凄い臭いがする……気持ち悪い……」
洞窟の中の有様は、常塚のその一言で十分なほど言いようのない悪臭が漂っていた。
腐敗した血肉の匂い。閉鎖された洞窟内で逃げ場の無い臭いが立ち込めている。
言葉にこそしないが、各務も藤井も不快気に顔歪めた。
「罠も……何もないね」
各務が周囲を確認しながら進むが、罠らしい罠などどこにも存在していない。
「そう……ね」
ペンライトで周囲を照らしながら目を懲らしている常塚もそれに同意の声を返す。
「天魔の寝床なのに何もないなんて……」
その状況に藤井も不気味さを感じて、落ち着かなさそうに目を動かす。
洞窟内も入り組んだ所もなくただまっすぐに続いている。何の障害もなく進んだ所で各務が立ち止まって手を上げ、二人を制止させる。
「この先の岩陰にいる」
何が、は言わずもがな。件の、人を餌として与えられている天魔だろう。
こちらが気付いているのだから、あちらも気付いていてもおかしくない。しかしあちらは動く気配はない。
三人が互いに顔を見合わせて、出方を無言の内に相談する。
それで意思の疎通ができたのか、全員が遠距離攻撃の手段として銃や和弓を構える。
そして、三人の呼吸が合わさった瞬間、常塚が掛けて岩陰に回りこんで発砲する。その間に藤井は素早く、阻霊符を張り巡らせ天魔の逃走手段を奪う。
「なに……これ」
常塚の声に、バックアップのため後方に控えていた各務がゆっくりと岩を回りこむ。
「これ、不完全なヤツ……? 人じゃないし……」
常塚の声の先には、銃弾を受けて苦痛にのたうつ半透明のスライム状の何かがいた。
それは、不完全ながらも人の形をかろうじて留めていた。それが尚の事、生理的嫌悪を撃退士達にもたらした。
「スマートとは言えないけど、早々に退場してもらうよ。君は、存在しちゃいけない」
各務は別れの言葉と共に、矢を放った。それは確実に出来損ないの命を奪った。
力なく、不完全な四肢を投げ出した天魔から何かが落ちて硬質な音を洞窟内に反響させた。
「指輪……?」
それを拾い上げて藤井は疑問を浮かべる。ややあって、携帯を取り出して女の写真を見る。それで、納得したように頷いてそれを丁寧にポケットにしまった。
「外に出よう……臭いに耐えられない」
常塚の言葉に、三人は外へと歩き出した。
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「失敗作にご執心……人間って分からないもんだねぇ」
白蛇を車に載せて移動を始めた後を追いながらユエは楽しそうな笑みを浮かべる。傷が痛むのか、アサニエルはそれには返事をせずに前の車を見失わないよう睨みつけていた。
「そうだ。囮にかかったこと連絡しないとね。……ねえ、此処を押せばいいんだよね?」
携帯に打ち込んだメールの送信方法をアサニエルに問いかける。アサニエルがそれを一瞥して、あってると告げると、ユエは満足気に送信ボタンを押した。
特に身柄を拘束されることもなく、白蛇は若干拍子抜けしていた。
バックミラー越しには仲間がしっかりと後をつけているのが見えていた。
女は付けられていることに気づいていないのか、と思って様子を窺う。
瞬間、見なければよかったと白蛇は後悔した。女は、満面の笑みを浮かべていた。その目は何を見据えているのかわからないほどうつろで、その口はどうやればそこまで開くのかというほどに見事に三日月型に裂けていた。
見事なまでの狂気の笑顔だった。
「この様子なら気付かれる心配もないのぅ……」
思わず声に出てしまったが、それすら女は気に留めなかった。
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「着いたみたいだな」
十数メートル先でとまった車に合わせるように車を止める。
停止するやいなや飛び出したアサニエルを追うようにユエもかけ出す。
女は車から降りて、白蛇の手を引いて洞窟の中に入る。どのような会話をしているかまでは聞き取れないが、白蛇は律儀にまだ無邪気な子供のふりをしているのだろう。焦りか苛立ちか、半ば引き摺るように白蛇を洞窟の中に連れ込もうとしている。
女の背後に音もなく、しかし素早くアサニエルが迫る。天魔相手ならば、手負いのこの移動は遅すぎるだろう。しかし、只の人間には十分反応出来る限界を超えた速度だ。
「縛り方の注文は受け付けないよ。生憎それについては勉強不足さね」
女の姿勢を崩して手早くロープで縛り上げていく。そこには技術などなく、ただ一切の身動きを封じる意図だけが現れていた。
「ただでさえ壊れかけておるのがますます壊れてはたまらぬ、女はここに置いて手早く戦闘を済ませよう」
子供のふりでよほど凝ったのか、首を回しながら白蛇は洞窟へと足を向ける。
「……残念だけど、あっちも終わったみだいだよ」
洞窟無いからこちらに向かってくる足音にいち早く気づいたユエは、どこか残念そうだ。彼の言うとおり、程なくして暗がりから別行動をしていた三人が出てきた。
「そちらも終わったみたいですね」
常塚の言葉に、白蛇が頷く。
その脇をすり抜けて、藤井は縛られた女に近づく。ポケットから指輪を取り出して、女の手に握らせた。
「厳しい事を言うようだけど、この先を決めるのはあなただ……でもっあなたの恋人が一番に望んだのは、君の幸せじゃないのかな?」
天魔からおちた指輪は女と、一緒に映っていた男の両者が左薬指に付けていたものだ。
藤井の言葉に、女は獣の様な呻き声を上げる。そこから何か意味ある言葉を聞き取ることはできない。
「形見、っていうんだっけ?」
縛られたまま指輪を握り締める女を、ユエは目を細めて眺めた。
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その後女は、ユエと白蛇、常塚に車に載せられて警察へと連行された。
「お前たちがっ! 康太を! 殺した! ゆるっ許さない! 絶対にぃぃ!」
天魔になった恋人を殺した撃退士達に呪詛の言葉を吐き続ける女に、ユエは興味深そうに目を向けた。
白蛇は痛ましそうに女を見やった後、深く溜息を吐いた。
「――死んだ人間は生き返らない……生き返ったとしても……それは紛い物……。人を食べる時点で、あなたが愛した人じゃない……」
「うるさい! 許さないからな!」
常塚の言葉に耳を貸すこと無く、女は金切り声を上げる。
「貴女がしてる事は、愛した人を穢してる……」
常塚の言葉に、またも女は意味を成さない呻き声を上げ始める。
「大切な幼馴染たちと約束したから……誰かが天魔になった時点で……殺すって」
そう呟いた常塚がどのような表情をしていたかは、窺い知ることは出来なかった。
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女を乗せた車が去った後、各務とアサニエルは洞窟の中へと戻っていた。
洞窟の中に散らばった、犠牲者の遺品を集めるという各務にアサニエルが従った形となる。
「まったく、人間ってのは天魔よりも恐ろしいねぇ……」
黙々と食い散らかされた人間の脇に転がった異物を集める各務の横で、アサニエルはしみじみと呟いた。
「あなた達の手で、弔ってあげてください」
警察に保管された届けと付きあわせて、遺品を遺族と返した各務は一人合同葬儀が執り行われた会場を少し離れた場所から見守っていた。
「全てを救えると思うほど傲慢じゃない。それでも、犠牲が出るのは辛いね」
各務は一人、痛みを堪える様な表情で呟いた。届くはずのない距離なのに、風にのって遺族のすすり泣きが聞こえてくるようだった。
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「あなたがいたから……に続く言葉は『幸せだった』がいいね……」
久遠ヶ原に戻ってきた藤井は独り言ちながら廊下を歩いていた。彼の目指す先はひとつ。依頼を受けた場所だ。
「僕はあずさ先輩がいるから、幸せですっと」
そういって、扉の前にたって自身の身だしなみをチェックする。問題なし、と判断した藤井は扉を開けて中に入るなり嬉しそうに目的の人物に声を掛ける。
「あずさ先輩〜ご飯食べに行きませんか?」
「あ、藤井さん」
幅野あずさは、声を掛けてきたのが藤井だと確認すると素早く手にしていた資料を裏返した。
「ごめんね、ちょっと仕事立てこんでて……また今度誘ってくれるかな」
「そうですか……忙しいなら仕方ないです……」
一気にしょげ返って、とぼとぼと退出していく藤井を見やりながら幅野は裏返した書類を再び手に取る。
「さすがに……今日誘われると……隠せる自信ないからなぁ……」
その書類には、件の女が警察に身柄を拘束された後、獄中で自らの命を断った事が事細かに記されていた。