荒廃した街の、捻じ曲がったアスファルトの道路の上。
本来、生きて歩くものさえ居ない筈のそこで、撃退士達が戦っていた。
相手は犬だ。
正確には犬型ディアボロ。肉を腐らせ、骨まで露出した死犬、グールドッグ。決して油断の出来ないディアボロだが、多少なり経験を積んだ撃退士にとっては然迄強敵と言える相手ではない。今も、古雅 京(
ja0228)や紅葉 虎葵(
ja0059)の斬撃により、一頭、また一頭とその頭数を減らしていく。
「おい、一頭そっち行ったぞ!」
新田原 護(
ja0410)が声を上げた。
最後に残った一頭のグールドッグが、撃退士達目掛けて跳びかかろうとしている。
脇腹に新田原の射ったシュートボウの矢を受けた、手負いだ。状況は敗色濃厚ながら、既に脳髄まで腐り果てたグールドッグに撤退の二文字は有り得ない。
「わ、わかりました! 任せて下さい!」
新田原の声に、次木浩平(なみきこうへい)が応える。
ピカピカの打刀に、卸したての儀礼服。レイラ(
ja0365)の事前アドバイスにより、装備は十分。多少七五三めいた感じはあるものの、見かけは立派な撃退士だ。
「頑張って下さい先輩! ボクらがついてますからっ!」
黒瓜 ソラ(
ja4311)の声援に次木はこっくり頷くと、打刀を構え直して突撃。己の戦う相手を見定めたか、グールドッグも走り出す。狙いは当然次木一人!
「行くぞ、ディアボロめ! うおおぉぉぉお―――ッッ!」
次木が咆える。
閃く白刃に、迎え撃つ犬の白い牙。今、牙と太刀、二条の光が重なって……
「あっ」と九神こより(
ja0478)。
「転んだよ」
ステーンッッ―――!!!
ズザザ―――ッ!
……絶妙のタイミングで石に躓き、正面のグールドッグに我と我が身を捧げる勢いで頭からダイブする次木。勿論グールドッグは、この千載一遇の超チャンスを見逃さない。この天から、もとい魔界からの贈り物に素直に喜び、シッポをぶんぶん振りながらアングリ大きな口を開けて、本日のランチにかぶりつく。
がぶ。
「ぎゃー! ちょっと、皆さんも一体何のんびり見ていらっしゃるんですの!?」
倒れた次木に桜井・L・瑞穂(
ja0027)が駆け寄るのに合わせて、レイラ、橘 和美(
ja2868)ら、傍観中であった残りの撃退士達も我に返って走り出す。次木くんがあんまり見事にコケたので、思わず思考が停止してた。
「自分の実力に気付かせて、ドラゴンゾンビ退治なんて諦めて貰おうとは思ってたけれど……」
橘は大太刀を抜いて走りつつ、グールドッグに噛られて風前の灯な次木くんの有様に溜息を一つ。
「……これは思ったよりも難物のようね……」
●
埼玉県北端、中規模デビル支配領域。通称『骨の街』。
今回、依頼人である次木を含む、九人の撃退士達が足を踏み入れた場所が、そこである。
嘗て市街地域を中心に一万名を超える人間が住んでいたこの街も、今では死者の蠢く冥府魔界へと成り果てた。既に生存者もなく(少なくとも、公式には)、数次に渡る大規模な生存者救出作戦が実行された後は、事実上見捨てられたも同然のエリアであった。
「……故に、敵の配置や戦力分布など、まともな情報は何もなし。あるのは曖昧な噂と、ドラゴンゾンビに対する怪談じみた情報だけだ。まあ救助隊も近寄らない分、撃退士が自殺をする分には都合のいい場所だけどな」
「護? わたくし達は自殺しに来たわけでも、自殺させに来たわけでもありませんわよ?」
桜井にたしなめられて、新田原は肩を竦める。
「勿論分かっているとも。貴重なアウル能力保有者の無駄死には国家的損失だ。
……ただ、何にしろ、撤退時期は早めに見定めた方がいい。ここはディアボロの数が多すぎる。雑魚しか居ない内はまだしも、いつ騒ぎを聞きつけて、エリア奥の怪物共が出張ってこないとも限らない」
カウンターに広げられた街の地図を前に、新田原と桜井が作戦会議を行なっている。
ここは国道脇に建つ、遺棄されたコンビニ店舗の内部。
先の戦いで受けた傷を癒す為、撃退士一行は現在、このコンビニ内で休息&打ち合わせをしているところであった。まだ領域境界を超えて数百メートル進んだだけなのにも関わらず、グールドッグ戦も含めて既に二度もの戦闘を行なっている。支配領域の内部はディアボロの巣も同然で、屋外では一息つく事すら難しい。
「そもそも、何でドラゴンゾンビなの?」
橘が次木にそう声をかけたのは、その休息中、店内の朽ちかけた商品が並ぶ陳列棚を冷やかしに物色していた時の事だった。
「あなたの彼女さんは、男らしさの基準にドラゴンゾンビを名指ししたわけじゃないんでしょ?」
「はい。加奈ちゃんは、ディアボロ退治くらいと言っただけで、相手が何かなんて事は言いませんでした」
「じゃあ……」
ドラゴンゾンビ退治なんて辞めとけばいいのに。と、橘は思う。
この見解は彼女独自の物ではない。実際、この依頼を引き受けた時、八名の撃退士達の間でまず初めに合意された事が、この無謀な新人撃退士をドラゴンゾンビに『会わせない』事であった。
撃退士は正義のヒーローで(少なくとも、橘はそう思っている)、ヒーローの戦いが常に安全牌ばかりとは限らない。時には無理を通さなきゃいけない事だってあるけれど、相手を選ぶ余地がある時には、なるべく下の方から選ぶのが当然の良識と言うものだ。
「僕には、全力を尽くす義務があると思ったんです」
橘の想いを察したのか、次木は小さな声で、言葉を継いだ。
「勝てそうな相手に勝ってみせたとして、それで一人前の男でござい、なんて違うと思うし、彼女にも失礼です。僕が彼女にして見せなきゃいけない事は、全力を尽くす事であって、要領よくお題を解決する事ではないと思うから……」
「あら、少し意外ですね」
「うん。何か立派な事言ってる様な気がしますっ」
次木の背後で、古雅と黒瓜の二人も彼の言葉に耳をそばだてていた。
彼女達も、初めは彼の身の程知らずな無謀さを咎めて、後は適当にグールドッグ辺りでお茶を濁してお帰り願えばいいだろう、なんて計画していたのだが、どうやら次木くんも無謀一辺倒の人間ではないらしい。どちらにしてもドラゴンゾンビをスルーする事には変わりはないが、適当に疲れれば諦める、という程単純な話でもないようだ。
はてさて、どうしたらいいだろう?
―――なんて、のんびり構えている時間は、実は、撃退士には残されてはいなかった。
ここは悪魔の支配領域。生者は全て全て絶え、死者のみが闊歩する暗がりの地。
元より、イニシアティブは人にない。
●
初めに気がついたのは九神だった。
それは、一人店外の屋根の上に登り、見張りも兼ねて次木くんより借りたデジタルビデオカメラの撮影テストをしていた時の事。カメラをあっちに向け、こっちに向け。結界のせいか、まだ正午過ぎであるのにも関わらず、周囲の景色はまるでフィルター越しであるかのように薄暗い。
そんな景色の遠景が、カメラのモニターの中で動いたのだ。
最初は風で立木が揺れているのかと思ったが、違う。
彼女は咄嗟に屋根の上に伏せ、そしてその目で見た。コンビニの前を走る国道の先、領域中央方向から何かが来る。三階建ての建物の上から、灰色の骨(腕? それとも翼?)を突き出した巨大な何かが。
「何なのだ、アレは……」
呟き、彼女は店の裏手から屋根を駆け降りる。一刻も早く、仲間達に伝えなければいけない。
アレが店の前を通るまで、もう幾許もないに違いなかった。
●
裏口から店内に飛び込んできた九神の報告に、撃退士達は浮き足立つ。
逃げるか、戦うか、隠れるか。
報告にある相手の巨大さに、戦うという選択肢は即座に却下された。また逃げるのも難しい。先程のグールドッグ等と何処でまた遭遇するかも判らず、最悪挟み撃ちの状況にすら陥りかねない。
「隠れるしかありませんわ! この店は国道沿いに数ある廃墟の一つでしか有りません。わたくし達が通りから見えない位置に隠れさえすれば、見つかる心配はこれっぱかりもありませんもの。浩平もそれでよろしくて?」
「あ、はい。その、それで……」
桜井は内心、ここで次木が「丁度いい相手が来ましたね!」何て言い出すのではないかとヒヤヒヤしていたのだが、意外や彼の態度は大人しい。若干気にはなったものの、今ここでそれを追求する暇はなく、撃退士達は店内奥、従業員スペースのバックヤードに全員が駆け込んで、息すら止めて身を隠す。
その直後。まず初めは音だった。
重い、巨大なものが歩く事によって起こる地響き。
棚の上の商品までもがカタカタと揺れる。
次は匂いだった。グールドッグとは比較にならぬ、腐った肉の生温かい匂い。店の奥に隠れれていてさえこれなら、直に相対すれば一体どれほどの腐臭がするだろう?
最後が、光だった。
匂いと音が最高潮を迎えた時、店内に差し込んでいた陽光がふっと陰る。
いるのだ、今、店の前に。陽の光すら陰らせてしまう程の巨大な何かが!
だが、本当の恐怖はその次にやってきた。
―――足音が、店の前で、止まる。
●
(気付かれたか!?)
新田原が弓を構えるのを、横にいた九神が首を振って止める。
店舗奥に身を潜めている撃退士達からは、今、店の前で足を止めた巨大な何かの姿を目にする事はできない。それは同時に、向こうからも何も見えていないという事であった。見つかっている筈がない。
撃退士達は身を固くし、息を殺す。
五秒か、十秒か、三十秒か。
その一瞬一瞬に彼ら全員の命が懸かっていた事を思えば、それは永遠とも言える長い時間であった。武器を握りしめ、ありったけの祈りの文句を思い返し、鼓動の音が外に漏れるのを本気で心配した、その時間。
そんな撃退士達の中で、次木の様子に気がついた者は、隣にいたレイラ一人だけだった。
次木は震えていた。真っ青な顔で、両肩を抱きしめて。刀さえ床に放り出して、彼はただ震えていた。彼が求めていた筈のお望み通りの怪物を前にして、彼は目を開ける事すら出来なかった。
レイラはそれを見て、次木の肩にそっと手を置く。
大丈夫だから、きっと大丈夫だから。彼の恐怖が和らぐように、彼の震えが収まるように、彼女は小さな声で繰り返し囁き続ける。
悪い夢の様な時間は。
やがて、夢のように過ぎ去った。
店内には日差しが戻り、悪臭も微かな痕跡だけを残して薄れて消える。しばらくは重い地響きが夏の日の遠雷のように聞こえていたが、それもやがて聞こえなくなった。
「……助かった……のかな?」
「多分。もう、近くには気配も何も感じない」
紅葉の問いに答える九神。撃退士達は死そのものの顎門から、確かに身を隠し果せたのだ!
●
「次木君、大丈夫?」
「ほら、最初の勢いは何処へやってしまったんですの? もう!」
紅葉と桜井の言葉に、次木は顔を伏せたまま答えない。
一行は先程の遭遇の後、全員一致で引き返す事を決めた。まだまだベテランとは言えぬ彼らにとって、この街から浴びせられた洗礼は少々刺激が強すぎた。またあの怪物と出会しても堪らぬし、何より、依頼主である次木の落ち込み具合が酷い。
あの怪物を警戒し、行きの国道とは違うルートから脱出を図る。元より、直線距離なら大した距離ではない。ほんの十分程で、一行は支配領域の最外縁部に到達した。
一行の誰もが無事の生還を脳裏に描いたその時、
「皆さん、気をつけて! そこの家の陰に!」
レイラが叫ぶ!
同時に現れた、それは骨だ。
大きい。頑丈な四肢に、がらんどうの肋骨。頭頂から尻尾の先まで三メートルはある巨大な爬虫類の骸骨が、カチャカチャと骨を鳴らして撃退士の行く手を遮った。それはドラゴンゾンビとは比べ物にならない、骨のディアボロ。ジャイアントリザード・スケルトン。だが彼らにとってはそれでも十分過ぎる強敵だ。
「爪牙、誰か敢て敵せん! 僕が前に出る、援護よろしくね!」
先手必勝、初めに前に出たのは紅葉だった。
巨大な剣を振るい、骨トカゲの頭を叩き割ろうとするが、当たらない。続いて古雅、橘ら前衛組が飛び出すと、後衛の九神、新田原も援護射撃を開始する。
撃退士達が次々に前に飛び出す中、次木は打刀を握り、ただ立ち竦んでいた。
「どうしたぁ! 貴様、死にたいか! コンビニの裏にタマでも落としてきたのかっ?!」
新田原が、ショートボウを放ちながら次木に向かって大声で発破をかける。落としたタマも縮み上がるほどの大音声だが、次木は動かない。動けない。
そんな次木の姿は、直ぐに骨トカゲに気付かれた。前に立つ古雅を尻尾の一払いで跳ね除けると、骨トカゲは立ち竦む次木へと真っ直ぐに突撃を掛ける。
「うわ、あ、あっ……」
「次木君! 危ない!」
「ぼーっとしてるんじゃありません!!」
打刀を鞘のまま握りしめて身を凍らせる次木の前に、レイラと桜井の二人が何とか割って入る。だが、阿修羅のレイラは兎も角、アストラルヴァンガードの桜井にとって、アンデッドはある意味相性の合い過ぎる天敵だ。たちまち壮絶な削り合いが始まった。
「誰か、浩平を早く向こうへ! こちらはそう長く保ちませんわよ……!」
桜井の声と姿に、次木は必死に刀を握る。鞘さえ捨てた。
……だが、どうしても足が前に出ないのだ。
(ダメだ、やっぱり僕に撃退士の仕事なんて無理だったんだ。加奈ちゃんにも、僕なんか相応しくないんだ)
骨の怪物も、周りで奮闘する撃退士達も、まるで夢の中のように現実感が感じられない。
その次木の首っ玉に、背後から黒瓜が飛びついた!
「先輩! しっかりして下さい、今です、今なんですっ! 勇気を見せるのも、全力を尽くすのも」
黒瓜が、背後から次木の体をガクガクと揺さぶる。
「でっかい怪獣が怖いのはボク達も同じ。それを怖がるのは当たり前ですっ! 違うんです、本当に勇気を出すのは今なんです! あんなにいい事言ってたじゃないですか! 加奈ちゃんをここで諦めて、先輩はそれで納得できるんですか!? 挫けなければ、人は前に歩けるんです。地団駄でだって地面を馴らせるですよっ!!」
黒瓜の叫び。
だが、揉み合う二人の前に、遂に桜井をはじき飛ばした骨トカゲが迫り来る。立ち竦む二人目掛けて、骨トカゲの牙が振り下ろされて―――
「苦労した甲斐があったね」九神が呟く。
「これでもう、立派な撃退士だよ」
―――黒瓜を庇った次木の剣尖が、アウルの光を閃かせ、迫る牙を叩き折った!
●
『骨の街』を出た時、一行は皆ボロボロだった。ほんの数百メートル、悪魔の支配領域を出入りしただけでこの様では全く先が思いやられるというものだ。
だが、不思議と一向に悲壮感は見られない。
その短い経験で、将来有望な撃退士が誕生し、ついでに彼と彼女の仲も上手く行きそうだというのだから、元は十分採れている。先の展望に、希望を抱くには十分だ。