一見、その家におかしな所は見られない。
早春の陽光の中、リゾート地らしい明るい色に塗られた二階建ての瀟洒な建物は、敷地の周りを背の高い樹木に囲まれて、静かな、傍目にも落ち着いた佇まいを見せている。
だが、その静寂と落ち着きは偽物だった。
その家こそが、制服警官を含む五人の人間を飲み込んだまま、離して帰さぬ人喰いの家。
近隣の住民達が全て避難し、動く者の居ない不安に満ちた静けさの中、家は素知らぬ風を装いながら、次の獲物が訪れるのを待っているのだ。
そして今、待ち望んだ獲物がやって来た。
それは八人の男と女。皆まだ若く、手に手に武器を携え、緊張とふてぶてしさとを綯い交ぜにした表情を見せながら、特に急ぐ様子もなくゆっくりと家に近づいてくる。
家に近付いた所で、八人は二人ずつ、四つのペアに別れて家の各所に散って行った。
一つは勝手口へ、一つは居間に面した庭へ、一つは梯子を立てかけて二階の窓へ。
そして最後に残ったペアである二人の男達が、腕時計で時間を確認しながら家の玄関へと向かっていく。
二人は知っていた。過去、この家の玄関前に立ち、呼び鈴を鳴らした三人の男女の身に一体何が起こったのか。何者がこのドアを開けるのか。知っているからこそ、敢えて二人は呼び鈴を鳴らすのだ。
怪物をこの場に引き付け、迎え撃つ為に。
ピーンポーン
男の一人が呼び鈴のボタンを押し、もう一人の隻腕の大男が巨大な直刀を油断なく構える。
数秒の間を置いて、まるでそれが当たり前の事のように、ドアが内側からガチャリと開く。
作戦開始。
●
家全体にチャイムの音が響き渡る。
「……行きます!」
鈴代 征治(
ja1305)は相方の大上 ことり(
ja0871)にそう小声で囁くと、居間の大きな掃き出し窓を外側から打刀の柄で叩き割り、内鍵を解錠して窓を開ける。
開いた窓から、リボルバーを構えた大上が先に家の中へと上がった。
(絨毯敷の部屋に土足で上がるのも悪いですけど……まあ、非常事態ですし)
心の中で舌を出しつつ、大上は視線を部屋の内部へ注ぐ。
左手には木製の食卓、右手にはソファにテーブル、液晶テレビ。そして勿論、直ぐ目の前には倒れた男性が一人。外部からの写真撮影で唯一人、事前に姿を確認出来ていた被害者だ。年格好からするに、彼がこの家の本来の家主である男性だろうか? 酷く土気色の肌をした容貌を見た大上の脳裏に、一瞬、悪い想像がよぎる。
続いて家に上がった鈴代が、周囲の壁や天井に注意を向けつつ、倒れている男性に近づいた。
「もしもし、しっかりして! 聞こえますか? 今助けます!」
男性は目を閉じたまま身じろぎしないが、それでも呼吸はしているようで、鈴代は一先ず安堵。おそらく一番最初にやられた筈の家人がこうして生きているのなら、他の四人も皆生きている可能性が高い。
鈴代は斜めに抱くようにして、男性の体を抱え上げる。
●
チャイムの音と同時に、外壁に立てかけた長い梯子の上で、御堂・玲獅(
ja0388)は二階の窓枠にドライバーをこじ入れる。俗に三角割りと呼ばれる手法で、彼女はさして時間を掛ける事もなしに、窓ガラスの内鍵を開ける事に成功する。
開けた窓から御堂が、続いて新田原 護(
ja0410)が素早く侵入。
二人は油断なく、部屋のぐるりを見渡す。
どうやらここは家主夫妻どちらかの寝室であるらしい。フローリングの床にシングルのベッド。左手には建付けのクローゼットが立っている。一見したところ、薄暗い部屋の中にはディアボロも、被害者の姿も見当たらない。
二人は目配せを交わし、角のクローゼットへと近付いていく。天井まで高さのあるこの大きなクローゼットの中なら、ディアボロなり、被害者なりが入り込むスペースだって有るかもしれない。
無言のまま、御堂がペンライト片手にクローゼットの扉を開けた。
予想は当たった。しかも二重に。
クローゼットの扉を開けた途端噴出する、黒い煙!
咄嗟に身を引いた御堂が、クローゼットの中に見た。側板にもたれるようにして倒れた老婦人と、黒々とした煙に包まれた巨大な目玉そのものの怪物を。
目玉の怪物、バッグベアードの大きな眼が、飛び退く御堂を凝視する!
(あ、いけない!)
フッと、体から力の抜けていく感覚。
五人の被害者達は、皆この凝視にやられたのだろうか? まるで奈落へと吸い込まれるような感覚に、御堂は全力で抗った。救助者を目の前に、ここで倒れる訳にはいかないのだ。
パンッ パンッ!
「おい、大丈夫か、しっかりしろ!」
銃声と新田原の声に、御堂はハッと意識を取り戻す。凝視を解かれたバッグベアードは御堂の頭の上を飛び越し、ふわりと部屋の天井付近へ移動する。一発は確実に命中した筈だが、バッグベアードの様子に特に異常は見られない。
「……くそ、火力不足もいいところだ。ライフルがあれば……おい、急げよ。私が奴の足止めをしている隙に、貴様はそこの婦人を連れて脱出しろ!」
「すいません!」
愚痴混じりの新田原の叱咤に、御堂は頭を振り、急いでクローゼットの中の老婦人を抱き上げる。
脱出に使えるルートは、二人が入ってきた窓しか有り得ないが、帰りにゆっくり梯子を使って降りる暇はないだろう。
「本当なら下にマットか布団でも敷いておきたいところですけど……!」
残念ながら、何もかもが万全とはいかないのが世の常だ。御堂は婦人を胸に抱え込むようにして強く抱きしめると、二階の窓に足を掛け、意を決して飛び降りた!
●
玄関で鳴らされたチャイムの音は、ここ、勝手口の前に立っていてもはっきりと聞こえた。
久瀬 千景(
ja4715)とエルレーン・バルハザード(
ja0889)は、その音と同時に、事前に不動産屋から借り受けていた鍵を使って勝手口のドアを開ける。
開けてまず目に飛び込んできたのは、ガスコンロと流し台が並んだキッチン。さらにツードアの冷蔵庫に食器棚。平凡な家庭の台所そのものといった光景の中には、被害者も、目玉の怪物の姿も見られない。
「ここには居ないみたいだね。もしかしたらトイレや浴室の中かも……?」
「よし、行こう」
エルレーンの呟きに、久瀬は先に立って歩き出す。家の廊下に繋がるドアは、二人が入ってきた勝手口の向かい側だ。二人はそのドアを開こうとして……そして、叫び声を聞いた。異様な、呻き声とも唸り声ともつかぬくぐもった怪音が、ドアの直ぐ向こう、玄関の方向から聞こえてくる。
久瀬は思わず足を早め、ドアの取っ手に手を掛ける。
●
ぐぉおヴバァやぁゃァああぁぁッッ―――!
「はンッ、口がなくても叫び声は上げれるらしいなァ!?」
郷田 英雄(
ja0378)のグレートソードがバッグベアードの巨大な目玉に抉り込むと、バッグベアードは耳の神経を擦り上げるかのような叫声と共に、血とも涙ともつかぬ体液を辺りに飛び散らせた。郷田の隣では、緋伝 璃狗(
ja0014)がサバイバルナイフを握って、バッグベアードの背後に倒れる警官らしき人物を救出するタイミングを図る。
玄関での死闘。
呼び鈴に応えて玄関の鍵を開けたモノこそが、このバッグベアードであった。他のペアとは異なり、自らの役目を陽動と心得る二人にとって、バッグベアードとの派手な戦闘はむしろ望むところ。自分達がここで派手に戦えば戦う程、侵入した仲間に向けられる注意が減る理屈である。
(……とは言え、玄関直ぐに被害者が倒れているのは誤算だったな)
緋伝は上り框に足を掛け、じりじりとバッグベアードの背後に回り込む。陽動作戦自体はいいが、その戦闘に本来救出すべき被害者をも巻き込んでしまっては、これは何の為の作戦やらも分からない。
「どうした、目玉ァ! まだまだお楽しみはこれからだろう!?」
郷田の挑発に目玉がそちらへ注意を向けた瞬間、緋伝は素早く目玉の脇をすり抜け、倒れている警官に駆け寄る。
「おいあんた、しっかりしろ」
声を掛けながら、緋伝は警官の全身を素早く観察。
(息はしている、外傷はなし。意識はないようだが、麻痺が解ければ生還の見込みは高そうだな)
そうと決まれば、後は目の前の死に損ないをさっさと片付ける一手だ。
幸い、バッグベアードは背後の緋伝へは殆ど関心を払っていない。バッグベアードが郷田目掛けて得意の凝視を行おうとした瞬間を見計らって、緋伝はサバイバルナイフをその無防備な背面に叩き込む。
再び上がる怪物の悲鳴!
長大なグレートソードの代わりに打刀を発現させた郷田が、更に正面からバッグベアードに切り込んだ。
「ナイスアシストだぜ、緋伝!」
目玉に向けての、真っ向唐竹割り一閃! 眼球の半ばまでが二つに裂けたバッグベアードは、浮遊する力すら失い、熟し過ぎた果実のようにグチャリと土間に転がり落ちる。
勝利の手応えに、一瞬二人の気が緩む。だが、バッグベアードは一匹だけとは限らなかった。
郷田と緋伝が目を合わせ、ついで警官を助け起こそうと緋伝がしゃがみ込んだ瞬間、廊下の奥よりもう一体のバッグベアードが姿を現したのだ!
バッグベアードは巨大な目を見開き、打刀を構えようとした郷田を『凝視』する。
●
台所のドアを開いて廊下に出たエルレーンと久瀬の二人の耳に、激しい争闘の気配が飛び込んでくる。方角からして、戦っているのは玄関組の郷田、緋伝ペアに違いない。
廊下の左手には、洗面所とトイレに続く二つのドアが連なっている。正面には二階へと向かう階段。廊下は階段の手前で直角に左へ曲がっている。その角を曲がれば、玄関は直ぐ目と鼻の先だ。
先に洗面所の方を探索すべきかと、エルレーンは一瞬考える。
逆に今のタイミングなら、玄関にいるであろうディアボロに対し、背後から不意を突けるかも知れない。
「……千景さん、玄関に行こうよ。今なら挟み撃ちなの」
「了解だ、エルレーン」
久瀬にも異論はない。二人はなるべく音を立てないよう、廊下を小走りで進む。
……実際のところは、彼女の目論見は少しだけ外れたのだった。
何故なら二人が廊下の角を曲がるより先に、郷田達はバッグベアードの初めの一体を撃退する事に成功していたのだから。
だがそれでも、エルレーンの行動は無駄にはならなかった。
廊下を曲がった先でエルレーンは見た。廊下に伏したまだ若い女性と、その上で浮遊する一体のバッグベアードを。そしてバッグベアードの視線の先で凝視により硬直した郷田と、倒れた警官をかばい、サバイバルナイフを構えた緋伝の姿を!
(ディアボロだ! ディアボロが人を襲っているんだ!)
怪物が人を襲う。
それは彼女にとって、その表面的な言葉の意味以上に容認出来ぬ事であった。
許されぬ事であった。
「おい、エル……」
傍らの久瀬が声を掛けた時には、既に彼女はファルシオンを片手に走り出していた。
(ディアボロ! 人を襲うディアボロッ!)
矢弾の如く真っ直ぐに向かってくるエルレーンに、バッグベアードは直ぐに気が付いた。同時に、巨大な眼球より放たれる怪光線が真っ直ぐに彼女の肩を射抜く。肉を弾けさせ、血を蒸発させる強烈な熱線! だが、その直後、全く速度を緩める事なく突進するエルレーンの姿に、目玉の怪物は、そうだ、文字通りその目を見張る事になる!
「人を襲うな! 消えちゃえッ、バケモノッ!」
彼女の渾身のファルシオンによる一撃が、目玉を真っ二つに叩き割る。
●
二階からの銃声と、玄関から聞こえる激しい戦いの音は、居間の探索を進める鈴代、大上の二人にも聞こえている。この部屋に迄戦火が波及してこない今の内に、何とかこの部屋の探索を終わらせないといけない。
「征治くん、あれ!」
「収納ですね、確かに怪しいですよ」
一通り居間を見て回った二人の最後の探索ポイントが、この収納である。勿論開けるしかないが、事前に得た情報では、今回のディアボロは殊の外薄暗い場所を好むらしい。それなら、この少し大きな収納の中などは、奴らにとって格好の寝床となるのではないかしらん……?
「征治くん、開けてみない?」
「……僕はこの男性を抱えてますし。大上さん、どうぞ」
「むむむ!」
しょうがないので、大上はおっかなびっくり、収納扉に手を掛ける。
片手に懐中電灯を用意して、目玉が出れば、いつでも目潰しを食らわせられるように。
(えーい! ナムサンなのです!)
二階で御堂の身に起こった不運をもし大上が知っていたら、彼女はもう少し慎重であったかも知れない。
だが、ご照覧あれ、神は彼女に微笑んだ。
収納の中には、黒い煙も目玉のお化けも居なかった。代わりに居たのは、ぐったりと倒れ伏した男性が一人。背格好からして、引越しの挨拶に来たという夫婦連れの夫の方に違いない。
「征治くん征治くん、やった、ほら、要救助者ですよー♪ 一旦二人を外へ運び出しましょう」
●
「これで、浴室や洗面所などの水回りも探索終了。残るは……」
「二階だけだな」
久瀬の言葉を、新田原が引き取った。
この時点で、既に撃退士達は消息不明であった五名全ての被害者達を発見、確保する事に成功していた。同時に分離していた四ペアも再集結。負傷したエルレーンと、阻霊陣係の鈴代二人を、救助した被害者達の護衛役も兼ねて外に残し、後六人の撃退士達が一丸となって、見取り図上の未踏破区域の探索に当たる。
その結果が、先の久瀬達の言葉である。
再び梯子を登るのは、生き残りのバッグベアードの襲撃を受ける事を考えると危険過ぎる為、一行は郷田、久瀬を先頭に正面から階段を一段ずつ登っていく。
「何ンだ、目玉野郎、随分堂々としたもんだぜ?」
階段を登っていた郷田が、背後の仲間に呆れた様な声を掛けた。
彼の言葉の意味はすぐに知れた。バッグベアードの最後の一匹は、影に隠れる事すらせずに、二階廊下のどん詰りでフワフワと浮かんでいたのだ。
バッグベアードのその奇妙な行動の真意は、その後直ぐに判明する事になる。
全員が武器を構え、狭い廊下に足を踏み入れようとした瞬間、突然、バッグベアードの体から濃密な黒い煙が吹き上がった。煙は瞬く間にバッグベアードの体はおろか、廊下の中程までを、一切の光を通さぬ漆黒の闇に落とし込む。
撃退士達は中に踏み入れる事も出来ないまま、武器を構えて暗闇と対峙し続けた。
三十秒が経ち、一分が過ぎる。
徐々に煙が薄らいできたと見えた途端、緋伝が武器を下ろす。
「ダメだな。……逃げられたようだ」
彼の言葉通り、煙の晴れた廊下の先にバッグベアードは居なかった。
廊下の奥には、開いた窓が一つきり―――
●
一匹のディアボロに逃亡を許したものの、撃退士達の対応は妥当なものとして評価された。何より五名の被害者達全てが、その後無事に麻痺状態から回復したというのだ。
その後再びバッグベアードが騒ぎを起こす事もなく、斯くして、ここに『人喰いの家事件』は終結する。