神々廻(ししば)寮は、森の中に建っている。
新興の人工島に見合わぬ大木は、二階建てである神々廻寮の屋上を遥かに超えてそびえ立ち、南海のジャングルから移植してきたかのような植物群は、敷地内をところかまわず、冬でも枯れないままに繁茂する。
そんな緑に囲まれて、神々廻寮は「百年前からここに建っていましたが、それが何か?」なんてまるで当然の顔をして、どっしりと島に根を下ろしているのだった。
いやいや、おかしいでしょう? とある者は苦言を呈す。
常識で考えましょうよ。建物が、土台の人工島より古いのなんておかしいじゃないですか?
それに反論する者の意見はこうだ。
人工島造成の前より、この海には今の『久遠ヶ原』の大元となった小島があった。多少古い土地や建物が残っていたとしても、格段不思議なことではない、と。
真実は今も分からない。数年前、学園の体制が今の形に変更されたその前後のゴタゴタで、残念ながら過去の資料の多くが紛失してしまったのだ。時節生徒がどこからか発掘(文字通りの意味で)して来る「神々廻寮建立由来書」の類も、決まって資料自体の信憑性を問う声の前に有耶無耶になっていく。
わかっている事はほんの少し。
神々廻寮は大変古い建物であること。
神々廻寮は現役の久遠ヶ原学生寮であり、今も八十名を超える学生がここで寝起きしていると言うこと。
神々廻寮は自治と自由を重んじる学生自治寮であり、その運営の大半は学生自身の手によって行われていること。
他に何か知りたいことがあれば、それはもう、実際に寮生となって体験してみる以外に方法はない!
本入寮にはちょっと気が早いと思うなら、一日体験入寮なんて如何だろうか?
親切な先輩寮生が、時には不親切な先輩寮生が、きっと貴方の疑問に答えてくれるはず。
準備なんて何もいらない。その身一つで来ればいい。
それでは改めまして、神々廻寮へようこそ!
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「神々廻寮へ〜、ようこそッ♪」
ジャンッ♪
満員御礼、二十五名の一日体験寮生を前に共用棟食堂にて開催された歓迎昼食会は、意外にも女性ボーカルによるテクノポップ風バンドで幕を開けた。シンセサイザーによるピコピコサウンドと、中等部らしき女性ボーカルの甲高い歌声、生ドラムの腹に響くズンドコ重低音が奇妙な調和をとって耳に快い。
体験寮生達の惜しみない拍手に、大きく手を振り返しながらバンドグループが退場すると、一転、今度は高等部儀礼服を隙なく着こなした長身の男子生徒が、マイクを片手に壇上に立つ。男子生徒の後ろには小柄な女子生徒が一人、やはり高等部儀礼服を着て控えていた。
「皆さん、恐らくは殆どの方にとっては、初めまして。自分が当神々廻学生自治寮々長、石動丙蔵(いするぎぺいぞう)です。神々廻寮は、皆さん一日体験寮生の入寮を歓迎いたします。今回の体験入寮を機に、皆さんがより深く神々廻寮のことを知り、理解し、シシバの名に親しんで頂ければ、現寮生一同、これに勝る喜びはありません」
そんな挨拶を皮切りに、石動は二十五名の体験寮生を前に語り始める。
それは寮長からのお知らせであり、先輩寮生から新寮生への訓示であり、そして一寮生として神々廻寮へ寄せる親愛の表現そのものであった。
「恐らく、ここにいる皆さんの心の中には、既に色々な疑問や質問が渦を巻いているでしょう。
実際の入寮手続きや具体的な部屋の間取り、敷地構成、守るべき寮則、寮の運営に関わる自治制度、必要な寮費や自治会費などについては今直ぐにでも答えることが可能です。この後、別途質問会の時間を予定しているので、その際に御質問頂ければ、自分から、もしくはこちらの石蕗(つわぶき)副寮長から……」
ここで、石動は傍らの女子生徒を体験寮生に対して紹介した。
名前を紹介された石蕗副寮長は、皆に向かって僅かに頭を下げる。
「……改めて回答をいたしましょう。
また、中には答えることが難しい問題も存在します。
二百十三号室の開かずの間の中はどうなっているのか? 毎年必ず現れる幽霊生徒の正体とは?
中でも、築五十年を遥かに超えると思しきこの木造建築が、何故創立十年の新設校に過ぎない久遠ヶ原学園の付属寮として存在しているのかについては、自分たち現役寮生にとっても大きな謎となっています。これらの件に関しては、誰に質問しても定まった回答が得られないことを、予めご了承ください」
ここで芝居ッ気たっぷりに肩を竦める石動寮長の仕草に、体験寮生達からも釣られて笑い声が溢れる。
「―――また、中にはたとえその答えを知っていたとしても、一口に言い表すには難しい質問も存在します。
この神々廻寮は、果たして青春を賭けるに値する場所であろうか?
神々廻寮内の人間関係は良好であろうか?
神々廻寮は、若い学生が男女問わず、人生の一時期を過ごすに相応しい場所だろうか?
これらの質問に関して、勿論自分は、またこちらの石蕗副寮長にも、既に答えは用意されています。なんなら他の誰でも構いません。寮生の誰に聞いても、きっととっておきの答えが返ってことは間違いない。
……だけど、自分達の口に出す言葉からでは、きっと本当の所ではご理解頂けないに違い有りません。
口ではダメなのです。
耳からではダメなのです。
このような質問に対する答えは、是非、貴方達自身の目によって、肌によって、心によって、見付け出して下さい。今回の一日体験入寮期間中、自分たち現寮生一同は、皆さんがその答えを探すための行動を全力でサポートさせて頂きます」
●
意外に話し好きであるらしい石動の挨拶はその後もしばらく続いたが、反面、次に壇上に立った石蕗副寮長からは、今後のプログラムについて、パンフレットと照らし合わせての事務的な説明があっただけだった。
プログラム自体は事前に公開されていた通り。
質問会に、寮の案内。後は班ごとにグループ分けをした上で、先輩寮生と一緒に寮生活体験。寝て起きて、最後は送別会をするだけという、ある意味大雑把といえば大雑把なプログラム内容といえるだろう。
「それでは、引き続き質問会に移りたいと思います。皆さんから、何か質問はありますか?」
そう言って石蕗が食堂の中を見渡すと、待ってましたとばかりに獅子堂虎鉄(
ja1375)が勢い良く手を挙げた。
「はい、それではそこの方」
「高等部一年、獅子堂虎鉄だ。石動寮長に問おう。この寮内で上に立つ者として、一番心を砕いている点は? また、寮の規範について四文字熟語で表現して欲しい」
神々廻寮と同じようなオンボロ……もとい古風建築な部室を抱えたクラブを運営する身として、今回の体験入寮をライバルの内情視察と意気込む獅子堂虎鉄。彼の若干先走り気味の質問に対して、だが石動寮長は動じない。
「早速の質問、ありがとう。一番心を砕いていることは、上に立っているとは思わないことだな。自分の立場はあくまでも雑用係であり、寮生たちの意見のとりまとめ役に過ぎないと理解している。自治とは、少数の役員任せで得られるものでは決して無い。寮の規範を四文字で表すとしたら、自主自律。シシバの一員として、寮生には常に主体性を持って自らを律して欲しい」
「むむ、中々天晴なお答え、有難う御座いました!」
獅子堂はそう言って頭を下げる。
「それでは次のご質問は? ……はい、ではそちらの方」
次に質問で立ち上がったのは志堂 暁(
ja2871)だった。
「大学部の志堂だ。質問ッツーか、バイク通学的なのオッケーなんかね? バイクの置き場所とかが気になってな」
「寮に入る時、入り口の脇に自転車が並んで止められているのが目に入ったかと思うが、うちの駐輪場はバイクの駐車も特に問題はない。実際には敷地の隅に適当に駐めてる者が多いかな。ただし床が抜けるので、寮内部への持ち込みは禁止。自動車用の駐車場は寮に付属していないので、必要なら別途近在の月極駐車場を借りる必要があるだろう……こんなところでいいかな?」
「ああ、よく判ったよ」
石動に対して頭を下げて、志堂は着席する。
「他に質問のある方はいらっしゃいませんか? ……はい、そちらの女性の方」
次に石蕗が当てたのは、桜宮 有栖(
ja4490)。
桜宮はその場で立ち上がると、ニッコリと笑顔を作って質問を述べる。
「高等部二年、桜宮です。質問ですが、寮部屋は何人部屋になるでしょうか? また、今年の入寮枠は何人でしょうか?」
「大変いい質問だ」石動は頷いてマイクを握る。
「寮部屋についてだが、うちは四人三室という多少変則的な構成が基本となる。具体的には、二人相部屋が二室につき、一室のリビングルームを共用する形だ。事実上、その四人をルームメイトとして、共に寝起きする事となる。ついでながら説明をしておくと、神々廻寮の行事では、何事にあたってもこの四人を一組とした班単位での活動が基本となる。今年の入寮枠については、あー……」
言い淀む石動の言葉を、石蕗が横から継いだ。
「今年の入寮枠は、凡そ三十名です。ただし学期途中での入れ替わりも多いため、これは確定した数字ではありません。……桜宮さん、質問は以上でよろしいでしょうか?」
「お許し頂けるなら、最後にもう一つ。……これは質問というわけではありませんが、何か、神々廻寮らしい、神々廻寮を物語るようなエピソードがあれば、是非聞かせて頂きたいです」
「ふむ。シシバらしいエピソードか……」
石動は、一旦マイクを口から離し、宙に視線を彷徨わせた。ややあって、再びマイクで喋りだす。
「そう、男女共用寮という形態自体が珍しいお陰で、ある意味大概のイベントがウチらしいとは言えるだろうな。秋の終わりの芋煮会、不定期開催のシシバ寮祭、どれも男女混合で大変に盛り上がる。特段イベントの類を持ち出さなくても、日常寝起きする中で男女が顔を付き合わせる機会は、恐らく他の学生寮に比べて随分多いはずだ。……もっとも、それがいいことばかりでないのも事実だが……」
「……石動寮長?」
「ああ、石蕗君? ……いや、うん。解答は以上だ。そこの君、参考になっただろうか」
「ええ、とっても。ありがとうございました」
石蕗副寮長の視線に、途端にへどもどする石動寮長。
そんな二人に対して、桜宮は笑顔を見せて着席する。
「それでは、次の質問は……」
言いながら体験寮生達の上に視線を走らせる石蕗。続いて手を上げようという者は見られない。
「……質問がないようですので、これにて質問会を終わります。まだ時間がありますので、それまでは食事の続きをごゆっくりどうぞ。昼食後は、男女に分かれた上で、それぞれ寮内施設の案内に向かう予定です」
●
「え、わ、あの、ぼ、ボクいいです。あっちの方の列で……」
「何言ってるの貴方。あっちは男子の列なのよ? 幾らうちが男女合同の寮だとは言え、一応寮棟にも男女の区別があるんですから」
それは昼食後、さてこれから男女別に施設案内へ出かけようという時の事だった。
何やら、女子列の方で揉めている。どうやら体験寮生の一人が、女子列に入るのを嫌がっているらしい。
とは言え、実際には揉めているというほどの騒ぎでもない。
顔を赤くして小声で抵抗する体験寮生と、見るからに押し出しの効いた、ドッシリとした目方を誇る引率の先輩寮生(勿論女性だ)とでは、初めから勝負にもなってはいなかった。このまま後数十秒もすれば、件の体験寮生はきっちりシャンと女子列の中に放り込まれて、何事も無かったかのように施設案内へと出発したことだろう。
そう、「おい、そいつ男だぞ?」なんて、横から緋伝 璃狗(
ja0014)が言い出さなければ。
彼の言葉に、我が意を得たりとその体験寮生……犬乃 さんぽ(
ja1272)も大きく頷く。
「そう、そうなんだ! ボクは男の子だから、男子列に並ばないといけないんだよっ」
「男子? この子が?」
引率の寮生が、疑わしげな視線を緋伝に向ける。
「そうだよ。ほら、どう見ても、ジャパニーズハイスクールニンジャの格好でしょ?」
自信満々に胸を張る犬乃。
ちなみに犬乃の今の格好は、ブルー地のミニスカートにセーラー服だ。
男女の見極めだけでも相当な難ミッションであるが、更にニンジャとなるともういけない。難ミッションを通り越して、インポッシブルもいいところ。セーラー服美少女戦士か何かの間違いではあるまいか?
到底納得しかねる表情の引率寮生に、緋伝からの一言。
「……格好は、多分何かの勘違いだろう。骨格から見れば、こいつは確かに男だと思うぞ……俺も自信はないけどな……」
「がーん」
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ぞろぞろ。
ガタガタ。
みっしみし。
引率の先輩寮生に連れられて、男子生徒ばかりの体験寮生達が木で出来た長い廊下を渡り歩く。
流石に百名近くが暮らす寮だけあって、木造二階建てといっても、その内部は相当広い。
長大な廊下の左右に並ぶ無数の寮室は当然。会議室、客室、応接間、トイレに浴室、食堂、ラウンジ、倉庫、受付、ロビーに茶室に放送室!
「基本的には、男子棟も女子棟も同じ作りだ。トイレや浴室は当然として、会議室や客室なんかもそれぞれの棟に一つずつある。まあ共用棟の応接間もそうだが、普段はゲーム部屋か漫画部屋として使われてる部屋が多いんだけどな」
「へぇ〜、思ったよりも広いんですね……」
鳳月 威織(
ja0339)の言葉に、引率の男子寮生が振り返る。
「おおともよ。今でこそこんなオンボロ寮だが、昔はイッパシの学生寄宿舎かなんかだったんだろうな。六畳間のアパートに詰め込まれるような最近の寮に比べても、施設面で劣ってるわけじゃねぇ。ま、汚ねぇけどな」
がっはっは、と引率寮生は大笑い。
「あ、そういえば、寮食とかってどうなってるんですか?」
何の気ない水杜 岳(
ja2713)の質問に、引率寮生は笑いを引っ込めてあっさりと答えた。
「ん? ないぞ、そんなもの」
「ない?」
「いや、ないというわけではないか。……そう、うちの自治寮ってのは割と徹底しててな。辛うじて寮母さんが一人いるんだが、それ以外は全て学生しか居ないんだ。つまり、食堂で飯を食うにも、学生の誰かがその飯を作って初めて食事にありつけるというわけ。今日の歓迎会の食事だって、アレ、全部寮生が作ってるんだぜ?」
その言葉に、思わず体験寮生たちは拍手。
おー、パチパチパチ。
「いや、俺が作ったんじゃないからいいけどな。……で、まあ、食事は寮生の有志連合が自分達で作るってことになってるんだ。事前に連絡しておけば、材料費の実費だけで朝晩の食事を食堂で食うことが出来る。ただし、週に一度か二度は食事当番が回ってくるんで、その時は自分がみんなの分の食事を作らないといけない、と。そういうシステムだな。朝だけとか、月の半分だけ、みたいな連中も含めれば、寮生の半分くらいはそれで飯を食ってるぞ」
「成る程。面倒くさそうではありますけど、それはそれで結構いいかも知れないですねぇ」と水杜。
これは是非、姉ちゃんにも教えてやらなければ。
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一本その頃、こちらは女子棟。
夢見がちな男子学生辺りは、女子棟と聞くと過剰にファンシーで美しい妄想を抱く向きもあるようだが、実際は部屋や廊下に転がってる小物が多少違うくらいで、男子棟と見た目で大きく変わるわけでもない。
つまりは、同じくらいオンボロで、同じくらいに歴史豊かだということだ。
実のところ、神々廻寮は『汚い』という意味では、あまり汚くはないと思う。
引率の先輩寮生にあちこち引き回されながら、雪成 藤花(
ja0292)などはそんな事を思ってたりする。ただ、そこにはどうしようもない程の歴史が積もっているだけなのだ、と。
例えばその歴史は、窓枠に嵌めこまれた、透明度がバラバラな窓ガラスからも感じ取ることが出来た。
他にも上げればキリがない。
ガタピシの扉、傷だらけの柱。何故か廊下に並ぶ、錆の浮いたスチールロッカー。各部屋の前にかかっている表札は手作り感が満載で、今時裸電球の照明を久遠ヶ原で見かけるなんて、雪成はここに来るまで想像だにしなかった。
「あの寮長も、演説では中々に良いことを言っていた。このような古い建物の良さは、確かに耳から聞かされても分からないだろうからな。……とはいえ、このままでは、果たして地震がきた時に耐えれられるのだろうか?」
建物の様相は気に入ったらしい水無月 神奈(
ja0914)だが、耐震性などの面では気になる様子。それは実にもっともな心配ではあるが、引率の先輩寮生にとっては、どうやらその手の心配はとんだ杞憂ということになるらしい。
「まあボロいボロいと言われてるけど、これが案外丈夫なもんよ。なんせ、あたしが二階を歩いても床が抜けたりはしないんだからね」
確かに目方の有りそうな先輩の女子寮生は、そう言ってあっはっはと高笑い。
「これはまたコフウな寮ですね。これがクールジャパンって奴なのかな?」
「……風情がある場所、なの」
引率寮生の後ろについてモグモグとクッキーを頬張りながら、ファティナ・V・アイゼンブルク(
ja0454)とアトリアーナ(
ja1403)の二人は、そんな感想を漏らして行き過ぎる。
「ですよね……こんな寮だからこそ、あたたかみがあるんだと思います」
二人の言葉に、思わず雪成も同意の言葉を漏らしてしまう。
「あら?」
その雪成の言葉に、ファティナとアトリアーナは足を止め、モグモグとクッキーを食べながらしばし雪成と見つめ合う。
「……雪成さんですよね。あなたもクッキー、お一つ如何?」
「はい、頂きます♪」
●
「あらぁ、この部屋は何かしらぁ?」
初めは黒百合(
ja0422)自身、何故その部屋に目が止まったのか説明出来なかった。特にこれと言って外観がおかしいわけではない。それはごく普通の、長廊下にずらりと並ぶ、在り来りの寮室の一つ。
「あ、黒百合ちゃん。どうしたの? そのお部屋、何か変だった?」
扉の前で足を止めた黒百合に、虫眼鏡片手の逸宮 焔寿(
ja2900)が声を掛ける。
男女ともに一通り寮内の案内が終わった後の自由時間。
体験寮生たちは三々五々に彼方此方へと散らばっていき(その多くは、蛾が夜の光に寄せられるかのように、ごく自然とゲーム部屋へ吸い込まれていった)、今は黒百合や逸宮らのような一部の者達だけが、改めて寮内外の探索に精を出しているだけだ。
しばらく考えて、黒百合はようやく自らの感じた違和感に思い当たる。
表札に、名前が書かれていない。
何のことはない、つまりはただの空き部屋だということだ。試しに部屋のノブを回してみるが、やはり鍵がかかっている。部屋番号は二百十三号室。
「なんだ、空き部屋なのですか、残念です」
がっかり、といった風情の逸宮。彼女はあっさりと部屋に対する興味を失ったらしい。尤も黒百合の方も、それほど深い関心をこの部屋に抱いていたわけではない。空き部屋なら他にも幾つか見つけている。貴重な自由時間を潰すほどの何か以上が、この部屋から感じられたというわけでもなし……
「……ねえ、逸宮さん? 後で、一緒にお風呂や手洗い場を見に行かないかしら?」
「いいですよー♪ でもなんでです?」
「この寮、体験寮生が予め立ち寄ると決まってる場所は割と綺麗にしているでしょう? もしこれで、使用時間外のお風呂や手洗い場も綺麗にしていたのなら、この寮の清掃状況も本物だわぁ、と思って」
「うわぁ、黒百合ちゃん、意地悪ですー♪ でも、いいですね、早速お手洗いを点検に行きましょうー!」
底意地の悪そうな、まるで白雪姫の継母のような笑顔を浮かべながら、黒百合は逸宮と手を組んで一階の手洗い場へと歩いていく。
そういえば、二百十三号室って言葉、最近どこかで聞いた気がしたんだけど。
少し考えるが、特に思い当たることは何もない。
……まあ、いいわぁ。重要なことなら、きっと直ぐに思い出すでしょうから。
●
日は落ち、周囲はとっぷり暗くなる。時刻は早くも午後六時過ぎ。
大谷 知夏(
ja0041)と雫(
ja1894)の二人は現在、先輩たちに連れられた先のイタメシ屋で、美味しいディナーに舌鼓を打っている真っ最中である。年少者の特権を生かし、払いは勿論先輩持ちだ。
チーズたっぷりのミートスパゲティで口の周りをベタベタにしながら、大谷は勢い混んで先輩たちに質問を飛ばす。
「先輩! 質問っす! 寮の一室には座敷童子が住んでいて、その部屋の主になると幸せになれるって本当っすか!?」
「嘘ね。逆に、同室になると不幸になる『五人目さん』ってのがいるけど」
「マジすか? それリアル怖いっす! じゃあ、寮の中で家畜を飼育していて、毎朝新鮮な牛乳や卵を頂けるって噂は!?」
「男子棟の裏に、鶏ならいるわねー。牛乳は流石にないわよ。畑なら普通にあるけど」
「当たらずとも遠からずっすね。それじゃあ、入寮した生徒のカップル成立率が、九十五%以上を誇るって本当っすか!?」
「あ、それは私も気になります」と雫。「異性との共同生活ってどんな感じですか?」
「嘘よ嘘。あのね、そんな幸せな寮だったら、体験入寮生の人数がもう二桁増えてないとおかしいわよ。
……ただまあ、寮内でくっつくカップルは実際結構多いわよ。何だかんだで、毎朝食堂で朝ごはん一緒に食べちゃってたりすると、どうしても仲良くなる確率は増えちゃうわけで。偶に、異性に幻滅したなんて生徒も出てくるけど、それだって年食ってから痛い目見るよりかは、早めに勉強できた分だけまだマシだって考えもできるわけだし。
さし当たり、寮長と副寮長の二石コンビなんて、怪しさ大爆発よね〜〜?」
「ほほぅ、勉強になるっす」と大谷。
「……今住んでいる『百花繚乱』とは、随分様子が違うのですね」と雫。
どうやら、神々廻寮とは単なる古風趣味のオンボロ学生寮ではないらしい。先輩の言葉を話半分に見積もったとしても、これはどうして、入寮する価値は十分だ。
『五人目さん』だけは、勘弁して欲しい所ではあるが。
●
夜、入浴の時間。
神々廻寮では男女それぞれの棟に独立して浴場が存在するため、男女で入浴時間をずらすような必要もなく、設備が古い割には概ね快適な入浴時間が楽しめる(ただし、残念ながらシャワーはない)。今回は事前に心配されていたような、異性の風呂に忍び込まんと欲する不埒なアドベンチャラーが現れることもなく、至極平和な入浴時間相成った。
「犬乃体験寮生よ。お前、男だ男だと言っていたが、どうにも本当に男だったんだなぁ」
「あ、あたりまえですよ、先輩! ボク、男の子だもん。ほら、胸だって全然無いでしょう?」
「ふうむ、どーれ、ちょっと先輩に触らせてみ……」
ボガンッ!
「……すいません、先輩。手桶がすべりました」
「ひ、緋伝体験入寮生、裏切り者め……」
―――なんて男風呂でのスキンシップ程度は、この際平和の内に含めてもいいだろう。
一方の女風呂だって、男風呂以上に平和なものだ。
「お風呂場は施設全体を写し出す鏡なんだ。判る? アーレイさん」
「判ります。日本の文化ですねー♪」
風呂場の文化的性質についてレクチャーする別天地みずたま(
ja0679)に、アーレイ・バーグ(
ja0276)も熱心に頷く。その横では、池田 弘子(
ja0295)が熱い風呂に肩まで使って上機嫌。
「やっぱり、一日で一番の楽しみは熱いお風呂だよね。やっぱ風呂が気持ちよくないと、そこに住む甲斐もないってもんだよ♪」
「あ、皆さん、ほら、見て下さい」
湯船の中から、神月 熾弦(
ja0358)が浴室に付いた高窓を指し示した。
湯気とガラスの向こうに見えるのは、神々廻寮を囲む、暗い緑の高木達。
そこだけを見れば、まるで深い森の中でお風呂に使っているかのような気分さえ味わえる。
「へー、ほぉ〜、中々だねぇ♪」
思わず声を上げる水玉に、アーレイはやはり熱心に頷き、湯船に浸かって手足を伸ばす。
「はう〜、いい気持ちです。これが日本の侘び寂びですかねー」
●
そして、深夜である。
消灯時間だからもう寝ましょう、なんて学生を貴方は見たことがあるだろうか?
いいや、見たことなんかない筈だ(断言)。
授業中、講義中はグースカ鼾までかいて寝倒すくせに、暗くなるとテンション上げて遊び倒すのが、この『学生』という罪深い生き物に備わる性である。まして、神々廻寮には消灯時間なんて無粋な代物は存在しない。体験入寮生の歓迎という美名の元、ここ共用棟第一会議室、通称「ゲーセン」では、夜を徹したゲーム大会が繰り広げられていた。
「なんの、まだまだこれから!」
「ふ、私のテクに惚れるが良いよ!?」
そんなノリノリな言葉を発しつつ格闘対戦ゲームに興ずるのは、麻生 遊夜(
ja1838)と七種 戒(
ja1267)の二人。勿論、部屋には他にもゲーム好きな寮生連中がずらりと並んでおり、対戦相手には事欠かない。
「…ん? おお、麻生に七種、お前達も此処に来ていたのか」
「あ、戒さん、こんばんわですよー♪」
麻生達がやたらに手強い寮生にやられて一息ついた所で、ゲーセンに鳳 静矢(
ja3856) と大崎優希(
ja3762) のカップルが顔を見せた。二十五名の体験寮生の中には、知り合い同士連れ立ってやってきた者も多いが、中でも彼ら鳳・大崎ペアのラブっぷりは他から抜きん出て見える(次点は、女同士ぴったりくっついてるファティナとアトリアーナだ)。
お互い以前からの顔見知りであることも手伝い、麻生、七種、鳳、大崎の四人は部屋の隅で、寮生達の対戦ゲームの様子を横目に、今日一日の体験をお互いに語って聴かせ合う。
思ったよりも綺麗だったこと。
思ったよりもボロだったこと。
思ったよりも寮生は沢山いて、思ったよりも部屋と敷地が広かったこと。
「どうだ? 例えばここに入寮したとして、上手くやっていけると思うか?」
「やっていけるんじゃない?」と、麻生の何の気ない質問に、一番初めに答えを返したのは七種だった。「適度に怪しいし、適度にボロいし。なんというか、子供時代に作った秘密基地を思い出すよねー」
「秘密基地か、確かにそのような感じだな」鳳も頷く。
「それに普通の女子寮に入ると、こんなふうに夜中皆でゲーム出来なさそうだし?」
「あ、それは重要ですよ! ねぇ、静矢さん?」
七種の挙げた、どちらかと言うと詰まらない理由に対し、しかし大崎は笑おうとはしなかった。そうかぁ、そういう観点も重要だよねぇ、等とひどく真剣な顔をして考え込む。
その考えこむ大崎の顔を見ているうちに、麻生も、何やらこうして夜中に皆でワイワイ騒ぐことが、ひどく大切な事であるかのように思えてきてしまうのだった。
(今夜は、もう少しこの下らない考えに沿ってみようか?)
麻生は寮生達の繰り広げる対戦ゲームの画面を指さし、鳳を誘う。
「鳳さん、どうです? 次、俺と一対戦」
「いいだろう、手加減はしないからな」
そうして、夜は更けていく。
●
翌日は、朝から気持ちのいい冬晴れの日。
「ふわぁ……お日さまの日当たりも良くて、こうしていると大きな公園の中にいるみたいだねぇ」
瀧 あゆむ(
ja3551)は、そう言って大きなあくびを一つ。
彼女のいるここ、共用棟二階のラウンジは、神々廻寮でももっとも日当たりの良い場所の一つである。木枠に細かく嵌めこまれた小さなガラス板は、陽の光を通してまるでステンドグラスのようにキラキラと輝く。今の時期でもここに座っていれば、ふんわりポカポカ、暖かい。
「何だか瞼が重く……。ちょっとくらいお昼寝しちゃっても大丈夫だよね?」
誰に聞くともなしに、瀧はそのまま、ラウンジの長椅子に丸くなって寝入ってしまう。
多分、瀧は夢を見ていたに違いないのだ。
だけど夢の中身は、次に揺り起こされた時にはもう忘れた。
「おい、ガキ、起きろ。いつまで寝てんだよ。送別会とやらがもう始まるぜ?」
「ほぇ?」
瀧がぽっかり目を開けると、彼女の上から、志堂の赤い瞳が見下ろしているのが目に入る。
「あ、居た居た♪ 二人共、下の食堂で皆が呼んでるよ。送別会が始まるから早く来いって」
並木坂・マオ(
ja0317)が、ラウンジから顔を覗かせて、二人に向かって大きく手を振った。
そうだ、ここはシシバ寮の二階で、今から送別会があるんだっけ。
寝ぼけ眼の瀧は、並木坂と志堂の二人に促されて、よっこらしょと長椅子の上に身を起こす。
その声が聞こえたのは、丁度その時。
ピンポパンポン♪ と、懐かしい響きのチャイムの音に続いて、壁に埋め込まれたスピーカーから、聞き覚えのある石蕗副寮長の声が流れ出す。
「こちらは神々廻寮自治会です。本日これより、共用棟一階食堂にて、一日入寮体験会の送別会が行われます。体験寮生を含む、全ての神々廻寮生は、至急食堂にお集まり下さい」
●
総勢二十五名の体験入寮生達は、たった一泊二日の寮生活で一体何を感じ取ってくれただろうか?
本入寮の意思を固め、希望に身を焦がす者は居るだろうか?
どちらにしろ、それらはまた次のお話。
今はただ、体験寮生達の栄えある今日という日を祝して―――