「あのディメンションサークルってのもは、便利は便利なんだが……」
引き摺る足に、土埃。
人家もまばらな田舎道を歩きながら、如月 敦志(
ja0941)が仲間にボヤく。
「……転送先の誤差が五キロ十キロ当たり前ってあの仕様は、どうにかならんもんか?」
「何を言っている。いい若い者がこの程度歩いただけで音を上げてどうするのじゃ? たかが五キロやそこら、しゃんと歩けばあっという間じゃぞ」
如月のボヤキに叱咤を返したのは、クラリス・エリオット(
ja3471)だ。ただ、尤もな言い分なれど、若いといえば彼女の方がずんと若い。クラリスの幼い外見に似合わぬ分別臭い台詞に、隣を歩いていたエルレーン・バルハザード(
ja0889)がくすりと笑みをこぼす。
ここは月観崎町の町外れ。
今回、幽霊魚退治を請け負った撃退士一行総勢八名は、学園からディメンションサークルを使っての転送後、件の幽霊魚が出るという現場へ向けてテクテク歩いている最中である。別に格別今回運が悪かったというわけでもない。如月の言葉通り、ディメンションサークルの転送精度は元来こんなものだ。
文句を垂れつつも、溜め池のある山へと向かって歩く撃退士達。
遠い遠いと言っても、地図の上では天魔が出るという溜め池はもう直ぐそこだ。さあ後一息と足に力を込めた所で……一行の先頭を歩いていたザクセン(
ja5234)の足が、ふと止まる。
「おい、どうして止まっ……」
「シッ」
……たんだ? と繋げるつもりだった如月の言葉を、ザクセンが遮った。キョトンとした顔で、如月の後ろを歩いていたクラリスやエルレーンも足を止める。
静寂。
首を廻らしても、聞こえるのは風の音ばかりであるが……
「聞こえる……何か、咆える声」
鋭い知覚を持つザクセンの耳にだけ届いた、それは微かな、しかし重く響く咆哮。
獣のようで獣に非ず。鳥でもなく、人でもなく。自然の中で長く暮らしたザクセンにとってすら、それはこれ迄聞いたこともない異様な咆え声であった。
「……これが、魚の、声」
「そりゃまた。近頃の幽的は、真ッ昼間っから吠えるんですかねぃ?」
十八 九十七(
ja4233)は笑いながら、ザクセンの言葉に対して愉快そうに軽口を叩く。
緊張をする者、笑う者。
個々に表現は異なれど、撃退士達の思いは一つ。
もう長く歩く必要はない。天魔は、すぐ目と鼻の先にいる。
●
「へー? 結構綺麗なところなんだね。ボク、こう言う日本の田舎の風景、好きだな♪」
辺りの景色を見渡しながら、犬乃 さんぽ(
ja1272)が歓声を上げた。
溜め池は、この騒動さえなければ落ち着いた日本的光景と言えなくもない、そんな中にあった。
里山の中腹で、葉を落とし、あるいは葉を黄色く染めた木々に囲まれて、そこだけぽっかり空いた空間に広がる小さな溜め池。都会の公園のように、周囲に散歩道が整備されているわけではないが、その分、無粋なフェンスや立て看板の類も見られない。
池の水面は鏡のように静まり返っていて、時節吹き渡る風に、浮かぶ枯れ葉が揺れるばかり。ちょっと絵心のある者なら、ここに腰を据えて風景画の一枚や二枚仕上げてみるのも面白かろう……なんて、それは勿論化け魚が居なければの話であり、そして、化け魚は確かにここにいるのだ。
一方、犬乃の傍らでは、橘椎名(
ja4148)と南雲 輝瑠(
ja1738)の二人は水門の点検に余念が無い。
溜め池の端に設置された水門は、これを巻き上げることで、池の水を水門からコンクリート製の用水路へと流し込むように作られている。本来なら巻き上げの程度に応じて流量調節も可能な構造になっているのだが、現在の大きく凹み、傾いだ水門では、どうやらそこまで柔軟な運用は望めないらしい。物は試しと、橘が水門上部の巻き上げハンドルに力を込めてみるものの、鋼製のゲートはギィギィと不気味な音を立てるばかり。
「……これは、やっぱり壊れてるね」と橘。「壊す?」
「うーん。半分程も水を抜けばとも思ったが、この様子だとこのままにしておくか、完全に水を抜くかの二つに一つしか方法はなさそうだな」
言って、南雲は考え込んだ。
実は、ここに来る途中で立ち寄った町の方でも、出来るなら水を抜かずに何とかして貰えないだろうか? という住人からの希望は聞かされていた。天魔さえいなくなれば水門の修理は後からなんとでもなるが、水が全てなくなっては、どの道今年の作付けは不可能になる。
「……水を抜けば有利になるとは言え、俺達で水門を壊してしまうのも本末転倒だろう。こちらは諦めて、当初の予定通りの正攻法で行くしかないな」
南雲の言葉に、一同は大きく頷き、早速準備を開始する。
●
ザパァ ギィッ ザプン……
ザパァ ギィッ ザプン……
「……ねえ、天魔って、いつ襲ってくるかな……?」
エルレーンがボートを漕ぎながら、同船している犬乃の背中に小さく問いかけた。
別に返事を期待しているわけじゃない。戦いが近いことで昂ぶる気持ちを、そうやって紛らわせているだけだ。案の定、オペラグラスを手に熱心に周囲を見張っている犬乃からは何の反応も返ってこない。
エルレーンはそのことを特に気にした風もなく、もう一度ゆっくりとオールを漕ぎ進める。
南雲の口にした「当初の予定」、つまり撃退士達の立案した作戦は至ってシンプル。
学園から借りてきた二艘のゴムボートで池に繰り出し、阻霊陣付きの漁網を駆使して魚を浅瀬に追い詰める。あとは陸側とボート側の撃退士で魚を囲んで総攻撃! ……と、まあ、まとめてしまえばそれだけだ。
溜め池は面積、深さ共に限られている。如何に透明度の少ない池とは言え、幽霊魚だって小さな小魚ではないわけで、後は実際に現場で臨機応変に片付けようという腹積もり。
現在、既に池にはそれぞれ犬乃とエルレーン、十八と南雲の四人の乗った二艘のゴムボートが進水済みである。残りの四人は池の岸辺に固まって待機中だ。
「……うーん、ねえ、バルハザード先輩? どうしてもこれ使っちゃダメかな?」
それまでオペラグラスを覗いていた犬乃がふと振り返り、足元に置いていたロープ状のものを手に取った。浮きが数珠繋ぎに連なったロープ状のもので、浮き一つ一つから、重しのついた細い糸が垂れ下がっている。
「オールに絡まるから却下、ですの」
ぎぃこ。
犬乃の言葉に、エルレーンはにべもない。
名付けて、天文忍法ネビュラの鎖(勿論、犬乃自身の命名だ)。この浮き付きロープをボートの周囲に渦巻状に配置することで、三百六十度、何処から魚が近寄ってきてもその存在を感知できるという触れ込みだが、生憎と待ち受け専門の技であるのが欠点だ。魚を浅瀬に追い詰めようという時には邪魔になる。
まあこれがなくても、魚が近寄ったことを感知することは出来るだろう。
犬乃は直ぐに気分を変え、オペラグラスでの監視業務を再開させる。
●
そうして、しばらくは平穏な時間が過ぎていった。
場合によっては、池にボートを浮かべた途端に襲いかかってくるのではとの予想もあったが、こちらを警戒をしてか、ボートが水面に浮かんだ後も向こうから襲いかかってくる様子は見られない。そうなると、小さな池とは言え隅々迄探索をして回るのは、やや骨だ。
平穏で単調で、緊張の時間。
その時間が終わったのは、陸の待機組である、如月のある行動がきっかけだった。
「如月? お主一体何をしているのじゃ?」
「クラリスか。いやな、ここに来るまでに、町の子供に幽霊魚の好物を聞いてきたもんで、折角だし試してみるかと」
そう言いながら、如月は町の商店で買い込んだ白いパックをクラリスに見せる。
目の部分を竹串で連結した小魚。メザシだ。
「何じゃ、魚ではないか」
「池の魚を食い尽くしたくらいなんだから、魚がきっと好物だって、子供達からの助言さ」
「……それはいいにしても、メザシなど食うのか? 海の魚じゃぞ、メザシは」
「いやいや。池育ちの魚にとっては、こういうのが逆に珍味なのかもしれないぜ?」
「うーむ、本当かのう?」
疑い深げなクラリスの視線を、如月の楽観主義が胸を張って跳ね返す。何、失敗してもメザシ代など安いもの。パックのラップを破り、如月は岸近くの浅瀬へと、買ったメザシを無造作にバラ撒いた。
「そーれそれ。こっちの魚は美味いぞ〜♪ なんてな♪」
さて、それが本当に幽霊魚にとって見過ごせない珍味であったのか、それとも襲撃のきっかけになるなら何でも良かったのか。返ってきた反応は、如月のお気楽な楽観主義をも上回る、極めて明快なものだった。
突如出現した、それは池を高速で岸に向かう一条の航跡。
岸から池を監視していたザクセンが気がつき、叫ぶ。
「出た! 来るぞ!」
●
ザクセンの声に、ボートを漕いでいた南雲、エルレーンの二人も、離れた位置を走る一筋の航跡に気がついた。
浅い水面下を何者かが高速で泳いでいるのだ。航跡の先頭、水面下に見える長大な魚影。あれこそが、撃退士の探し求めていた幽霊魚!
「速い!?」
魚影の余りの速さに、南雲が思わず声を上げる。慌てて船首を岸に向けてオールを漕ぎ始めるが、如何に撃退士とは言え、パワーボートさながらの勢いで岸辺に突っ込んでいくそのスピードに、手漕ぎのゴムボートでは到底追いつけるものではない。
「……ザクセン!」
「オオォッ!」
陸では、真っ直ぐに自分達の方へと伸びる航跡を目にして、橘、ザクセンの二人が即座に光纏。爆音と共にアウルの力を解放。遅れて、後衛組である如月とクラリスの二人も輝くオーラを身に纏う。
だが、一番槍は岸辺に立つ四人の誰でもなかった。
南雲が必死に漕ぎ進めるボートの上で仁王立ちになり、黒いオーラを身に纏った十八が、水面下の魚影目掛けて自動拳銃を乱射する。
「ヒャッハァァ! ビチグソ天魔め、さんざか乙女を待たせやがってヨォォッ!? こいつは礼だァ、タンマリ喰らいやがれェ! うォるアぁァァァァ!」
口と目つきが悪いのは御愛嬌。彼女の撒き散らす弾丸は、波を蹴立てて進む魚影の近辺に幾つもの水柱をおっ立てる。だが、確実に何発かは命中した筈なのに、航跡の進みに乱れはない。更なる銃撃を見舞おうと十八は銃を構え直すが、標的があまりに陸地に近過ぎるのを見て思わず銃を下ろした。
既に魚は岸辺まであと三メートル余り。このまま減速もせず、淵にぶつかるつもりか?
そうして、魚は遂に撃退士の前にその全身を現した。
いや、それは「現す」なんてヌルい形容詞ではとても追っつかない。淵に激突する寸前、魚は魚体をくねらせて一気に大ジャンプ! 全長四メートルの前情報に偽りなし。掛け値なしの巨大魚が、頭上から大顎を全開に飛び掛ってくるそのド迫力と言ったら!
「うぉォおぉ!?」
「な、何じゃ〜っ!?」
如月、クラリスの二人が、悲鳴を上げつつも辛うじて魚の顎から身を躱せたのは僥倖だ。
頭上を飛び越された橘、ザクセンの二人は、慌てて後ろを振り返り、派手に陸上を跳ねまわる幽霊魚に手中の得物を叩き付ける。ザクリと重い、確かな手応え。人の手をすり抜ける幽霊魚とは言え、撃退士のV兵器をまともに喰らえば堪らない。
ギョァワャアャッッ―――!!
間近で聞く魚の叫びは、やはり尋常一様なものでは有り得ない。
いや、それは元から魚などでは有りはしないのだ。ワニのような大顎に長い体、太いヒレ。陸上を蛇のように身をくねらせて苦もなく這い回る。それこそが天魔、本物の怪物。
しかし、こちらとて只の人間ではない。
前衛の橘、ザクセンの二人に加え、体勢を整えたクラリス、如月の両名が更に戦列に加わると、流石の幽霊魚も陸地での不利は否めない。苦痛の叫び声を上げると、幽霊魚は踵、ならぬ尾鰭を翻して、池の淵から水中へと逃げ戻ろうとする。
「む……待てっ!!」
ザクセンの鉤爪が後ろから魚の尾鰭を切り裂く。が、幽霊魚を引き止めるには及ばない。魚はそのまま蛇の如く這い進み、岸辺からするすると水中へ潜り込む。巨体に反して、水音は殆どしなかった。
●
幽霊魚は、散々に陸地組の四名の間を荒らし回った末、再び池へと身を投じた。
残念無念。折角魚が一度は陸に上がったというのに、それを取り逃してしまったのではしょうがない。これで、また事態は振り出しへ。再び幽霊魚が陸地へ上がるのを待つしか方法が……
「……なーんてなッ! そんなオイC話があるわけねーだろっクソ天魔ァァ!! うォおルぁッ、九十七ちゃんのマジ正義が炸裂だゼェェ?!」
「その通りっ! 父様の国で暴れる魔物を、ボク絶対に許さないから!」
岸辺に響く、十八の罵詈雑言と犬乃の決め台詞。
そう、遅れていた二艘のボートが、漸く岸にまで辿り着いていたのだ。ボートは逃げようとする幽霊魚の進路正面に立ち塞がった。勿論、阻霊陣付きの漁網を携えて!
ドッザァアァァ―――ンッ!
ボートの間をすり抜けようとした幽霊魚が、激しい水音と共に漁網に絡め取られる。だが、同時に二艘のボートは木の葉の如く、右へ左へ大きく振り回される。
網が魚の行き脚を食い止めたのはほんの一瞬。
魚が身悶えして暴れまわる度に、ブチブチと嫌な音が水中から伝わって来る。幾ら阻霊陣の能力があろうが、網そのものが破られては意味が無い。例え網が保ったとしても、このままではゴムボートの方で転覆は避けられないだろう。
結局、幽霊魚は逃げ延びてしまうのか?
……なんて、そんな美味しい話は、無論ない。
撃退士達にとって、行き脚が止まるのはほんの一瞬で十分だった。
漁網の中で暴れ狂う幽霊魚へ十八と犬乃、如月、クラリスの飛び道具が集中し、揺れるボートからはエルレーンが剣を片手に飛び出した。
「でぃあぼろ、さーばんと、どっちでもいい。消えちゃえ! 天魔なんて、みんな消えちゃえッ!」
体重を掛けたフォルシオンが、漁網ごと、幽霊魚の脳天を顎の下まで真っ直ぐに貫き通す。
小さな池に木霊する、それは幽霊魚の断末魔。
●
帰り道、無事に幽霊魚を討ち果たした一行は、再び田舎道を歩いていた。
実はディメンションサークルには、転送精度以外にもう一つ弱点がある。あれは行きだけ、片道だけのシロモノなのだ。適当な乗り物が見つからなければ、取り敢えずは歩くしか学園に帰る方法がない。
「……お化けの正体見たり、ってとこだな。枯れ尾花どころか、幽霊の方がまだ愛嬌があるくらいの怪物だったが。この手の依頼は今後も増えそうだぜ」
そう言って、如月などは今後の天魔との戦いを想って溜息を漏らしているが、大した怪我もなしに仕事を終わらせた故か、他の面々の表情はむしろ明るい。
「ハラ減った。帰り、魚食って帰ろう」
なんて、そんなザクセンの図太い言葉にも食おう、食べようの賛意の嵐。
どの道、帰りは長く掛かる。
魚の旨い店で、祝杯を上げる位の余裕はあるだろう。