「おお〜……」
双眼鏡を覗き込んでいた鴉守 凛(
ja5462)の口から、思わず声が漏れた。
彼女は一度目を離し、パチパチと瞬きしてから再びレンズを覗き込む。
やっぱり、いる。
距離は遠い。一キロ程はあるだろう。危険を感じる距離でもないし、こちらが気付かれる事もない筈だ。それでも、周囲の建築物から比較して見て取れる相手の巨大さには、ともすれば逃げ出してしまいそうな程の威圧感を覚える。
皮膜の破れた羽。
肉の腐れ落ちた四肢。
ズルズルと尻尾を引き摺りながら、その怪物は生者の通わぬ、荒廃した街路をゆっくりと這い進む。
「……あれが、話に聞くドラゴンゾンビですか。いよいよもってファンタジーですねえ」
鴉守が、再び呟いた。
●
学園から派遣された八名の学生に、撃退庁所属の撃退士が四名。
彼ら十二名の撃退士による『骨の街』潜入作戦最大の作戦目標は、街の支配領域そのものを支えるゲートの詳細な位置と現在状況の確認である。事前のゲート推定位置から進行ルートを県道60号線に取った一行は、二台のトラックに分乗して出発。街の東側より、支配領域最奥部を目指して進んでいた。
「奴はああやって、時々市内を巡回しているんだな。今は南の県道を、こちらとは入れ違いになる形で東に進んでいる。市内中心部に入るなら、今がいいタイミングだ」
そう言いながら、鴉守の隣でデジタルビデオカメラを回しているのは柊 夜鈴(
ja1014)だ。今回の撃退士達の任務にはディアボロそのものに対する情報収集も含まれる。遠方からの撮影とはいえ、ドラゴンゾンビの生映像は今後の貴重な資料となるだろう。
横合いから、それまで光信機の応答にあたっていた獅子堂虎鉄(
ja1375)が、柊達に声を掛けた。
「下のA班から、高所偵察の結果について問い合わせが来ているが、どう応えとこうか?」
「ん。……南遠方にドラゴンゾンビを発見、西に進む分には遭遇の可能性は低い。進むなら今の内……返事としてはこんな所かな?」
獅子堂の問いに、柊はビデオを止めて振り向いた。反動で、足元の不安定なコンクリートの床がぐらりと揺れる。ここは廃棄された小学校の屋上、その崖っぷちだ。見晴らしがよく偵察には最適の場所だが、落ちるのはちょっとうまくない。
獅子堂が光信機に向けて柊の言葉を繰り返すと、ややあって、眼下の道路をA班の乗った白いトラックが動き出すのが見えた。トラックはそのままゆっくり柊達のいる小学校の前を抜け、西の方角へと進んで行く。
「……結構、エンジンの音って響きますね」
「そうだね、今は未だ何とかなっているけど、もう少しディアボロが増えたら、トラックは置いて行かないと駄目かもしれない」
ソフィア 白百合(
ja0379)の言葉に、柊も頷いた。
生者の絶えたこの街では、エンジンの音は意外な程に大きく響く。足代わりにと撃退庁から借りたトラックだが、このままではディアボロを引き寄せる元になりかねない。
「下で待ってる撃退庁の二人が心配だ。皆、そろそろ降りようか」
肩掛け式の光信機を担いだ獅子堂が階段の前で声を上げると、鴉守と柊の二人は小走りに彼の元へと駆けて行く。ソフィアも双眼鏡を片手に、三人の後に続いて階段へと向かう。
そのまま階段を降りようとして、ふと、ソフィアは背後の空を振り返った。
見えたのは、北の空に浮かぶ黒い雲。
それはひどく不吉で、禍々しい。
彼女はその時、何か重要な事に気が付いたような気がした。
自分達の先行きに関わる、何か大切な事。だけど、その何かがどうしても思い出せない。
「ソフィア殿、どうした? 早く行くぞ」
「あ、はーいっ!」
階下から呼ばわる声に、ソフィアは考え込むのを止め、慌ててパタパタと皆の後を追って走り出す。
●
「小学校の屋上にいるB班から。えー、大分南をドラゴンゾンビが歩いているけど、見つかる心配は少ない。行くなら今の内、だそうですよ?」
「よし、行こう」
光信機でB班との通信にあたっていた鈴代 征治(
ja1305)からの報告に、御影 蓮也(
ja0709)は勢いよくその場で立ち上がった。他のメンバーにも異存はなく、A班一行六名はトラックと共に慎重に県道を西へと進み始める。
街に潜入する際に撃退士達の選んだ手法は、比較的シンプルだ。
全体を六名ずつ、A、B二つの班に分けた上で、それぞれが飛び石を伝うかのように代わる代わる交互に前進。もし片方の班が敵と遭遇した場合、もう片方の班はそこを迂回した上で改めて前進する。
互いに密に情報を交換し合い、間に偵察なども挟みながら、常にもう片方の班を保険としておく事で確実な進行を担保するこの手法は、これまでの所十分に上手く機能したと言っていい。
しかし、撃退士達が骨の街に潜入してより、既に三時間以上。路面状況は極めて悪く、また度重なるディアボロの襲撃にも悩まされ、僅か数キロの道程は遅々として進まなかった。
「……酷い有様ですの。初めはそうでもなかったのに、この辺ではもう、ボロボロ……」
揺れるトラックの荷台でビデオカメラを回しながら、柏木 優雨(
ja2101)は周囲の光景を言葉少なに描写する。
カメラに映る街並みは、ただ無惨の一言。風化したコンクリートに、錆び落ちた鉄。まるで半世紀も前に見捨てられたかのような瓦礫の山。
だが、そんな筈はないのだ!
実際にこの街が悪魔の支配領域と化してから、まだ数年と経ってはいない。風化の度合いも、街の中心部に近付くに連れて明らかに加速していた。
「天魔の支配領域について、人類は未だ何も知らないに等しい状態にあります。ゲートの位置だけではありません。我々が今回の探査行で得た情報は、大小問わず、その全てが今後の資料として活用される事でしょう」
柏木の言葉を受けて、運転席でハンドルを握る野上修平は今回の探査行の意義をそう力説する。
「うん、野上の言う通り……なの」
「はいっ!」
コクリと頷く柏木に、野上は再度大きく言葉を返す。
(まあ、悪い人間ではない、か)
そんな二人の様子を傍らで観察しながら、御影は心中の野上に対する評価を修正する。
多少頭の堅い所はあるが、野上を始め、撃退庁から派遣された四名は概ね問題なく、学生達との共同歩調にも前向きな姿勢を見せていた。学生達の中には一部、撃退庁側の資質を危ぶむ声もあったが、少なくとも今の所は人的面での不安要素は見当たらない。
トラックに乗り、あるいは警戒しながらトラックの周囲を歩く撃退士達。
数分後、初めに敵の気配に気が付いたのは、先頭を歩くフィオナ・ボールドウィン(
ja2611)だった。
「前方よりグールドッグ。三匹だな」
フィオナの視線の向こう、道の先より、一行に向けて駆け寄る黒い影。
腐敗した犬、グールドッグ。
「仲間を呼ばれても面倒だ、さっさと片付けるとしよう」
フィオナ、御影の二人がそれぞれに得物を構え、トラックの前方に布陣する。決して油断できる相手ではないが、後の事を考えれば、ここで片付けてしまった方がいい。それに、グールドッグ相手に一々回り道をしていては、この街では一歩も先には進めない。
「……全く、これでディアボロとの遭遇は三度目ですよ。まだ半分も進まない内にこれでは先が思いやられますね」
後方のB班にディアボロ遭遇の報告を送りながら、鈴代がボヤいてみせる。
「仕方ない、相手がドラゴンゾンビでないだけまだマシだ」
言いながら、御影が飛燕翔扇を飛ばす。
同時にトラックの荷台上から柏木が愛用のクロスファイアによる先制射撃を開始。
扇と銃弾を正面から食らった犬が、啼き声を上げて勢いよく地面に転がった。だが、二匹になったグールドッグ達は転倒した仲間を振り返る事もなく、突進の勢いに翳りはない。
「ドラゴンゾンビの代わりとするには少々役者が不足ではあるが、引導が欲しいと言うならくれてやろう。再び死んであの世へ還るがいい」
赤く波打つ長剣を構え、フィオナは二匹のグールドッグを真っ向から迎え撃つ。
●
B班の六名が土の丘を登っている。トラックはとっくに置いてきた。
それは丘というよりかは、むしろ大きな土饅頭と言った方がより近い。
何でこんな丘が街中にあるのかは分からない。恐らく、悪魔の領域支配後に出来た地形なのだろう。異質で、巨大な土饅頭。その上を、撃退士達は辺りの気配を伺いながら、ひどく慎重に登っているのであった。
「やれやれ、漸くてっぺんか。どうだ鴉守殿、何か見えるか?」
「見えますねえ。色々と、剣呑なものが……」
先行し、山の頂点付近で伏せていた鴉守に、後ろから匍匐前進で近づく獅子堂。そのまま彼は頭だけを突き出して、周囲の光景を覗き見る。
「剣呑」の意味は直ぐに分かった。何しろ山の向こうはディアボロだらけ!
彼らが今伏せているのと同じような土饅頭が、あちこちに不規則に盛り上がっているのが見える。辺りに白く散らばるものは石だろうか、それとも骨だろうか?
既にそこは人界に非ず。骨と死体で出来た怪物が蠢く、地獄絵図そのものの光景が広がっていた。
「地図の上では、ゲート予想地点から三百メートル。もう見えててもおかしくはない頃ですけど……」
獅子堂の後ろから、ソフィアが自信無さげに呟いた。
『骨の街』に潜入してより、七時間。
一行は遂にここまで到達した。羽生市役所より北西にニキロ弱。悪魔支配領域の中枢。
だが、ここより先は一歩だって進めない。
●
「B班も近く迄辿り着いたようです。これより先に進むのは難しいとも言っていますが……」
「無理もないの。私達も同じように足止めだし、ね……」
鈴代の言葉に、柏木はコクリと頷いた。
鈴代達A班側も、ディアボロの襲撃を首尾よく切り抜け、何とかゲート存在予想地点近辺にまで到達するのに成功していた。だが彼らもまた、今身を潜めている廃墟の陰から先は、これ以上一歩も進めないのが現状だ。
「しかし、驚いたぞ。我もアスファルトを剥がすくらいはあり得るものと思っていた、まさかここまで根刮ぎ変貌しているとは。とても、以前ここに人の住む街があったとは思えぬよ」
自信家のフィオナでさえ、この土地の変貌ぶりには舌を巻く。それ程に中心域周辺の変貌は激烈である。
景色の変貌に合わせてディアボロの密度も増していた。B班同様、彼らA班もトラックは中心領域手前で置いてきた。瓦礫や土山の陰を縫うように進み、何とか辿り着いた限界の場所がここなのだ。
「この辺にゲートが見えてもおかしくはないんですが……」
鈴代が瓦礫から双眼鏡を覗かせて辺りの風景を精査するが、見つからない。そうゆっくりとはしてられない。進むか戻るか、ここにいてはいつディアボロ達に気取られないとも限らない。
(……待てよ。奴らがゲートから湧き出し、ゲートを守る為にここに居るというのなら……)
御影はディアボロ達の動きに注目する。
ディアボロを生み出し、支配領域を支えるゲート『骨の塚』。ディアボロ達にとってゲートが最重要防衛施設である以上、一見無目的に見えるディアボロ達の動きや配置にも、何らかの意味が込められているに違いない。それを見越した上で探してみれば……
「これ以上留まってると不味いの。引くなら、今……」
「待ってくれ」
柏木の言葉を遮り、御影は視線を一点に据える。
廃墟の奥、土山と瓦礫、徘徊する怪物の向こうに、空間を歪ませ、僅かに輝くゲートが確かに見えた。
「見つけた。この街のゲート、骨の塚だ!」
●
『やった、見つけました! ゲートです!』
光信機から聞こえる、鈴代の興奮した声。だがB班の面々には、その報告を共に祝う暇がない。
何しろ今日一番の吉報は、今日一番の凶報と共に訪れたのだから!
キョエェェェ―――ッッ!!
つんざくような啼き声が中心領域中に響き渡る。
鈴代の報告と、骨の鳥(?)に空中から発見されたのとはほぼ同時。鳥自体は直ぐに撃破したが、死の間際に放たれたその鳴き声が周囲の空気を一変させた。静寂の中にあった中心領域のそこかしこで、ディアボロ達の雄叫びが鳴き交わされる。ざわつく気配。蜂の巣を突いたとはこの事だ!
「逃げましょう!」
鴉守が巨大なハルバードを顕現させ、彼らに近寄って来たグールの横っ面を張り倒す。否応もなく、一行は土山から走り出した。
「こちら獅子堂! すまん、見つかった! 撤退だ!」
『こちら鈴代、こっちもヤバイ雰囲気です。でも逃げるのはいいとしても、どっちの方向に?』
「どっちって、それは……」
「東だ! 道はもう分かっているし、車も置いてある」
「でも、ここからなら、このまま西に出た方が境界までの距離は短いですよ?」
柊、そして鴉守がそれぞれに逆方向の逃亡ルートを提案する。案としてはどちらも一長一短。ゆっくり考えている時間はない。
「あ、そうだ……」
ソフィアの脳裏に街の地図が思い浮かぶ。この場所は街の重心としての中心地点からは随分北に寄っている。それなら―――
「北に逃げればいいんじゃありませんか? そう、そうですよ! 何で私達忘れてたんでしょう? 北から、群馬側から街に入れば、面倒もなくここまで直ぐに来れたのに、どうしてわざわざ遠い東側から何か……あれ? えっと」
ソフィアはそこで、仲間の様子がおかしい事に気が付いた。
怪訝な顔をする鴉守と柊。何かを考え込む獅子堂。撃退庁の二人も、まるで宇宙人でも見るかのような目で彼女の顔を見つめている。
「あれ? 私、何か変な事言いました? その……」
ザーッ
『こちらはA班、野上です。少しこちらの学生さんが……あー、多少興奮されているようなので、代理に交信を受け持たせて頂いております。
それで、ソフィアさんですか? 北には『何も』ありませんが? それに先程のグンマ? という、不思議な言葉の意味は一体? ディアボロの名前にしても聞き覚えがありませんが、何か新種の……』
獅子堂の持つ繋げっぱなしの光信機から、困惑した野上の声が流れ出る。
だがB班の撃退士達に、その通信に応える者はいなかった。
サイレンのような啼き声が響き合い、無数のディアボロ達が闊歩する悪魔支配領域の真ん中で、撃退士達はほんの一時とは言え、足を止めた。動けなかった。
グンマという聞き覚えのある言葉の意味が、彼らにはどうしても思い出せなかったのだ。
●
結局、撃退士達は来た道を戻るルートを選び、二班の合流後、東側から何とか脱出する事に成功した。
撃退士達の発見したゲートの位置、及び街関する全ての情報は細大漏らさず学園、及び撃退庁へと提出される。
一点、鈴代、及び獅子堂の提出したレポートにて、特に明記された事があった。
『埼玉県最北部、羽生市。この街の北方向にある「何もない場所」と「グンマ」という言葉の関連について、何卒調査を行われたし。その言葉の裏に、あるいは悪魔が潜んでいるものと思われる』