「時間はまだ午後三時。太陽はカンカン、蝉はジージー、全く暑いったらねーですね! オドロオドロしい雰囲気を出したいなら、せめても涼しい夜に出て来いってんですよ」
正面に建つ赤い三角の招き屋根を見上げながら、ジェイニー・サックストン(
ja3784)が小さくぼやく。
その建物はペンション大森平荘、と言うのだそうだ。
いや、正確には『言っていた』。数年前に廃業し、それ以来山中で住む者も居ないままに放置された建物は、繁茂する雑草と喧しい蝉時雨の中で、急速に朽ち果てていこうとしているように見えた。
「玄関口はあそこか……」
手元の見取り図と見比べながら、緋伝 璃狗(
ja0014)が建物の構造を確認する。
小さな崖に寄り添うようにして建つペンションの建物は、撃退士達のいる崖の上からは一見二階建てのように見えるが、実際は三階建てで、本当の一階部分は崖の下に続いている。建物への入り口は、その崖下の一階部分にある裏口と、二階部分に設けられた玄関口との二つだけ……の、筈だ。狭山の持っていた血染めの見取り図から類推する限り。
「開いているな」
フィオナ・ボールドウィン(
ja2611)が言う。
その、二階の玄関口が開いていた。崖の縁からテラス状に張り出した足場の向こうで、まるで撃退士を誘うかのように開かれ、風に揺れる扉。
「ゾッとしないが、順当に考えれば、須藤とやらが高校生を連れてここから中に逃げ込んだ……という事かな」
そうフィオナに応えながら、志堂 龍実(
ja9408)はその場で神経を研ぎ澄まし、周囲の気配を探る。
「……いるな、天魔だろう。建物の中からおかしな気配がビンビン伝わってくるよ」
「やれやれ、内部の構造も不明瞭。その上怪しい気配を感じるだけで、敵の数も実力も、救うべき対象の頭数さえ判らない……と。なんとも、撃退士の職場としてはお誂え向きのシチュエーションじゃないか?」
フィオナが愛用の長剣を鞘走らせて、笑う。逆境こそは、騎士たる彼女の望む所。
「同意は全然しねーですが、どっち道、あそこから入る以外に方法は無さそうですね」
ジェイニーの言葉に、緋伝も頷く。
「よし、行こう」
先発救助班、B班の撃退士四名。
彼らはそれぞれの得物を構え、緋伝を先頭に、暗い建物の中へと足を踏み入れる。
●
「クモ?」
香具山 燎 (
ja9673)が意外そうに声を上げた。
「あの、糸で巣を張って、八本足でわさわさ歩く?」
「その蜘蛛だ。もっとも、俺の見た限りでは糸は吐かなかったけどな。代わりに足の早い、でかい奴だ。俺達だけならまだしも、子供を連れてはとても逃げれなかったんで、俺が足止めに残ったんだよ」
傷が痛むのか、そこまで喋ると狭山は顔をしかめて黙り込む。
後発A班の四名が最初にした事は、道に倒れていた撃退士・狭山の意識を回復させる事だった。幸い、アストラルヴァンガードであるレグルス・グラウシード(
ja8064)のライトヒールによって、狭山は程なく目を覚ます。
狭山に対し、御伽 炯々(
ja1693)やレグルスは矢継ぎ早に質問を投げかけた。ペンションの内部状況、敵の様子、同行しているという高校生の人数。知りたい事は幾らでもある。それに対し、狭山は知っている限りの情報を提供する。
敵は徘徊性の、非常に足の早い蜘蛛型ディアボロである事。
狭山は一人、殿となって敵を足止めしている最中に深手を負い、逃げる途中で気を失った事。
高校生は四人。蜘蛛は見ただけでも三匹、おそらくはそれ以上の数がいるらしい事。
ペンションの手前で須藤達と別れた狭山は、ペンション内部については何も知らない事。
「今の俺では君達の足手纏いにしかならんだろう。すまないが君達に、須藤、そして高校生達の救出をお願いしたい。どうか宜しく頼む」
知っている事を全て語った狭山は、最後にそう言って撃退士達に頭を下げた。
狭山をその場に残したA班は、ペンションに向かう道を迂回して、裏手から一階部分にある入り口を目指す。二階玄関から突入したB班と内部を手分けして捜索し、ディアボロを駆除、須藤達を救出するという計画だ。
藪を掻き分けてペンション裏に向かう一行だが、橋場 アトリアーナ(
ja1403)は御伽が一人遅れがちになっている事に気がつく。見ると、酷く顔色が悪い。
「炯々、顔色が悪いの」
「ああ。……ん、なあ、アトリは感じないか?」
「何を、なの?」
「ひどく悪い予感がするんだ。あのペンションはヤバイ。……まるで三途の川に向かって歩いてる気分だよ」
橋場には、勘の鋭い御伽が何を感じているのかは分からない。
もしかしたら、この先何か良くない事が本当に待っているのかもしれない。
だから彼女は御伽の手をギュッと握り締める。下手な言葉に頼るよりも、きっとその方が彼女の気持ちが何倍もよく伝わるだろうから。
「橋場さん、御伽さーん、どうしましたー?」
前を行くレグルスの呼びかけに、二人は目を合わせて歩き出す。
●
玄関から突入したB班は、ホールから、すぐに廊下の交差する十字路へと足を進める。
建物の中は薄暗いが、それでも何も見えないという程ではない。
十字路正面には白い洗面台が、右には階下へと降りる階段が。撃退士達は欠損の多い地図から事前に推測した構造に従い、迷う事なく十字路を左に向かう。
「緋伝、ドンピシャ♪ 上に向かう階段だ」
志堂が明るい声を上げた。
客室の扉に挟まれた廊下の向こうに、確かに三階へ登る階段が見えた。
緋伝は内心安堵する。須藤との交信内容から、三階に隠れているであろう高校生達を保護するのが、彼らB班の第一の目的である。予想には自信があったが、場合によっては階段を探してドアを一つ一つ開けて回る、なんて羽目に陥らなかったとも限らない。
途中の客室は一先ずスルー。四人の撃退士達は階段を素早く上がり、三階へと向かう。
三階は、どうやら二階ほどの面積はないらしい。
短い廊下と、廊下に面した四つのドア。そして……
「お出ましだな。成る程、A班からの無線連絡通り、嫌になる程大きな蜘蛛だ」
フィオナの言葉に、廊下にいたソレは素早く振り向いた。
体中を剛毛で覆った八本足の蜘蛛……ただし体のサイズは人間並の化物だ。
巨大蜘蛛の頭部に並ぶ八つの単眼が、突然現れた四人の撃退士達にグルリとその焦点を向ける。
緋伝は素早く扉のプレートを確認。
「あった、蜘蛛の横、十号室だ。扉はまだ破られていないようだが……」
「それじゃあ早速私が鍵を開けて、と言いてーところですが、どうしたってあの蜘蛛は邪魔ですね。先にこっちを片づけちまった方がいーんじゃないですか?」
「それじゃあ、それで! 一丁気合を入れるか!」
「付き合おう」
ジェイニーの言葉に、志堂が、そしてフィオナが得物を構えて前に出る。
敵は、熊でも殺しそうな巨大蜘蛛だ。相手にとって不足はない。
●
蜘蛛達は苛立っていた。
上階に向かった個体は未だ戻らず、一階奥に立て篭った二人の人間も未だに抵抗を続けている。
その上、更に四人の人間達が彼らの巣に向かってくるではないか!
鋼鉄の機械と、複雑に張り巡らされた配管との間で、蜘蛛達は怒りに身を震わせた。
振動を感じる。
人間達が、外へと通じる扉を開けようとしているのだ。その扉から彼らの巣穴までは、ホンの一跨ぎの距離に過ぎない。蜘蛛達は怒りの声を上げ、仲間と共に次々と鋼鉄の巣穴から這い出していく。
集まれ、巣へと踏み込む愚か者を排除せよ!
蜘蛛達は単眼を怒りに赤く染めて、侵入者の元へと殺到する。
●
「撃ち、抜くのッ……!」
ズゴンッ!!
橋場の腕部に装着されたパイルバンカーが、蜘蛛の頭部を真上にかち上げる。流石の巨大蜘蛛も、高速で射出される鉄杭の直撃を受けては堪らない。奇声を上げ、体液を撒き散らしながら浮いた体を、御伽は背後からのライトブレットAG8の連射で蜂の巣に変える。
これで一匹。だが、今の橋場達にゆっくり勝利を噛み締めている暇はない。
橋場の隣では、香具山がハーヴェストを手に大蜘蛛から必死の防戦。回復役として本来は後方に控える筈のレグルスでさえ、既に数度の手傷を負っていた。
一階の裏口からペンション内に侵入しようとしたA班の四名は、そこで予想外に強力な大蜘蛛の一団と激突した。最初は二匹だけだった大蜘蛛も、戦闘を続けていく中で、奥の通路より増援が後から後から湧いてくる。狭い通路と出入口を利用して今は何とか敵を抑えているが、一度戦線が崩れれば、数に優る大蜘蛛達からあっという間に包囲を受ける事だろう。
(くそ、僕の生命探知で敵をしっかり探知しておけば……!)
ワンドを振るいながら、レグルスが歯噛みする。
いや、生命探知をしていなかったわけではない。ただ、その探知確率は百%とは言えず、また探知外の建物奥から増援が次々と湧いて出てきたのも誤算だった。
「ぐふッッ!!?」
「香具山さんっ! 大丈夫ですか!?」
大蜘蛛の顎に腹を抉られた香具山が膝をつくのを、レグルスが必死に駆け寄って治療する。彼のライトヒールの強力な治癒効果によって香具山の傷はみるみる内に癒えていくが、この術も、もう後何度使えるかも分からない。
「すまない、レグルス殿。……どうやら須藤殿の言っていた機械室に気を付けろという話は、この状況を警告していたのでしょうな。とは言え、一度踏んだ虎の尾を、なかった事にするのも出来ない道理。治して頂いた分、もう少し頑張らせて頂こう」
気丈に立ち上がった香具山の言葉に、レグルスも頷く。
反省材料は幾らでもある。事前の警告の検討、侵入経路の検討、戦力配置の検討。だが虎の尾はもう踏んでしまったのだ。後悔するのも、反省するのも後でいい。今はとにかく、この場を生き残るのが先決だ!
撃退士達は四人、一丸となって大蜘蛛の群れへと立ち向かう。
●
「三階に来てからはぐれた奴っていますかね?」
ジェイニーの問いに、高校生の一人が答える。
「このペンションに逃げ込む時、友達の一人とはぐれたんです。須藤さんは、一度この十号室に私達を隠してくれた後、その友達を探してくると言って下の階に降りて行って……」
―――須藤からの交信通り、三人の女子高生達は三階の十号室で隠れて震えていた所を、無事に撃退士達によって保護された。多少擦り傷がある程度で、健康状態にも問題なし。後数分遅ければ危ないところだったろうが、まずは上々の成果と言える。
「須藤と言うその撃退士は、きっと一階でしょう。二階は恐らく無人。こちらもそれ程良く探したわけではねーですけど、須藤も蜘蛛も、もし二階に居たなら、真っ正直に玄関から入って来た私達を見逃す理由はないでしょうからね……こいつみたいに」
ジェイニーは視線を、廊下で四肢(八肢?)を天に向けて引っ繰り返っている大蜘蛛へと向ける。
強敵、と言えた。
交戦時間は短かったが、四人掛りでも無傷とは行かず、志堂が幾分かの手傷を負っている。回復したいところだが、A班とは異なり、こちらのB班に回復スキルの使い手はいない。
「しかし、二階は無人、三階はコイツ一匹だけとなると逆に不安ですね。場合によっては、A班の向かった一階に化物蜘蛛がどっさりと……」
そこまでジェイニーが喋ったところで、突然、緋伝が持ち込んでいたトランシーバーから切迫した声が流れ出す。
『ザーッ こちらA班御伽! 聞こえるか!?』
「こちらB班、緋伝。三階で高校生を三人保護した。そちらは?」
『ザー……! こちらは例の機械室前 ザー……! 蜘蛛だらけで動けない! 救援……のむ!』
撃退士達は素早く顔を見合わせる。明らかに尋常でない様子の交信に、先程のジェイニーの言葉が思い浮かぶ。
元より、救援を求められた撃退士に否はない。
「建物の内側から向かおう。外から行ったのでは回り道になるし、上手く行けば挟み撃ちにも出来る」
推測混じりの見取り図を見ながら、緋伝が一行の進路を指図する。
その声に従い、直ぐにも走り出そうとする撃退士達に、女子高生の一人がおずおずと一枚のプリントを差し出した。緋伝は一目でそのプリントが、欠損のない本来のペンションの見取り図である事に気付く。
「あの、すいません、多分これが必要なんじゃないかと思って、その……」
その地図は、大枠では緋伝達の推測図と違いはない。
それでも、推測の地図と本物とでは、それに頼る者としては雲泥の差だ。
「ありがとう」
緋伝は少女から、丁寧にそのプリントを受け取った。
「これを探していたんだ」
●
緋伝の読み上げる地図を案内に、B班は迷う事なく一階へ。
階段を降りた途端、撃退士達は直ぐ右手の通路で激しい戦いが繰り広げられている事に気がつく。
狭い通路には二匹の蜘蛛がつっかえる様に並んでおり、その先、外へと繋がる扉の向こうでは赤い髪と白銀の髪の二人の少女が三匹目の大蜘蛛相手に激しい肉弾戦を演じている。二人の足元には、既に三匹の大蜘蛛が死体となって転がっていた。
その情景を見た途端、フィオナと志堂の二人は全身にアウルの輝きを纏って走り出す。
攻撃は完全な奇襲となって、通路にいた大蜘蛛達を背後から切り刻む。
慌て、戸惑い、奇声を上げる二匹の蜘蛛。
後方の異常に気がついた先頭の蜘蛛が背後に一瞬注意を向けた瞬間、白銀の髪の少女が射ち出した鉄杭が、真上から大蜘蛛の頭部を貫き、コンクリート製の土間床に縫い止めた。
だが、そこが少女の限界だった。
最後の力を使い果たした少女は、打ち倒した蜘蛛の傍らに自らも倒れ伏す。
誰かが少女の名を叫んだ。
●
(あれ……僕、生きてるの……)
「ああ、アトリ、大丈夫か? 最低限の治療はレグルスがしてくれた筈だけど、どっか痛むところはない?」
橋場は御伽の背中で目が覚める。
そのまま、ぼんやりとした目を周囲に向けた。
狭山を背負った、撃退士らしい男(きっと、彼が須藤だろう)。見覚えのない、四人の女子高生達。勿論、橋場に御伽を含めた八人の仲間も揃ってる。
一行は、山間の小道をゆっくりとした足取りで歩いていた。
「橋場の女夜叉振りは大したものだな。建物中の蜘蛛共が裏口に殺到したお陰で、高校生と共に一階の管理人室に立て篭もった須藤も、お陰で生きて帰る事が出来たようだ。
そうそう、香具山達には礼を言っておけ。倒れた貴様を三人が必死に外へ引き摺り出さなければ、今頃貴様はあの世行きだ」
フィオナが、橋場に状況の説明をしてくれた。
正直なところ、今のぼんやりとした頭では話の中身の半分も理解出来なかったのだが、辛うじて、自分は仲間に命を救われた事だけは理解する。
「……皆、ありがと……なの」
体中が痛い。真夏のおんぶって結構暑い。
反省しなきゃいけない事も沢山ある。きっと怒られたりもするに違いない。
それでも彼女は、今は御伽に体重を預けて運ばれる。
この体温が、今は心地いい。