●狂笑
冷たいビル風が吹き荒ぶ中、老婆――ヴァニタス――の狂笑が風に乗り、どこまでも響き渡る。
苦しめ、嘆け、絶望しな!
不運を、不幸を、私を、そして世界を、骨の髄まで怨むがいい!
怨嗟と歓喜、怨念と愉悦の狭間で、彼女は復讐に酔いしれる。
そんな彼女を陶酔から呼び覚ます無機質な鳴き声。
クエェェェ……。
ビルの谷間に木霊したそれは、彼女の騎乗用の翼竜が発した知らせであった。
「なんだい? いいところで」
彼女はビルの縁に近付くと、下界を見下ろす。すでに人間たちは逃げ出し、屋上からでもわかるほどに周囲に人気は無い。静寂に支配されたビルの森を、複数の影が駆け抜け抜けている。
「なるほど……撃退士ってわけかい」
どうやらゆっくり楽しむ時間は無くなったようだ。彼女は傍に控えるディアボロたちに命令を下すと、子供の頬をひっぱたく。その痛みで、子供は驚き目を覚ました。
彼女は内心でほくそ笑む。
撃退士? 結構結構。メインイベントの観客が増えただけのこと。奴らのために準備を整えておこうかね。目の前で起こる悲劇に絶望する奴らの顔を見るのもまた一興ってもんさ。
老婆の口がキュッと吊り上がる。
子供が目隠しされたままであることは、この不運にあって唯一の幸運であったと言える。なにせ、狂笑を浮かべた老婆の顔を見なくて済んだのだから。
見開いた鮮血の双眸は遠く、どこまでも遠く世界を睨んでいる……。
●救出への歩み
「あれは人か?」
目的の高層ビルがハッキリと見えてきたとき、アリシア・タガート(
jb1027)が上空を指差した。
まず、目に飛び込んできたのはビルの谷間で優雅に翼を広げて滑空する小さな竜の姿。次に気付いたのが鉄骨。そして、最後に吊り下げられた人の姿。
敵が何を考えてあの様な状況を作り上げたのかはわからない。だが、危険極まりない事態であることだけは理解できる。そして一刻の猶予がないことも。
「あの人たちを助けなきゃなの…」
エルレーン・バルハザード(
ja0889)の心に火が灯る。『守る』ことを心に掲げる彼女にとって、目の前の事態は到底受け入れられるものではない。
「鉄骨なんて何を企んでいるのかと思ってたが……四の五の言っていられんか」
「とにかく一刻も早く向かわねばなりません…」
久遠 仁刀(
ja2464)とElsa・Dixfeuille(
jb1765)が並び、駆ける足に力を込めた。撃退士たちは急ぎビルへと飛び込んでいく。
「ん〜、敵は空中戦力を持っている上、人を吊り下げる様な行為を取るってことは、それなりの知能も持っていると考えられるんじゃないかな?」
雨野 挫斬(
ja0919)が先ほどの光景から、これから交わるであろう敵について推測する。
「先ほどの打ち合わせでは、合図によって屋上の一つ下の階から飛び出し敵を奇襲すると言ったが、この状況ではあの者たちの救出に切り替えるべきであろうな」
屋上を目指しながら、雪風 時雨(
jb1445)が作戦を提案し直す。
踏み込む一歩が、流れていく景色が、ただの一呼吸が、とてつもなく長く感じる。今は1秒すら惜しまれる。撃退士たちはただ一心に屋上を目指した。
「いいかい? 今から『お前』が両親を助けるんだ。両親の声が聞こえるだろう?」
その頃、屋上では目覚めたばかりの子供を老婆が優しく唆していた。
か、家族だけはどうかっ! どうかっ!
おねがい、ゆるしてっ! 私たちが何をしたって言うの…っ
目隠しで視界を閉ざされ、鋭敏になった耳に両親の悲痛なる叫びが届く。暗闇が幼い心に恐怖を生み、冷たく吹き付ける風が未熟な身体に不安をかき立てる。状況を掴めない子供は恐れ、混乱し、その身を震わせた。
「大丈夫だよ。両親の声のする方へ向かうといいさ。それで両親は助かる。お前が助けるんだ…」
そんな子供に老人が優しい囁かける。老婆の言葉が子供の脳裏に刷り込まれていく。
「ゴーゴーゴー!」
そのとき、アリシアが扉を蹴破り、撃退士たちが屋上へとなだれ込んだ。
その目に映るのは、獣の頭を持った屈強な半獣半人のディアボロが数体。そして、翼竜に乗る老婆と目隠しされた子供。
「ひっひひひ。よく来たねェ。歓迎するよ」
老婆がパチパチと、気のない拍手を撃退士たちに送る。その笑みは穏やかでいて、冷徹だ。
「ん〜、一応確認するけどお婆ちゃんは救助対象? それとも解体してもいい敵かな?」
素早く周囲を見渡し、挫斬が目の前の老婆に尋ねる。だが、答えなど聞かなくてもわかっている。その存在が物語っている。彼女は危惧すべき『敵』だと。
「そうさね。両親を救うため、子供に勇気を与えた優しい老婆さ」
老婆の顔が不気味に歪む。
「何を企んでいるんだ?」
仁刀が尋ねるも、老婆はにやにやと笑い、答えない。
「なんだ? 何かがおかしい」
怪訝な表情をアリシアが浮かべた。周囲に響く助けを求める声から、吊り下げられた者たちが子供の両親であることはわかる。だが、何か違和感があった。同じ言葉を繰り返していること。そして、他にも何か――。
撃退士たちが状況把握に気を取られた隙に、老婆が子供に破滅への道を示した。
「さ、お行き。二人が待ってるよ。決して周りの声に耳を貸すんじゃないよ」
その声に、目隠しをされたままの子供は、恐怖を押し殺しつつおぼつかない足取りで歩き出す。
…パパ…ママ……どこ……どこにいるの…?
「危ないから動かないで」
咄嗟にElsaが呼びかけるが、子供の歩みは止まらない。
「お黙り。そこで黙って見ているんだよ。出ないと……わかるね?」
翼竜の背中で、老婆が鉄骨に吊り下げられた両親を顎で示した。子供の前に立ち塞がるディアボロたちが、巨大な戦斧を掲げて撃退士たちを牽制する。
(状況はわからないけれど、どうにかして取り押さえなければ…)
Elsaは襟元に仕掛けたマイクに向かって、小声で状況を呟いた。
その声を耳にする者は一つ下のフロアにいた。時雨である。彼はエルレーンと共に鉄骨が見える窓の側で姿が見えぬように身体を隠し、機を窺っていた。
「急がねばなるまい」
携帯に繋がるイヤホンを耳に、時雨が上の状況を簡潔にエルレーンへ伝える。
「こっちは準備OKだよ」
エルレーンは気配を消すと、飛び出すために深く身構えた。時雨も準備を整えると、一度通話状態を切ってElsaにかけ直す。
「見るが良いヴァニタス。そのような力を得ても、お前の思うとおりになる事など何も無いのだ!」
一拍の後、二人の撃退士は勢いよくビルの窓へ駆け出した――。
●禍との対峙
「ほれほれ、急がないと両親が危ないよ」
老婆に急かされ、パニックを起こした子供は進むべき方向を見失っていた。両親のいない、あらぬ方向へと真っ直ぐに進んでいる。その先では、奈落の底が口を開けて待ち構えていた。
(このままでは…!)
もはや猶予がない。そう思った瞬間、Elsaのポケットの携帯が震えた。
「いまよ!」
反射的に階下からの合図を伝える。
「OK! それじゃあ、始めましょうか! キャハハハ!」
反応した挫斬がディアボロたちに向かって突撃する。と同時に、窓ガラスの砕ける派手な音が辺りに響き渡った。時雨が窓から飛び出し、召喚した蒼き体躯の馬竜に跨って鉄骨に吊り下げられた夫の下に向かう。
「牙無き民草を救う為…我、参上! さあ、そなたもこちらへ!」
エルレーンも壁を駆け上がり、鉄骨伝いに妻の下へ辿り着く。手持ちのナイフが縛り上げる縄を切り裂いた。
「大丈夫だよっ、もう…!」
その突然の出来事に、老婆が驚きの声をあげる。
「っ!? 下からじゃと!? ええいっ! 全員皆殺しだよっ!」
命を受けたディアボロたちが咆哮し、各々自分の獲物を定めて戦斧を振りかぶる。そのうちの1体が子供に視線を向けた。
「アハハ! 挫斬ちゃんキ〜ック!」
「来いよ、肉団子っ!!」
子供に近寄らせまいと、挫斬がド派手な蹴りを披露して敵の気を引けば、仁刀も敵を挑発して意識を自身に向けさせた。子供だけでなく後衛からも注意を逸らさせ、二人が目の前の敵を一手に引き付ける。
その隙にアリシアとElsaは、気を削がれたディアボロたちの脇をすり抜けていく。
「ヴァニタスになっちまったら、もうどうしようもない。それでもこういうのはちょっといただけねえな」
走りながら、アリシアが牽制目的で翼竜に向けて銃撃を放つ。翼竜がわずかにバランスを崩し、老婆が慌てて態勢を整えた。
一方、Elsaは子供へと駆け寄ると、その手を懸命に伸ばす。
「こっちよ!」
ビルの縁で風に煽られ態勢を崩しかけた子供の手を、彼女が間一髪のところで引き寄せた。
「もう大丈夫。あなたもご両親も何も失うものはないのよ」
Elsaはその胸に収まった幼く小さな身体を、そっと抱きしめる。
そこへ、気配を消していたエルレーンが母親を抱いて屋上へ到着した。
「まもってあげるからッ…だから、ここで待っててね!」
母親をElsaに預けると、自身も前衛の戦いに飛び込んで行く。
「このっ、ぷりてぃーかわいいえるれーんちゃんがあいてだあッ!」
エルレーンの名乗り上げに気付いた敵の数体が、攻撃目標を彼女に変えた。彼女に向かって戦斧が振り下ろされるが、エルレーンは空蝉によってその一撃を難なく避ける。そして後ろに回り込むと、高ぶらせたオーラを乗せた強烈な一撃を背後から浴びせた。
「やっぱり天魔はどいつもこいつもくずだね…ころしてあげるよッ!」
そのオーラに中てられた数体が身動き取れなくなる。そこに、仁刀が手にした太刀を真っ直ぐに突いた。
「くらえっ!」
煌めく光の刀身が、月白のオーラを纏って爆発的に伸びる。その切っ先はディアボロたちを薙ぎ払い、老婆の眼前で停止した。老婆の背筋に一筋の汗が伝う。
「カバーリングファイア!」
更にアリシアが追撃する。ライフルから放たれた弾丸は怨念漂う空気を穿ち、老婆の顔を掠めた。頬から血を流した老婆が、憤怒の顔で睨み返す。しかし、老婆はその身をさらに遠くへと置き、反撃する気配を見せない。
「交戦する気がないのか?!」
「油断は禁物だ。範囲攻撃を仕掛けてくるかもしれぬ」
時雨は召喚獣に命令し、すでに家族を下の階へと運ばせていた。これで万が一範囲攻撃を受けても、家族が巻き込まれることはない。
「何ゆえこのような回りくどい真似を!? あの家族に何の恨みがあると!?」
「老、何故こんな手の込んだ事を…?」
時雨が引き金を引き、Elsaが弓を引き絞り、アリシアと共に射撃する。前衛が剣戟を交える間、後衛は老婆が近づかない様に牽制し続けていた。
「フフ、本気だすよ!」
前線に立ち、敵の攻撃を受け続けて幾ばくかの傷を負ってきた挫斬は、子供と両親の安全が確保されたことを知ると、得物を漆黒の大鎌に構え直し解体衝動と共に闘気を開放する。彼女にとってはこれからが本番であり、悦楽の時間だ。
「おのれおのれおのれっ!」
遠く離れた老婆の口から怨嗟の声が漏れ出る。
戦況は芳しくなかった。バカなディアボロたちは、なぜか決まった撃退士しか狙わない。家族は階下へと退避させられてしまった。追おうにも、撃退士たちが小賢しくこちらを牽制してくる。無理やり近づけば攻撃を仕掛けることもできるだろうが、無傷と言うわけにはいかないだろう。今はリスクを背負う時ではないのだ。巧みな連係と戦術の前に、もはや為す術がなかった。
―――ならば、もう用はない―――。
老婆は戦況を最後まで確認することなく、身を翻し去って行った。
●世界、復讐
「パパぁ! ママぁ!」
「いいなあ…ぱぱ、まま、…ずるいなあ…ずるいなぁ…」
仲間の怪我を手当てを終えたエルレーンが、子供と両親が涙を流し抱き合う様子をうつろな目で見つめてはぶつぶつと呟いている。 彼女は両親の愛を知らない。ぎりぎり、と爪を噛みちぎりながら、家族を複雑な思いで見つめていた。
安堵の息をつく一同に、どこからともなく老婆の声が響いた。
(お前たち、なぜ邪魔をした?)
家族の顔が再び青ざめる。慌てて周囲を見渡すが、姿は見えない。
「あそこだ」
アリシアがライフルのスコープを覗き込む。
彼女が指し示したビルの上に、微かに老婆の影が浮かんでいた。遠い。100mはあるだろうか。
通常では届くはずのない距離で、挫斬が応える。
「叶えたい願いがあるなら安全な場所に逃げるのはやめたら?
命を懸けずに叶えられる願いなんてたかがしれてるよ。
それとも貴方の憎悪は命を賭ける価値も無い物なのかしら、お婆ちゃん?」
明らかな挑発に、老婆は淡々と応える。
(何を知った気でいるのかねぇ。私はそこの家族に怨みがあるわけじゃないんだよ…)
「あなたは大切なものを失ったのでしょう?」
両親から話を聞いたElsaが言葉を重ねる。
(ふん。その通りさ。
その家族なんて本当はどうでもいい。幸せと言う欺瞞溢れるこの『世界』に復讐する。それが私の本当の目的。
今すぐ世界を滅ぼせると言うのならば、この命、いくらでも捧げてやるさ…)
「認めぬ、貴様がやっている事は復讐とは言わん! 関係無い者に牙を向けるなど死者の為ではあるまい。
ただ『自分も加害者になって楽しみたい』だけであろうが!?」
時雨が遠く霞む老婆に指を突きつけた。
その指摘に、老婆の声色がわずかに変化する。
(………誰が死者のためだと言った。
私がやっているのは、私のための復讐。他の誰でもない。私のための復讐さ!)
「ゲスめ、我が断言する。貴様が死んでも失った者の元へ行く事は無い! 地に堕ちよ外道!」
「こんなことをしても天国の家族は喜ぶはずがないだろう! 貴様がやっているのは自己満足だ!」
時雨が怒りを露わにし、アリシアが断罪する。だが、その声が老婆に届くことはない。
(死んだ者が天国で泣いている? こんなことは望んでいない?
なぜ、そんなことがわかる? なぜ、そう言い切れる? うちの家族が怨んでないとでも? 今も嘆き哀しんでいないと言い切れるのかいっ!?
大切なのはこの世界なんだよっ! 憎むべきはこの世界なんだよっ!!)
「どんな経緯があったかは知らんが……お前は自分自身の手で『不幸』でさえなくなったんだ」
仁刀が断言するが、応えは無い。
長い沈黙の後、影が揺らぎ、ゆっくりと夕闇に溶け込んでいく。
(……私には『不幸』も『幸』もない……あるのは……ただひとつ……)
消えゆく声を前に、Elsaは思う。
赦される方ではないけれど、総てを悪と断ぜず。いずれ糾弾と救いが、歪んだ道の歩みを終えさせることでしょう。
失う痛みは何よりも知っている。私には天に憎むべき存在があり、彼女の如く怨嗟の矛先を違えていない自負はある。けれど……。
「…負の感情に捕らわれた者の末路。一つ違えばきっと私も貴女になるのね…」
――狂人――
悪魔の『復讐』はまだ始まったばかり。