●母、子
「いい子だから、もう止めて!」
現場に辿り着いた撃退士たちが耳にした第一声。それは、鬼に抱えられし女性の悲痛な叫び。
服から伸びる細い手足。痩せこけた頬。透き通るような青白い肌。
その姿は、重い病に侵されていることを容易に想像させる。
その一方で、弱った身体からはとても絞り出せるとは思えない大きく、力強い叫び。
「食べるなら…お腹が空いてるなら、私を食べて! ほら! 私を食べるのよ!」
鬼の食事のせいだろう。顔に張り付いた髪は返り血で赤く染まっている。
乱れた髪の隙間からは覗く瞳は悲哀に満ち、それでいて時折妖しい光を放つ。
正気と狂気の狭間で揺れている。
その目を見た柚祈 姫架(
ja9399)は、そう感じていた。
加えて、耳の奥に突き刺さる声がある事実を痛感させる。
「なんで……なんで食べてくれないのよ…」
どこかで期待していた。叫び続ける女性は母親ではなく、鬼もまた女性の子供ではないと。
しかし、淡い期待は打ち砕かれ、目の前にあるのは変えることのできない現実だと思い知らされる。
「子を、ディアボロに…なんと、惨たらしいことを」
柳津半奈(
ja0535)の感情を抑えた言葉とは裏腹に―――ぎりっ。
強く握る拳が彼女の心境を物語る。
女性と鬼。実の母と子。望まざる鬼母と鬼子。
自らが食べられることを切望し、それが叶わぬ母親に黒葛 琉(
ja3453)が呼びかけた。
「自分を食えって言って、子はそれで満たされるか?」
母親は、ただ力なく首を振る。
「私たちのことは放っておいて……お願い、この子は…この子は…」
『この子は悪くないの』
おそらく、そう訴えたいのだろう。
だが、それが口から発せられることはなく、母親は我が子の胸の中で泣き崩れる。
それはつまり、彼女が状況を理解していることを示していた。
我が子がヒトではない存在に変わり果て、犯してしまった所業。罪悪感と良心の呵責。
だから、我が子を庇うことに躊躇ってしまう。
その一方で彼女は信じ、縋ってもいる。どんなに姿が変わっても、我が子は我が子であると。いつか自分の声が届くに違いないと。
絶望とわずかな希望の間で、彼女は苦しみ、もがいていた。
そんな母親に、鬼子がぎこちなく手を伸ばす。
大きく膨らんだお腹。巨躯でありながら、猫背のせいでこじんまりと見える身体。濁った灰色の眼は光を灯さず。力なく開いた大きな口の中は漆黒で、鋭い牙だけがギラギラと輝いている。口元から流れ落ちる涎がだらしなく顎と伝い、その姿は地獄に住まうという餓鬼を想像させる。
右腕に母親を抱え、左脇には事切れた遺体を挟み、母親の頭に伸ばした左腕を不器用に前後させる。
おそらくは―――撫でているのだろう。
醜悪な顔をした鬼が、無表情に、不器用に、母親の頭を撫で続ける。
「もう…解放してやれ」
琉が思わず呟く。
その光景を前に、亀山 淳紅(
ja2261)は先ほど告げられた言葉を反芻していた。
『私はね、言わばあの子にとって第二の母親さ』
ここに辿り着く直前。
名も知れぬ、姿も見せぬ老婆が語り掛けてきた言葉。その声はどこからともなく全員の耳へと届き、語り掛けた。
病弱な母親が息子に愛されて幸せに死を迎えようとしていることが、ただただ気に食わなかったと。満足に死なせてやるものかと。
ただそれだけの理由で老婆は子を鬼に変え、両親を喰らわせようとしたと言う。
「お婆ちゃん、憎むんやなくて、めいっぱい泣けばよかったんよ。そんで、自分らに頼ってくれたらよかったんよ」
愉快そうに語る老婆へ、淳紅は思わず声をかけた。哀しさを謡うように。憤りを紡ぐように。
その言葉が伝わったのかはわからない。
ただ、わずかな沈黙の後に、老婆は声色は変えることなく話を続けた。
『産みの親の言うことを聞かないなんて、親不孝だと思わないかい?』
老婆の意に反して、息子が母親を決して食べようとはしなかった。
だからその子は悪い子だと。お仕置きが必要だと。息子が母親を殺さないのであれば、母親の愛する子供を目の前で無惨に殺してやってくれと。
身勝手で理不尽で情の欠片もない、残酷な行為と思考。
(それでも…)
佐藤 七佳(
ja0030)には、老婆の行いを単純に『悪』と見なす事は出来なかった。
人は他の動植物を糧として犠牲にしながら、平然と命の価値は平等で大切なモノだと唱える。釣りという形で魚に苦痛を与え殺す事を楽しみ、害獣だからと動物に恐怖を与えながら殺す事を容認する。
それと今回の老婆の言動に何の違いがあるというのか。老婆を『悪』と断ずることは、彼女には人間の傲慢としか思えなかった。
だがしかし。
―――悪魔。
老婆は自分のことをそう表現した。
自分は純粋なる『悪』であると。そして、人間もまた『悪』の存在でしかないと。
(では、私の求める『本当の正義』とは一体なんなのでしょうか?)
人間が『悪』であるなら、『正義』とはどこにあるのか? 何を指すのか? 人間に『正義』を求めることはできないのだろうか?
「子供をディアボロにするとは…今回の悪魔は随分とえげつない事をします」
最後尾に立つエリーゼ・エインフェリア(
jb3364)の呟きが、七佳の思考を遮った。
「ただ、それほど怒りが湧いてくるわけではないので、所詮私も同類という事ですか…」
続いた呟きは、誰に聞こえるともなく宙に霧散する。
母と子の境遇を慈しむかのように優しげな雰囲気を漂わせる天使は、その姿とは裏腹にそれほど心を揺らがせていない。
冷静かつ客観的に状況を判断し、合理的に思考を進める。
「自爆のことはさておき。まずは母親の救出を第一優先にしましょう」
自爆。
これもまた、老婆が告げたことだ。鬼子の身体が朽ち果てようとするとき、周囲を巻き込んで自爆すると。
何の意図があってその情報を伝えてきたのかはわからない。虚偽か、攪乱か、罠か。
だが、自爆があろうとなかろうとやるべきことに変わりはない。
「母親は、助けます。この身に賜りし撃退士の、名と責に掛けて」
例い、それが当人にとっての不幸であったとしても…。その先に、どんな結末が待っていようとも…。
半奈は盾を手に、自らに言い聞かせる。
(それでも、助ける。それが…私たち、力を持つ者の責、の筈…)
半奈に並び、リチャード エドワーズ(
ja0951)が悲壮な決意を胸にする。
「子供を守れぬとは何と無力か…」
その場にいれば…そう思わずにはいられない。母親と息子。二人には大いに心寄せるところもある。
それでも、見逃すことなど出来ないこともまた事実。
すでに、この息子は幾人もの無辜の命を食らってしまっている。
「……始めましょう」
七佳の四肢を淡い純白の光が包み込む。
明らかに雰囲気の変わった撃退士たちの様子に、母親がこれから始まる事を理解する。
「やめて、この子を殺さないで!」
その言葉を理解したのか、鬼子の目が撃退士へと向けられる。
無表情な視線に浮かぶ明確な敵意。
うがぁああぁぁっ!
鬼子が初めて声を発する。
それは『母親を哀しませる奴は許さない』と威嚇するかの如く。『心配しないで』と母親を励ますかの如く。
「お願いっ! この子を…この子をっ!!」
我が子を案じた母の叫び。
それが哀しい戦いを告げる合図となった。
●鳴、護
撃退士たちは一斉に散開し、鬼子を囲むように足を進める。
当面の目標は、右腕に抱えられた母親の救出。そのためには、隙を突いて右腕から救出する必要がある。
淳紅と七佳は距離を取りつつ、ゆっくりと鬼子の右側面に回り込む。隙を見つけて右腕に攻撃を仕掛け、救出のキッカケを作る為。
エリーゼが光の翼を広げ上空へと舞い上がる。頭上と言う死角から、牽制攻撃を仕掛ける為。
半奈とリチャードと姫架、その後方に琉が続き、左側面へと回り込む。鬼子の意識を引き付け、右腕に抱える母親から意識を逸らす為。
それぞれが役割に沿って動く。
対する鬼子は首を巡らせ、色の無い目で散開する撃退士たちを見つめる。そして、脇に抱えていたモノを乱暴に掴む。
「なっ!?」
琉がライフルを構え、その頭に狙いを定めようとしたとき、鬼子は腕を振り上げ―――まるで気に食わないおもちゃを放り投げるかのように雑に、適当に、力任せに、それを投げつけていた。
それとはつまり、既に事切れたヒトの身体。
反射的に琉は引き金を引くが、弾丸は空中を突き進んでくる物体を虚しく穿つ。
本来のライフルの射程距離であれば、それが彼に届くことはなかっただろう。
だが、今はいつでも母親の救出が行える様に、移動可能な距離ギリギリまで近づいていた。それが故に、凄まじい勢いでぶつかってきた質量の塊が琉の身体を捉え、吹き飛ばす。
「ぐぁ…っ!」
ヒトの身体を軽々と投げ飛ばした膂力。そこから鬼子の攻撃力を推し量り、理解する。だが、怯んでいる暇はない。
投げ終えて態勢を崩した鬼子に、接敵したリチャードが大剣を振るう。
その剣閃は左の肩口を捉え、刃が肉に食い込む。
―――いや、浅い。
思いの外、固い感触にリチャードの顔色がわずかに変わる。
続き、滑り込むように鬼子の正面へ飛び込んだ姫架が、深く沈み込んだ体勢から足元に向かって双剣を振るう。
「てやっ!」
その攻撃はバックステップして避けられる。
問題ない。その攻撃は意識を引き付けること。そして、バランスを崩させること。
「参ります」
濃度の変えたアウルで包み込んだ盾を構え、着地の瞬間を狙って半奈が盾を突き出す。
鬼子が反応を見せるも体勢を立て直す間もなく、刃のついた攻防一体の盾が左脇に突き刺さる。
一連の攻撃で完全に体制を崩し、意識を奪われたところへ更なる追撃が魔法の使い手たちから飛ぶ。
上空からエリーゼの放った無数の稲妻の矢が降り注ぐ。淳紅の放った紅い音楽記号が右側面に放たれる。
もはや避けること叶わず、鬼子はそれらの直撃を浴びる他無い。
一方で、鬼子も左腕を振るって応戦するが、右腕に母親を抱いたままの動きは読みやすい。
半奈は難なく打点をずらし、その豪腕を盾で受け止める。
動くたびに鬼子の傷口から紫色の飛沫が舞い散り、紫色の液体が大地に流れ落ちる。
その血に染まった母親が悲鳴を上げる。
やめてぇ! 私が食べられればいいの! それでこの子は満足するの!
錯乱した母親が我が子を守るべく、自由な両腕を鬼子の身体に伸ばす。
「鬼になってもあんたを護ろうとするんだ、いい子だったんだろうな…」
ライフルを構え直した琉が、再び鬼子の頭に狙いをつける。
だからもう、苦しみから解放してやれ。
想いを載せた弾丸が、狙い違わず頭部を直撃する。
(少年よ…私を怨め。その怨み、背負って道を進もう)
緑色の輝きを宿した大剣で鋭く左腕を斬りつけながら、リチャードは心の内で語りかける。
もはや言葉が鬼子に届くことは思えない。
―――ならばせめて。
彼は決意をその刃に乗せる。引導を渡し、被害者をこれ以上生まない事。それが二人の為になると信じて。
「寝てもらうで」
淳仁の発生させた眠りの霧が、鬼子と母親を包み込む。
「や…め、て…」
その魔力に抗えず、母親が静かに目を閉じる。
これで母親が攻撃に巻き込む可能性はかなり下がるはずだ。何より、この先に起こるかもしれない惨劇を見せなくて済む。
対照的に、鬼子はまったく意に介すことなく、左側に付きまとう撃退士たちに向かってその大口を向ける。
「何か来ますっ!」
姫架が警戒の声を発すると同時、咆哮が大気を引き裂いた。
声とも音ともつかない空気の塊がリチャード、半奈、姫架に襲い掛かる。魔力を乗せた衝撃が、身体に圧し掛かっては頭を激しく揺さぶる。
「ぐ…っ!」
方向感覚を失い、立つこちもままならない状態となった3人が膝をつく。
左の次は、右。
次の標的を求めて鬼子が首を巡らせる。そして、そこで気付く。
うがぁぁあぁあぁぁっっっ!
―――怒号。
怒りに満ちた声が周囲に鳴り響く。
鬼子が目にしたのは、右腕でぐったりと動かない母親の姿。
魔法によって眠りについているだけではあるが、鬼子はそうは捉えなかったのだろう。
『母親に危害が加えられた』
怒りに満ちた視線が撃退士に向けられる。
目の前にいた姫架を力任せに引っ掴むと、その身体に牙を突き立てる。
「あぐうっ!」
痛みと共に流れ込んでくる異物。強力な麻痺毒が、姫架の身体を蝕もうとじわじわ広がっていく。
「これ…しきっ!」
辛うじて麻痺毒の浸食を跳ね除け、鬼子を蹴って自らの身体を引きはがす。
幾分肉が削げるが、すぐに癒しの力で傷口を塞ぐ。
姫架が離れたところへ、鬼子の周囲に光の鎖が現れ、その身体に絡みつく。エリーゼの魔法が、怒りで我を忘れた鬼子の身体を束縛し、固定する。
「隙有り! です。今のうちに救出お願いします」
そのタイミングを待っていたかのように、漂う眠りの霧を突き抜けて鬼子の背後へと勢いよく飛び出してきたのは七佳。
光纏式戦闘術『光翼』と『破陣』。
共にアウルの収束噴射を利用した彼女独自の戦闘技術。
己の四肢や背部からアウルを収束噴射させた高速移動は遠く離れた位置からの急接近を可能とし、容易く死角を突くことを可能とする。
アウルの放射によって得られる反動を推進力に変えた加速力は、強力な攻撃を繰り出すことを可能とする。
「これでどうですかっ!!」
完全に不意を突き、接近に気付きもしない鬼子の右肩へ、右の掌から高速射出された光の杭が打ち込まれる。
何度も、何度も、何度も。
肉と骨の砕ける鈍い音が響き、七佳の一撃は人間で言うところの肩甲骨と右肩を破壊した。
人であれば、もはや右腕は使い物にならなかっただろう。
しかし、相手は鬼。
壊れた右腕で、尚も眠る母親を抱え続ける。
それどころか左腕を背後に向かって振り抜き、裏拳で七佳の身体を吹き飛ばしてみせる。
「母親が解放できないのならば……俺がその苦しみから解放してやる」
一瞬見せた綻び。それを琉は見逃さなかった。
その右腕が、決して離すまいと支え続ける腕が、攻撃に転じた瞬間に僅かに緩んだことを。
狙い澄ました弾丸が右の手首に着弾する。
右手が弾け、母親の身体が大地へとずり落ちる。
「今ですっ!」
姫架が―――叫んだ。
●誓、怒
待ちわびた機の訪れに、撃退士たちが迷いなく行動に移る。
再び母親に手を伸ばさせまいとリチャードが左側面から猛然と斬りかかる。
「遅い…!」
背後に回り込んだ半奈が、バッシュ(盾の体当)で態勢を崩しにかかる。
「Canta! ’Requiem’」
淳紅の詠唱で召喚された無数の死霊の手が、鬼の身体を抱きしめるように締め上げる。
その隙に母親を確保しようと姫架と琉が鬼の足元へと駆け寄り、手を伸ばす。
だが。
鬼子はそれらを一切合切無視し、思いもよらぬ動きを見せた。
母親に覆い被さったのだ。
背を丸め、その身のすべてで母を包み込む。
思わぬ行動に、撃退士たちが躊躇い、思わず攻撃の手が止める。
「いま攻撃しないでいつするんですか! 正義の味方ごっこは他でやってください!」
そんな状況にも怯まず、エリーゼが敢然と叫ぶ。
こうなっては母親を救出することは至難の業だ。むしろ、この千載一遇のチャンスを逃す手はない。
「私達は出来る事を出来るようにしか出来ないんですからっ!」
かざした掌に導かれ、鬼子を取り囲む様に無数の光の剣が空中に現れる。
確かに救出は困難で、今なら撃退するのは容易だろう。しかし、攻撃を続ければ母親が自爆に巻き込まれるかもしれない。
「待っ――!」
「聞きません!」
それは誰の制止だったのか。その声を振り切って、エリーゼは躊躇うことなく手を振り下ろす。
身を丸めた小さな巨躯に、次々と光の刃が突き刺さった。
目の前の大きな脅威を取り除くために多少の犠牲が出ることは仕方がないことでもある。ヒトの世界だって、同じ理で回っている。それが天魔と対峙するための心構えだと彼女は思考する。
「散々天魔を殺しておいて、人を殺しそうだからその手を止めた。なんて言えませんからね」
間髪入れずに、七佳も光の杭を再びその背に打ち浴びせる。
避けることも受けることもせずに、鬼子は二人の攻撃をその身に甘んじて受け入れる。
すべては母親を護るために。
いずれ鬼子が弱れば母親を手放すかもしれない。動きを封じることができれば、救出できる隙がまた生まれるかもしれない。
それを信じて、他の者たちも攻撃を再開する。
光の剣が、死霊の手が、光の杭が、電撃が、光の鎖が、斬撃が、鬼子の身体に襲い掛かった。
「なんだ?」
刃を突き立てたリチャードがふと気づく。
鬼子の身体を、いつの間にか濁った紫色のオーラが包み込んでいる。そのオーラが攻撃を、動きを束縛しようとする力を悉く弱らせ、跳ね除けていた。
無論、傷を負っていないわけではない。しかし、一時的に高まった『魔』の力がその身を強靭なものへと変貌させ、あらゆる攻撃を減衰させている。
その身がただ一言、訴える。
『護る』
その想いと誓いが『魔』の力を高めているのだろう。
だからと言って、攻撃の手を緩めるわけにはいかない。撃退士たちは、ひたすらに無防備な背中へと攻撃を続ける。
オーラの高まりは一時的なもの。いつまでも続くはずがない。
そう思った矢先―――。
スパッ。
攻撃の合間に、確かに耳に届いた切り裂き音。分厚い鬼の身体を斬り、打ち、貫く鈍い音とは明らかに異なる音。
ぽたり。
地面に落ちる一粒の鮮血。
ウオオォォォッッッ!!
直後、腹の底から絞り出す様に鬼子が絶叫する。
咆哮よりも遠く。怒号よりも高く。何よりも誰よりも深く激しい怒りがそこにはあった。
謡い手である淳紅がその絶叫の中で直感的に悟る。
鬼子が『子』を止め、純粋なる『鬼』と化したことに。
正面に位置していた姫架はいち早く気付く。
光を灯さない灰色の目が、鮮血の紅瞳に変わったことに。
鬼が首を巡らせる。
その紅瞳が捉えるは、翼を広げ上空に浮かぶ天使の姿。
壊れた右腕を振るって周囲を牽制し、まだ動く左腕で母親を乱暴に抱え上げ、その身体が深く沈み込ませる。
「まさかっ!?」
「エリーゼさ――っ!」
その行動の意味に琉が気付き、七佳が叫ぶ。
次の瞬間、鬼の身体が跳ねた。
「そんなっ!?」
いくら鬼の脚力でも空高く飛ぶ天使に手が届くことはない。代わりに、距離を詰めたことで届くものもある。
ウボォォォ!
咆哮。空気の塊。魔力を乗せた声と音の振動。
不意をつかれたエリーゼが、その直撃を受ける。
身体と共に激しく揺さぶられた頭は方向感覚を無くし、飛行状態を保つのに精一杯な状態に陥る。
そして、鬼は地響きを立てて着地する。
跳躍によって、撃退士の包囲から抜け出した鬼が首だけを捻る。
そこにいるのは母親を救出するため、集中攻撃をするために、先ほどまで己を囲んでいた撃退士たち。
開かれた大口の中に、無限に続くかのように思われる漆黒の闇が広がる。
「させるかっ!」
咄嗟に、琉が手にしたオートマチックを放つ。弾丸はすべてを飲み込む口の中へと吸い込まれ、喉奥を確かに貫く。
その一撃が与えた影響はごく僅か。首がほんの数cm、右へ傾いただけのこと。ただそれだけのこと。
しかし、自らが咆哮の餌食となって得たその結果が、最悪な状況に陥ることを防いでいた。
●想、終
怒りに任せた咆哮の威力は凄まじく、それを浴びた撃退士たちの身体と頭を意識をより激しく揺さぶった。
絶叫と咆哮にあてられ気を失った母親を乱暴に担ぎ上げ、その隙に鬼は身を翻して逃走を図る。
が、走り出した足がすぐに止まる。
その行く手に立ち塞がったのは、大剣を突き出した騎士。
琉の射撃により唯一咆哮から逃れることのできたリチャードは、鬼の目を見据え覚悟を決める。
倒せなくてもいい。母親を救出できなくてもいい。仲間たちが回復し、状況を覆すための時間を稼げればそれでいい。
鬼が壊れた右腕を振りかぶる。
単調な攻撃の軌道を、剣を傾けて逸らす。鬼の身体が開いたところへ一歩踏み込み、剣を薙ぐ。
冷静に。深い追いはせず。逃さないことだけを念頭に、彼は剣を振るい続ける。
しかし、例え直撃をさけることができても、暴力的なまでの力が時にリチャードの身体に突き刺さる。
重く、重く、強烈な一撃。
「ぐは…っ!」
天寄りのアウルを身に宿すリチャードにとって、強く魔に傾いた鬼の攻撃は想像を絶する一撃となる。
だが、怯むわけにはいかない。下がるわけにはいかない。倒れるわけにはいかない。
激しい攻撃の手と強力かつ凶悪な単発がリチャードと鬼子の間で入り乱れる。
攻撃に耐え続けるリチャードを助けるため、見えない圧力に抗いながら淳紅が伸ばした腕から電撃を放つ。
「ちょっとの間でいい。痺れとってな」
電流が巨躯を駆け巡り、その意識とは関係なく鬼の身が脱力する。
その拍子に腕から転げ落ちた母親を、やはり圧し掛かる重圧に耐えながら姫架が確保する。
身体は動かず、その光景を見ることしかできない鬼の形相が歪む。
救出した母親を退避させようとする行為を『奪い去る』と思ったのか。
鮮血の目が大きく見開き、痺れた体を震わせ、振り上げた頭の発した怒号が天を劈く。
痺れを吹き飛ばした鬼が母親を目指して駆け出した。
まだ素早く動けるほど、咆哮の効果から回復できた者はいない。
その行動を阻止するため、リチャードは単身で鬼の進行方向に身体を投げ出す。
アウルで己の肉体を活性化し、大剣を盾代わりにその巨躯の突進を真正面から受け止める。
身体の芯まで響く衝撃に、身体中からあがる悲鳴。
「行かせるわけには…いかないのだっ!」
攻撃を受け続けたリチャードにはわかる。この子は、この鬼はもはや母親を殺しかねないと。
しかし、鬼の追撃は緩むことなく彼の身体を削っていく。
怒りに満ちた牙が、力任せの蹴撃が、乱暴に振るわれた腕が、その身を彼方へと吹き飛ばす。
大地の上を跳ね、リチャードの身体が転がっていく。
急速に霞み、ぼやける視界。
片隅に映った姿に、彼は自らの意志を託す。
「たの…む…」
そして彼の意識は、深い闇の中へと沈んでいった―――。
リチャードが稼いだのは僅かな時間。だが、確かに次へとつないだ時間。
母親を抱えた姫架が、離れた場所へと退避する。
朦朧とした頭を振り払った撃退士たちが、足止めを食らった鬼へと攻撃を仕掛ける。
「いい加減、くたばりなさいっ!」
エリーゼは再び上空へ舞い上がり、光の槍を眼下の鬼へと投げつける。
七佳が左の掌に展開した魔方陣から、光弾を乱れ放つ。
半奈はリチャードに代わり、盾を構えて鬼の行く手に立ち塞がる。
その後方では琉が拳銃で頭を狙い、牽制し半奈の援護をする。
鬼は母親を求めて腕を伸ばす。
傷つき、削がれ、その身から勢いがなくなろうとも、伸ばした腕が落ちることはない。
淳紅の掌が鬼の身体に当てられる。そこは、母親を守っていた―――右腕。
「これでどうや!!」
凄まじい閃光と共に響く爆音。
禁呪『炸裂掌』。
自身の魔力の奔流に巻き込まれた淳紅の身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。倒れる間際、目を上げた先にあったのは辛うじてつながっている右腕。
「もうちょい…やったんだけどな…」
鬼が右腕を押さえ、吼える。
うおぉぉおぉぉ!
咆哮とも、怒号とも違う。まるで痛みという感覚を思い出したかのような叫び。
その声に、意識の奥底から呼び起こされた母親が目を覚ます。
首を巡らせ、我が子の姿を探し―――見つけた視線の先には、撃退士に囲まれ攻撃を受け続ける鬼の姿。
「や、やめてぇっ!」
「い、行っちゃダメです!」
立ち上がろうとする母親を、姫架が必死に取り押さえる。
そして、その目は目撃する。
―――我が子の最後を。
「これ以上、こちらの被害を拡大させるわけにはいきません!」
エリーゼが練り上げた魔力を開放し、鮮烈に輝く光の槍を生み出す。
必滅。
リチャードは倒れ、対峙する半奈も消耗し、淳紅はその身を呈して攻撃を仕掛けた。これ以上、戦況が長引けば討ち漏らしの可能性がある。
「エリーゼさん! 同時に行きますよ!」
エリーゼの意図を読み取り、七佳が左の掌に多重魔法陣を展開する。
「自爆の可能性があります! 離れて下さい!」
その声を受け、退避しようとした半奈の身体を鬼が蹴り抜く。
「ぐっ…!」
くの字となって崩れ落ちる半奈。それと同時に放たれる光弾と光槍。
―――っ!!
刹那、母親の叫びが戦場を駆け抜け、鬼の耳を捉える。
届いた言葉は―――自らの名。その名に反応した鬼が、反射的に母親の姿を探す。
そして、その巨躯を無数の光弾が打ち抜き、光の槍が―――母の姿を見つけた鬼の首を、跳ね飛ばした。
いやああぁあぁぁっっ!!!
気を失った半奈の側に鬼の首が転がる。穴だらけとなった巨躯がゆっくりと崩れ落ちる。
姫架に抑えられながら、母親はその光景に手を伸ばし、我が子に呼びかける。届くことのない、その名を。
次の瞬間、鬼の身体がぼこぼこと膨張を始めた。
琉が倒れる半奈を圏外へと放り投げ、起き上がった淳紅が倒れた鬼の身体に腕を伸ばす。
そして、音無き閃光が鬼と、鬼の周囲を―――真っ白に包み込んだ。
●雨、
凄まじい爆風。舞い散る砂煙と血煙。だが、音はない。
ただひたすらに眩い白き閃光が視界を覆いつくし、白闇無音の世界が目の前に広がる。
ポツポツ…。
視界が戻った頃、大地には雨が降り始めていた。
爆発の中心部には鬼の身体は跡形も無く、残っていたのは爆発に巻き込まれた琉と淳紅の姿。
自爆の影響範囲から免れた場所で、半奈とリチャードがその身を横たえていた。
慌てて姫架が駆け寄り、倒れた者たちの傷を癒して回る。
半奈は傷ついた身体を引きずり、母親の下へと近づく。
「許して下さいとは、申しません。恨めしくば甘んじて、そのお気持ちをお受けします。貴方の御子息を討ったのは…私達、なのですから」
母親を助けたことは、自分たちの責であった。そこに間違いはない。間違いはなかった。
―――だが。
砂と血にまみれた母親が、呆然と虚空を見つめている。半奈の言葉にも反応はない。
他にかける言葉が思い浮かばず、感謝は勿論のこと恨んでもらう事すらできずに、半奈は俯き、唇を噛みしめる。
サーーー。
雨足が強くなる。小さな滴が血を洗い流していく。
「貴女が死んだら、旦那さんと息子さんの『幸せな姿』がこの世界に残りません」
立ち竦む半奈の後ろから、淳紅が声をかける。七佳の肩を借り、身体を引きずりながら母親の前に手を差し出す。
「ごめんなさい、これしか残りませんでした」
広げられた手のひら。視線だけをゆっくりと落とし、その中に収められたモノを見つめ、やがて母親が堰を切ったように絶叫する。
「なんで!? なんで、殺したの! なんでよぉ! あの子が何をしたっていうのよぉ!」
手のひらに収められたもの。それは、鬼の―――我が子の、ほんの一部。
母を護り続けようとした右手の小指。
母親の慟哭に何も答えることはできず、代わりに淳紅はそっとナイフを母親の前に置く。
「恨むなら、今ここで自分を恨んで、復讐をして下さい。でも、決してあの子をあんな風にした人のように世界を恨まないで下さい」
淳紅は膝をつき、母親と視線を合わせる。
涙は枯れ果て、精気を失った虚ろな瞳が淳紅を映し出す。
彼女の最愛の息子をあんな化け物にされてしまった。だが、その命を奪ったのは間違いなく自分たちである。彼女に言葉をかける資格すらないかもしれない。単なる偽善でしかないのかもしれない。それでも彼は言葉を紡ぐ。思いは言葉にしなければ伝わらない。
「この子を…貴女に弔ってほしいんです。貴女にしかできないんです。身勝手なお願いで……ごめんなさい…!」
ただ、静かに頭を垂れる。
どれだけの時が経ったのだろうか。
震える指が、恐る恐る淳紅の手のひらに伸びる。
そっと摘まみ、自分の手の中に収める。
手のひらで転がるそれは、まるで我が子が走り回るように、ころころと。
口から洩れ出した嗚咽が、戦い終えた撃退士たちの身を包む。
「私は…それでもあなたたちを許さない…許せるわけがない…」
母親の目から、生涯最後の涙がこぼれる。
哀しみのあまり。絶望のあまり。憎しみのあまり。彼女の人生の涙はついに枯れて果てた。
―――それでも。
彼女の目に、光が戻ったことを撃退士たちは知る。
涙は流せなくとも、きっとその生涯を終えるまで心で泣き続け、悼み続けることだろう。最後まで母として。人として。
サーーー。
暖かい雨は、いつまでも母親と撃退士たちに降り注いだ。
闇をぼんやりと漂っていると、いつの間にか見たこともない子供と対峙していた。
その顔は曖昧でよくわからない。だが、この子供のことは知っている。そんな確信がある。
一体、どこで出会った子供だったか。
子供が頭を下げる。丁寧に。深々と。
そして、子供の輪郭がぼやけ始める。色は虚ろに、その姿が闇と混ざり合っていく。
その様子をぼんやりと見送りながらも、これは忘れてはいけないことだと思う。その一方で、きっと目覚めれば忘れてしまうのだろうとも思う。
目覚める? 何から?
消え失せる直前、子供が何かを呟いた。
お兄ちゃんのお蔭で、お母さんを傷つけずに済んだんだ。ありがとう。
この日、病室で眠るリチャードの目から一筋の雫がこぼれたことを知る者は―――誰もいない。