●
『――私の最期の我儘だ。どうか、妹を頼む』
俺はあの時、嗤って誤魔化せばよかったのだろうか。
『……流架。拒まずに愛されろ、誠のお前を。怯えずに愛しろ、お前の夢を』
俺はあの時、誰かの“安定”の為に犠牲を強いたのだろうか。
『御子神家四十二代目当主、御子神 泉流は――お前と巡り会えて幸せだった』
その“誰か”とは、間違いなく――。
**
慟哭の雨。
過去の切れ端を積んだ代償の音が声が歪ミガ愛ガ嘘ガ妥協ガ理不尽ガ虚シサガ何物ヨリモ五月蠅クテ煩イうるさいウルサイ五月蠅イうるさ――、
「時化た悲鳴出してんじゃねぇぞッ!!」
彼の求めた回答は、藤宮 流架(jz0111)だけに赦された権利。
嗚呼、どいつもこいつも俺より卑怯だ。
●
――待っていろ、すぐに行く。
報せが届いた瞬間から不知火藤忠(
jc2194)は、何よりも、誰よりも、“今”――彼女の傍に在りたいと切望していた。
西鎌倉――御子神家。
藤忠は厳かな面持ちで屋敷の大戸に手を掛ける。夜の静寂(しじま)は唯、涙の雨に溺れていた。
●
御子神家を包容する山々の黒い影は、闇よりも深く、眠れる巨人の様であった。
彗星の如く空を翔る“意志”。
実った稲穂の様に鮮やかなブロンドの長髪、グリーンサファイヤを彷彿とさせる碧の瞳。その趣は、その美は、“天使”か?
――否。
「聞こえたぜ。どぶに落ちた犬の悲鳴がな」
機械の“翼”を展開した少女――ラファル A ユーティライネン(
jb4620)が荒々しい雨空を支配する。
「この依頼、俺はどう転んでも後悔しようが無いんだよね」
ラファルは恬淡と語った。
「だって御子神の事情なんてこれっぽっちも知らねー部外者なんだからよ。などと嘯くのは学園じゃ知らぬ者のいないメカ撃退士のラファルだ」
篠突く雨が何を断罪しているのかなど知ったことではない。
「じゃあなんで来たんだと問われれば親友の兄貴分、不知火藤忠の行く末を応援するためだ。全くいつまでうじうじしてんだって話だよな。男ならがつんと言ったれっつーの。まあ事情はダイナマ先生の車中で聞かされたんで、戦闘屋のラファルとしては――」
瞬、ラファルの飛行軌道が一本の線を正確に描いた。暗に際立つ白い肌へ、雨雫が間断なく弾かれてゆく。
「牛隠退治だ」
形の良い唇が邪に笑んだ。
ラファルの戦闘用義体の各四肢が、上空で敏速に分離した。その一つ一つが彼女の姿を形成したのち、影分身となって意を共有する。
雨に澱み揺蕩う空間の中、既に爛々たる赫眼は飛来するラファルの姿を捉えていた。しかし、
「標的ロックオン――」
それは此方も同じこと。
ラファルは《展開!!俺俺式光学迷彩》を発動。自らの背後に在る風景を投影する力、魔法の様な性質を携えた膜で気配を覆う――ことが目的ではない。次いだ撃に、牛隠は死角を奪われていた。闇歩戦技の奥義が一つ、《謳技、死閃「プラネッツフォールダウン」》が繰り出されたからである。
牛隠の頭部から逆巻く血潮に、ラファルの身体が染まる。彼女の動きは沈着で、彼女の一撃は完璧であった。
潜行状態からの此の妙技は、視認すること能わず――唯、
「星辰乱れしとき巨星をも墜とす」
そう、謳われるのみである。
ラファルは後方に跳躍すると、反撃に備えた。次へ繋ぐ打つ手は決まっていたが、残念ながらその構えを必要とすることはなかったようだ。牛隠は“既に”、反攻する八つの爪を失っていた。それ以前に――、
「なんだ。さっきのがとどめになっちまったのかよ。呆気ねーな」
彼女の破壊衝動は満たされずに終わる。牛隠の赫眼はどろりと鈍に変色し、命の色を宿してはいなかったのだから。
引導を渡したのはラファルだ。しかし、今も尚、殺気の残滓は繊維な意識で空中を漂っている。ラファルは自身のトレードマークであるペンギン帽子の“嘴”を心持ち、くぃ、と、親指で上げると、闇模様の空木へ言を放った。
「蜘蛛の足を斬り落とすのは楽しかったかよ? 先生」
碧眼に影が映る。
闇の帳がひとふり――大して興味もないように「普通」、と、間延びした返事で。右手にぶらりと日本刀を携え、視線の定まりも茫洋に。妖しな牛の“鬼”ではどうやら力不足だったようだ。
「……ヒーロー見参、なんてね。逢いに来たよ。流架」
夜の“目”と“緑火”よりも一(いつ)に、愛おしさに濡れた瞳で木嶋 藍(
jb8679)が傘を差し掛けた彼――流架の相手には。
彼は自身の青い鳥を目の前に、只、薄く笑んだだけであった。
意識の先端は藍に在れど、その奥底では恐らく、繽紛な火の粉が渦巻いているのだろう。藍はそんな彼を暫し見据えると、日溜まりの様にあたたかい微笑みを流架へ向けた。そして、伸ばした掌を彼の胸元に、そっ、と、添わせる。
「流架が苦しいとき、ひとりにしない」
その真っ直ぐな告白に、俄に膨らんだ流架の瞳は、やがて観念した様な切情で滲んだ。
伝う彼の鼓動が、無意識に強張らせていた藍の緊張を解いていく。
――と、
「天魔討伐も終わったことだし、俺は先に御子神家へ戻ってるぜ。まあ、木嶋ちゃんも先生もゆっくり帰って来たらいいんじゃねーの?」
気取らない言と身体に浴びた朱をその場に残し、ペンギン帽子のラファルは雨糸の林へ消えていった。
激しく芽吹き、彩り咲く様に。
親友から借りた大きな黒のこうもり傘が雨粒に弾かれる。
気を遣わせてしまったかな――そう思いつつも、藍の瞳と心はかけがえのない彼に在った。
「教えて。ここに来たのは、りっちゃんの身代わりになるため?」
「……身代わり?」
「うん。想い、過去……あなたは優しい人だから、それを投げ出す人じゃないって、わかっているつもり。見て見ぬふりなんて……出来ない人だから」
臆病を振り解き、訊き、想いを呟く。
しかし、流架の反応は何処か気劣っていた。微かに俯いた口許から、苦笑が漏れる。
「……誰しも、誰かの代わりなんていないさ。だから、そんな大層なものじゃない」
只、
「引き返すことは出来ないから、受け止めに来たんだ」
囁かれた彼の吐息に、藍の胸が軋む。その心持ちは心底からの意志であったのだろう。だが、藍の双眸には何方か寂しげに映る彼がいた。悲しい“過去”や優しい“嘘”を、少しでも自分が聞いてあげられるように、彼が彼でいられるように――と、藍は自分なりの愛を伝える。
「……あなたが望んだ未来は何? それを選んで欲しい。どんな未来を選んでもいい。流架が選んだ未来なら、私はそれがいい」
綺麗じゃなくても、足掻いた跡があっても、それは全て彼の姿だから。抱えている想いをひたすらに叫んだその声の先には、
「私が必ずいるよ」
藍の海色の瞳が彼女の“海”を包んだ。
「……未来、か。俺にとっては、夢……かもしれないが」
「流架?」
彼女という揺るぎない軌跡に受容しながら、流架は“先へ”双眸を馳せると、藍の額にこつんと自分の額を当てた。
「俺の代わりはいないが……それでも、独りではないからね」
「……うん」
あなたの選んだ言葉が明日へ続く路となるように。
「流架、りっちゃんと話そう。一緒に道を探そう」
あなたの夢がこの先もずっと続いていくように――。
●
あおとさくらが紲を交わしていた同刻。
藤も又、兎の心を見ていた。
「凛月、大丈夫か?」
波兎な襖の奥――。暗がりの中、壁に力なく凭れ座していたのは、部屋の主である彼女――御子神 凛月(jz0373)
鈍色な哀愁で澱んだ空間が、微動だにしない彼女を冷たく抱擁していた。藤忠はそんな彼女を哀憫に染みた目許で正視しながらも、その動作は躊躇なく――。藤忠は一言断りを入れ、彼女の側に鎮座していた行燈に火を灯すと、凛月の傍らに膝をついた。
――灯りに浮いた彼女の表情、そして、情調。
「(こんな状態の凛月は初めて見るな……。肉親を失ったんだ、無理もない)」
藤忠の視野に、肌に、感じ入るものがあった。
「凛月、俺だ。分かるか?」
焦点の定まらない桃染の瞳を覗き込みながら、藤忠は彼女の手を握る。その体温や感触は儚く、今にも崩れ落ちてしまいそうな不安定さを伝わせた。
「皆、お前の為に集まった。……菊乃さんは残念だったな」
凛月への心向けを途絶えさせず、端正な掌が彼女の頭を優しく撫でる。その時――凛月の睫毛が細波で揺れた。気持ち良さそうに双眸を細めると、一度、緩慢に瞼を伏せる。そして、曇天の如き奥底で僅かに光りを帯びた瞳が、漸く藤忠を捉えた。
「…………ふじ、…………た、だ…………?」
微かだが、刹那を裂いたその呼び声。藤忠は安堵の吐息を漏らした。どうして此処に? そう問いかけてくる彼女の目の表情に、
「お前を一人にはしない」
ひたむきな面差しを向ける。
凛月は短く息を吸い込んだ口端を歪めながら、唯、藤忠を見つめ返していた。きりきりと切なげに眉を寄せ、嘆きを孕み、やがて、その薄い瞼が下りる。
だからこそ、藤忠はひしと告げた。
「俺に何か出来る事はあるか?」
その言に、凛月は俯く。喉を塞いだつもりだった。だが、極まった願望は胸から込み上げ、目の縁を突き上げる。臆病、我儘、甘え――それらが入り交じるのは、“彼”であるから。そう気づいた時には、箍は外れていた。
凛月はゆるりと首を起こす。そして、目尻の力を抜いた途端――、
「…………たすけて」
望んだ。
何時か、“護る”と告げてくれた藤の火影を。
一筋の涙が頬を伝い、凛月の顎から滴る。その雫が、彼女の手を握る藤忠の甲を濡らした。藤忠は期する面構えと揺るぎない様で顎を引くと、凛月の手を包む掌に確と力を籠めたのであった。
・
・
・
「(こんな形で、此処にまた来るとは……さて、晴らしに行くか)」
御子神家に直面してきた唯一の“経験者”は語る――とか、そんな大層な事を言うつもりはない。只、あの時、意地を張って結んだ尊い縁に呼ばれた気がしたから、
「――かな?」
うん、そういうことにしておこう。
自問自答もさておきの音無し忍軍――夏雄(
ja0559)は、「もしもし、失礼するよ」と、波兎柄の襖をすすすと開けた。鳥籠には、兎が一匹。姿勢を崩して座っている。反応は鈍く、憔悴こそしているが、意思表示は可能なようだ。
「不知火藤忠君とは会えたかい?」
夏雄が伺うと、彼は飲み物を取りに席を外しているようであった。それならば、少々お時間を拝借――と、トコトコ入室。
「さて、何から話そうか」
そう言いつつ、伝えるべきことは既に定めていた。
「凛月君。私は知っているんだ。菊乃さん君は本気で凛月君を籠に入れておく気がなかったという事を。“あの日”の“お見送り”で知っている。五体満足なこの身が証拠だ」
苦無乱舞の的になった割にはピンピンしていただろう? HAHAHA――そんな想い出話に花を咲かせて。
「もし、何か重い荷物を背負っているのなら伝えておこう。凛月君は御子神から逃げたんじゃない……菊乃さん君に、君の祖母に送り出されたんだ」
けれど、
「……わからない、わ……それならどうして……そうと、お祖母様は私につたえてくれなかったの……?」
――その思いは彼女に伝わっていない。
しかしそれは、伝えたくなかったのではなく、伝えられなかったからなのだとしたら。
「(次のご当主とか言う前にやるべき事がある)」
その為に、
「……私はほんとうに……たいせつにおもわれて、いたの……? しらない、わからない……」
「ふむ。惑いの魔法をかけられてしまったんだね、お姫様」
「……?」
先ずは彼女へ、自分なりの言葉を伝えよう。
「12時の鐘は鳴った? ガラスの靴はちゃんと置いてきたかい?」
肩を浮かせて戯けた風に話す夏雄を、凛月は薄ぼんやりと小首を傾げて見つめていた。
「王子様に見つけて貰うには目印が必要だ。……そうだ、これを目印代わりに」
夏雄はパーカーのポケットから取り出した“何時かの彩りの一羽”を彼女の手に握らせる。
「私の宝物だ。私は今から別の宝物を探す。後で、見つけた宝物とその手の宝物を交換しよう。それまで……持っていてね」
そう告げた凛月の“ともだち”は、よっこら、と、宝探しへ向かう。後には、彼女の手の中で金の鳥のブローチが想い出を囀っていた。
●
綿々と――それはまるで、“早く決断なさい”、と、促すような催花雨の如き降り。
「飛べない……自由の……ないのは……鳥でも悲しい」
襟足を一つに結った狩人の瞳が、隠れた月を仰ぐ。
翠な色も、情も、只、淡としていた。
関心がない――というよりも、浪風 威鈴(
ja8371)にとっては、仲間たる意識がなかった。
「ボクは部外者……だから」
しかし、それでも。
「閉じ込めるのは……空が狭くて……嫌だ……よね」
故に、彼女の歩は進んでいた。
・
・
・
「何でもいい、教えて下さい」
淡々と話を締め括ろうとする相手に、春都(
jb2291)はひたむきに頭を下げていた。御庭番衆である百千代の希薄な感情が針のように突き刺さってくる。
しかし、春都は譲歩出来なかった。
「菊乃さんは立場故にきっと凛月さんに伝えられなかった言葉や想いがあると思うんです」
繋いだ心を支える為に。
「……もう直接伝える事は出来ない。なら、せめてその想いを集めて代わりに伝えてあげたい」
背を丸め、震える兎へ――。
「そしたら真意も見えてくるかもしれない。些細な出来事、言葉、思い出……。お願いします。凛月さんの心を救う為にも、気づかれた事があったら教えて下さい」
真摯に述べ終えて春都が腰を戻すと、百千代は何の感慨もない面容で彼女を一瞥しただけであった。それでも、春都は見上げる先にある無表情さへと縋る。
だが、前へと進んだのは百千代の歩。廊下を、着物の後ろ姿がしずしずと遠離っていく。春都は上着の裾をぎゅっと握り締めながら百千代の背中を見つめていたが、彼女が内廊下を折れていく間際――、
「……主の意は語れぬが、主の心が残っているのだとしたら……菊乃様の部屋であろうな」
百千代は軽く此方を振り向いて言葉を置いていった。
春都は見送ったその先に深々とお辞儀をすると、たたたっ、と、踵を返した。
●
今は亡き彼女――御子神 菊乃の部屋に、威鈴は控えめな声で断りを入れる。襖越しに応じた“寝ずの番”の声に、威鈴はゆっくりと瞬きながら、趣のある山水画で描かれた襖を開いた。
空間には、祭壇の蝋燭。
漂う線香の流れ。
――棺。
その守りに、ダイナマ 伊藤(jz0126)が片膝を立てた姿勢でそれを眺めていた。
「どうしたよ?」
ダイナマがそろりと顔を動かしてきて、威鈴に尋ねる。
「この人の立場について……聞きたいこと……あって」
後ろ手で襖を閉めた威鈴の静かな面差しは、“彼女”へ向けられていた。威鈴は畳を進み、棺の前で正座する。そして、形の良い掌を合わせると、冷め切った瞳で故人に言い放った。
「閉じ込めたい……だけで意思はない……それで……今の凛月は不安定……意味ないよね」
何の憤りもない。只、見据えて。
「立場がどうであれ……凛月は此処に居たくないとは……思うけど」
優しい嘘で塗り固めた世界――もし、閉じ込められたのが自分であったら、と、考えれば、瞳の奥が沈むような気がした。運命でも、偶然でも、答えは一つではないはず。
百千代への伺いには得ている情報以外の成果が得られなかったことを明かし、威鈴は膝頭をダイナマへ向けた。
「立場っつってもなぁ」
ダイナマは顎に指先を添え、ほんの数秒思考を巡らせたものの、
「事実をそのまま述べる冷たいばーさん、って思われてたんじゃね?」
だが――と、言い足すダイナマの次の言を威鈴が言い継いでいた。
「冷静で……地に足のついたものの見方……とか……言いたいの……?」
彼は薄く笑んだまま棺に目をやっている。
「ボクには……わからない」
威鈴の囁きほどの意に、「いーんでねーの? 傍にいれば誰でもいいわけじゃねーのと一緒だろ」と、部屋を退く彼女の背中にダイナマが返した。彼の言葉も、威鈴には意味がわからなかった。
――わからない。
「(ボクは……)」
唯、
「何よりも大切なのは……何かを……誰かを……愛する気持ち……?」
切れ目のない雨糸に馳せる“何か”が在った。
●
「……おめーら。仏さんが目の前にいんのにガサゴソやってんじゃねーよ」
「ダ、ダイ先生、しーっだよ」
「おや、失礼。もし菊乃さん君がこの忍軍の枕元に立ったらちゃんと持て成すから、この場は見逃して欲しい」
威鈴と入れ違いに菊乃の部屋へやってきた夏雄と春都。携帯用のライトを持参してきた春都はダイナマ以外の気配と光が漏れないようにと用心していたのだが、百千代の“許し”が出ているのならその問題はなさそうだ。勿論、死者を敬うことも忘れていない。
「お宝でも探してんのか?」
「ん? うん。友の目を明けるんだ。その為にも見つけなければならない。伝えなくてはならないんだ。隠された思いと宝物の様な願いを」
――その寄香な“一枚”は、整頓された桐箪笥の一番奥に大切に遺されていた。
・
・
・
手にした“想い”を手に。
「凛月さん、これを見て下さい。夏雄さんと一緒に菊乃さんの部屋で見つけました」
一人、春都は凛月の許へ訪れていた。それは、夏雄の心遣いによるもの。ずっと凛月の心を宥めてくれていた藤忠も、今は席を外してくれている。
その配慮に感謝し、春都は菊乃の“想い”と垣間見えた真意――の推測を語った。
「これ……若い頃の皆さんですよね。あ、いえ、凛月さんは今もぴちぴちですけど。……ふふっ、皆さん幸せそうだなぁ」
それは、一枚の写真であった。
春の庭先で撮ったのだろう。満開の桜と、想い出を遡った五人が映っている。
中央には、幼い凛月を抱く流架が少し不器用に微笑んでいた。左に佇んでいるのは、彼の肩に遠慮なく肘を置いて笑うダイナマ。流架の右には、中性的な印象を受ける長着姿の男性が笑んでいる。その左手の甲には――印。彼の隣で品良く微笑を浮かべているのは、菊乃であった。
そして、
「九つの、私……。この時は、毎日が賑やかで……お祖母様もよく、笑っていたわ……。捨てられたものだとばかり思っていたけれど……まだ、持っていたのね」
「ええ。大切に保管されていましたよ。……きっと、菊乃さんにとってもかけがえのない想い出だったんじゃないでしょうか」
「おもい、で……?」
「はい。私はそう思います」
春都は柔らかい微笑みを湛え、凛月の手を掬う。
「隠したい感情や過去の自分を鳥籠に仕舞っても、全部今に繋がる自分だよ。未来に繋がる大切な自分だよ」
他人や環境は変えられない。変えられるのは、自分の心。
「過去があり今があって、私は凛月さんと出会えた」
重ねた掌から注いだ水は何よりも揺るぎないから――、
「どんな選択を選んでも、私は凛月さんと結んだ縁を守るよ」
繋いだ“想い”に誓約した。
●
宵が深く沈む頃――。
兎の部屋に最後の訪問者がやってきた。
「ちゃんと泣いた? 菊乃さんを、家族を、悼んであげた?」
藍は、脆い芯を優しく包むようにして抱く。見せずに強くあろうとしなくていい、そう思うほどに崩れてしまうものだから――。
「この家は嫌い?」
藍は胸の中に囲っていた凛月の身体をそっと離し、頬を傾けた穏やかな目線で問う。
「……計り知れない苦しみがあったと思う。でも今、流架先生が、ダイ先生が、私達がいる。あなたが“御子神”凛月だから“今”がある」
「……私、だから?」
「うん」
あなたの代わりはいない。だからこそ、あなたは今、独りではない――“彼”の言葉を、藍は心の中で反復していた。
「現実的じゃないかもしれないけれど、受け入れて好きにしよう。御子神をあなたの望む家に変えよう。その為に、菊乃さんは印章をあなたに渡したんじゃないかな」
流架から伝聞するところでは、印章の箱や、印章自体に遺されたものはなかったという。「恐らくだが……」と、藍の後ろで控えていた流架が前置きをして、話し出した。
「物事とはとても曖昧なものが多い。全ては把握しきれないものだ。だからこそ、割り切ることで安心を生むよう……一つの“きっかけ”を君に託したのかもね?」
凛月は、昔の記憶に見た彼の着物へ視線を置きながら静聴している。しかし、「一度、流架と凛月は腹を割って話した方がいい」という藤忠の発言に、目を剥いて言を放った。
「この人の腹を割いたらどす黒い毒血しか出てこないわ」
流架に対する酷い言いようは何時も通りであった。
「……何時迄も愚図やっている餓鬼に言われたくないね」
「相手のことばかり考えてる萎びた年寄りが垂れてんじゃないわよ」
「藍、凛月ちゃんが生意気を言うんだ」
「藤忠、流架様の屈折した心理なんとかならないかしら」
相手を負い目や諦観で当主にさせるわけにはいかないからこそ、心ゆくまで話し合いを――そう判断していた藤忠であったが、当の二人はこれである。寧ろ、この“距離”が二人なのだろうか。
藤忠は真っ直ぐな目線を凛月に当てたまま、心持ち頬を傾けた。
「俺は良い奴だと思うぞ。どんな流架でもな」
歯を見せずに微笑む彼を上目に見つめる瞳が緩やかに瞬いたのち、「……だからよ」と、凛月は睫毛を伏せて囁く。
――今の自分は、どんな立ち振る舞いをすべきなのか。そう考えながら行動する彼だからこそ、心に抱える“黒”を深くさせるのが甚かった。
●
今宵の仕舞いにラファルと春都が向かったのは――、
「は……?」
流架の部屋。
その“提案”を聞き返した流架の顔から表情が消える。不意を食らった――というよりも、不自然な気配であった。
「過去を調べました。その上でこの案……先生のメリットは、菊乃さんの恩に背かず“二人の代わりに”凛月さんを守れる、ということです」
春都の真摯な口説に次ぎ、ラファルが雄弁に語る。その案とは、
――御庭番衆から支持の厚い流架を暫定の当主と定め、凛月を彼の養女とする手立て。
「法律的には普通、養子縁組がこれに当たる。成年者である“藤宮先生”を養親とし、弟や妹、年少の従弟妹など同世代でも年少者であれば養子とする事ができるから、“凛月”が養子になる事は可能だな。これによって先生が凛月を鍛える時間と心を癒す時間が稼げるのがメリットだ。
又、凛月を当主に据えると先生は部下の一人となり、今までのような緊密な関係は難しい。だけど親子の関係となれば親権の行使と言う形で保護が可能になるって寸法さ。
――どうだ、良い事づくめだろう?」
流架は話の最後まで微動だにしなかった。只、正した姿勢のまま、膝に置いた手を見つめていた。
閉ざしていた口が小さく開く。
「……この話、アレクには?」
「ダイ先生にですか? いえ……」
「……そうか」
自我の薄い声音が蜜柑色の灯火に沈んだ。肌に染み入った雨が今頃になって、冷たい。
●
――。
『――凛月。
』
朝の風に想いを馳せる。
生まれたての朝日は、先日の雨一切を晴らしていた。
「凛月、着いたぞ」
「あ――……」
藤忠に手を掬われて、凛月は自分の足が何時の間にか水平な“海”に立っていたことを知る。“海”――その色はまるで、澄清な空と繋がってしまいそうなほど爽やかであった。
そのまま彼に手を引かれ、瑠璃唐草の花畑を二人、散策程度に歩んでいく。
「昔、菊乃さんとも来たんだろう?」
「……ん」
「こんなに綺麗な場所に連れてきてくれたんだ……とても大事に思われていたんだと思うぞ」
空色を見つめていた視線が、ふっ、と、凛月の横顔へ移った。
「お前にとって、菊乃さんとの想い出は何だ? 彼女を……どう想っていた?」
「え……? な、なによ、何でそんなこと……」
表情に戸惑いを浮かべながら藤忠を見返した双眸が、風に揺れた水面のように微動する。凛月は何処か決まりが悪そうな滲みで目線を泳がせていた。
短い沈黙の最後に、顎を引くことで藤忠の正視から逃げる。
間近に凛月を見つめる紅の瞳が穏やかに目笑した。
「凛月、お前はきっと愛されていた。……分かるんだ」
「……?」
「少し、俺の話をしよう。
俺は傍流。
姉の命令で本家に出入り出来ない身なんだ。妹分はそれが不満で、当主になり不公平や変なしきたりを無くしてやると息巻いている」
家族のカタチとは人によって違う。
「お前は御子神の直系だ。血からは逃れられない。ならば、利用してやれ。御子神の血や運命を背負った凛月も凛月だ。おかげでこうして出会えたのも事実。今の自分を愛して欲しい」
彼女には、彼女なりのカタチを成せると、藤忠は信じていた。「それに」と、足した語尾。
「護ると言っただろう。お前が満足するまで傍にいてやる。……俺がそうしたいからな」
躓き俯いても、哀しみで言葉を無くしても、寄り添える場所は此処に在る。誰かに“代わり”などさせない――藤忠は偏にそう告げた。
交わし合う眼差し。
凛月の瞼が膨らみ、泣き虫が込み上げてくる。
おそるおそる伸ばした手で、彼の胸板に触れた。その時、何の前触れもなく、ふっ、と、想いが過去の情景へと引き摺られてゆくのを感じた。
光の反射。
風に揺れる髪。
夢への鼓動――祖母の存在。
『――凛月。
貴女にとって、此の世の中でかけがえのないものは在りますか?
私にとってのそれは、貴女ですよ。
私は、貴女が御子神の女であるから厳格に接しているわけではないのです。
貴女が私の……
おばあちゃんの可愛い孫であるから――愛おしく想っているのですよ』
何時かは貴女も言葉ではなく、愛する人に愛を伝えるのでしょうね――――想い出の中の祖母は、小春日和のように顔を綻ばせていた。
凛月は空色の花畑を振り返る。
あの日の祖母は、何度も夢に見た祖母は、“今”、此処にいなかった。
どんなに追憶にふけても、
「お祖母様……」
彼女はもういない。
「お祖母様、私……私……」
もう、伝えられない。
「おばあちゃん――……!」
唇が細やかに震え、堰を切ったような涙が溢れ零れる。
「私、まだ伝えてないよ……? 私も大好きだって……伝えてないよ……!」
凛月はぐしょぐしょの顔を掌で覆いながらその場に蹲った。
「おばあちゃん……!」
――気の利いた言葉など見つからなかった。
唯、痛ましくて。
藤忠は、後ろから彼女の身体を両の腕で力強く抱き締めてやったのであった。
●
瑠璃唐草と藤忠の腕に心のまま涙を零したのち。
花畑まで迎えにやってきた藍、そして、流架と共に、四人は屋敷へと戻った。
・
・
・
菊乃の葬儀は滞りなく進み、終わりを告げる。
そして――、
「は……?」
神代の間。
その場に集った六人の生徒達と二人の教師、一人の籠鳥の想いが交錯する。
凛月は、ラファルから提案された未来を耳に入れると、説明を受けたその時の流架と同じ表情をした。
春都がラファルの隣で補足する。
「正直な所――現状、凛月さんを当主にというのは力不足だと思うんです。かと言って、藤宮先生が補佐についたらお飾りになってしまう可能性があります」
凛月は両手を胸にあてがい、黙っていた。
「この案の良い所は、凛月さんは家族と時間を得ることが出来る。先生はこれからも久遠ヶ原で木嶋さんの桜餅が食べられる。当主が必ずしも、鎌倉在住していなければならないという決まりは無いようなので。先生の責任の重さは変わりますが……選ぶのはお二人です」
春都の言に続いて、
「流架に学びながら学園生になるというのも有りだな。流架と藍の娘……きっと楽しいと思うぞ」
僅かな揶揄は残したが、二人に前向きな未来を選んで欲しいという藤忠の心の表れであった。
それまで口を閉ざしていたダイナマが、「まあ、ルカと凛月次第なんじゃねーの?」、と、白い歯を零す。調子の高い声音は不自然に平素通りで、だからこそ――“二人”の胸は妙に落ち着いていた。
「お前は一人になった。だから、お前が過去に憎からず想っていたヤツの娘になんのも、御子神家の為にお前がトドメを刺した親友の妹……それも、お前が過去に大事に想っていたガキの心臓を持つヤツを娘にすんのも、全部、な」
座敷を出て行ったダイナマを一瞥した夏雄が凛月へ、一言一句、懇切に告げる。
「選択は手段だ。己が好きな事をする為に選ぶか、作るといい。いいんだよ、すきなようにやるといい」
そして、彼の後を追うように、夏雄もその場を退いた。
突き当たりの欄干に肘をつき、ダイナマはひっそりと空を仰いでいた。
彼の隣へ“見慣れない”儀礼服の彼女が、ちょん、と、佇み、面を彼と同じ青へ置く。互いの目線はそのまま。
「夏雄、スカート履けたんね」
「裾が縫い塞がれていなければ誰でも履けるさ。履くかい?」
「アホか」
「その前にサイズが合っ……たらどうしよう」
「……」
「……」
「……」
「彼女は……」
「おう」
「凛月君は人の死に振り回され過ぎだと思う」
「かもな」
「そろそろ凛月君が流架君を振り回す番じゃないのかな? って思ったけど、今と変わらないような気がする」
「だなー」
「まあ、心の日当たり変われば新しい風くらい吹く……かもね」
ふと、花信風に未来への宣言が乗ってきた。
藤宮 流架が、御子神家四十四代目当主を就任する――と。
のちに、正式に御子神の刻印を刻むのは後日だということ、流架と凛月は今後も“変わりなく”「春霞」で暮らしていくということを、夏雄とダイナマは遅れて知ったのだった。
言葉は何時も遅れた時にやってくる。
自分の中で言葉に出来た想いは、既に整理がついているはずだから――、
「後悔はしない」