●
朧な夢なら呆れるほど見た。
泣けない弱さも、
泣かない強さも、
鳥籠に指をかけ、唯唯、朝月夜に流した。
けれど、羽ばたいた今は――。
夢に嘘は一つもない。
だから、例え叶わぬ願いでも――“夢”という“今”を見させて。
・
・
・
――――じゅううううううぅぅぅぅ。
「Σわーーーっ!? りっちゃん焦げてる焦げてる! 卵から煙でてるよーーーっ!?」
「む? ふっ、ふおぉっ!?」
お勝手を借りるね。
りっちゃん、良かったら手伝って!
――という、木嶋 藍(
jb8679)からの誘いが二十分前。
お料理上手だね、いが……いじゃないよ!
――という「お料理上手ですね意外ですね」発言が十分前。
薄焼き卵?
あ、ちらし寿司にトッピングするんだね。うはー、楽しみ!
――が、五分前。
じゅ(ry
――で、今。
「ふんっ!!」
気抜けしていた意識を払いのけるかのように、御子神 凛月(jz0373)は握っていたフライパンの取っ手を、頭上から後ろへ勢いよく振り上げた。
暗黒の薄焼き卵:『I can fly!』
だが、その飛翔は僅か三秒で終わりを告げる。
つまみ食い目的で主婦(誰が?)の聖域にひょっこり顔を覗かせた彼、ダイナマ 伊藤(jz0126)の顔面にストライクパック。
「どぅわっちゃあああああぁぁぁッッ!!?」
熱焦臭(中国語ではありません)
「えっと、紙灯籠を作る準備が出来ましたのでお時間が空いた方は……、――って!? なんですかどうしたんですかダイ先生! フェイスマスクするなら目と口の穴を開けないと!」
壁や柱に激突しながら洗面所へ向かうダイナマの後を、春都(
jb2291)が琥珀な双眸を見張らせながら、とととっ、と、御供。しかし、彼の介抱が目的でないのは確かだ。だってはるとのくちがめっちゃわらってたもん。
「……大丈夫、かな? ま、まあ、ダイ先生丈夫だしね! ……うん」
小さじ一杯の不安を語尾に、藍がちらりと左隣を窺えば、実行犯は我関せずとフライパンを洗っていた。黙々ごしごし。
気を取り直し、藍は持参してきた魚の調理に取り掛かる。『はよ、さばけー』とまな板の上から訴えてくる魚を、鮮やかにパパッと解体。お魚天国で鍛えてきた包丁捌きは伊達ではない。
たたいておぼろ昆布と和えようか、それとも、唐揚げにして葱ソースをかけようか……それとも、それとも。“あの人”はどんな肴が好きかな――彼を思い浮かべると、表情がどうしようもなく綻んで。
とんとんとん。
とんとんとん。
まな板を小気味よく鳴らす二つの音――二人の調子が御勝手に響く。
「ね、りっちゃん」
「なに?」
「毎日楽しい?」
「……その質問、以前にも聞いたわね」
「あ、あれ? そうだっけ?」
「もう。……でも、あの時も、こんな風に心にかけてくれたわよね」
「だって友達だもん。それに、りっちゃんの目に映る色が綺麗ならいいなって……」
「き、れい?」
「うおおおッあっちぃなオイッ!!」
「フライパンの底がくっついてきたような漆黒ですね」
「うん、りっちゃんの世界がいっぱいキラキラしててほしい」
「……」
「りっちゃん?」
「藍にとっての“綺麗”って、なに……?」
「私? んー、そうだなあ……。私、いつも周りの人に助けられてばっかりなんだ。すごく恵まれてるの。本物の笑顔を見せることが出来て……自分の色を出すことが出来る、本当に大切な人達。大好きな……人。私の“綺麗”は、皆のおかげかな」
「……そう」
「鼻頭の皮とか剥けてねぇか?」
「大丈夫ですよ。その時は木工用ボンドでくっつければ……」
「ピノッ○オかよ!!」
「聞いてもいいかな? りっちゃんの“綺麗”は、なに?」
「……。わからない、の。ねえ、藍。例え報われなくても、例え周囲に綺麗だと思われなくても、私が私の想いで在るのなら……それは、」
「にっがッ!! 不味いもう一枚とも言えねぇ苦さ――」
「さっきからうるさいのよ変態半裸ッ!! もう少し静かに騒げないのッ!?」
無茶を仰る。
其処へ、「ん? 騒がしいな」――と、藤と儚げな色を調和させた長身の美男子が一人、不知火藤忠(
jc2194)が姿を見せた。
「何だ、ダイナマはどうしたんだ?」
「買出しで日焼けしたから顔に卵パックしてるんですって。見に行っちゃ駄目よ」
「? そうか」
概ね間違ってはいない。しかし、“焼いた”のは(犯人は)お前だ。
「俺も酒のつまみを作ろうと思ったんだが……立て込んでいるようだな。また後で――」
「すとーっぷ藤忠さん! 私の方は一段落ついたからここ使って!」
「良いのか?」
「私は春都ちゃんや先生達と一緒にの〜んびり紙灯籠作ってるから、藤忠さんもりっちゃんもの〜んびりどうぞ☆」
藍は笑顔全開で、ぽんぽんっ、と、二人の背中を掌軽く弾ませると、足早に御勝手を後にした。
――粛として声なし。
残された二人が何とはなしに視線を合わせる。彼の穏やかな眼差しに、凛月は咄嗟に目許を朱に染めてきゅっと唇を結んだ。そして、両足を踏ん張った挑戦的な目つきで「か、かぼ」と、口を開く。
「何だ? 家母?」
「かぼちゃ!」
ころころん――御勝手の食卓で前転するのは、小玉南瓜の数々。どっから出した。
「ああ……そういえばサバゲの時に約束していたな。凛月の南瓜料理、楽しみにしていたんだ。作ってくれるか?」
「う、うむ! き、期待されちゃったらしょうがないわよね。南瓜も沢山あるし、腕に縒りを掛けてあげるわ」
「そうか。嬉しいな。なら、一緒に作ろう。しかし……特売でもしていたか? 凄い数だな」
「三玉一パックで七パック買ったわ」
藤忠の南瓜好きが試される。
「貴方は何が食べたい?」
「そうだな……チーズ揚げや煮物は好きだぞ。ああ、それと、辛味噌つみれと鮪の竜田揚げも作りたいんだ。鮪の竜田揚げは妹分の得意料理で習ってな」
たすきを掛け直した凛月が「ふふ、“姫”を護る“侍”ね?」と、悪戯な微笑みを浮かべる。藤忠はばつの悪い顔を持て余しながら、「こら」と彼女の額を人差し指で軽く押した。
「単に好物なだけだろうが、好きこそ物の上手なれだ。……と、俺は何をすればいい?」
「むぅ? そうね、他のお野菜も摂れるように具沢山のお味噌汁も作りたいから、お出汁を取ってもらえるかしら」
「わかった。普通の食事を作ると栄養バランスが偏ったものになるが……凛月は色々と考えて作ってくれそうだな」
「ふふふ。今日は私の有り難みを山ほど知るといいわ。……今日だけじゃなくても、いいけど」
南瓜の香りが妙に、甘い。
●
桜東風。
春の陽射し。
純粋さや崇高さを表す白色な裾を暖かい訪れに揺らしながら、力と記憶を失った“神”――白蛇(
jb0889)は、大きな風呂敷を両手にぶらぶらり。馴染みの深い戦闘科目教師、藤宮 流架(jz0111)宅へと向かっていた。
「此度の花見、桜だけでなく桃もあるとは。良いのぅ。折角誘ってもらったのじゃ、用意した酒と肴で心弛びな時を過ごさせてもらうとしよう」
右の花喰鳥の風呂敷には、一升瓶入りの酒が二本。
「酒はやはり日本酒じゃな。個人的には好みの辛口をと思うところじゃが、振舞う事を考えれば甘口も用意しておくか。どちらも一級品の大吟醸。今まで日本酒を飲んだ事がない者も、一度飲めば日本酒ふぁんになる事間違いなかろう」
集え日本酒ファン、目醒めよ日本酒ファン。
――白蛇は誓って酒造株式会社の使者などではない。只、日本酒が大好きな、いち神様なだけです。
そして、左。青海波の風呂敷には、土鍋。
「肴は春野菜の煮物……筍をたっぷり使った筑前煮じゃ。人数も多いことじゃ、大きめの土鍋一杯に作ったからのぅ、余れば翌日以降に回して貰えばよい。煮物は大量に作った方が旨いからのぅ」
其れに加え、道中、ゆっくりと冷えていく過程に味が染み込んでより美味になる。
「それと店で買った桜餅を少々、じゃな」
懐に忍ばせて。
尚、餡は――――……
「彼奴、やはり察するかのぅ?」
そりゃ、桜餅教師ですからね。
そんな訳で、おいでませ――「春霞」。
●
到着した白蛇が縁側で花見の支度をしていると、居間の方から賑やかな声音が聞こえてきた。
春都の提案に快く乗った藍や流架達が、紙灯籠の製作に取り掛かっているようだ。手際のよい春都が予め、割箸を用いて枠を作製してくれていたので、各々の作業もスムーズに進んでいる。
「えへへ、私は特製ラム君の型を貼った和紙を使用しました♪ 灯りを宿すとぼんやり浮かび上がるラム君……目を離したら脱走してたりして。ふふっ、なんて。あっ、ダイ先生はどんな紙灯籠にしたのですか?」
「オレは初雪カズラをリース型にした押し花があったからよ、それを挟んだわ」
「わ、ちょっ……先生どうしてそんなに女子力高いんげふげふん。……おろ? リースの中央に文字が……えーっと、んと、先生の国の、言葉?」
「おう」
美しい筆記体には――“Que tout le monde soit heureux”そう、和紙に飾られていた。
「……なんて?」
春都を映した彼の京紫は平素通りに鮮明で、「至極当然のことよ」――そう言って、ウインクをしたのだった。
「わぁ、りっちゃんのは三日月と兎?」
「うむ。切り絵を貼ってみたの」
「可愛いー! 流架先生は桜の花弁で飾ったんだね。うん、らしくて綺麗だなぁ。あ、鳥……?」
「ああ、墨で描いてみたんだ。お転婆そうに見えるだろう?」
「も、もう……! でも、嬉しいな……」
「そういう君は……ええと、あー、うん。大丈夫、アートしているよ。大丈夫大丈夫」
「な、なんで三回も大丈夫って言うかな……!?」
流架曰く、個性的な仕上がりとなった藍の“大丈夫”紙灯籠。
何色にしようかな、と、彼女が“周り”を眺めて決めた色は――九つ。桜、赤、桃、常磐緑、金、白、橙、藤、青。藍は満足気に九色の紙灯籠を同じ空の下へ並べた。
此の空に、“皆”は何を祈るのだろう。
・
・
・
さて。
お天道様はまだ高いといえども、花と時間を選ばないもの――それは宴だ。
白蛇は縁側に腰を掛け、日本晴れに舞う春の色を仰いでいた。
ゆるりと猪口を傾け、肴の筑前煮を摘まむ。白蛇が纏う空気は其れだけで絵になっていた。
「酒は日本酒が好みじゃが、折角じゃ。他の酒も頂こう。夏のびーちではかくてるも飲んだしのぅ、他の酒を嗜まぬわけではないのじゃ」
というわけで、春都が持参してきた梅酒を猪口に注いでもらい、藍が作ったメバルの香味たたきに舌鼓していると――はらり。柔らかな感触が睫毛に触れた。ふっと視線を落とすと、猪口の水面に桜の花弁が泳いでいる。
「風流じゃのぅ」
と、白蛇が囁いたのも束の間。
はら×50ぐらいの勢いで薄紅の花弁が白蛇の頭上目掛けて降ってくるではないか。明らかに不自然であり、誰かの――、
「お主の仕業か!」
「はっはっは」
犯人は漉し餡派の教師であった。
「全く、何がしたいのじゃ」
「……楽しませようと思ったんだ」
「む? ……ふむ」
「俺を」
「ほう」
対流架用のハリセン片手に、神は鬼を追いかける。
ふと、
「(そうじゃ……あの時は紅葉の下、このように此奴を追いかけ回したのぅ。全く、進歩せぬ男じゃ)」
其れは、彼女が自分自身で見た真実。だからこそ、人の子を慈しむ白蛇にとって揺るぎない想い出となるのかもしれない。
一方、此方は藤忠とダイナマの飲み比べ大会が始まっていた。
凛月と共に作った肴と持参してきた好みの日本酒を脇に、藤忠は品のある微笑みを湛えながら感嘆の吐息を零す。
「友人達と美味い酒を飲み綺麗な花を眺める……幸せだな」
南瓜料理を堪能しながら、ダイナマが勧めた白ワインで酔いを満たす――には、酒の流れが少ないようだ。
「お前さん、イケる口だな」
「俺は強いぞ。酔うと微笑が増えるらしいが――……と、おかえり。逃げ切れたか?」
膝元の合わせを片手で整えながら「勿論」と、視線を落とし、茣蓙へ正座してきたのは流架であった。
さて、藤忠とダイナマの勝敗もいい感じに決まらないので、此処からはプチ男子会を開催。
風雅な庭に集う三人の男の談笑が、穏やかに風に揺らぐ。
「流架、思う存分惚気ていいんだぞ?」
「んー? さあ、ね」
「何だ、互いに酔っているんだろう?」
「……そういう君は?」
薄紅の欠片に映える翡翠の瞳が、揶揄する藤忠の眼差しの奥を汲み取るように覗き込んだ。藤忠は、「ん?」と、意味を理解しかねた素振りを見せる。しかし、彼等相手には分が悪いと観念したのか、やがてぽつりと漏らし始めた。
「先日のコンテストの件、なのだが……撮影最後の凛月の言葉。勿論嬉しかった。だが――」
「どういう意味で言ったのかわかんねぇ、か?」
「ああ。お嬢様という生き物が突飛な思考と行動力を持っていることは妹分で学習済みでな……何も考えずに言った可能性も……しかし、改めて聞くのも」
――と、藤忠は長い指先を顎に添え、思い煩いの吐息を零した。
流架とダイナマは同様な微笑みを口の端に宿し、酒を含む。グラスのワインを一気に飲み干したダイナマが「無意識だからこそ、本音が漏れたのかもしんねぇわよ?」――そう、口に出した。
「ふむ……自覚のない誠、か」
「何か、迷っているのかい?」
「迷い?」
――わからなかった。
唯、彼女には藤がとてもよく似合っていて。
それは藤忠にとって、今も、この先も、ずっと色褪せない情景だろう。だが、限りある季節の中の“一つ”の想い出だと思っていた。
「……。……俺は、」
「迷いながらも、真っ直ぐでいーのよ」
ダイナマの言に同調するつもりはなかったのだろうが、次いだ流架の表情も同じ思慮を差していた。
「迷ったり、悩んだり、怯えたりしてもいい。小さなきっかけを信じて見つかる答えもあるだろう。藤忠君が大切だと感じ、愛を深めたいと思う人には、きっと君の言葉が響くはずだよ」
互いがいなければ見えない答え――。
流架の其れを導き出した彼の片割れが、
「――あっ! 藤忠さん日本酒好きなんだね、流架先生と一緒だ。飲んで!」
とくとく、藤忠の猪口に日本酒を注いだ。「いいなぁ、私はまだお酒も飲めないしな……」という彼女の呑気な呟きに、三人は視線を合わせて微笑んだのであった。
おやつ用の花見団子をお供にのんびり桜観賞をする春都。
食べる、食べる! 色気より食い気の藍。
色気より飲む気満々の白蛇。
そして此処にも、
「おー……桜と桃が一緒に咲いてる……綺麗、だけど……んむー……眠い……」
色気より眠気でころんと寝転がる“蝶”が一匹――。
・
・
・
「ひーちゃんに誘われてお花見……。久しぶりにお昼、起きてる気がする……」
「昼って……もうすぐ夕方だぞ。月」
「うむ……? あ……ひーちゃんの着物姿も久しぶりに見る気がするね……」
「月も着物久しぶりだろ?」
薄浅葱地に烏羽の蝶柄――常塚 咲月(
ja0156)
薄墨地に花筏文――鴻池 柊(
ja1082)
幼馴染であり、親友でもある二人は流架宅の常連だ。慣れた足取りで玄関から縁側へ向かう。
「飯の準備が出来るまで……って、もう寝てるのか」
其れは、二人の今迄にとっては日常茶飯事で。
柊は荷物から食材や未完成のお重を取り出すと、すぴすぴ……足許で寝息を立てる咲月を放置して御勝手へ移動した。
春光るそよ風が、ふわり。桜の舞い散る音を添わせながら、咲月の琥珀色な髪に“ねえねえ”と戯れているようであった。
食欲をそそるのは、白だしと卵の香り。
ふわりとしたジューシーな出汁巻き卵、というのは、多くの女性が苦手意識をお持ちなのではないだろうか。――え? 偏見? すみません。
「凛月、久しぶりだな。元気にしているみたいで安心した。――ほら、出汁巻き味見するか? 出来立ての方が美味しいしな」
柊は空になった肴の食器を片付けてきた凛月に声をかけると、白だしで味付けした作り立ての出汁巻き卵を一切れ、菜箸で摘まんで彼女の口に入れてやった。
「……むぅ。ぐぬぬ、美味しい悔しいもう一つ」
「仕方がないな、ほら。――アレク、それはまだ食べられませんよ」
「Σなしてわかった」
「熱気ある気配で」
味噌を塗ったおにぎりからパッと手を離したのは、ダイナマだ。先程の悲劇に懲りず、摘まみ食いをしにきたらしい。
「アレクには生クリームをたっぷり使った、ふわふわでトロトロのオムレツを作ってあげますから」
「おっ、マジか。オムレツ大好物。ごっつぁんです」
「え、私には?」
「欲しかったらアレクのを摘まめ」
「嫌」
「我儘言うな。――オーブントースター借りますね。焼きおにぎり作りたいので」
「オレんちのじゃねぇけど、どうぞ」
やがて、トースターから漂ってくる芳ばしい香りに、凛月とダイナマはその場をうずうずしてしまうのであった。
微睡みの温度が心地良い。
羽を休める蝶は、夢を見ていた。
其れは、小さな世界。
だけれど、此の色彩と形が在るからこそ鮮やかに輝く――咲月の世界。
学園を訪れ、入学し、色々な出来事があった。
寄り添い、深め、繋いだ縁は、咲月にとって貴い光となり、弟や妹――家族を心に得る。
近くにいても、
離れていても、
大事な“きらきら”があるから、月のない夜でも生きていける――。
「月、いい加減起きろ。夕食抜きにするぞ」
夢路の双眸に黒水晶が映った。
彼の気配と共に、空腹を刺激する香りが咲月の小鼻をすんと微動させ「お腹空いた……」、形のいい唇が寝言の如く囁く。
「お重に出汁巻きと焼きおにぎり詰めたぞ。ほら、食べるんだろ?」
「んむ……? 食べる……ひーちゃんのご飯、久しぶりだし……」
伏せていた彼女の睫毛がふっと仰ぐと、千歳緑の深みには夕暮れの色が差し込んでいた。
●
春の宵。
炎を内に宿した紙灯籠は幽玄の美であった。
宵を舞う清楚な桜も、柔らかな灯りに華やぐ桃も、唯唯――誇らしく。
宴の雰囲気はより一層、高まっていた。
個性と想いを映した紙灯籠を藤忠が褒める中、「あっ、おにぎり30個じゃみんなの分足りなかったかなぁ?」と、持参してきた一升の甘酒で喉を潤す藍。様々な肴を摘まんで至福の笑顔を浮かべる。彼女曰く、甘酒はどんな料理にも合うそうです。
「幸せそうに飲んではいるが……あと八ヶ月は甘酒で我慢だな、藍」
その八ヶ月が遠い。
藤忠に酒を注ぎ、彼の礼を微笑みで受けると、藍はこそっとダイナマの傍らへ佇んだ。
「えへへ、ダイ先生に宣言しに来たよー」
「あん?」
「私さ、流架先生が好きなんだ。ダイ先生に負けないように頑張るよ。だから先生もずっと流架先生の傍に居てね。なんて……言わなくても当たり前だよね」
そう、ひた向きなままでいて欲しい。
掴んだ袖の先を無くさないでいて欲しい。
気持ちが傾くことなんて、お互い、一生無いだろうけれど。
過去も現在も全てを流架に捧げてきた彼の応えは“平素”通りに――ニッと、八重歯を覗かせて笑ったのであった。
昼の花。夕刻の花。夜の花――。
其処に在る景色は、そのものだけで心を打つほどに美しい。
「時の移ろいを、季節の移ろいを、花だけでなく、その装いを魅せる様も、また――……、
……ふむ。興が乗った。久方ぶりに舞おうとするか」
御空の下。
白蛇の金眼が艶やかな“軌跡”に舞う。
扇の緋が、白な裾が、翻る袖が、神楽――能舞に相似した円弧な所作で、ゆったり、はらり。
個々に現れる身体の動き。
桜舞い散る旋律は、神の懐に在る深い意味を奏でているのだろうか。
静と動。
線と円。
月下に舞う、蛇神。
――トン。
足拍子一つ。
池の鯉がぱしゃんと一匹水面揺らし、笛の代わりに終わりを告げた。
・
・
・
白蛇の舞に感動した春都と藍は、彼女に賛辞の声を浴びせていた。
春都は興味津々であった日本酒も頂戴したようだ。炭酸が苦手な故に、今迄は梅酒や果実酒を好んでいたが、“蟒蛇様”お勧めの酒が美味くないはずがない。
「凛月さん、梅酒のお味はどうですか?」
「美味しい……自家製の梅酒、作ってみたくなったわ」
「ふふっ、良かったです♪ あ……私、凛月さんの舞も見てみたいなぁ」
「こ、今度ね。もうちょっと稽古してから」
兎は恥ずかしそうに、ぷいっと横を向いた。
「ひーちゃん、ちょっと上の空な気がする……けど、大丈夫……?」
「――! 月……。悪い、大丈夫だ。色々と考えていた。あ、こいこい」
「おぉう……」
お重に詰めた料理や他の御菜で食事を終えた咲月と柊は、花札の代表的な遊び――“こいこい”をしていた。
「俺の勝ちだな。さてと、凛月。琴で一曲良いか?」
「むぅ? うむ、いいわよ」
「月は一緒に舞うか? 久しぶりに」
「! する……! 夜桜の下で舞えるなんて贅沢だよね……」
桜流水に蝶柄の舞扇子を片手に、咲月は、ふぅ、と、温んだ吐息を零した。
弾かれる弦。
馳せる音。
月が奏でる夜空、“蝶”が舞い踊る世界――。
はらり、ひらり。
●
今夜は少し、お喋りかもしれない。
悪戯っ子で天邪鬼な面は酔いに隠して、緩んだ微笑みにおやすみなさい。
ねえ、先生。
今だけでもいいから、太陽の隣に座ってもいいかな? いつもより“率直”な私でも――いいかな?
「ダイ先生何飲んでるの?」
「おう、春都か。これぁカルヴァドスっつってな、林檎のブランデーよ」
「わ、いい香り。……先生の故郷のお酒、かな?」
「あら、よくわかったな」
顔を傾けてきた彼の香に、果実の甘さが重なった。
縁側に隣り合う、二人。
視界に映る桃が語る言葉に気づかないふりをして、春都は彼について知らないことを訊いてみる。
「あん? 貰って嬉しいもん? ポチッとボタンをワンプッシュで捕獲出来る――」
「あ、現実的なものでお願いします。ラム君捕獲機とか無理だよ、私。今迄通り、そこはご自身の足で頑張って下さい」
先手を打って通せんぼ。
彼は潔く明日へ進んでいく性質だからこそ、少しでいいから立ち止まって教えて欲しい。
「そうねぇ……。まあ、今すぐ思いつくもんっつったら……アンティークのカフェオレボウルかしら。何度言ってもラムのヤツが風呂代わりに使いやがるんよ」
りゆうがすごい。
「そういうお前さんはどうなんだ?」
「え?」
「何か手に入れてぇもんとかあるのかよ」
問われて、春都の透明感のある黄褐色が思案に沈む。
「(欲しいもの、かぁ)」
ちらり――“本音”と共に、京紫の瞳を盗み見て。
芽生えたのは何時からだろう。
そう――太陽に心惹かれているのは自覚している。だからこそ、あの花畑で唯一人だけを想い、誓ったのだ。
「(足許でいいと思っていた……のに)」
陽射しに触れる度に胸の奥が焦がれて、手を伸ばしたくなる。
小さな蕾が、揺れる。
けれど、この距離が壊れてしまうのも怖い――だから、胸奥の“欲”は酒と共に飲み込んで、根底の“願い”を口にしよう。あなたに。
「ダイ先生と一緒に思い出となる時間が欲しいかな……なんて」
酔いに忍ばせ仰いだのは、想い。
桃が二人を見つめていた。
●
「流架、眠くない?」
「平気。折角のお花見だからね、寝ていては勿体ない。藍と二人だったら遠慮なく寝るけど」
「あー、ひどいー! でも、膝枕だったら任されたー、なんて。えへへっ。あっ、あとね、私が成人したら、初めてのお酒を一緒に飲んでね」
「勿論。君の時間も、笑顔も、想いも、沢山俺におくれね」
とくとく――藍は流架の猪口へ花弁入りの日本酒を注いだ。
「夜桜、流架と一緒に見たかったんだ」
二人の景色は、紙灯籠の灯りで情緒に浮かび上がる壮麗な桜で満たされていた。
藍は、はら、と、風に流れる花弁を指先で追い、触れる。
宵の桜を背負った彼の温もりへ添うように。
「ねぇ、流架。愛してるよ、本当に」
伝わっているかな。
あなたの言葉にどれほど私が救われているか。
あなたの想いにどれほど私が倖せか。
「私が流架に渡せるものは心しかないけれど、それでもいいなら、流架の明日を私にください」
「藍……?」
「私ね、桜が好き。あなたと出会ってもっと好きになった。でも……桜がどんなに綺麗でも、あなたの心は波打ってしまうのかな、って。何時かあなたが、桜を心穏やかに見られるように、傍にいたい。……いて欲しい」
支えられながら支えたい。
乗り越えられそうにない痛みは共に分け合いたい。
抱えきれぬほどの喜びは日々の歩みに、溢れるような笑顔の日には吐息を重ねて――これからもずっと、共に生きてゆきたいから。
「……全く。何を今更」
「え……?」
彼のその微笑みは、桜の花弁のように脆く繊細な表情であった。藍は流架の意を追いかけようとするが、それを制すように、彼の掌が慈しみ深く彼女の片頬を包む。
「この世界で、唯一人だけだ。俺と同じ時間を刻む人は、俺と同じ明日を約束する人は、藍だけだよ。君を、俺から離したりなんてしない。……安心しなさい」
流架が口の端に浮かべたのは、先程とは違う深い微笑み。その微笑みが、言葉以上のものを語っていた。「うん、うん……!」と、藍は屈託の無い海色の双眸を細くして、こぼれるような笑顔を向ける。
「明日も明後日もその先も、一緒ならきっと、待ち遠しい未来になるから。私に任せて!」
輝く未来へ、私はあなたをきっと連れて行ってみせるよ。
●
空を乱舞する桜色の琉球ガラスのグラスには桃花酒。
時々、花の砂糖漬けを舌でゆっくり味わいながら、凛月は夢を見ているような顔つきでふらふらり。
「――おい、危ないぞ。凛月」
とん。
厚い胸板に額が触れ、仰げば彼がいた。
「酒と花の砂糖漬け、どうだ?」
「……柊。うむ、菫とビオラと桃と桜……全部美味しい。お酒も好き」
「そうか。良かった」
――。
二人の鼓動を攫うように、一瞬、風が庭を翔けた。
「凛月とちゃんと話をするのはこの前の依頼ぶりか」
「……ん」
「凛月」
「……」
「あの時の言葉を、もう一度言う」
過去の景色が、
「俺は握った手を離した。それは確かだ」
――切ない想いが、流れる。
「その手を掴むかどうかは、凛月に任せる」
そう告げると、柊は平静な表情を改め、険しい線を示した。
「もし掴むのなら、それなりの覚悟はしておいた方がいい。綺麗な世界で生きていく選択肢もある」
「――違うわ、私っ、」
先走った感情が口を衝く。
凛月は一度、真一文字に唇を結んだ。そして、顰めっ面とも泣きっ面ともつかない表情を表しながら、小刻みに震える唇で心を零した。
「私……離された手は私のだって、あとで気づいた、けど……別に、綺麗な世界でなくても、私はよかったわ」
刻まれた想い出が騒ぎ出す。
「綺麗かどうかが問題じゃない、想い人と一緒に築き上げる世界が大切……なの。私にとっては……」
あの時、凛月の中で何かが止まったのだろうか。
振り向いた時、其処に彼はいなかった。
「ねぇ、柊。どうして……手を離したの? どうして一度、私を離したの? あの時、貴方の意図に気づいていたら……今とは少し、違っていたのかしら」
しかし――もう、遅い。
凛月はふっと睫毛を上げると、一点の曇りも無い彼の真剣な顔つきを真正面から見据えた。そして、穏やかな表情の裏に湛えられている悲痛を散らすかのように、告げる。
「選択を委ねてくれた貴方の優しさ……嬉しかったわ。――ありがとう……これからも、私の大切な“友達”でいてね」
薄紅、淡く。
「あ、凛月さん……」
「……咲月」
「お酒、まだ余ってるって……飲む……?」
「……うむ」
「――柊と何かあった……?」
「いいえ、何も……ないわ。なかった、の」
桜が夜気に項垂れる。
・
・
・
風に舞い落ちた花弁が地面を柔らかく染める。
「――凛月、此処にいたのか」
桃の木に凭れかかり腰を落としていた、一匹の兎。
藤の花房の香りが風に揺らいだ気がして、短く息を吸いながらはっと仰ぐと、桃染の双眸には藤忠が映っていた。
「む……」
「ん?」
「……むいむい」
「む、――何?」
翻訳が出来る蒟蒻が必要なようだ。赤らんだ頬の様子では、随分と飲んだらしい。
「全く、仕方がないな」
藤忠は弱ったような微笑を口の端に浮かべると、彼女の頭を優しく撫でた。心の安らぐ感傷の色が凛月の酔いの下に表れて見える。
「ほら、折角の着物が汚れるぞ。来い」
差し伸べられた手。
暫し、凛月は気抜けしたような面で彼の掌に視線を置いていた。半開きの口で藤忠の表情を窺えば、「?」と、首を傾げた微笑みを返される。
夢に嘘は一つもない。
そろり――凛月は綿雪のように繊細な指先を、藤忠の体温へ重ねた。
そして、
「おんぶ」
何時もの気質に、我儘な言。
「……本当に、仕方がないお嬢様だ」
温い吐息が零れる。藤忠は、何処かほっとしたような表情をしていた。そして、生意気な兎を軽々と背負う。遠慮も迷いもなく、背中に預けられた温もり。どうしてか、藤忠の胸には切に、一つの残滓が浮かび上がっていた。
「……そう簡単には酔わない人間……のつもりだったんだがな」
――唯、“桃”が綺麗で。どうしようもなかった。
ほろほろ、はらはら――そんな一片が隠れているような、春の宴。
薫りが、誰かの首筋を撫でた。