●
さようなら、泉流兄さん。
さようなら、流架様。
喜びも、悲しみも、昔の私は轍に――鳥籠へ残して、鍵をかけるわ。
ねぇ、
大好き。
二人共、大好きよ。
●
幸せは指紋。
一生変わらない光。
だからこそ、
――縛る。
「幸せな、夢……興味あるけど……」
其れは、涙の跡を辿った笑顔か。
其れは、現の夢に見た導きの星か。
其れは――。
――。
「私の、幸せ……。
運命を纏う、光……。
凛月は、どうして……此処に、来たんだろう……。無事だと、いいけど……」
彼女――Spica=Virgia=Azlight(
ja8786)の銀糸が宵風に柔らかく波打ち、隠れる金糸の輝きをはらりと散らした。
Spicaは仰ぐ。
寄る辺無き亡骸――“桂花”なる廃家を。
●
漂う香。
目が無意識に橙の小さな花を探してしまう。
「――金木犀の匂い……家の中に充満してるのか? これ。甘い匂いで噎せそうだな」
みしり。
床板が侵入を拒むかのように悲鳴を上げる。
だが、いの一に足を踏み込んだ彼――鴻池 柊(
ja1082)の表情は寸分として乱れることはない。
玄関を越えて即刻、眼下に“彼”の姿を確認した。
片膝を上げ、力なく廊下の壁に凭れて腰を下ろす藤宮 流架(jz0111)の傍らをすり抜け、柊の歩は“目的”へ求める。
そして、居間へ。
「はー……見つけた。ほんまに手が掛かる御姫様(おひぃさん)やな」
さしずめ、眠れるかぐや姫――。
着物の振りを蝶の羽のように畳へ舞わせ、無防備に横たわる彼女――御子神 凛月(jz0373)の穏やかな寝顔に苦笑し、柊は凛月の傍らへ膝をついた。
忍軍らしく忍び足。
――なんてことをしなくとも、妙に気配を感じさせないのはその白フードのおかげなのだろうか。てるてるなんちゃらもとい、夏雄(
ja0559)
「ふむ……幸せな夢が見れる家か。
凛月君が一人で此処を訪れた理由……色々思い当たるが、此処は前向きに。寝る子は刮目して見よ……混ざったかな?
……。
まあ、あれだ。
兎に角。
彼女は成長する為に来た。と、思っておこう。うん」
推測の域を出ないが、今はそれでいい。
前へ進めばわかるのだから。
「にしても流石廃家……寒い」
隙間風に耐えながら、進め。
「あ、ストーブだ」
ゆらり。
突如、身体が求める暖。
夏雄の視界が一瞬、歪んだ。だが、
「ん? 気のせいかな?」
瞬きが空想を掻き消す。
嗚呼、眠い。だが、探索再開だ。
何故なら、目の前に見過ごせない事案が発生しているから。
「おや、眠り桜餅。
……一晩寝かせてお――冗談だ。生地が硬くなりそうだしね。……いや、餅肌? まあ、そんな事より。彼の事はモーニングコールを買って出てくれた子達に任せよう。あぁ、早く起きないと朝ご飯の桜餅は亡きものだと伝――なんでもないよ。さてと」
流架を仲間へ託し、夏雄は廊下から開けた空間――居間へ歩んだ。
夏雄が目深な目線をやる。丁度、柊が凛月の髪へ触れようとしていた。だが、その掌は意思と反して自身の目許を覆う。
「まずいな……眠い……」
吐息を零す柊。
二人の傍で佇む夏雄がとんがりフードを、くぃ、と傾けた。
「ふむ、彼女を起こすのは……君か。その前に、大丈夫そうに見えないけど大丈夫かい?」
「夏雄か」
「眠いのなら眠るといい。少しくらいの仮眠で凛月君が逃げることはないだろうし。……分からないけれど。ああ、それとだ。……余計な事かもしれないけれど、女の子は優しく起こした方が良いよ。寝顔見てる時点で怒られそうではあるけど」
秋の香が強くなる。
彼からの返答はなかった。
だが、柊が境に入る瞬時――彼の口許が弧で描く気配を夏雄は感じたような気がした。
――。
呼んでいる。
微睡む声模様が。
柊兄様――、
柊さん……、
追憶の夢。
己から消えたのは首筋の傷。
――護った痕。
幼馴染は鳥羽色の髪で。
其れは、覚悟を決める前。自らの願いを刻む前。恐れを知らなくていい彼女の髪が、薫風にふわりと揺れた。全てが懐かしい。
『やっぱりこれか。何時まで経っても俺の弱みだな。お前達は』
忘れじの五人。
肩を並べ、“何時ものように”縁側で言葉を弾ませる。
永遠に飾らない五人のまま。
此処ならば叶う、“何時もの時間”――。
●
はらはら。
爪弾くのは薄紅。
刹那に散り、絶え間なく舞い落ちる響き。
徒な静寂が耳を劈く。
『フジミヤ先生にとって、桜は死者? それとも、流された血……なのでしょうか』
其れは、貴方の?
『もしくは、罪過――』
其れとも、
『血を吸ってきたのは俺――……だとでも言いたいのかい?』
余韻のない言。
世界の主が、来訪者であるRehni Nam(
ja5283)に背を向けたまま放つ。右手の日本刀がぶらりと揺れ、刀身から朱が伝う。ぽたり、水面に花を咲かせるのは鬼の首。
流架の足許に。
Rehniの足許に。
赫く流れる命の漣――無数の鬼首に、桜の花弁は止め処なく降り積もる。
『だとしたら、先生にとって此処は“狂える場所”ですか?』
『おや、否定してくれないのだね』
『しないのではなく、出来ないのですよ。私には否定する理も肯定する念も、残念ながら情報が少ないので。只、導き出すことは出来るのです。
力の渇望、はおありではないのでしょうね。赦し切れない復讐相手……燻る復讐心が、先生の心を煽っているのですか?』
――殘した悔い。
『先生。
例えそうだとしても、それでも、世界は、回っているんです。諦観だけど、それだけじゃない。私達は、それでも、この世界で、生きている』
――。
ちがう。
『歯を食い縛り、痛みに耐え、それでも、明日を信じて歩き続ける』
――わたしがのこしたのは“さよなら”。
『過去は乗り越えるものじゃない。胸に抱きしめ、重みに耐えながら共に行くもの――……なのです、よ……、……?』
頭の奥で刻む秒針。
いくら過去(幸せ)に戻れても、意味がないことは知っている。
『う……意識が……霞むの、です……』
Rehniの感知が記憶の渦に呑まれる直前――揺れる視界の中で、彼が肩越しに此方へ振り返った。
その表情は窺えなかったが、
『おやすみ、Rehni君』
彼の声音は、秘めたままで――。
Rehniは其の夢で無邪気に笑う。
生を終えた友も、去った友も、想いを繋いできた日々を共に過ごしていた。
鮮やかで、終わりのない協奏曲。
学園で結んだ時間。
天魔と希んだ和睦。
世界の幸せの先には――再び訪れる、悲しみのない未来の輪郭。
虹色溢れる学園祭で、恋唄の彼と手を繋いで歩いた。
バンドで奏でた音は、彼方の空へ響く。
そしてやがて、
――“集約”の標が灯る。
『私は北極星』
そうでありたいと願うのは、諦観の象徴として存在しているから。
何があっても、どんな悲劇が起こっても、それでも世界は回っている――“世界を見下ろす者”。俯瞰する地で歯を食い縛り突き進む、其れは、生き続ける覚悟。
掬おうとした。
救おうとした。
だが、零れてしまった命への無常観。
それでも手を伸ばす事を死ぬまで、死んでも諦めない信念が彼女を突き動かす。
己が変わりつつも、極点から動かない絶対の導であり――標。決して揺るがぬ自分の芯は“旅人の星”、共に“導く者”、そう呼ばれることだろう。“道”に迷った誰かの現在、又は過去か――其の立ち位置を示す指標、道標になりたい。
そう――。
夢は夢。
二人は死に、一人は学園を去った。その事実は変わらない。
其れでも、
『世界は回っている』
●
彼岸に咲き誇る花のように、鬼首が哭く。
只、独り。
錆びて朽ちるようなこの世界では其れで良かった。だが、
『――流架先生、あなたの心に触れさせて』
彼女のオトが聞こえた。
彼女の温もりを感じた。
――どうして。
青い鳥が優しく囀るかのように――木嶋 藍(
jb8679)は流架の手を取って、自身の両手で包む。
――君との距離は焦れったくて、苦しい。
『あなたに幸せになってほしい。
りっちゃんも、その心に生きる彼女も、あなたの帰りを待ってる皆も、私もそう願ってる』
『……』
『……先生は、我儘っていうかな。でも、叶えてほしいんだ。難しくなんかないから』
『それなら……待っていてくれればよかったんだ』
流架が冷ややかに、抑揚なく言う。
『どうして、何故――放っておいてくれないんだ』
『え……?』
『少しは察してほしい。俺の心を知っていて、そういうことを言わないでくれ』
――どうせ、起こり得ない奇跡だ。
流架の眉宇が曇る。だが、問いかけてくる藍の眼差しを受け止めきれずに、彼は首筋を強く捻って顎を引いた。
『……違う。こんなことを伝えたいわけじゃない』
『先生……』
『俺は、俺が望む結末なんていらない。只……美しいまま、散ってほしいだけなんだ』
『それは、先生の心?』
吹く桜風が、語りを伏せる流架の代わりに囁いた。
『――ダメ』
しめやかに藍は呟き、ひたむきな面差しを彼へ向ける。淀みのない言に、僅かに困惑した声音で『なに……?』と、流架が首を起こした。
『大丈夫。
先生のこと、この世界で誰よりもたくさん笑わせる。私が幸せにしますから。ずっと、笑ってほしいって思ってたんだよ』
抱いた想いは消し去れない。
彼を信じているから、臆せない――。
『好きなんです、大好き。流架先生が。
私は弱いけど、先生の唯一であり得る自分になりたい』
青の瞳が追うのは、たった唯一(ひとり)の姿。
『だから、そのままのあなたの想いを聞かせてほしいし、私の我儘に困らないでいてくれるなら、どうか独りでいないで。傍に居て、たくさん話そう、喧嘩もしよう。桜餅だって作るよ。
――大丈夫。
目が覚めたら、きっと幸せな今です』
時の凪に舞う花の弁。
はらり、はらはら。
藍を凝視する流架の瞳孔が開いてゆく。
震える唇から呼気が漏れ、彼は口許を掌で覆った。
『……』
得ようと思ったことはなかった。
只、変わらない現実を甘受しながら流されるまま生きればいいと――無意識に線を引いていた。
『君は……夢ではないのかい? 俺の目の前に、本当に――在るのだろうか』
狭まる喉から、流架は掠れた声をやるせなく絞り出す。
藍は彼の片頬に手を添えた。
『居ますよ。あなたの傍に、あなたの心に』
優しく囁いた藍に、流架は眉を下げて目笑した。そして、瞼を伏せる。
『告げてしまえば、もう隠せなくなる……――離せなくなる』
『先生……。いいんだよ、怖がらないで。あなたは、耐えることばかり上手くて、その内面に弱さを仕舞い込んでる人。あなたの心はとても繊細だから……だから、守りたいの』
『……』
『先生?』
『君は……君が思っている以上に、お転婆で我儘だよ。だが、陽のように眩しくて――あたたかい』
滲む夕空に鳥が鳴いた。
零れ落ちてゆく赫い色彩、真白な桜、清浄な天泣、進む時間――。
移り変わる景色に藍が目を奪われていると、突如、躰を両の腕で力強く抱き締められた。
そして、
『愛しく想う。君を、
藍を――』
幸せのオトに、ほろり、零れる。
●
ぬくり、ぬくぬく。
『嗚呼、暖かい』
暖かな炎の色に心身が和む。
使い勝手が良い安全&親切設計の石油ストーブの前で体育座りをしながら、夏雄は通常運転の低い体温を温めていた。
『しかし、私が夢に想像する適当な暖房器具はストーブなんだね。まあ、電気ストーブでも七輪でも焚火でも暖かければいいさ。所詮、これは夢だしね』
そう、此れは只の微睡み。
『暖まるのは好きだ。幸せだ。うん、これからの時期は冬将軍が猛威を振るってくるからね……この忍軍の命も風前の灯火となりそうだ』
生命線に両手を翳した。
沁みる温もり。
瞬き緩慢に、
『けど、私が暖まるのは動く為だ。幸せの為じゃない』
ぽつり。
暖な明度に独白した。
夏雄の心構えは常と変わらない。
『私にとっての幸せは生きる為のものだ。幸せの為に生きてはいない。だから、名残惜しいが暖まったら動くさ。行かないとね』
嗚呼、暖かかった――そう呟いて、夏雄は『よっこいしょ』と立ち上がる。ストーブとの睨めっこは現実で思う存分出来る。
今は、
――、
『はて。何の為に何処へ?』
白い鼠なんちゃらが呆然と立ち尽くす。
土竜に記憶を掘られてしまったのだろうか。其れとも、地図にない道を彷徨っているのだろうか。
はてさて、どう転んだらいいのだっけ?
『――ん?』
ポケットの中には、
『……あぁ、そうだった』
ブローチが一つ。
『私は友達を助けに来たんだ』
ポケットを叩くと――、
『さて、眠り姫達の所へ戻ろうじゃないか』
金の鳥が導いてくれる。
●
木漏れ日の風に揺れた。
緑の絨毯。
天は蒼穹。
――わたくしは此処を知らない。
――わたくしは彼女を知らない。
だけど、どうか。
『流架様に愛された“彼女”になりたい……それが、わたくしの幸せですわ』
凛月は過去の呪縛と決別する為に此処へ来た。
そう、斉凛(
ja6571)は信じている。不器用な友を、初々しい恋仇を。故に、凛は“彼”の救いになりたかった。だが、
「ご主人様のご命令を護るのがメイドの挟持ですわ」
言葉以上の誓い――。
結んでいるのは絆。だからこそ、凛が護るのは“夢路の兎”。
しかし。
足跡が彷徨うかのように、凛の細い脚が崩れる。
幻と真実の隙間にあるのは、愛しい人の名――……。
薄紫の野菊が、白地の着物に楚々と咲く。
空気は穏やかで、薫るのは――貴方の香。
言葉を尽くし、誓いを重ねた。
しかし、未だ。彼の心の奥底へは届かない。寄り添えない――その歯痒さが、凛の鼓動を持て余す。
主の、流架の絶対になりたい。
背を見送り、命に待ち、貴方は誓いの許に帰ってきてくれる。そう、一途に信じる先に――、
『わたくしは……例え僅かでも、流架様の心の傷を癒したいのですわ』
其れは、彼に愛された心深い存在。
想いの全てを注ぎ、失われた流架の心の一部になりたい。
『そして、叶うのなら……りつを、戒めの音の呪縛から解放したい――』
流架を愛した、流架が愛した彼女――戒音に成れるのなら、二人を救えると思った。
淡く儚くても、希望に――夢を見た。
『――、…………凛君?』
凛の運命さえも変える声。
胸に満ち溢れているのは、彼との誓いと記憶。
『……流架様?
どうして……いえ、お目覚めになられたのですわね。わたくしは……凛は、嬉しゅう御座います』
貴方を護らせて。
見返りなど求めない、だからどうか――傍に。
故。
『……ごめんなさい。流架様』
俯いた眼差しの翳。
隠した寂しさ。
凛の白き頬を、一筋の涙が透き通る。
『――ごめんなさい。わたくしは……流架様の聖域に触れてしまいました』
『……』
震える心。
戒音の幻に、自分を見てほしかった。
『流架様の特別になりたくて……でも、誰も誰かの代わりにはなれない。わたくしは、りつに自分自身を重ねてしまったのかもしれませんわ』
『……何故?』
『ご主人様もそうではありませんか? りつに戒音さんを重ねてしまい、それで罪悪感に責められていますの?』
『……違うよ』
『ご主人様……人の心はままならぬもの。どうか、ご自分を責めないで……お赦しになって下さいませ』
凛は眉宇を切なく歪めて、縋るように流架を見上げた。
そして、彼の胸元の十字にそっと祈りを捧げるよう――ネックレスに指先を添える。
『過去は忘れなくていいのですわ。お優しい流架様でなくていい――ご主人様は言葉に慎重で、それで言わぬのですね。ですが、伝えずは誤解し、傷つけ合うもの。わたくしは貴方を知り、信じて、全てを受け入れたのですわ。それはきっとりつも同じ。一歩前へ踏み込む言葉を、りつ自身の心に触れて差し上げて下さいませ』
身代わりは所詮、身代わり。
誤魔化された視線は残酷だ。想う愛情が強ければ強いほど。
『……』
『……ご主人様?』
『俺は、誰かの為に優しいわけではないよ』
『え?』
『――凛君。俺は、君の為になれたのだろうか』
『わたくしの為……ですか?』
『藍君から君のことを聞いて……俺は、凛君に触れた。救いたかった。君は……俺の、メイドで在ってくれるから』
『勿論ですわ。わたくしは、ご主人様だけのメイドですの』
白い花のような柔らかい微笑み。
慣れ親しんだ彼の香。
貴方が幸せであるよう、祈る――。
流架は泡のような軽やかさで笑みを置くと、凛の前髪へ掌を寄せた。
撫でる温度に凛が目を細める。
凛は知らない。
流架がどんな“表情”を翳に隠し、
『……傲慢だな、俺は』
どんな“顔”を剥いで囁いたのかを――。
●
『長居をしている場合じゃないな』
其れは居心地のいい甘さであった。
だが、その甘味は所詮ぬるま湯。まだ五人が一緒であった頃の、追憶の――夢。
『悪いな。俺が跪いて頭を垂れるのは今のあいつだ。生死の鎖を握るのは今のあいつだからだ』
一人、縁側から立ち上がった柊は、口許に笑みを湛えながら全員の頭を撫でた。
慈しみ深い温度。
彼らは唯、黙って柊を仰ぐ。
『ひいらぐ俺が先に進まないでどうする。護っているのは今のあいつらだ』
今、柊の胸の内に息衝くのは、
――明日への約束と、義務。
・
・
・
春の深い夢。
御空は長閑で、舞い踊る花弁が彼女の仕草を追いかける。
彼が微笑む。
彼が呼ぶ。
彼女は彼らに、鮮やかな袖を振った。
『さてと……まだ囚われたままって事は俺にお灸を据えられたいって事だな』
真昼に浮かぶ月を仰いで、柊は緩い息をついた。
風に扇がれる着物の裾。彼の椿の柄が、しめやかに頭を揺らした。
『此処は……御子神家か?』
屋敷の佇まいは柊が目にしたものと同じく。
だが、その雰囲気は霞立つ野辺のように“面影”が異なっていた。恐らく、彼女――凛月の昔の記憶がそう見せるのだろう。
『――…………柊?』
凛月は屋敷の庭で花を摘んでいた。
屈み込んだ彼女の背が、様子を窺っていた柊の気配を捉える。
『よく気付いたな。試す意味はなかったか。それにしても、どうして俺だってわかったんだ?』
『……着物の、香。冬に、一緒に出かけた時と同じ……柊の香りがしたから』
『そうか』
草履の歩音が、彼女との距離を縮める。
『もし、流架様以外の誰かが来るとしたら……貴方だと思った』
『凛月』
『……私』
『――凛月。ええ加減にせえ。何時までぬるま湯の幻に浸るつもりや。もう少しを何時まで続けるつもりや』
柊が窘めるかのような声音で言った。
『此処で何かのきっかけが欲しかったんじゃないのか? 温泉の時の答えを出しに来たんじゃないのか?』
『……』
『凛月は凛月として生きろ。前に進め。寄り道をしてもいいから』
彼女は、何時かまた戻れる居場所を探しているのだろうか。
柊は諮る面持ちで彼女の反応を待った。
――風の色が変わる。
ふと。凛月がしとやかに立ち上がり、軽く首を捻る程度に振り向いた。
柊の瞼が俄に膨らみ、固唾を呑む。
凛月が物言わずに見つめた。
過ちも、嘘も、真実も、全てを赦すかのような――浄妙で、確固たる面差しで。
微動する柊の目を見つめ返して、凛月は静かに口を開いた。
『私がどんな想いで此処に来たか、貴方にわかる? 私が何をしに夢の幸せに沈んだか……貴方にわかる?』
短い沈黙の最後に、
『……ねぇ、わかる?』
吐息ほどの、本当に小さな小さな声が零れた。
凛月は微かに俯き、目を瞑る。
『私は、過去の幸せにけじめをつけに来たのよ』
凛月が細く長い首を真っ直ぐに――きっぱりとした語気で気丈を示すと、瞼を上げた。
柊の視線は彼女に留まったまま、動かない。
『兄は、何時も優しい人だった。“対照的”な流架様は……何時も厳しくて、人を寄せつけようとしない人だった。そんな二人の心が通っていたのは、性根が似ていたからなのでしょうね』
『……』
『だから……本当は、一番苦しんでいるのは流架様。流架様はあの時、兄の首を落とす時――流架様自身を殺したのよ。私、知っていた。流架様の愛情と苦悶をわかっていたのに……彼を責めた』
『今は、彼をどう思うんだ?』
『……』
柊の尋ねに、凛月はゆるりと頬を傾けた。
謎めいた目笑と、ずれた答えで返す。
『私、兄に伝えたの。仇討ちはもう、しない――』
『凛月……』
『流架様にはこう伝えた。さよなら……ありがとう、って』
囚われたのは幻想。
過去と対峙し、明日を見据える為――壊すこと。
『……』
『凛月?』
『貴方が此処に足を運んでくれたのは、少しでも私を心配してくれたからなのかしら? んん、そうでなくても……ありがとう』
『――凛月』
『?』
『言っておくが俺は鈍くない。だから握った手を離したんだ。俺が継ぐべき仕事は綺麗事だけで出来る事じゃないしな』
『手……? 誰、の……?』
柊の厳かな表情と言。
解せずに首を捻った凛月であったが、小さな溜息を零し、緩くかぶりを振る。
『此処に来た理由ね、もう一つだけあるの』
眩しく広がる景色。
昔は只、息をして此処にいるだけであった。
世界が変化すると、疑問と憎しみだらけで素直になれなかった。違った生き方が在ったというのに。
だから、今度は間違わない。
『そうか……。
凛月は、今自分の傍に在る幸せを――絶対の現実を確かめに来たんだな』
与えられた時間。
生き抜いてこそ感じられるのは――、
『綺麗だな、凛月の世界は』
輝ける君の未来を、願う。
・
・
・
凛月が目覚めると、慈しみ深い凛の声音が彼女を迎え入れた。
「おはようですの。りつが決意して前に進むなら、りつの未来の幸せを応援するわ」
凛月の桃染の双眸が糸のように細くなる。
――だが。
果たして、彼女の心は“掬われた”のだろうか。
●
ざざん……ざざん……。
海風優しい、夕暮れの茜色。
なごりの雪が降る。
『ねぇ。どうして一緒に連れて行ってくれなかったの?』
彼女の海色の髪が揺れた。
彼の空色の髪が揺れた。
『私独りを、この世界に置いていくなんて。本当は、ずっと怖かった。苦しかった』
海辺で繋ぐ手。
寂しげに揺らめくのは、藍。
懐かしい想い出に滲むのは、藍の面によく似た双子の弟。
彼女は、彼は、雪解けの痛みを夢見ているのだろうか。
『でも、きみが守ってくれた私の世界には、大事な人達がいるってわかったよ。私のヒーローもいる。……片想いだけど、――……。……叶わないって、思ってた。どうしよ……夢だったら醒めないでほしいな、なんて』
海風に攫われる髪を耳にかけて、明き陽の沈む空を仰ぐ。
一つ、深呼吸をして。
穏やかな微笑みを湛えた面差しを、弟へ向けた。
『……大好き。ありがとう。本当はもう、離れたくないけど。いつかまた会える。きっと……そう遠くない。それまでもう、きみの事を忘れたりしない』
君が残してくれた現の続きを引き受けるから。
失くすことを憶えてしまったけれど、其れは、愛しいという意味を持つから――。
ざざん……。
海の声が、美しく重なる。
●
Spicaは全ての意味を見る“星見”の家系であった。
現を捉えるように。
誰かの救いになれるように。
だが、
響く木霊は故郷の悲鳴。
置き忘れたのは心の一部――諦めていた、無垢な笑顔。
『これが、私の……幸せ』
Spicaが見る夢。
其れは、永い哀しみが終わる場所――“心の拠り所”。
泪を奪い去ってくれた愛しき人。
義理の弟に姉妹、友人、目の前で命を散らした両親が集い、Spicaの冷えた心をあたためていた。寂しさで閉ざされた世界を、想いで満たしてくれていた。
求めた。
求められた。
Spicaが問うて、拠り所は応えた。
自分の存在は、価値は。
Spicaは理解を数え、認める。夢を運ぶ星を、欲求を――。
『……?』
しかし。
果てしなく続くのは“力への渇望”の路。
『護り繋ぎ留めるための、力……満たされないのは、欲求……? 撃退士としての存在価値、承認欲求では……足りない……? それは……』
――矛盾。
だとしたら、
『拠り所に求められた、護るべき想いは……満ち足りることは、ない……?』
違和感の波飛沫に襲われた。
もがき、抗って、絡み合う想いを追いかける。廻る歯車が何を描くか、その先にどんな“正体”が潜んでいるのか――Spicaは、既に羽ばたき方を知っていた。
織り成されるのは渇望と――衝動。
其れは、変わらぬ願いか。
其れとも、到達点のない高みなのか。
Spicaの心に映る証明。
断ち切れぬ鎖は、悪魔の血――。
武器を振るうのは力の証明であるが為、衝動は答えの無い問いかけの如く湧き上がる。従って、Spicaの血は争いを求めるのだろう。
護る為の力。拠り所に求められ、満たされる輪郭とは矛盾を生じる。
其れが、Spicaの答え。
『完全な幸せは、存在しない……』
其れでも、
『私の拠り所は、変わらない……』
愛しい者達を護る為、修羅となろう。其れは、Spica の“理想”なのかもしれない――。
●
撃退士達は夢に眠り、
消える真実を留め、
目で、耳で、心で、現実に問いかけた“絶対”の彼方へ歩き出す。
残るは、金木犀の香に在る――害。
歩は、刻む秒針の如く階段を上がる。
Spicaは、自身の身長を優に超える蒼な三叉槍――ポセイドンを手に、寝室へ躍り込んだ。
主は妖しい色香を放つディアボロ、桂伽。
Spica、共に、後へ続いたRehniが、すぐさま目標を捉える。
空間を滑る蔓。
其れを、輝く五芒星の盾が遮断した。
「寝室とは本来、睡眠と休息に充てられる部屋。貴女の存在は“偽り”なのです」
阿吽の呼吸が場を支配し、Spicaのポセイドンが唸りを上げる。
一閃。
桂伽の胸部を貫き、赤く朱く金木犀を散らした。Spicaが武器を引き抜くと同時に――、
「逝ってらっしゃいませ」
止め。
凛の深紅の弓、アフロディーテが桂伽の首を刎ね飛ばした。
ころりと転がった首は血の筋で弧を描き、こつん。Spicaの爪先で動きを止める。後は只、彼女の修羅な眼差しが、物言わぬ首を見下ろしていた。
「……さようなら」
・
・
・
さて、諸君。
改めて――おはよう。
「やあ、眠り姫君達。
一富士二鷹三茄子は見れたかな?」
「「は?」」
「いや、いやいや、別に怒ってない。単独で飛び込んだ姫達に私が怒るわけがない。……で、寝覚めはどうだい?」
「喧嘩売られてるわよ、流架様」
「そうだね」
「え……売る行動をしたのは寧ろ君達じゃ――なんでもないよ。
……ふむ。
思うに、だ。流架君と凛月君はちゃんと向かい合って話す時があっても良いんじゃないかい? 横目や肩越しでは分からない事もある」
――。
「かもね」
「「は?」」
「いやいや、少なくとも……ちゃんと顔は見えないし」
「……その言葉、夏雄に“も”返すわ」
「あ」
凛月の指先が、ひょい、夏雄のフードを弾いて彼女の面を晒した。途端のことに夏雄が目を丸くしていると、
「満足って……渡すだけじゃ、かけるだけじゃ、出来ないのね」
「うん?」
「言葉があっても、心があっても、難しいわ。でも……ありがとう。貴女も仕舞い込まないで、時々は外の空気を吸わせてあげてね」
「うん。――ん? 空気?」
「ええ。いるでしょ、貴女の為の鳥が」
不意だ。
夏雄はどんな顔をすればよいのかわからなかった。只、こくりと、真摯を込めて頷いたのであった。
宵の始まりが終わる。
誰かの“過去”が“絶対”で終わる――。
「……ねえ、先生?」
「ん?」
控えめに声をかける藍へ、背を向けていた流架が心持ち首を動かした。
「りっちゃんのこと、怒ってる?」
「……いいや?」
「では、フジミヤ先生。ミコガミさんに何か仰ってあげた方が……口には出さなくても、心はまだ落ち着かれていないと思うのです」
「私も、そう思う……」
RehniとSpicaのひと押しに微動もせず、だが、抱く想いを牽引していたかのような――そんな、深い溜息を零した。前髪を乱暴に掻き上げ、俯く。
「別に……我慢なんかしなくて、いい」
「流架先生……?」
「ひとりぼっちで抱えることが少なくなればいいな……とは思うが、それは、俺が何とか出来ることではないよ」
恐らく、真顔での言い分だろう。
三人はきょとんと睫毛を二度扇がせ、一言ずつ。
「素直じゃないなぁ」
「素直じゃないのですね」
「素直じゃない……」
、
「お黙り」
短く言い置いて、流架は一度も振り返らず廃家から出て行った。
その様子を、ぼんやりと後ろで眺めていた凛月。冷たい指先を握り締める。結局、互いの“距離”には関われなかった。だが――、
「凛月、言葉は交わせるぞ」
何かが起こらなくとも、何時だって。
「そうね……」
頭を撫でる柊の温度に双眸を細めながら、凛月は瞼を伏せた。
心音が、響く。
「そういえば……金木犀の花言葉は“真実”、でしたわね。りつの“真実”……ご主人様の“真実”……わたくしは――わたくし達は、お二人のお心に少しでも触れることが出来たのかしら」
静寂の空に、金木犀の香が薫った。