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VD専用スタジオ。
専門的に特化している芸術――今回の様な映像撮影にのみ開放されるその空間に、
わんわん。
犬の鳴き声と、見た目は若者の声が嬉々として響いていた。
「ははは、走り回っては毛並みが乱れてしまうぞ。むすm……息子が折角ブラッシングをしてくれたのだから、撮影まで大人しくしていようではないか」
あはは、うふふ(訳:わんわん)が、超絶似合う姫路 眞央(
ja8399)と、彼の息子が飼っているマルチーズ。マイペースな彼らを遠巻きにしながら、藤宮 流架(jz0111)を引率にやって来た六人の生徒達。
――と、漣 悠璃の姿があった。流架の脳裏に苦虫記憶が甦る。
『CM撮影か、面白そう☆ 誰からチケット貰ったんです♪? え? 女の子? 可愛い? じゃじゃじゃじゃじゃーさ、せっかくだしその人もCMに出演してもらおうよ♪ せっかくだし、ね?☆』
『や、ややっ? えーと、その、あー……。
はい、問題です。ジェラルド君は先程、何回“じゃ”を言ったで――』
『あ、返事はイエスかはいでお願いしますね☆』
弁舌マン、ジェラルド&ブラックパレード(
ja9284)をジェラにぃと慕う藤沢 薊(
ja8947)も、同様の回想に苦笑しつつ、
「ま、楽しんでいこうよ♪ 皆でやれば何とかなるよ、明るく楽しくお仕事遂行♪」
と、場を共にする者達と挨拶を交わす。
彼のママン――黒田 紫音(
jb0864)の背をちょいと拝借しながらであったが。
「ふふ。良い子ねー、薊。でもほら、そろそろ流架ママに見立ててもらった衣装に着替えなさい。……あ、ねぇねぇ、流架ママ? 漣さん……綺麗な人だね。大事な人?」
「ん? んー、そう見えるかい? まあ、敢えて言うなら――」
「ねぇルカ! 見て見てー! ちょい悪おじや☆」
流架と紫音は見た。小道具のサングラスと髭を付け、変身を遂げたつもりでポーズをとっている悠璃の姿を。
「……綺麗かどうかも大事かどうかも置いておいて、とりあえず太平洋までブッ飛ばしたいかな」
「ぇと、漣さん、それじゃ腐りかけの雑炊になっちゃいますよ……」
「ほらほら、ルカ先生も紫音も時間だよ☆ 咲かせてみようよ、ファミリーという皆の蕾を♪」
「ジェラにぃも何言ってんの!?」
始まります。
**
晴れた日には心地良い風と暖かな日差しを、しっとりと雨模様の日は樹々の香りを楽しんで。
緑溢れる静かな街の何処かにある、“アナタ”の為のカフェバー。
憩いのひと時を楽しむカップル――流架と悠璃の視線の先には、皺一つ無い白のシャツに黒のロングサロンを身に付けた店主の青年ジェラルドが、微笑みを湛えながらグラスを磨いている。その理由はと言うと、
「ママン、チョコの湯煎って……お湯にチョコ、」
「――入れないからね? 薊、入れないよ?」
「Σわ、分かってるよ! ちょっと聞いてみただけだもん!」
青年の弟と娘、薊は白いYシャツにダークブラウンのショートエプロン、紫音はスイートなチョコ色のシフォンワンピースと白のエプロンに身を纏い、レシピと睨めっこをしながらバレンタイン用のチョコケーキを作っていた。
時折、平素とは違う場と空気に紫音が隠しきれない不安に染まる。縋るように眼差しを向けた先にはジェラルドと薊が「ボクならココに居るよ♪」「大丈夫だよ、ママン」と、慈しみの温度で紫音を包んだ。その温もりのおかげで、次第に調子を取り戻していく。
卵白を泡立てていた紫音がふと面を上げると、お菓子作りはもとい、料理慣れしていない薊は湯煎すらも少々苦戦している。ヘラが頬を掠ったことすら気づいていない彼の様子に、紫音は小さく吹き出した。
「ふふっ、チョコ、ついてる」
「ちょっ、ばかぁ!」
紫音は薊の頬に付いている甘いお弁当を指先でちょい、と拭い、そのまま自分の口へ。無邪気なその母の行動に、照れて赤みを帯びた薊の顔は益々紅潮した。
「あまぁい♪」
「ジ、ジェラにぃー。ママンがつまみ食いしてるー」
「あはは☆ それはつまみ食いって言わないよ。悔しかったら薊も舐めてみたら♪?」
「舐めないよ! ママンのほっぺ舐めるとかどんだけ、」
「いや、チョコをだけど」
「Σそ、そんなの分かってるけどナニカ!?」
「あ、パパ、味見してみて」
「ありがと、紫音☆ ――うん、メレンゲだ。まごうことなきメレンゲだ。味は卵白です☆」
「だよねー♪」
「……ねぇ、二人共大丈夫?」
仲の良い家族の会話を耳にしながら、流架は柔らかく笑んでお茶を口にした。カップとソーサラーが触れ合う音を聞いたジェラルドは、手際良く新しいお茶を二人の元へ運んで来る。
「暖かさが美味しい季節ですね☆ お茶もそうですが、皆様の心もなんとなくあったかさを感じる……そんな気がします」
浅くお辞儀をして、流架と悠璃の前を後にするジェラルド。流架が緩慢な瞬きをひとつして僅かに首を傾げたのは、彼の言葉の残滓を垣間見たような気がしたからであった。
「――、」
口にしようとした言葉は結局、音にならなかった。
カップを片手にしていたままの流架の手を、悠璃の両手が優しい温もりで包んでいたのだ。一瞬意外そうに流架の瞳が揺らぐ。だが、言葉など無くとも――、
交わした微笑みはどこまでも穏やかで、自分達だけの特別な時間であった。
暖かな心で曇りかけた窓――其処は緑が咲く街の何処かにある、とあるカフェバー。
この場所が“アナタ”のキッカケを開く鍵となることを祈って。
――暖かい時間を……今年は誰と過ごしますか?――
**
「――ぶふっ!」
「Σな、何で笑ってんのよルカぁ! 私だって恥ずかしかったのよ!」
「は? いや、俺はただ、ユウの顔見てたらカピバラ思い出しちゃってさ。似てるよね、ユウとカピバラ。今度からカッピーって呼ぼうかな」
「私の名前ガン無視!?」
「――ケーキ完成♪ 苺をスライスして薔薇の花弁みたいにデコレーションしてみたのー。あ、チョコの蝶は薊のアイデアなんだよね」
「ん。でも結局、俺じゃ上手に出来なくてママンにチョコ絞ってもらったけど――って、あれ? 俺が失敗した蝶のチョコが無い。あれぇ?
……ねぇ、ママン?」
「さ、てとー。お皿はどの柄にしようかなー」
「マ マ ン ?」
「……(てへぺろ☆)」
撮影を終えたカメラがそのまま彼らの様子を映す。華やいだ声音、各々の自然体。
カフェバーに訪れる日常を。
「ふふっ☆ 紫音も薊も、ルカ先生も漣さんも、みーんな輝いてるね☆ うん、何気ないこの瞬間だって、こんなにも素敵なんだよ♪」
居心地の良いその場と人にジェラルドは眩しそうに目を細くすると、スタッフに断りを入れてお茶の準備を始める。
――マスターとっておきの、一杯を。
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「おー……皆、凄い……」
月白の如く繊細な指先で拍手を送る彼女。独自の価値観と感情を所有している為か、常塚 咲月(
ja0156)のトーンは常にフラットであった。
「咲月君、準備出来たかい?
――っと、へえ、似合うじゃないか。女性の軍服姿というのは厳かな魅力があるね。君のお姉さんと幼馴染のお姉さんの合作案、だったかな?」
「ん……萌え要素を出す制服必須、禁断設定だと更に萌え。だって(棒読み)
ふー……何か、首周りが苦しいけど……流石、流架先生も着こなしてるね……。あ、んと、改めて……今回もよろしくね……?」
咲月と流架が身を包んだのは黒を基調とした軍服。肩章、共に襟の縁取りや胸の前の紐飾りは上品な金色で彩っている。袖の階級章はどうやら流架が上のようだ。
「さあ、任務開始だよ。咲月少佐、準備はいいかい?」
「ん……イエッサー、流架大佐……」
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ドイツの小さな古い街。
古い木組みの家や石畳、城壁に囲まれた街道はノスタルジーを感じさせる。
月夜の道をちらちらと舞う、白く冷たい雪。
だが、二人を置けばその雪も柔らかな羽根のように見える様はとても幻想的であった。
「はい、あーん……」
夜空を仰いでいた流架の口に、咲月のポケットから和紙に包まれた甘い不意打ちが飛んで来る。上官に対して恐れ知らず――半強制的に押し込んだチョコは咲月の親指に甘い香りを残した。
「ホワイトデー……楽しみにしてるね……?」
流架の決まり悪げな苦笑顔を見ながら、双眸を弓形にして満足する咲月。が、ふと。「流架大佐、口の端にチョコ……」と、咲月が指先でチョコを拭ってやる素振りをして――その腕は流架の横をすり抜けた。
「――今から、もっと楽しいこと……する……?」
咲月の手の平は壁をつき、彼の背から逃げ道を奪う。至近距離で囁いた彼女の声音はチョコの味よりも甘く、溶けてしまいそうで。
咲月の悪戯めいた微笑を僅かな驚きが衝いた表情で見下ろした後、流架は温んだ呼気で笑んだ。そして、咲月の軍帽の鍔をくいっと持ち上げ、彼女の目線が上を向いた瞬間――、
咲月の身体は反転し、背中は壁に押し付けられていた。
「上官を誘惑するなんて悪い子だね。お仕置きが必要かな?」
淡く儚く、雪は夜に揺られて、
騙すなら騙しきり、
戀に囚われるのもまた――刹那であっても。
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「……先生お疲れー……。――怪我……綺麗に治った……? あ……ハッピーバレンタイン……」
染まったままの目尻を指先で隠し、咲月は流架へ労いの言葉をかけると、巾着袋から手作りのチョコを差し出す。桜と、桜の葉の形をした彼女らしいデザインだ。
「やや、いつもありがとう。君もお疲れ様。――怪我? おや、何のことかな?」
「むぅ……。でも、色々あったけど……先生が幸せなら、私はそれで良いよ……。――むぐぅ……!?」
「ふふ、さっきのお返しだよ。――ん、美味しいチョコだ。幸せ半分こ、だね?」
口の中に滑り込んできた苺味のチョコのせいか――微笑んだままの咲月の頬は、流架の隣りで暫く弛んでいた。
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「(君の面影を探し続けているとしたら、君は私に微笑んでくれるのだろうか)」
眞央は想いを馳せながら、心の中で独りごちる。
それは何時か夢見る、2月14日で在るのかもしれない。
**
焦る気持ちさえ忘れるようで、どこか暇を持て余すような――そんなメロディ。
「今年のバレンタインは土曜日だ」
自宅のカレンダーの前で腕組みをする眞央。彼の視線を追うと、2月14日には赤いマジックで強調するようにハートが描かれていた。
「――さて」
一転して、其処は誰もが多忙なオフィススペース。
眞央自身も理知的な眼鏡とシルエットの美しいスーツ姿へ早変わり。パソコンの画面に向かいながら、キーボードをリズミカルに叩く。
「普段は仕事に追われている私も」
再び場面は転換し、木の質感を活かした温かみのある眞央の自宅へ。自然で明るい雰囲気が、家族との繋がりを意識させる。
「今日は家でのんびりと」
オフの時でも、センスと品の良さは忘れないカジュアルな服装で。レトロテイストのソファに身体を預けると、何をするわけでも無く茫洋と時の流れに漂う。
「妻はパートで娘は塾……折角のバレンタインだというのに寂しいな?」
「きゅぅん」
愛犬のマルチーズは何気なく差し出した眞央の手にじゃれつき、彼も又、調子を出したのか犬と遊び始めるが、広いリビングには何とも活気が足りない。
「……そうだ!」
ぽろろん♪
眞央の閃いた発声に合わせて、楽しげな音色が場を奏でる。
「今年はストチョコ!
いつも私を支えてくれる妻や大切な我が子の為に」
バレンタインの特設コーナーで一際美味しそうなチョコを手に取り、今宵のご馳走の為の食材も買って。――そうそう、食卓を彩る花も忘れずに。
「ストレートな思いを男の側から示してみるのも――」
自宅のキッチンでは眞央が腕を振るう。食欲をそそる音と香りが、キッチンの様子を見守るマルチーズの尻尾を踊らせた。
「たまには良いだろう?」
真白のテーブルクロスを掛けたその中央へ、憩いの花を飾る眞央の手元は温かみを帯びる。
「わん!」
玄関のインターホンから帰宅の合図が鳴らされ、マルチーズがお出迎えの準備。スイートでロマンティックな情景を映しだすようなメロディが物語を華やかせ――。
「お帰りなさい。ハッピーバレンタイン」
愛してやまない“私”の家族へ――その穏やかな微笑みは、確かな温度で現実を包んでいた。
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「――今回自分がイメージしてるんは“始まらなかった恋”です。
喋る画像と台詞を文字で映した画面が交互に出る、半無声動画でいきましょう。無い方が想像を捗らせることも多々ありますよ」
流水の如く清らかな旋律で、聴く者の耳に優しいアルトボイスの持ち主――亀山 淳紅(
ja2261)が物思いに耽る眼差しで天井を見上げた。
愛の影を追っているようなその表情に、流架の胸は妙に軋む――。
**
ポロンポロン。
心の波を沈ませる、そんなピアノメロディがゆっくりと時を動かす。
トレンチコートに腕を通しながら街道へ出てくる流架。その背を追って、黒のジャケットを着た淳紅が僅かにはにかみながら彼の袖を掴んだ。
――良かったら一緒に帰りませんか?――
淳紅の誘いに、流架は笑んだまま顎を引いて頷く。
宵闇の道を行く二人。ポゥ、と、街灯の明かりで商店のショーウィンドウからは様々な夢色が浮かびあがり、流架と淳紅の目元を弛ませる。
――この前聴いた君の歌、綺麗だったな。また、聴かせてくれると嬉しいよ――
――そ、そうですか? その、はい……貴方さえ良ければ……――
傍に居ても遠回しの表現を探しているような――そんな言葉しか返せなくて、淳紅は眉宇を切なく歪めて睫毛を伏せた。
――じゃあ、また明日――
唐突に訪れた別れの刻に、淳紅は無自覚に彼の名を呼んで、鞄から抜いた物を両手で差し出す。
「好きです」
二人の髪を揺らした風に攫われてしまったかのような。小さく、か弱く、微かに甘い音をチョコに乗せて。
「ありがとう」
緩やかな瞬きをしたのち、流架は平素通りの柔らかな笑みを淳紅に向けた。
淳紅の言葉の音を耳にしたのか、そうで無かったのか――少なくとも、流架に何一つ躊躇いは見られなかった。
胸を強打されたように息が詰まる。
彼の背が見えなくなった後も、淳紅は心音を乱したまま壁に寄りかかり、そのまま身体を擦りつけるようにして腰を下ろした。
愛おしく、触れたくても伝わらなくて――叶わない音。
止めどない涙を堪え切れずに、淳紅は俯いた。もう音は――聴こえない。
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「ルカ先生と会うの、何だか凄く久しぶりな気がします。
色々忙しかったり依頼で重体ばっかであれなんですが、また桜餅でも食べに行きたいですね」
玉葱で目を腫らした淳紅がふにっと笑う。
その笑顔は流架も淳紅同様、懐かしくて。安堵した表情のまま、流架は彼の目尻をハンカチで拭った。
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甘く、
切なく、温かい。
そんな気持ちになりたい時はどうぞ、このCMをご覧になって下さい。愛と心が詰まった――“アナタ”への贈り物です。