●
光さす碧の海。
君達と見上げた空が何処までも綺麗で――零れ落ちる雨のように、空虚に乾いた俺とアイツの心は癒された。
「哀しみに囚われ、苦しみに縛られ、惑い、歪み、何時までも悪夢を見ていたのだろう。しかし、明日を無くして解放されたとしても……果たして、灰へと変わった鼓動は鎮まるのだろうか」
純色の菫が映える瞳の君。
風に揺れる花を見つめながら、温い吐息と失意を零す。
「ずっと一緒に笑い合えるなら、ずっと一緒に信じ合えるなら俺は何処へでも行けたのに……覚悟も誓いも出来たのに! 狡いよ……狡いだろ、先生」
金の雫を汲み取ったかのような――そんな、君の綺麗な長い髪が膝をついた振動で小刻みに震える。
……ありがとう。別れを畏れてくれて。
「なあ、先生。
何をすれば消えるのかな。何処へ行けば消えるのかな。護りきれなかった俺の時計も、言葉も、止まったままなんだよ。なあ……先生」
涙色よりも深い瑠璃色の瞳。
嘆きに満たされた大樹の丘で、君のゴーグルが軋む。――音が、痛いよ。
「――卑怯ですね。例え果てのない路の先でも、例え未来などないと知っても、貴方は陽炎のように赤く昇るものだと思っていたのに。
風に流された俺の炎は消す手立てなんて知らないんですよ? 貴方の墓を焦土にしてもいいんですか?」
白い十字架の墓に触れた君の手の温度は、灯火のように柔らかく温かい。
姓と同じくする君の髪が風に踊り、表情を隠す。俺の涙くらいでは、君の痛みは消せないのだろう。
「ねえ、先生……幸せになれた……? 愛しんだ世界に逝けた……?
ねえ、先生……小指、痛い……。約束……守れなくてごめんね……ごめんね……」
何時か、君と結いだ指と指。
剣に裂かれたように疼くのは、きっと俺だけではないのだろうね。もし、巡り巡って蝶になれるのなら……君の目元に優しく触れてあげたいのに。
「僕、無くしてなんてないですよ。立ち止まってなんてないですよ。目を奪われても、心を奪われても、僕は風なんて逆らって前に突き進んでいきますからね。
だって……だって此れは、先生達が命懸けで紡いできた物語なんだから」
その姿は翔けていく希望の風の如く。
闇を照らす朝日のような君は、俺と――、アレクシスの心を響かせた。
「そう――。
此れは誰かの物語じゃない。僕達と、僕達と大切な絆を結んだ先生達の物語なんだ――」
**
「――はっ!?
あ、あれ? こ、此処は……。
此処はモントレゾール遊園地。僕は、僕は森田良助」
空は霞深く、月は朧に消えている。
走り去る夜風を身体に浴びながら、森田 良助(
ja9460)は掠れていく記憶を揺り起こすように首を振った。
「(何だろう、今の。デジャブのような……そんな感じだったな。大きな木の丘で僕は――僕達は何をしていたんだろう)」
良助はふと、其処で慌てて意味もなく顔に装着していた仮面を整える。
「今は集中しないと」
メリーゴーランドの音であろうか。剥き出しの鉄骨の軋む音が風に乗って響いていた。だが、その叫びの残響はやがて、激しい戦闘の音で掻き消される事になる。
「見えたっ!」
良助の声に緊張が木霊する。
――三つ、いや、四つの人影が、一時的に視力を極限まで高めていた良助の視界に捉えられたのだ。
「僅かに交戦の音がしたが……森田さん、どうだ? 藤宮教論達の位置は把握出来そうか?」
「あ、はい。今、流架先生と使徒がおっきな城から姿を現して、えっと――現在はジェットコースターの辺りで交戦中です。使徒の数は三。いくら流架先生でも流石に分が悪そうです」
「確かに歴戦の戦士といえど、今は現役を退いている身だからな。だが、彼は俺が認めた男だ。このような逆境ものともせんだろう。そうで無ければ困る」
「全く……相変わらずだな、翡翠さんは」
隣りで佇む友人、翡翠 龍斗(
ja7594)の表情は静かに揺らめいている。青き炎を微笑に灯らせて。
「(この状況……無茶をしなければ良いが)」
案ずる苦笑を彼に悟られずに、鳳 静矢(
ja3856)は良助が捉え追う視界に目を走らせた。
「えっと、ダイナマ先生の状況はどうっすか? 流架先生達が城から出て来たって事は、ダイナマ先生もそん中に居るって事なんすかね?」
右の拳を左の手の平で何度も摩りながら、落ち着かない様子で川崎 クリス(
ja8055)が良助の横へ並ぶ。暫く沈黙がその場に訪れるが、眉を顰めた神妙な表情で良助は言った。
「此処からじゃ城の内部まで詳しく確かめられないんだけど……でも、何だか嫌な予感がする。ドス黒い感情と狂った欲望が渦巻いている感じ、みたいな。
――ごめん、皆。僕はダイ先生の所へ向かうよ。多分……いや、きっと先生はあそこに居る。僕達と流架先生のことを待っていると思うんだ」
「何で謝るんだよ。誰かを救いたい、護りたいって想う気持ちは当然だろ。だから俺達は今、此処に居るんじゃないか」
「ん……。直哉くんの言う通り、だよ……。流架先生の事も、伊藤先生の事も心配だから……二人には生きていて欲しいから……行こう……」
良助の肩をポンと叩く桐生 直哉(
ja3043)に次いで、彼が姉のように慕う常塚 咲月(
ja0156)も短く顎を引いた。
躊躇わず、炯とした意志を胸に――、
「――さあ、修羅と闘う時間だ。犠牲者など出さんぞ、誰一人として」
六人の撃退士は残酷なる目録へ身を投じていった。
●
「全く……ここまで露骨に憎まれていると、愛されているのとそう変わらなく思えてくるな」
闇夜に溶ける長い前髪を乱暴に掻き上げ、呆れを含んだ吐息を漏らす。
紅桜色に煌めく愛刀で弧を描きつつ敵の追撃を流し、藤宮 流架(jz0111)はジェットコースターの路線を連続で飛来した。
城へ侵入するなり飛びかかって来た三人の使徒。
彼らを相手にしてからどれだけ時の刻が進んだか――流架の眦はきつく吊り上げられていた。
首筋まで無造作にかかったセミロングの灰青色の髪に隠れて、あどけなさを残した少女――エマ。人間であったなら限界を無視した強烈な闘拳、三本の爪が流架の鼻先で音よりも早く唸り狂う。
「やめてよ、冗談でも笑えない……誰があんたなんか……」
「やや。奇遇だね、俺も君みたいな貧相な子は抱く気にもならない」
「……っ」
鈍ったユマの爪先を流架は刀身で強引に絡めて払う。と、瞬時に彼女の脇腹を抉り蹴って吹き飛ばした。歯噛みをしながら空で体勢を整えたエマに向かって流架が一言。
「――はい、龍斗君。ココ逃したら減点だよ」
エマは全身に駆け巡るような何かを感じとった。
それは正しく新たな“殺気”である。真横から飛来したそれは、彼女を逃がすまいとして襲いかかってきた。
「天魔、お前という悪夢を終わらせる」
闇を一閃した軌道は、華奢なエマの身体を容赦なく砂地へ叩き落とす。その様を悠然に見下ろしながら「ん、まあ良い感じかな」と、流架は口の端を上げた。そして、白槍を脇に添えて落下してくる彼に合わせて、流架も足場の悪いレールから飛び降りる。
その、僅かな秒針の刻の間、
「――移動遊園地での模擬戦を憶えていますか?
俺は先生が目標で、再戦して勝つ予定です。もし、生徒に負けるのが怖くて死という勝ち逃げを選択するのであれば……アンタはとんでもない臆病者だ」
着地と同時に龍斗は意味深に笑んでみせた。選考すら許されないような気迫を全身にひしひしと受ける流架であったが、言葉を返す前に即座に駆けつけてきたのは咲月だった。
「先生……大丈夫……? 一人で無茶しちゃ駄目って前、言った……。身体に傷、たくさん……治してあげるね……」
思慮深い声音に「大袈裟だよ」と流架は笑おうとしたけれど、厳かに視線を上げた咲月の表情を目の前にして、バツが悪そうに口を噤んだ。
「流架先生、無事で良かったっす! 実は俺達――」
「ああ、うん。君達が来てくれた理由は分かっているよ、クリス君。……分かっている故に後が少々怖いが、今は君達の助力に甘えさせてもらう。
――さあ、手短に状況を理解してもらったら鬼退治だ」
朧な月影が揺れる程の僅かな猶予であったが、彼らにはそれで充分だった。
「あ、ルカみーつけたっ。
あれっ、なになに。いつの間にか小蝿が集まってんじゃん。あははっ、やったね! 奴らの泣き叫ぶ声をルカに聞かせてあげよーっと」
「趣味が悪いですわよ、ジゼル。主の命を忘れないで下さいませね」
風をも駆る悪意の俊足が、龍斗達の感覚をささくれ立たせる。
「来るぞ! 今暫くこの場は任せた!」
「咲月さん、皆もどうか無事で。絶対に全員で生きて帰ろう」
マリーシュカが放った氷錐の嵐を、静矢と直哉は寸分の躊躇もなく前へ。
二人の障害となる氷の散弾は味方がサポートをしつつ、突破口を図る。それは、相談も無しの阿吽の呼吸だった。
「ご兄弟達の元へ向かうおつもりですか。なんと無粋な。我が主の邪魔はさせませ――っ!?」
「それをさせない為の……」
「俺達っす!」
身を翻したマリーシュカの進路に、毅然と立ちはだかる咲月とクリス。
「さあ、踊ろうか。先に舞台から身を退くのはどちらだろうな」
「……ムカつく。ルカもアンタも」
「すぐに殺しちゃ駄目だよ、エマ。どうせならゆっくり楽しもうよ。弱みを握って、生きていられない程の屈辱を味わわせてやるとかさ」
口の端を赤で染めたエマ。そして、恍惚な表情で舌舐めずりをするジゼルと対峙する龍斗は、悪童の笑みで自らを修羅――黄龍に纏った。
それぞれの世界を賭けた舞台を背に見届けて、静矢は妙な違和感を覚えていた。
この時の彼はまだ知らない。
静矢と直哉が向かう先を見据える、不自然な程に温度の無い流架の意が分かるまでは――。
●
――音楽が聞こえる。
既に暴風の恩恵を受け、潜行状態となっていた良助の耳に美しい音色が響いていた。
破損していた城のステンドグラスから侵入を試みた良助は、其処で天使を見る。唄ウタイの血濡れの使徒――フランシスを。
「え。血、濡れ? 誰の……、――っ!!」
良助に一寸たりともの迷いなど無かった。
静矢と直哉の気配は既に覚っている。自分はこの使徒に全力を注げばいい。二人がきっと、「彼」を救出してくれる。
良助の世界蛇の銃が終末のような暴風射撃を発した。
「(許さない。許さないんだからな、絶対に!)」
仮面から覗かせる瞳に怒りの色を灯しながら、良助はステンドグラスの縁から勢いよく跳躍する。荒れ狂う風の中からフランシスの反応は窺えない。だが、
「……何だよ。またボクから兄さんを奪おうっていうの?」
唄が、止む。
「――うっ!?」
火球の礫――そんな生易しいものでは無かった。直撃は免れたが、すんでのところで回避した筈の良助の胸元に、じわりと浸透するような痛みが走る。
体勢を崩して着地した彼の前方から、熱気は未だに良助を捉えていた。
「――させんよ。
受けるがいい、鳳流抜刀術奥義――紫鳳凰天翔撃!」
明暗の紫のアウルが揺れる。
刹那、静矢の刀身から、幻想的な紫鳳凰が形を模して城内を舞った。そして静寂。
「(手応えはあったはずだ。果たして……)」
永い年月をかけて蓄積された埃が辺りを漂い、静矢の真横一線を描いて、
「くっ、愛憎が勝るか……!」
――ある場所へ向かった。
「なっ――」
あまりに一瞬の出来事で、直哉の身体は咄嗟に動くことができなかった。
発動させていた『縮地』に劣りなどない。両手にダイナマ 伊藤(jz0126)を抱え、算段通り距離をとって後退をしたはずであった。だが、
「カ エ シ テ ?」
――真後ろにいる。
静矢に受けた混沌の刀傷を負っていないかの如く、フランシスが不穏な笑みを浮かべている気配が感じとれた。直哉は、抱える彼へ視線だけ落とす。視界は真っ赤に明るく――、
「(――臆するな! 護り切るんだろう!)」
頭の中を駆け巡る言葉がそこに帰結した時、ようやく直哉は振り向きざまに渾身の剛撃を放った。漆黒の霞がフランシスの纏う純白の衣と相反して、互いの攻撃共に美しく相殺する。そして、先に二発目の瞬撃を加えたのは、
「ぐうっ!!」
フランシスであった。
右肩に強烈な熱気を受けた直哉と手中に得ていたダイナマの身体が、冷気を含む大理石の床に吹っ飛ばされる。
脚には脚を――、ただそれだけの結論だったのだろう。魔法特化のフランシスが、生半可な技などではない直哉の一撃を無理に脚撃で受け、弾け飛んだ拍子の二撃目だった。
「あ、イタイ。相打ちだと思ったのに脚イタイよ。骨がゴキゴキいってる。それに二発目は顔狙ったハズなのに逸れちゃった。慣れないことしなきゃ良かったな。うん、でも大丈夫。兄さんが治してくれるから。だから、ダカラ、カエ シ テ、 ネ ?」
ノイズの交じった現――フランシスの世界を垣間見た良助と静矢は、彼の追撃を許すはずがなかった。
「まず僕から殺してみなよ。まさか僕達に手間取ったりしないよね?」
「鳳流抜刀術、侮ってもらっては困る。頑迷なる貴様の目論見、断ち切らせてもらうぞ」
**
「本当は清潔な所に下ろしたかったけど……勘弁してくれな、先生」
激しい交戦の熱と音を城の外で受けながら、直哉は改めてダイナマの身体を目にする。
フランシスに吹き飛ばされながらも身を挺して庇いはしたが、彼の傷は正視するのを躊躇わせる程に酷かった。
両手両足は穿たれ、恐らく骨も砕けているだろう。顔面は赤黒く腫れ上がり、身体中は執拗に切り刻まれていた。直哉がガーゼ一枚で押さえてはいるが、この力を弱めでもしたらダイナマの腸はだらしなく地面へぶち撒けられるだろう。
「……酷いな。医療知識の無い俺に介抱なんて出来るのか……? いや――出来るか出来ないかじゃない。俺がやらないと。絶対に助けるんだ!」
肩の火傷が疼くのも忘れ、直哉は救急箱の中から乱暴に包帯を取り出した。
「先生。ダイナマ先生。俺だ、桐生だ。分かるか?」
「…………お、
…………あ? …………き、りゅう…………?」
所詮救急箱の簡易な器具と薬であったが、献身的な止血と治療、そして、ダイナマを渡り岸から引き戻す直哉の力強い声かけのかいもあり、少量の鮮血を口の端から零しながらダイナマの唇が開閉した。
「――良かった。とりあえず、俺の出来るだけの治療は施させてもらった。どうだ? 平気か?」
「…………。
…………あ た り ま え だ の く ら っ か ー…………」
「……先生、無理に親指立てようとしなくていいから。大変かもしれないけど、自分で回復出来るか?」
「…………あー…………。ちょい、きびしーかもな。いしきつなぎとめんので、いま、せーいっぱいなんよ。…………すまねぇな、きりゅう。オレはなるようになっから…………ルカ、ひきずって…………かえ、れ」
――寂とした眼差し。直哉は胸を強打されたように息が詰まる。ダイナマの心が罪の狭間に引き摺られているのを悟った瞬間、直哉は声を張っていた。
「先生。辛くて苦しい過去があるんだろうけどさ……今此処で向き合わないでどうする! 償う方法は自分の死しかないなんて思うな。自己完結する前にもっと言葉を交わせよ!」
ダイナマは表情を緩めた。
彼の言葉から直哉の記憶や感情が流れ込んでくるかのようで――、憎らしい程に「まとも」だったからだ。
「きおくやおもいでさえなければ…………こんなふくざつなおもいせずにすんだ、のにな…………。いいぜ、きりゅう。きいてやるよ…………おまえさんのコトバをよ」
――微かだが、ダイナマの手の平に光が灯った。
●
混戦の音符が舞台を奏でる。
俊足するエマが脚甲の回転撃を龍斗と流架へ放つオト。
流架が龍斗と目配せをするオト。
エマの一撃を巻布で真っ向から受け止め掌底を発した龍斗のオト。
光の矢でマリーシュカの足元を狙うクリスのオト。
幾本ものナイフを投躑しながらマリーシュカが空へ舞うオト。
その彼女を瞳に映した咲月の銃が瞬くオト。
構えを崩したエマの背骨を流架が刀身で砕くオト。
ジゼルがクリスと咲月の間に双剣を躍らせてくるオト。
ナイフの雨を回避していたクリスの腕に毒牙がかかったオト。
彼の名を叫ぶ龍斗のオト。
死角を狙った下方からのエマの爪が龍斗の脇腹を斬り裂くオト。
ジゼルがクリスを卑下し笑うオト。
艶やかな妖光を映したマリーシュカのナイフが美しい軌道を描くオト。
渋面でアーススピアを発動したクリスが膝をつくオト。
前へ出た流架が何本ものナイフを弾くオト。
彼とクリスの脇を流れた妖艶な刃が咲月の膝を数箇所突き刺したオト。
彼女の悲鳴に高笑いをしながら双剣を流架へ乱舞するジゼル、修羅の咆哮を上げてエマへの間合いを詰める龍斗、身体が思考とは逆に乱れる咲月、彼女の銃口が向けられ瞳孔が開くクリス、誰かが吐息で笑んで呻いて震えて悦び喉で息を鳴らす、オト、オト、オト――。
ガ ゥ ン。
「――大丈夫だよ」
ガ ゥ ン。
「怖がらなくていいから、戻っておいで」
乾いた闇夜に二発の銃声が響く。
呆然と、瞬きさえ忘れた咲月の身体を、流架の両腕が力強く抱き締めていた。
「……る……か、せん……せ……」
「ん、急所は外れているから平気。君には酷な事をさせてしまった。ごめんね」
血の気が引くように咲月の体温が指先から低下する。
――血の匂い。
銃身から伝わった生々しい反動。
「……どうして……? いつも、いつも何で流架先生が傷つくの……? 狡いよ……伊藤先生も……流架先生も、自分が居なくなる事で悲しむ人が居る事、気付いてないの……?」
「やや。俺もダイもタフなんだよ。死に急いでいるなんて思わないでおくれ。それに……約束したからね、君と。咲月君が俺の事を見守って助けてくれるのなら、俺も君の事を助けるよ。――俺が、助けたかったんだ」
「……やっぱり……ずる、い……」
咲月は咽ぶような呟きを洩らし、目を瞑ると同時に意識を失った。
**
「――翡翠鬼影流は無手の業だけではない事を教えてやる」
激闘の末。
爪が肉に喰い込む感触すら笑みへと湛え、龍斗はエマを強引に背負い投げした後、彼女の左腕を肩関節からへし折っていた。そして、身を捩らせて地面で悲鳴を上げるエマの身体を蹴りで浮かせたと瞬時に肘鉄を食らわせる。
「さて、今になってもフランシスとやらは貴様の名を呼ばんな。所詮、貴様ら烏合の衆はただの捨て駒というわけか」
「――っ!?
……アンタに、何が分かる!」
――が、土煙を巻き上げてのエマの回し蹴りが龍斗の頭を激しく揺さぶった。
「フランは……フランはいつだって優しくしてくれた! 親に捨てられた私に居場所を作ってくれた! フランの事を悪く言うヤツは、私が絶対に許さ――」
「黙ってろ」
膂力の伝わった流架の刀身がエマの三本爪を砕いて散らす。そして、
「はい、龍斗君。ココ逃したら――」
「減点ですよね? 分かっています」
流架の横面を滑った龍斗の視線はエマの鳩尾を捉え――、
「暗黒へ、帰れ」
爆ぜた。
「……先生。
ダイナマ先生と過去に何があったかは聞きません。報告書から何となく解る気がしますからね。それに、俺は撃退士の使命は殺人だと思っています。所詮、天魔も撃退士も同じ悪――。だから俺は、十字架を背負って生きていきます」
滴る赤い雫が、龍斗の肌に美しく咲いていた。
**
「お前達の目的ってなんだ?
ダイナマ先生がお前達の手に入ったら、彼をどうするつもりなんだ?」
クリスは語りかけていた。
「自分の物にしたいっていう理由で邪魔者を消そうとする思いは理解できるぜ。ただ、物にしたい本人を殺そうとするってのは理解できねぇ。俺にはどうしてもできねぇ!」
――何故、気づかないんだ?
クリスは過去の罪を意識から削り出すかの如く、手傷から血が噴き出すのも構わずに炎の刃を放つ。
「例え、大切な人に殺されたい願望があっても……例え、大切な人に殺したいって宣言されていても」
地奔りの火を遊戯のように回避し、ジゼルが酷く耳障りに笑った。飛来する双剣がクリスの白い肌に赤い鮮血を散らせる。身体の毒素のせいで、クリスの身体は鈍っていた。
それでも――。
「大切な誰かが間違っている事をしているなら、それを止めなくちゃいけないだろう!」
蛇の如く這うマリーシュカの鞭が、僅かに微動した。
復讐の後に残るのは空しさだけ。
誰かが赦さない限り、憎しみの連鎖は必ず続いてしまう。
「後悔してからじゃ遅いんだ!」
「可哀想な“自分”に酔ってんの? いいねぇ、醜くて反吐が出て――大好きだよ!」
硬く、鈍く、生々しさが混じった音。
どちらかを制止するマリーシュカの声が聞こえたような気がするが、もう遅かった。
相する二人の男――クリスの右胸に深々と埋まるジゼルの剣先。そして、
「――がっ……がはっ! ……え?
――ウソ」
「嘘なんかじゃねぇよ。俺もお前も、目の前に映るモンが全てだ」
ジゼルの腕に、胸に、腹に、脚に、土の針が突き刺さっていた。
「ははっ……あははっ! なぁんだ、キミ、結構やるじゃん! でもさ――こっちの剣がまだ残ってんだけど!」
地面の錐の尖端から左腕を強引に引き抜き、握ったままの片割れ剣をクリスの喉元に突き立てようとした。――だが。
「皆の邪魔は、少しでも排除する……」
淡いが、毅然とした声音が一つの銃声に重なった。
両の膝は地面に取られたままであったが、意識を取り戻して銃身を構える咲月の姿が其処にあった。
「……あ、ああ……血だ、ボクの血だ。ああ……何て美しいんだろう、こんなにも、こんな、にも……キレ、イ……」
首を穿たれたジゼル。
溢れ出る自らの血の泉に酔いながら、彼は恍惚と絶頂に満たされながら絶命した。
一抹の安堵を得た二人が目にしたもの。
それは、城の方角から五月雨る、赤い、赤い、赤い――――誰かの色だった。
●
遡る時の刻。
「ふぅん。どうしても寝返ってくれないんだね。ボクがこんなに頼んでいるのに……もういいや。キミ達なんかいらない」
「――森田さん!」
直哉の叫び声が上がる。
炎が光を反射するステンドグラスを焦がした。良助は反撃の光を発射する。次の瞬間、身体が浮いた。吹き飛ばされたと気づいた直後、背に痛烈な衝撃が来る。
「(い、息ができなっ……!)」
立て。
早く、早く。遅れれば命取りになる!
「――私がいる。
言ったろう、誰一人として死なせんよ。仲間とは互いに尽力してこそ“仲間”だろう」
庇うのではなく、護る為に。
足で地を蹴り、血濡れの鳳凰を彷彿させる静矢は、火山弾のような猛射の中を涼しい表情で躊躇なく前へ。
「――ナカマ?
ねえ、キミ達って兄さんの何なの? ただの知り合い? 友達? ――ねえ、キミ達は兄さんのナカマなんかじゃないよねぇ!」
明らかな苛立ちを滲ませているフランシスに、居合いの一閃が捉えた。紫苑色の瞳が好機とばかりに笑む。衝撃を受けた白銀の天使が宙へと浮いていたからだ。
「合わせよう、鳳さん!」
意は直哉も同じであった。
狼が獲物を貪るかの如く、鳳凰が空を翔けるかの如く――二人の剛なる攻撃はフランシスに交叉する。指先に、脚に、確かな手応えが伝わるのにも関わらず、彼は未だに倒れることすら知らず暴れ回っていた。
「兄さん……ねえ、兄さん。違うヨネ? 兄さンのナカマは、大切ナ兄さんのナカマはアノ“女”なんかじャないヨね? ボクよりもアノ“女”を選ブはず……ナイよねええええぇぇぇッッ!!!」
痛みとも熱さともつかないもので肺が締め付けられる。
血を撒き散らしながら火の粉を纏った静矢と直哉は、乱れる視界と思考の中、背中から壁に叩きつけられたのだと気づくまでに時間を要した。
「ぐっ……お前が愛し欲しているのは兄では無く、“兄に愛される自分”だ。大切な人だの、仲間だの、欲しているものが元々――」
ふと、そこで静矢は、妙であった違和感の正体を知った。
「(奇妙な程に他人事のようで……それでいて、切に、互いの距離を一定に保っているかのような……。
なるほど、そうか。私は両教論とも命を懸けるのと命を捨てるのとでは、はき違えている気がしていたが……どうやら杞憂であったようだな)」
――仲間という言葉を、意識的に避けてきたような感覚。
そう表現した瞬間、流架とダイナマは大切な存在になってしまうからだ。
綴ってきた物語の中で掛け合った罵声や後悔、励ましや優しさ……。恐らく――。
「(藤宮教論は“最初”から分かっていたのだろう。刹那的で儚い関係になると。それでも、どちらかが死ぬ事になるという現に目を背けられなかったのだろう)」
例え、命が尽きる最後の瞬間が訪れようとも。
「……貴様は愚かだな、フランシス。
貴様は恨むべきではなかった。妬み、憎悪する心は赦しと共に抑え、踏み止まるべきであったのだ。本当に愛しているのなら、大事であるのなら――その者の幸せを願うものだ」
「――――――っ!!!」
天に向かって“天使の唄”が響いた。
咆哮のようにも、嗚咽のようにも聞こえたそれは、酷く憐憫な程に城内を反響する。そして、静矢と直哉、ライフルを杖代わりに立ち上がる良助の身を、唐突な風が押し寄せた。
不意に音が止んだ瞬間――フランシスの身体は三人の視界から消えていた。
「――くっ! まさか……!」
直哉の顔が歪む。背筋を駆け巡る悪寒は間違いではなかった。
「……兄さん。良かった……まだ、ボクの傍に居てくれるんだね」
彩色溢れる城の扉の先――。
喜悦に佇むフランシスと、彼の眼下に納まるダイナマの姿があった。彼は横たわったまま、恐ろしいほどに落ち着いた双眸で弟を見つめる。
「ねえ、兄さん。ボク、ちゃんと憶えてるよ? 兄さんがボクの為に研いでくれたこの短刀……何に使うべきなのか。忘れてなんかいないよ? ねえ、エライでしょ? 兄さん」
フランシスの手には、細かい装飾が施された銀の短刀が握られていた。
刀身に自分の濡れた瞳が映る。
「今から見せてあげるね。ボクは間違ってなんかいないってこと……大好きな、世界で一番大好きな兄さんに見せて、感じさせてあげるから!!」
フランシスは短刀を振り上げた。ダイナマは微動だに動かない。
弟の全てを双眸に映して、ただ――、
「あの頃の兄さんに戻らないなら、ボクのものにならないなら――――!!!」
何処までも。
「ダイ、先生……」
がむしゃらに駆けつけた良助は、直哉に腕を取られたまま、その場にぺたんとへたり込んだ。
目の前の光景に誰もが言葉を失い、この死闘が終結を迎えたと知る。
――血潮に染まり、溺れ逝くその姿は白銀の天使。
「これ、で……いい、ん、だよ、ね……? にいさ、ん……ボクは、たいせつ、な、ひとを……まもった、よ……。
これで、いい、よ、ね……?」
短刀で喉元の肉を根こそぎ抉り裂いたフランシスは、血を喉に詰まらせながら声を搾り出す。
「……にい、さん」
――どうした、フラン。また転んだのか?
アレクシスが仕方なさそうに笑って、涙と鼻水でぐしょぐしょになったフランシスの顔を拭ってやる。
あの頃。最も穏やかで、愛おしくて、幸福な日々――。
「さき、に……かえ、ってる、ね……にい、さ……」
兄の身体に優しく凭れた弟の表情は、それは穏やかで、昔と変わらないあどけなさを残したままであった。
「…………ばかやろう」
誰かの言葉と、誰かの頬を濡らした一筋の雫を夜風が静かにさらって行った。
●
空に描かれた蒼穹。
大樹の丘。名前の無い、十字架の墓――。
「この墓が貴方の彼女であったルチアさんの墓ですか」
「――ああ。まあ、カタチだけだけどな。アイツの全てはオレん中にあっから」
「それは……“彼”のことも、――いえ、何でもありません。風が、気持ち良いですね」
仰ぐことで表情を隠した龍斗に、車椅子に乗るダイナマは気づかないフリをして「そうだな」と面を上げた。
「やや? 静矢君もクリス君も、難しい顔をしてどうしたんだい?」
「いえ……何故か、この場所に見覚えがあるような気がするんです。此処に咲く花の香りを嗅いだような、そんな記憶が」
「あ、実は俺もなんっすよね。こういうの何て言うんでしたっけ」
「デジャブ、か? しかし驚いたな、皆もそうなのか。……不思議だな」
そう言う直哉の横顔に瞬きをひとつして、咲月はそのまま視線を流架に送ってきた。窺うようなその眼差しと目が合うと、流架は眉宇を下げて困ったように笑む。
「傷なら平気だって言っただろう。君が気に病むことじゃないんだよ?」
「ん……ありがと……。でも、やっぱり私が油断した所為だから……」
「――よし、分かった。じゃあ先生の頼みごとを一つ聞いておくれ。えーと、うん。アレだ。とりあえず、笑おうか? 君の瞳が翳りに見えていては勿体ないから」
「う……!? あ……うん、いいよ……。……。流架先生って……やっぱり、たらしだ……」
「え、なんで!?」
そんな二人の様子を遠巻きから眺めて小さく笑う良助。そして彼はいつもと変わらない調子のまま、空に想いを馳せる面持ちのダイナマに声をかけた。
「先生、傷の具合はどうですか?」
「おう。今日も元気だマカロンうめーわよ」
「なら良かったです。ええと、その、エマとマリーシュカはどうなったんでしょうね」
「んー? まあ、アイツらの姿だけ消えてたみたいだからな。同じ空ん下、今もどっかで生きてんじゃねーの?」
「そうですね。あの、先生」
「あいよ」
「最後の最後で、護ったんですよ。きっと。だから、」
「――わーってるよ、森田。わーってる。
愛してたぜ。――ああ、愛してたんだ。オレもアイツも、最後までな」
そっと、ダイナマは唄を口ずさむ。それは、悼むように響く、子守唄のようであった。