●
――ずっと、自分を隠して生きてきた。
生きることを望む為に、
居場所を無くさない為に、――狂気を背に潜ませて。
己を呪わずにはこの世に留まることができないくらいに、
酷く、
大きく、
熟成した憎しみを抱えて。
――もう、硝子の世界には帰れない。
戻れない。
きっとこれは、必然であった俺への――、
罰。
●
別の命が宿っているような、不思議な景色だった。
其処は朽ちた林の中。
風雨にさらされて真っ白になった枯れ木が、電柱のようにひっそりと立ち並んでいる。――いや、「いた」。
「…これは…まるで爆心地のようですね」
退魔師の血筋を引く少女、或瀬院 由真(
ja1687)は、形のよい眉根を僅かに顰めて呟いた。
枯れ木は激しく折れ曲がり、捩じれ、足の踏み場を埋めるように乱雑に倒れている。その白さに混じって所々に血液も飛び散っていることから、目に映る何もかもが此処で起こった争いの強さを静かに物語っていた。
「…なるほど。
伊藤先生の仰っていた通りですね。林の中はかなり荒れているようです。皆さん、お気をつけて」
闇から溶け出したかのような印象を持つ彼の髪と瞳が、この白き世界へ絵姿のように映えていた。
彼の柔和な表情と穏やかな口調は平時と変わらず、戸次 隆道(
ja0550)は林の中を先導する。迷いなく――。
そう、するべき事は既に決まっているのだから。
「(…所詮、私には打ち倒すことしかできませんしね)」
躊躇することなく、この身を戦鬼へ。
―――……、
突如だった。
慟哭するような、窮みの叫びのような――、そんな音が耳へ反響してくる。
「…聞こえたか? ヒスイ」
「ええ。厭わしい笑い声と、…嗜虐へと傾いている彼の『悲鳴』が」
静かに言葉を交わすは、血のように赤い髪と深緑の髪を持つ二人の青年。
お互いの長い髪を風になびかせ、アスハ・ロットハール(
ja8432)と翡翠 龍斗(
ja7594)は直ぐさま並行して駆ける。
「(この場に満ちる氣…戦いもせず、俺の化け物が目を覚ますか)」
揺り動かされている馴染みの衝動を胸に、龍斗は眉宇を切なく歪めた。
●
木々の間から見える蒼穹のパレット。
淡く透き通った白い月を天に、人影が七つ、兎のように跳ねては駆け抜ける。
「…先生と…約束、した」
波の無い海で揺蕩う海月を、視界の中心へ――常塚 咲月(
ja0156)は独白した。
彼女を姉のように慕う桐生 直哉(
ja3043)が横へ、
「約束…?」
ひっそりと、だが案ずる声音で尋ねる。咲月は蒼穹に浮かぶ月からゆるゆると視線を外して前方へ戻すと「…ん」と、小さく頷いた。
月が奏でる夜空で、蝶が舞い踊る世界を一緒に見ようと――そう、黒瑪瑙の彼と約束をしたのだ。
「私の世界の人を傷つけるなら…守る為に戦う…弱くても」
意志の籠もった、静かな決意。
首元で揺れる水晶のネックレスを緩く握って、交錯する感情の渦へと足を踏み入れる。
●
地面と空気の振動、
そして時折聞こえる喧噪と狂気を辿り――、
一同は目視した。
およそ剣理とはかけ離れた、脈絡のない死合を。
「――それでは、皆さん。手筈通りにお願いします。
彼の『あの』状態では恐らくあまり猶予はないでしょうから。――良い結末を迎えられることを祈っています」
表情を引き締めた隆道の声に、由真も凛と続く。
「はい。
強すぎる感情は自分の身を滅ぼす毒でしかありません。手遅れになる前に止めないと!」
――そう。自らの命と心を危機に晒し、無茶をすれば人は死ぬ。
その事実に向かって真っ直ぐ突進するような藤宮 流架(jz0111)と、哮り狂えし声を言葉に歌う少女、エリーゼの姿が其処にあった。
「流架先生とみんなと、必ず一緒に帰る!! 先生に『おかえり』って言うために頑張る!!」
切なる願いを言葉と力に。藤咲 千尋(
ja8564)の黒曜石の瞳は色褪せない記憶を想い、真っ直ぐと輝かしい未来を見つめて。
キリキリキリ…と、弓の弦が鳴る。
夕日の光を纏った彼女が弓を引く様は、さながら闇夜を切り裂く流星のようであった。
「行っくよーーー!!」
藤で彩った一張りの弓に想いをのせ――、
パ ァ ン !!
射た。
黒い霧を纏った蛇が空を這うかのように、矢は加速しながら交戦する二人の間合いへ。
「うふふっ、美味しそうな『餌』の気配がする。――ねぇルカ。あいつらの腸、食べていい?」
「…ふざけてんじゃねぇぞ。そんなに腸が好きなら、てめぇの腸引きずり出して口に突っ込んでやる」
鍔迫り合いの体勢であった流架とエリーゼが唐突に均衡を崩す。
その刹那――。
後方へ跳び退った二人の間へ、千尋の放ったダークショットが撃ち込まれた。
と同時に、瞬間的な砂塵が辺りを舞う。
矢先は地面へと爆ぜたわけだが、流架とエリーゼはその弓射ちをかわしたわけではなかった。
――そう。元より、千尋達が狙う「優先的」な行動は別にあるのだから。
「ルカぁ、怒らないで? 大丈夫だよ。私の相手はルカだけだから」
彼ら達に目もくれないエリーゼは考えることすら頭に無い。
だが、流架は千尋達を一瞥しただけで瞬時に「それ」と理解した。
だからこそ。
「――邪魔をするな」
怒気を孕んで低く、吐き捨てた。
転瞬、流架とエリーゼはまるで諮ったかのように同時に踏み込む。お互いの距離を詰めようとしているのは明白だった。
「…駄目…させない」
間髪容れず第二射。
目標をエリーゼに、咲月のオートマチックが鋭い一撃を放つ。
「――はっ! 当たるワケねーだろ、舐めてんじゃねーぞ!」
ストライクショットの軌道すら視線に入れず、無駄のない見切りで攻撃をかわすエリーゼ。その体捌きは思考の糸すら無いようであったが、
「あなたのその傲慢は死を招きますよ。――いえ、私が迎えて差し上げましょう」
苛烈な戦意を背後に感じ、一瞬、エリーゼの表情は意表をつかれたという色に染まった。
気配の主、紅蓮の炎に魅入られたかのような隆道のその様は正に――阿修羅。赤い闘気でその身を纏い、光纏で瞳は血の色を帯びている。
戦闘の鬼と化す闘神阿修羅を発動させ、飛躍的に能力を高めた隆道がエリーゼの僅かな隙を見逃すはずがなかった。
「(さあ、相手はこちらですよ)」
エリーゼの意識を引き込む為、猛然とシルバーレガースを討ち込む。
ギャリィンッ!!
二つの金属が噛み合って、絶叫を上げたかのようだった。
虚をつかれ、回避する間もなく反射的に振りかざした刀で攻撃を受けたエリーゼ。だが、柄に伝わった衝撃の反動は大きく、彼女の体勢に大きく歪みが生じた。
そこへ、低く構えた一閃の突き――。
「無粋ではありますが、介入させて頂きます!」
由真のディバインランスが白銀の閃光を放つ。
「くっ……!」
シュトラッサーであるエリーゼも、不安定な体勢のままからは切羽詰まった動きで後退せざるを得なかった。
いや、それだけではない。由真は彼女の胴をざっくり抜いてやるつもりであったが――、エリーゼも全てをかわしていたわけではいなかった。
既に流架から受けていた斬撃の傷は右首筋と左肩。そして今、左腕からは真新しく刻まれた傷口から血が流れ出している。
離れ際、由真の槍の穂を食らったのだ。
「(例え致命傷でなくとも、数多くの傷を相手の身体に刻むことを眼目とします)」
寒椿のような気丈さを芯に、由真は中段に構える。
「…てめぇら…、―――っ!?」
顔を上げたエリーゼは、考える間もなく理解させられる。
其処は小魔法陣という檻に囲まれた――弾葬への入口だということを。
「魔弾の嵐…抜けられるものならば!」
アスハが微かな笑みを口元に、眼前の陣へとアウルを撃ち込む。凄まじい閃光が溢れると同時に小魔方陣へ転送されるは、火球の礫。
紅蓮に輝く球体がエリーゼを包み込み、強烈な炎の海へと変化した。
慈悲も救いもないほど、赤く、赤く。
浄化すら焦がすように。
――しかし。
赤黒い気体を纏ったそれは、一見、炸裂の爆風で掃き出された小石のようであった。
だが。
褪せずその形、その姿は――。
「……抜けてやったぜぇ、赤毛野郎。褒美は勿論、
てめぇの腸だよなあああああぁぁぁっっっ!!!」
瞬間、
まるで時を止めるが如き、エリーゼの神速の踏み込み。
斬るか、斬られるか。命懸けの間合いで、アスハのバイルバンカーとエリーゼの刀が交錯していた。それも、二度。
直後、
アスハの左腹に強烈な衝撃が伝わる。バンカーを刀で受け抑えられたまま、彼女に蹴り飛ばされたのだ。
「――アスハさん!」
最早、由真の悲鳴は彼の耳に届いてはいなかった。
二度三度と木々の間を跳ね飛ばされたあげく、地面に転がってようやく動きを止める。立ち上がることが出来ない。
「…ぐっ…、がはっ!」
口の中に溜まっている血と胃液の混じったモノが、咳と共に派手に地面へ撒き散らされた。ダメージでボヤける視界で懸命に焦点を合わせると――。
「…キ、リュウ…」
鮮血を口の端から零しながら、アスハは彼の名を呟いた。
闘争心を解き放っているのにも関わらず、エリーゼの間断ない攻撃を一つ一つ必死に受け、弾き、捌いている直哉の姿があった。エリーゼに対する攻めの隙すら見抜けない状況に、直哉の表情が歪む。
「オラ、オラァッ! どうしたんだよ! 鈍ってんのか? ああっ!?」
嘲りながら、エリーゼは容赦なく直哉を攻め続ける。攻めるほうの勢いも尋常でないが、受けるほうの精密さも神技の域。
しかしそれも、次第、次第に、攻めるエリーゼの動きに呑まれていく。そして――。
「…うわっ…!!」
直哉の右の肩口からパッと血飛沫が咲く。だが、自らの肉へ食い込んだ刃が引かれる刹那、速やかな判断で後方へ跳び退った為、肉を削がれるまでには至らなかった。
直ぐさま、直哉へ対するエリーゼの追い討ちを隆道と由真が牽制する。
――その光景を黙って地面で血を吐きながら眺めているアスハではない。
身体が動かないなら「動かせばいい」。動けと「命令」すればいい。
「…ふ、賭けに勝ったと思うな…。…まだ、終わらん!」
アスハの右目の眼窩が妖しく煌めく。
謙虚に、誠実に、さあ――――――貫け。
●
重苦しい臭気が鼻腔へ。
ぽたりぽたりと、肩の傷口から未だに鮮血が滴り落ちていたが、直哉の表情は何故か安堵していた。
「…よし。
幸い、エリーゼの意識は先生にではなくこちらに向いているな。このまま攻撃を絶やさず、現状を維持することが出来れば…」
――そう、直哉達の当初の目的は、流架にエリーゼの意識が向かないようこちらに誘導すること。
そして、
「…藤宮先生。
…先生は今、力に呑まれそうになっているよな…」
要である者の、縺れた感情の糸を解くこと。
有るべき「区別」と保つべき「境」、本来の彼の「色」を――――呼び戻す。
「…だけどさ先生、それが敵を討てるほどの強い力だとしても『護る力』にはならないんだ…」
胸に込み上げてきた衝動に、直哉の目が傷ついたように歪んだ。常に首に提げているゴーグルを血で滲んだ掌で握り締める。それは、大切な友の形見。
「自分自身を護れない人は大切な人を本当の意味で護ることは出来ないと、俺は友達や先生から教わってきた。
咲月さんは『今』の先生でもいいなんて言ってるけど…壊れてほしくないって、ずっと心配してたよ。だから、先生――」
臆せず、「進もう」。
●
縞模様の大地で、尚も激戦は続いている。
轟く光と奔流する力の渦。
しかし、その世界とは隔てられたもう一つの世界が在った。
眼差しに憂いを含んだ千尋。
僅かな慈悲を表情に浮かばせる咲月。
矛盾のない心の調和を瞳に潜ませる龍斗。
盲目して疑わない――流架。
「…………どいてくれ」
声もなく、流架は小さく口を開く。
エリーゼの血で曇った刀をだらりと提げたまま、彼の視線は地面の一点へ。
三人は動かない。
「君達には関係ない。――――帰れ」
千尋はぶんぶんと首を振った。肩にものすごい力が入っている。
「関係ある!!
強さとは、戦う理由とは何か、聞いてたよね。わたしは大事な人に笑っててほしいの。
流架先生にも笑っててほしいの!!」
純粋な千尋の心。
周りに暖かな心を与えるその色は正に純白で、だからこそ――、
「――――違う!!」
拒絶する。
「違う! 違う! 違う!
それは君の意義だ! 君の選択だ! 俺には関係ない!」
眩しさで気が狂いそうだった。
感情の波を露わに、首を起こした流架は千尋へ顔を向けてくる。長い前髪から覗く彼の瞳は苛立ちで彩られていたが、
「睨まれても怖くないよ。
わたしは先生が大好きだから、先生を信じてるから怖くないよ。先生戻ってきて!!」
怯まず毅然と、千尋は精一杯の気持ちを伝える。
――風が流架の髪を揺らし、林の影が彼の表情を覆い隠した。
「く、………っ…」
心に入りきらない憤慨、葛藤、嘆き。苦悶の声と共に、流架は深い溜め息を零す。
「……どうしてだ。
感傷などいらない…融和などいらない。何も、何もいらないんだ! なのに、どうして――!」
「…『どうして?』」
反復の語りかけとともに頬を傾けたのは咲月であった。
「先生も大切な人だから…生きて、笑っていて欲しい…」
物柔らかに、言い聞かせるように。
森の色を含んだ彼女の双眸が心持ち細まり、夢路を辿るような色を灯す。
「私は今の先生でも、何時もの先生でも…どっちでもいい…私の好きな先生には、変わりないし…。けど…楽しそうに笑う先生が一番好きだよ…?」
伝え合う想い。
心で対話する言葉。
「……っ、……乱さないで、くれ。
君達のせいで……君達が、いる、から……こんなにも――――」
前髪を掻き上げる姿勢のまま俯き、苦しそうに言葉を発する流架はまるで助けを求めているかのようだった。
そんな彼へ、龍斗は静かに声をかける。
「先生…いや、藤宮流架。
堕ちて己を壊すことが強さというのなら、それは間違いだ。そんなもの強さじゃない…単なる暴力だ。生きることから目を背け、血で狂うことがあんたの望みなのか? あんたを慕う者と、あんたが慕う者――、共に生きてきたこの世には価値がないとでも?」
冷たく、厳かに、しかし――、強さを感じさせる言の葉であった。
心の奥底の無意識の部分で繋がっていると信じているからこそ、龍斗は「求める」。
静寂。
重い沈黙が続いた。
その時、
――――ガ ゥ ン!!
均衡の崩れる音が爆ぜる。
その衝撃波は、投げ飛ばした小鉢のように由真を宙に吹き飛ばしていた。着地の体勢を取ることも出来ず、流架達の視界の中でグチャグチャに転がっていく由真。
「由真さん!!」
いきなり眼の前へ由真の身体が投げ出されたのだ。千尋は慌てて、倒れている彼女に駆け寄った。
「…く、ぅ…不覚、でした…申し訳ありません…」
「大丈夫だよ、謝らないで」
千尋はアウルの力を放出して真由の回復に努める。真由の身体には真新しい刀傷が幾つも刻まれており、彼女の肌を朱色に染めていた。
――第二波。
空気が鳴動して一瞬、その場にいる者の視界が真っ赤に染まる。それを理解した瞬間には既に周囲へ、彼らの赤い飛沫が舞っていた。
「がっ……!」
「――ぐぅ!」
地面へと叩きつけられる隆道と直哉の身体。
「……全く……派手にやってくれますね」
口の端から流れる血を袖で拭いながら、隆道は薄く嗤う。噴き上がる血と斬られた傷口が痛みを通り越して冷たく感じられた。
満身創痍な仲間の姿を見て、龍斗の気質に修羅が宿る。
「あんたはそこで泣いていろ。だが、これだけは知れ……壊れかけている流架でも待ってくれている人達がいるってことをな」
刈り取りの意味を持つ大鎌を片手に、くるり、流架から背を向けた。
「……俺に、此処で泣いてろだぁ?」
直哉達のその様に固唾を呑んでいた流架の双眸が、ギラリ、龍斗へ。腹の底からの怒りとともに言葉を吐き出す。
龍斗は振り返らない。
しかしそれは、虚偽でも、別離の意でもない。
「――流架が堕ちるなら、俺も共に堕ちる。……それとも、俺が堕ちたら止めるという約束も忘れたか?」
背中越しにそう言って、龍斗は戦線へ足を踏み入れた。
血で血を洗うようなアスハとエリーゼの交戦。
アスハはウィンドウォールを常時展開して接近戦を駆使する。立ち枯れた木々も回避に利用し、エリーゼの攻撃に巻き込んで翻弄しているかのように見えたが――。
「ウゼぇ、ウゼぇ、ウゼぇ! 小物がいい加減ウゼぇんだよ! 返せ! ルカを返せぇぇっ!」
凄惨な逆上を含んだエリーゼの刃が奔放無頼に襲ってくる。アスハは構えたバンカーから障壁を展開するが、攻撃を緩和した状態でさえ身体が吹き飛ばされる。
大木に激突するアスハ。
エリーゼがこの機を逃すはずがない。踏み込まれる追撃の太刀に、アスハの眦が歪む。
ガギィン!!
刃と刃が絡み合い、エリーゼの目の前に迫ったのは、
「――させん。
天魔、お前という悪夢を終わらせる」
己の内に「龍帝」という化け物を潜ませた龍斗であった。
ギシッ…ギシッ…ギシッ…!!
迫り合いの体勢。元より、龍斗は受け流そうなどとは毛ほども思っていない。
「おおうっ!!」
闘気を解放させ、押して、押して、押しまくる。
――流架に告げるべきことは全て伝えた。
弱ければ、きっと呑み込まれる。そうなれば自らの自我さえ繋ぎとめることは出来なくなるだろう。だが、
「俺は俺の宿命を受け入れた。
…先生。俺は、俺達は、人間だからこそ終わりの無い行き先を求めることが出来るんです。そう――信じています」
選んだその路は険しくても正しかったと、人間だからこそ生きていける「答え」が在ると。
龍斗は希む。
●
「アスハさん、無茶しちゃだめ!! 帰りを待ってる人がいるでしょ!? 命大事にして!!」
「……アスハ君……君は」
地面に刺したバンカーを支えに立ち上がろうとするアスハへ、千尋と流架が駆け寄った。
彼に手当てを始める千尋の横で、流架は静かに佇む。唇を真一文字に表情は厳しく、しかし、沁み入るような痛切さを滲ませていた。
だが、アスハの赤い瞳には流架の違う「顔」が映っていた。
それは仮面の裏を引き剥がした、とでも言うべき、真の面のようで。
「……ふ。
誰かの為…ならば、まだ人の領域、か。随分と良い顔だ。さぞ、心地よいだろう。僕は堕ちるなとは言わん。だが、帰りを待っている者の存在、忘れるな」
アスハは片手を上げながら千尋に「もういい」と制すと、ジャケットの裾をはためかせてひらりと戦線へ跳んだ。彼の残滓を、流架は深刻な面差しで見つめる。
「――失くす傷みを知った貴方がどんな選択をするのか、見届けさせてもらいますよ」
そう流架の背に声をかけながら彼を追い越すと、隆道は笑みを置いてアスハの後へ跳ぶ。
続いて由真の姿。
「感情に身を任せすぎです。貴方の大切な人が、今の貴方の姿を見たらどう思うのか……考えてみて下さい!」
朝露のような清らかさで流架を見据え、少女は戦いの場へ駆け抜けていった。
遅れて巻き起こった風が一陣、流架の髪を揺らす。
「……君達は……君達は、本当に……」
寂とした色で表情を揺るがせた後、苦々しく、えも言われぬ感情を抑え込むように――、胸の奥底から声を搾り出した。
千尋の気遣わしげな声が流架の耳元へ届く。
「……先生。
わたしね、本当は普通の女子高生でいたかった。でも普通でいられなくなって…最初は戸惑ったけど最近わかった。家族、恋人、友達、もちろん先生にも笑っていてほしい。だから戦う。
先生が背負ってるものを代わりに背負ったり一緒に持ったりは出来ないかもしれないけど、わたしは先生の力になりたい」
胸の内の想いを偽りなく、はっきりとした響きを持って呟いた。
流架の瞳が僅かに潤んで見えた。そして、一瞬だけ泣き笑いのような表情になり――。
「……君はいい子だね」
見上げてくる千尋の頭を優しく撫でた。
流架の脇で見守るは咲月と直哉。二人は何も語らず、想いを眼差しに「言の葉」をのせる。
「咲月君、直哉君、……ありがとう」
――流架はそんな二人へ視線を合わせて囁き、そして、前へ出た。もう一歩、前へ、前へ。
流架は一瞬だけ千尋達へ振り向く。
まだ少しぎこちないけれど、その大らかな笑顔は紛れもなくいつもの流架だった。
……千尋達の知っている流架であった。
「……微衷を尽くすよ。
終わりなんて求めない。生きるために足掻き続ける。君達と同じ、この『世界』で――」
彼の声は、ひたすらに穏やかなものだった。
●
徐々に西に傾きかけた陽の光が、木々の影を長く伸ばす。
七人の明星の撃退士と、背徳のシュトラッサー。そして、正眼の教師が一人。
浴びる血と自らの流すそれの区別も判らなくなるくらい、廃滅へ向かう戦陣は激しく渦を巻いていた。
「――進化という可能性を、人間を棄てた奴に負けはしない。俺は、人間であることが誇りだ。最後まで足掻いて、踏み止まり、更なる可能性を目指して進む。
それが俺の目指す『強さ』だ」
頬に、胸に、腕に、脚に、なます切りを受けたかのような夥しい傷を身体に、しかし、龍斗は立つことをやめようとしない。目はエリーゼを真っ直ぐに睨みつけ、うわごとのように言い放つ。
「敵の血を浴び、己の血でこの身を染め上げる。それが、修羅として生きることを与えられた俺の宿命」
猛然とエリーゼの懐に入り込み、鎌を水平に薙いだ。その攻撃とほぼ同時、側面からはアスハのバンカーがエリーゼを襲う。
「――ちっ!」
忌々しげにエリーゼは高く跳躍した。二人の攻撃を回避したかのように思われたが――、
「頭上を疎かにしてはいけませんよ?」
背後には修羅の声。
隆道の蹴りがエリーゼの背骨を軋ませ、地面へ叩きつける。
舞い上がる砂塵。
「が……あ、ぅ……」
血を吐き出し、前傾した姿勢から身を起こそうとする彼女へ、間髪入れずに由真の槍が唸った。
「その足、潰させてもらいますよ」
星のような輝きを持っての一閃。槍を棒術のように器用に操った攻撃が、エリーゼの脛に入った。
「――今だ!
咲月さん! 千尋ちゃん! 俺に合わせて!」
「…ん。わかった」
「オッケー、直哉さん!!」
直哉は体勢を崩したエリーゼへ一気に間合いを詰め、彼女の右腹部に薙ぎ払いをお見舞いする。不測の圧力にエリーゼは悲鳴とも叫びとも言えない音を口から溢れ出しながら反撃を試みるが、ターゲットを探す間もなく咲月と千尋の射撃が降り注いだ。
幅の広い刀身で咲月のショットを防いだエリーゼの右肩に、千尋の漆黒の一射がまともに撃ち込まれる。みち、と、鈍い音をたて、
ザシュッ!!
次の瞬間、エリーゼの右腕が刀を握ったまま宙に舞っていた。
「ぎゃあああぁぁぁぁあああぁぁぁっっっ!!!」
絶叫が響く。
右腕を根元から失ったエリーゼは苦悶の表情を浮かべるが――、咲月達の目の前から脅威が去ったわけではなかった。
「こっ……の、――――アマ共がぁぁぁっっ!!!」
ドンッ!!
傷口から間欠的に血を噴き出しながら、韋駄天の如くエリーゼが疾走。
「――うっ!?」
「あうっ!」
理解した時には武器で防御する間もなく、咲月と千尋の腹部は蹴り上げられていた。
――ニタリ。エリーゼは耳まで裂けるかと思うほど口を開いて、文字通り、狂ったかのように笑う。
「あははっ、あはははっ! 殺す! 殺してやる! てめぇら全員首もぎ取って、学園に晒してやる! まずは手始めに――――てめぇからだ!」
エリーゼの足元で蹲り身動きがとれない千尋の首へ、容赦のない圧力が襲った。
「……っあ……!」
絞めあげられる音が骨を伝導して鼓膜に響く。だが、
「――俺の生徒に気安く触れてんじゃねぇぞ」
如実な苛立ちを含んだ言葉の直後、千尋は唐突に握力から解放される。千尋と共に地面へ落ちたのは――エリーゼの左腕。
千尋を背に前へ出た流架の右手には、鮮血を滴り落とす刀がだらりと垂らされていた。誰がエリーゼの腕を斬り落としたか、それは最早明白。
隆道達の波状攻撃を受け、既にエリーゼの身体は朽ちる寸前であった。両腕さえをも失ったその凄絶な姿で、彼女は懇願するように流架の前で跪く。
「ルカ…ルカ…!
お願い、お願いだよぅ…一緒に帰ろう…? 此処はルカの求める世界じゃないでしょ…?」
涙堂を押しあげる彼女の紅い瞳は、唯一、少女らしい戀水を溜めて。
「大丈夫…私が連れていってあげるから…! 昔みたいにアノ、徒花が咲く世界へ――――」
ひどく生々しい音がした。
「俺はこの子達と同じ世界で生きていく。そう、決めたんだ」
証人となった七人の生徒の双眸に、斬られた少女の首がゆっくりと落ちていく様が映る。
それはひらり舞い散る桜のようで――――。
●
黄昏時の病院は耳が痛くなるほど静かだ。
流架の妹は幸い、命を取り留めた。
今はICUで治療中ではあるが、駆けつけた隆道達は安堵した表情で胸を撫で下ろす。
「良かったですね、先生!」
「流架さんのお姿をお見えになられたら、妹さんもきっと直ぐに良くなられますよ」
「ええ。私もそう思います」
直哉の喜びの声に続いて、隆道と由真も目元を緩やかに発する。流架は穏やかな目笑で感謝を返すと、彼らから少し離れて壁に凭れかかった。
睫毛を細やかに揺らして目を閉ざし、俯く。そして今日一日溜め込んだ感情を全て吐き出すかのように、長い溜め息を吐いた。
そこへ、こちらに歩み寄ってくる足音が耳へ届く。
「……どうした?」
気配を察し、流架が首を起こして前を見た瞬間、
ふわり…
咲月の腕が、まるで慈しむかのように流架の身体を優しく包み込んでいた。
「さ、咲月く…?」
突然の彼女の行動に、流架は思わず立ち尽くしてしまう。
「…先生は、この世界に一人しかいない…。妹さんのお兄さんは、流架先生しかいない…。ねぇ、先生…忘れないで。先生は私の世界にも必要な人だからね…?」
柔和に、咲月は想いを囁いて――。
「流架先生……お帰り……」
じわりと目の縁に浮いた感情は、流架の頬を静かに滑り落ちた。