腹の虫が盛大な鳴き声を上げた。
目の前のテーブルには、ほんのりと湯気をたてる飲み物が置かれている。
「これはマテ茶といって、枯れた葉を煎じて淹れたお茶ですの。生物の死骸が原料ですから生命の搾取にはなりませんわ」
純白メイド服姿の斉凛(
ja6571)がにっこりと微笑む。
マテ茶は飲むサラダと言われるほどビタミンミネラルが豊富に含まれているから、空腹で弱った胃に栄養を送り込むには丁度良い。
枯葉というのはちょっとした嘘だが、こう言っておけば抵抗も少ないだろう。
だが、コウは口を付けようとしない。
「死骸から出たエキスを飲むなんて!」
と、そういう理由の様だ。
丁寧に解説しすぎて、藪蛇になってしまったか。
「それなら、これはどうですか?」
美森 あやか(
jb1451)が、丁度良い加減の蜂蜜入りホットミルクを差し出した。
「牛乳は牛さんに餌を提供する代わりに分けてもらうものですし、蜂蜜は巣の安全を守る代わりに蜂さんが集めた花蜜を分けてもらうものです」
勿論、死骸でもないし搾取でもない。
「お花は子孫を残す為花粉を運んでもらう代わりに蜜を虫に提供しているのですから、どちらも生き物殺していませんよ?」
コウは温かいカップを両手で包む。
ほんのりと甘い香りが、湯気と共に立ち上って来た。
ぐるるぎゅぅー。
またしても、腹の虫が窮状を訴える。
「甘い香り…」
端で見ていたマリア・ネグロ(
jb5597)は、目を閉じて微かな香気を胸一杯に吸い込んだ。
「あ、まだありますから…よろしかったらどうぞ?」
その目の前にカップが差し出される。
「良いのですか…? これほど貴重な物を…勿体無くはありませんか…?」
口ではそう言いつつ、手はしっかりとカップを握り締めていた。
「美味しいです…」
そっと口に含み、その程よい甘さに酔いしれる。
マリアにとって、甘味はこの上もない貴重な品だった。
「この様な贅沢なものを頂けるなんて、幸せです。コウさんも飲んでみて下さい…」
素直に感動し、その感動を分かち合おうと勧めてみる。
だが、コウは頑固だった。ここまで拒絶を続けた以上、そう簡単に折れる訳にはいかないのだ。
「それに、俺には貰う資格がない」
牛と人間、花と蜂。どちらの関係も交換で成り立っているなら、自分も何かを返すべきだ。
「でも俺には、返せるものがない。それは、やっぱり搾取だ」
なるほど、それも一理ある…かもしれないが。
「変った子やねぇ」
楽しそうに微笑みながら、亀山 淳紅(
ja2261)が言った。
「自分は淳紅や、よろしゅーな!」
「ぁ、うん。よろしく」
差し出された手を、コウは弱々しく握り返す。明らかにエネルギーが足りていない。
「だったら、少し気分転換でもどうやろ?」
こういう事は口で説明するよりも、身体で感じた方が良い。
野山や海で命の営みを肌で感じた後でなら、説得もきっと上手く行くだろう。
「フィールドワークっちゅう奴や。あ、お茶とミルクは貰って行くなー?」
保温容器に入れて荷物に加え、淳紅はコウを引きずって歩き出した。
「…なかなかの強敵ですわね」
二人が出て行った後、凛はそっと溜息をつく。
だが、戦いはまだ始まったばかり。こんな所で挫けてはいられない。
「さてここからがメイドの腕の見せ所」
恐らく今以上に腹を空かせて帰って来るであろう、そこからが本番だ。
まずはお菓子の下拵え。じっくり時間をかけて、最高の味を提供するのだ…メイドの誇りにかけて。
「お、斎君は気合い入ってるね」
凛の様子を見て、アニエス・ブランネージュ(
ja8264)が言った。
「ボクはどうしようかな。料理できない訳でもないけど、得意かというとそんなことも無いし…」
ここは教師志望らしく、教え諭す方を重視していこうか。
メニューは抵抗感の少ないものを考えてみよう。
「はぐれ悪魔や堕天使が相当な覚悟でこちらに来ていることは理解しているつもりだよ。けど、そうまでしてこの世界に来てくれた相手を、栄養失調で倒れさせてしまう訳にもいかないからね…頑張ろうか」
「うーん、食べることはサクシュ、なんだ…」
向こうでは新崎 ふゆみ(
ja8965)が、こんな顔(´・ω・`)をしていた。
「ふゆみ、なんか違うような気がするんだ…」
「俺もそう考えたことは無いでもないけど、生きてる以上はどうしようもないからなぁ」
佐藤 健太郎(
jb0738)も腕を組み、眉を寄せる。
「さて、どうしたものかな…」
肉じゃがとカレーは得意だが、料理をする人は他にもいる。
とりあえず、自分に出来るのは説得くらいか。
聞き分けのない弟に対する様な気持ちで接してみればいいだろうか。
「うん、それなら得意だ」
と言うか、慣れている。伊達に長年、六人兄弟の長男をやっている訳ではないのだ。
「じゃあ、ふゆみはお買い物に行って来るんだよっ☆ミ」
こちらもやはり、小さな弟や妹の面倒を見てきた実績がある。
難しい事はよくわからないけれど、愛情料理には自信があった。
ついでに「良い物を安く買う」主婦スキルも持っている。
「えーっと、キャベツに、ひき肉…うん、玉ねぎが安いんだよっ☆ミ」
今日のメニューは一番得意なハンバーグと、飲みやすいジャガイモのポタージュ、それに温野菜のサラダにしよう。
「オオバコ・タンポポ辺りは見分けやすいし、下手に毒草摘んだらあれやしね」
近くの里山に出掛けた淳紅は、根を残す様に気を付けながら様々な野草を摘んでいく。
と、傍らで見ていたコウが突然腕を掻きむしり始めた。
「痒っ」
「ああ、そろそろ蚊の出る季節やねえ…ほら、また来た」
見ると、コウの腕に黒っぽい小さな虫が止まっている。
「こいつは何をしてるんだ…?」
「血ぃ吸ってるんや、コウ君の」
「ええっ!?」
コウは慌てて腕を振り、先を行く淳紅を追いかける。
やがて開けた場所に出ると、二人の目の前を黒っぽい鳥が素早く横切って行った。
「ツバメはあーいう小さな羽虫を捕まえてんねん」
さっきコウを刺した蚊も、今度はツバメに食べられるかもしれない。
「チョウは花の蜜を、カマキリはチョウを―…」
後は自分で考えさせようか。
「さあ、次は海で魚釣りや」
淳紅は満面の笑顔でコウを促す。
釣れたのはハゼが数匹程度だったけれど――
「それじゃ、いただきます」
まだ意地を張っているコウを横目に、淳紅は揚げたての天ぷらをぱくり。
ぐるるる、ぎゅごぉーっ! コウの腹が、いよいよ悲痛な叫びを上げ始めた。
「コウ君は、こうやって搾取して生きてる自分のことをどう思う? さっき見た生き物達の食事をどう思った?」
「どう、って…」
悪い人ではないと思う。寧ろ良い人だ。それも、すごく。
生き物達の捕食も、自然で当たり前の事に思えた。
「自分はね、こんななるまでバカみたいに悩むコウ君、かなり好きよ」
淳紅は天ぷらを頬張りながら穏やかな笑顔で続ける。
「皆が当たり前としてることを疑って悩んで、食べへんっちゅー意思表示を示したことを尊敬する。で・も!」
ずいっと顔を寄せた。
「自分コウ君は好きやしー? 食べへんことで倒れてお陀仏! みたいなん嫌やから…」
その顔から、笑みが消える。
「この後のお茶会でも食べへんようなら拘束してでも栄養補給させるで」
本気だ。
でも空きっ腹に天ぷらは酷だし、歩き回って喉も渇いているだろう。
「まずは、これやな」
差し出されたお茶とミルクの誘惑に、コウは抗う事が出来なかった。
戻ってきた二人が調理実習室の度絵を開けると、美味しそうな匂いの洪水が押し寄せて来た。
お菓子の焼ける甘い匂いに、肉の焼ける匂い。スープの鍋はコトコトと音を立てながら、美味しくなるのを待っている。
皆、このタイミングを見計らって調理を始めたのだ。
部屋の一角にはパーティ会場が出来上がっている。
凛のメイドの意地をかけた美しいテーブルセッティングが目を引いた。
「さあ、あちらへどうぞ。開始までもう少しお待ち下さいね」
「その間に、これはいかがですか?」
あやかが林檎を差し出してみる。
「果物は美味しい果実を付けて動物に食べて貰って、代わりに種を運んで貰うんですよ」
皮を剥いて種を出して見せる。
「生きているのは、この種の方なんです」
果肉を食べて種を取り出さないと、その植物は成長出来ないのだ。
そう説明しながら、あやかは摺り下ろした林檎にスプーンを添えて、コウの目の前に置いてみた。
皆が心配そうに見守る中。
「うまい」
食べた。一口食べると、一個分を平らげるのはあっという間だった。
その様子を見て、凛はお茶会の開始を宣言する。
「お茶会はじまりますわよ。さあお客樣方お座り下さい」
テーブルには甘い香りが漂う、見た目も美しいお菓子が所狭しと並んでいた。
ここにいる全員が「お客様」だ。
「食事は栄養の補給だけではなく、一緒に食事する人とのコミュニケーションが大事ですわ」
あやかも事前に作っておいたプリンやクッキー、それにご飯のおかずになりそうな豚の角煮や漬物を並べていく。
「できたんだよっ☆ミ」
そこに、ふゆみが出来たての料理を運んで来た。
肉は少しハードルが高いかもしれないが、スープなら…
しかし、材料を聞いてコウは首を振った。芋は種そのものだと、そう言うのだ。
「命あるものは、食べられない」
「…それじゃあ、ふつーに、ごはんたべて、生きてることは…みんな、サクシュじゃないのかな?」
ふゆみは悲しげに目を伏せた。
「ふゆみたち…ううん、ふゆみたちだけじゃない、この世の中に、そうしないで、生きてるイノチなんてあるの?」
「何も奪わずに生きられるならそれが一番だけど、俺たちの世界はそう都合よく出来てないんだ」
健太郎が穏やかに問いかける。
「食べないともたないってのは君ももう分かってるんだろ? 生きて動いてやりたいことがあるならきちんと食べないと、本当に何も出来ないぞ?」
「それは…わかってる」
わかっては、いるけれど。何かこう、ストンと腑に落ちる様な答えが欲しかった。
「食事を搾取と言われれば、事実なんだよね」
でも、とアニエスが続ける。
「ボク達は、自分達が死なない為に他の命を取り込んで生きている。そして、そうやってつないだ命を失いたくないから自分達から奪おうとするものに抗ってる。勝手な話だけど、ね」
そこが、必要以上のものを奪おうとする天魔との違いだろうか。
「犠牲にする、と事象だけを眺めれば同じなのやもしれません…。ただその必要があるのか…その点が違うのでしょう」
マリアも同胞の搾取を悪としてこの世界に堕ちた者だ。
しかし、だからといって食事を拒んだりはしない。
「同胞や悪魔達が行っている搾取の先にあるのは、互いに相手を滅ぼすという私利私欲。そして更なる犠牲です」
人間とて私欲の為に戯れに命を奪えば、それは穢れた行為となるだろう。
そうであるならば、搾取と断じる。しかし――
「私はただ生きて…この世界と人の子を守りたいだけ…。貴方は…?」
このまま果てる事を選ぶのだろうか。
それならそれで仕方がない。世界の規律だからと押し付ける事も出来なかった。
「ふゆみ、死ぬのはいやだもん★ミ」
黙っているコウの代わりに、ふゆみが言った。
死にたくないから、あがくだけ。天魔と戦うのも、ごはんを食べるのも。
「ほかのイノチを食べて、みんな、生きてるんだよっ」
皆食べて、食べられる。それはきっと、どこの世界でも変わらない。
「でも、奪いっぱなしでもないよ?」
アニエスが言った。
「魂や感情吸収と違って、僕達は食べたものを全て自分の物に出来ない。必要な物以外は出すわけだけど、それを取り込んで自分の命を育む生き物もいる」
それは奪われた命とは別の命ではあるが、そうして回りまわるのが、この地球なりの「生命」なのだ。
「果物だけで人が生きて行く事は出来ないんです」
あやかがコウの手に林檎の種を握らせた。
生きる為に必要なものは、生きているものを食べる事でしか得られないのだ。
「自然界でも大地が草を育て、その草を草食動物が食べて、草食動物を肉食動物が食べて、肉食動物が死んだら大地に帰る…命ってそうやってめぐっていくものだと思います」
あやかに言われ、コウは蚊に血を吸われて、ボコボコになった自分の腕を見る。
「それにな、食料になった死体は食べないと何の役にも立たない」
健太郎がテーブルに並ぶご馳走を見ながら言った。
食べなければ、これは全てゴミとして捨てるしかない。
「生きる為の食料の摂取を拒否するってのは、一つの死を無駄にするってことなんだぞ? 良いとか悪いとか以前に、一番やっちゃいけないことだ」
「…!」
その言葉に、コウは衝撃を受けた。
「考えた事も、なかった…」
「でも、今はもう知ってる」
どうすれば良いか、考える事も出来る。
「俺たちに出来る精一杯は、俺たちの為に栄養になってくれる食料とか、それを準備してくれた人に対して感謝しつつ、きちんと無駄なく残さず食べる。これだけだと思う」
それを聞いて、コウは料理を作ってくれた皆の顔を見た。
そうだ、自分は彼等に感謝する事も忘れていた。
「人間は大体そのことを知ってて、ちゃんと感謝の仕方もあるんだ。俺の知ってるのだと…」
健太郎は両手を合わせて頭を下げた。
「いただきます」
「いただき…ます」
コウもそれを真似ると、ポタージュを口に運んだ。
野菜の旨味が口いっぱいに広がる。
「…うまい」
続いて温野菜のサラダに手を付けた。肉はまだ少し抵抗がある様だが…
「まあ、線は自分で決めればいいさ。本当に死なないギリギリだけ、というならそれも良い…うん、美味しいね」
アニエスはそう言いながら、凛のお菓子に舌鼓を打つ。
「本当に、美味しいです…」
一応場を弁えて、コウの様子を伺いつつ口にしたマリアも忽ちその虜になってしまった。
乾パンが主食という彼女にとって、それはどんな高級料理にも勝る味。
「コウさんも如何ですか? 此方も凄く美味しいです…」
マリアに勧められ、コウもクッキーを一枚。
「ほんとだ、美味い」
その一言に、凛は内心で勝利のポーズ。
しかし顔には出さずに、笑顔で給仕に精を出す。勿論、自分も輪に加わって楽しむ事は忘れなかった。
「美味しいご飯は気持ちも幸せになりますよね」
あやかが嬉しそうに微笑む。
気が付けば、肉も含めて料理はあらかた皆の腹に収まっていた。
「やっぱり天ぷらも食べとけば良かったかな」
そんな事を言い出したコウに、淳紅が笑いかける。
「海釣り、また釣れてったるわ」
「うん、ありがとう」
皆にも、ありがとうと…ごちそうさま。
大事なのは感謝して戴く事と、無駄を出さない事。
そして、様々な犠牲の上に生かされているのを忘れない事。
暫く後、部屋に置いた植木鉢から小さな芽が出たと、コウからの報せがあった。
それは、あの時の林檎が命を繋いだ姿だった。