「きゃー!」
せせらぎの音しか聞こえない静かな渓流に、突如として黄色い悲鳴が響き渡った。
人の気配など全く感じていなかった少年は、持っていたキュウリを思わず取り落とす。
「きゃー河童よー♪ とうとう見付けたわー!」
黄色い声の主、雁久良 霧依(
jb0827)は、興奮した様子で少年に抱き付いた。
「うわぁっ!?」
その豊満な胸を顔に押しつけられ、少年はじたばたと暴れている。
「……あら? 河童じゃないわ。興奮して間違えちゃった♪」
少年を解放すると、霧依はわざとらしく言いながら怪しげな肩書きの書かれた名刺を取り出した。
「北関東河童愛好会行動隊長……?」
そのいかにもパソコンで作りましたという感じの名刺と、目の前でにこやかに微笑む河童の着ぐるみ。しかも安物。
胡散臭い。どう見ても胡散臭い。
「私、河童に会いに来たのよ♪ 河童が仲間だと思う様にこんな恰好なの♪」
そう説明されても、河童の専門家だと言われても、少年の眉間に刻まれたタテジワは消えなかった。
怪しい人と口をきいてはいけないと、学校で教わった事を思い出す。
しかも、怪しい人物は一人だけではなかった。
「そんなに警戒しないでよ」
苦笑いと共に、レン・ラーグトス(
ja8199)が前に出た。
「翔くん、だよね?」
どうして知っているのかと思いつつ、翔は頷く。
「この辺りに河童が出るって噂を聞いてさ。本物ならお目にかかってみたいじゃない? 村で話を聞いたら、先に行った子がいるって言うから追いかけて来たんだ」
我ながら物好きだよね、と言いながら、レンは片目を瞑って見せた。
「俺も見てみたいと思ってな。そいつらが本物なら、だが」
そう言った御影 蓮也(
ja0709)の言葉に、翔は眉をひそめた。どういう意味だろう?
その疑問に答えたのは、自分よりも年下に見える少年、音羽 千速(
ja9066)だった。
「姉ちゃんや兄ちゃん達から聞いた事あるんだ。河童は人間が大勢いるってわかっている時は姿を現さないって」
「……え? でも……」
河童達は、そこに居る。川の対岸の岩場から、こちらをじっと見つめている。
「逃げないじゃん」
「うん、だからね。あいつらは偽物じゃないかと思うんだ」
偽物? どういう事? この人達、何?
「ボク達は撃退士!」
千速が胸を張って答える。
「この川で河童みたいな影を何かが追いかけ回してて、その何かが河原で河童そっくりに化けた、って連絡があって、その『何か』を退治しに来たの!」
撃退士。確か、普通の人間には倒せない化け物を退治してくれる人。
(こんな小さい子や、女の人まで……?)
翔は自分を見つめる顔を順番に見返した。後ろの方にいた銀髪のお姉さんと目が合う。
そのお姉さん、ナタリア・シルフィード(
ja8997)は微笑みながら頷いた。
未知を求める身の上としては、翔の気持ちはそれなりに分かるつもりだ。だから、どんな形であっても納得の行く結末を迎えさせてやりたい……その笑顔には、そんな決意が秘められていた。
「私はただの河童愛好家だけどね♪」
霧依が付け加える。彼等とは道中で偶然知り合ったという設定らしい。
「河童の習性はあの子が言う通りだけど、中には例外もいるかもしれないでしょ?」
そんな河童がいるなら大発見だと、霧依は興奮気味にまくし立てる。
「それを確かめるには、やっぱり餌付けが有効なのよ」
しかし、それには危険が伴う。偽物だった場合は襲って来るからだ。
「だから、ここは私達に任せてくれない?」
その言葉に何故だか逆らい難いものを感じ、翔はこくりと頷いた。
「尻子玉って実在するのかしら?」
仲間達の説得の様子を遠巻きに眺めながら、weiβ Hexe(
jb1460)が呟いた。
「実在するなら見せてほしいわ」
隠し持ったトートタロットを弄んでいた手を、ふと止める。死神のカードが目に留まった。
「でも、絶命するって聞いたことあるからね……そこまでして見るものでもないのかしら……」
指を動かすと、死神の背後に隠れたカードが顔を出す。
愚者。占った訳ではないが、やはりそこまでして見るものではない様だ。
その向こうでは、鬼無里 鴉鳥(
ja7179)がただ黙って事の成り行きを見守っていた。
人ならざる者に対して無邪気な希望を抱く少年に対し、かけるべき言葉は自分にはない。
そんな希望など、彼よりも更に幼い時分に捨て去ってしまった。捨て去るしかない環境に身を置いて生きてきた。
あの年齢になってもまだ、そうした希望を抱ける。抱く事を許される。それを羨ましくも思うが、その一方で愚かしいと感じる自分がいる。
(そのような事を考える私が、説得など出来る筈もない)
だから、口出しはしない。ただ斬るのみ。
(……終わったか)
どうやら、説得は功を奏した様だ。
鴉鳥は音もなくその場を離れ、敵との距離を詰める。
weiβはその対角線上へと回り込んだ。
御守 陸(
ja6074)は、敵は勿論、翔にも気付かれない様に注意しながら、近くの茂みに身を伏せてスナイパーライフルを構えていた。翔が思わぬ動きをしても、この位置なら射線に入る事はないと計算した上での位置取りだ。
スコープに河童の姿を捉える。今の彼は、冷徹なスナイパーだった。
彼等はまだ、動くそぶりを見せない。こちらの出方を伺っているのか、或いは水辺に近付くのを待っているのか。
「じゃあ、このキュウリは預かるからな」
蓮也は翔の手からキュウリを受け取り、一本をレンに手渡した。
「船はお前がしっかり守るんだぞ」
言われて、翔はブリキの船をしっかりと抱き抱え、後ろへ下がる。
入れ替わりに前へ出た二人が河童に向けて呼びかけを始めた。
「ほら、好物のキュウリだ」
「ほらほら、キュウリだよ〜。怖くない怖くない」
二人は努めて明るく優しく友好的に振る舞ってみる。
「採れたてだよ〜、瑞々しいよ〜」
ノリの悪い河童に向けて、レンはキュウリを小さく折ってみた。どれか一匹くらい食いついて来る奴はいないかと、あちこちに向けてみる。
何匹かが岩場を降りて、川の中へ飛び込んだ。川面から目だけを出しながら、するすると近付いて来る。
しかし川の中程まで来ると、ぴたりと動きを止めた。やはり相手が水辺に近付いて来るのを待っているのだろうか。
だとしても、その手に乗る訳にはいかない。レンも蓮也も、河童が動くのを辛抱強く待っていた。
と、その時――
「きっと大人じゃダメなんだよ、貸して!」
翔が霧依の背後から飛び出し、河童の動きに気を取られていた蓮也の手からキュウリを引ったくった。
制止も聞かず、翔は川縁まで走る。
その瞬間、河童の頭が水の中に沈んだ。岩場に残ったものも、次々と川に飛び込む。
――パシャッ。
翔の足下で、小さな水飛沫が上がった。水中から緑色の手が現れて、その細い足を掴もうとする。
だが、その手が何かを掴む事はなかった。
一発の銃声と共に血飛沫が飛ぶ。陸が放った弾丸が河童の腕を吹き飛ばしたのだ。
次いで、陸は水面から現れた頭の皿に狙いを付ける。だが、銃弾が直撃しても河童は死ななかった。血を流して苦しんではいるが、まだ生きている。
「これ……河童じゃないわ。偽物よ!」
血塗れの河童を呆然と見詰める翔の体をしっかりと抱き締め、霧依は大真面目に言い放った。
本物なら皿が割れて即死する筈だ。それに……
「皆の言う事も勿論だけど、顔面の配置が河童黄金比から77%も外れてる!」
はい?
「専門家の私が言うんだから間違いない! 逃げるわよ!」
こっそり光纏、がっつり退避。霧依は盾を構えて翔を守る。
「やっぱりディアボロか」
二人を背にした蓮也が言った。
「さっき言ったろ、俺達は『何か』を退治しに来たって」
その何かがこれだと、蓮也は河童に向かって石を投げた。手から離れた石はアウルの効果を失い、河童の体をすり抜ける。
「俺達はこの辺で河童を追うディアボロを見たって連絡を受けてきたんだ。話によるとそのディアボロが河童に変化したらしい」
これだけ見せれば、少なくともこれが本物でない事は理解してくれるだろう。
出来れば夢を壊さずに収めたい処だが、それにはまず目の前の偽物を倒さなければ。
「わかったら、安全な所に隠れていてね。そこを動いちゃだめよ?」
言い置いて、ナタリアが前に出た。
水辺から離れた位置に立ってとびだす絵本を開くと、上手い具合に雷が出た。そこを蒼天珠から放たれた風の刃で追い討ちをかける。
「そんな遠くからじゃ、自慢の銛も届かないでしょう?」
自ら水際に踏む込む様な、不利な状況に陥る事がない様に注意しながら、ナタリアは挑発を続ける。
それに加わり、蓮也もチャクラムを投げて注意を惹き付けようとした。
しかし水から離れれば不利とわかっているのか、彼等はなかなか誘いに乗って来ない。
だが、来ないなら無理にでも来させるまでだ。
蓮也は得物をカーマインに持ち替えると、その炎の様に紅い金属製の糸で標的を絡め取り、引き寄せる。動きを封じられたまま、河童の体は肉塊と化していった。
「本当の面見せたな。偽者が」
本性を露わにした敵を、光纏したレンの鷹の如き瞳が見据える。口調も今までとは変わっていた。
レンは大太刀を振りかざし敵の群れに斬り込んで行く。
だが、水辺で戦っては相手の思う壺だ。
「そうやって引き込む気なんだろう?」
レンは両手に持った大太刀を大上段から力一杯に振り下ろし、その勢いで高速の衝撃波を飛ばした。狩技、翔るは襲爪の如き太刀。真空の刃が敵に向かって真っ直ぐに進む。
その攻撃にタイミングを合わせる様に、別の角度からも三日月の様に鋭い無数の刃が飛んで来る。
「そうやって固まっていてくれると助かるわね」
壊れた様な笑みを浮かべながら、weiβが言う。その攻撃はレンの衝撃波と重なり、河童達を切り刻んだ。
攻撃を喰らって川に逃げ込もうとした河童の手首に、チタン製の糸が絡み付く。weiβが糸を引くと、緑色の皮膚に真っ赤な線が幾重にもなって現れた。
「ああ、河童のミイラって江戸時代あたりでは有名な日本土産よね。これで実物が作れないかしら?」
全身が無理なら手首だけでも良い。各地に伝わるものの実態は動物の手首らしいが、それに比べれば遙かに本物に近いものが出来上がりそうだし。
「助けてー!」
向こうでは、千速が叫びながら逃げて行く。勿論それは演技だが、河童達がそれに気付く筈もなかった。
小柄な千速を格好な獲物と思ったのか、川から離れるのも構わずに追って来る。
充分に川から引き離した所でくるりと振り向き、千速は相手の頭上からバスタードソードを叩き付けた。
頭の皿がぱっくりと割れて、血が噴き出す。それを見て、残りの河童は一目散に逃げ出した。
「逃がさぬ。貴様等は此処で総て、朽ちて滅べ」
回り込んだ鴉鳥がその前を塞ぐ。刹那に現れた大太刀の一閃に、河童の片腕が飛んだ。
戦う以上、容赦はない。
(彼等の元となったモノが何かと思えば、死こそ救いなれば――)
逃げる背中に刃が飛んだ。
「――虚空刃が崩し、呪」
虚空刃、呪(カシリ)。抜刀一閃と共に放つ、漆黒光の衝撃波が甲羅を切り裂く。
「逃がさないよ!」
それでも逃れようと足掻く敵の退路を、水上を走って回り込んだ千速が塞いだ。
渓谷のそこかしこに、淡々とリズムを刻む様な銃声が響く。
やがて、川の流れが全ての穢れを押し流して行った。
「……あれは、あの河童共は酷い悪さをする連中であった」
全てが終わった後、鴉鳥が翔に告げる。
「汝の祖父殿の友人とはまた違う者達であった。……それだけの、事だろう」
その言葉を、翔はがっくりと首を項垂れたまま聞いていた。
気落ちした姿に、鴉鳥は次の言葉を探す。だが、気の利いた言葉は見付からない。
しかし、鴉鳥にはそれを代わりに見付けてくれる仲間がいた。
「あれは偽者だったけど……お祖父さんのお友達の河童さんは、きっと平和に何処かで暮らしてると思う」
戦いが終わって初めて姿を見せた陸が、穏やかな笑顔で言った。
「そうね、此処に本物の河童は絶対いるわ」
河童専門家も胸を張る。仲間が頑張ってくれたお陰で、戦闘面の特殊能力を発揮する機会はなかったが、河童の真贋判定なら右に出る者はいないのだ。
「あいつらが怖くて、隠れていただけかもしれないよ?」
陸が言った。
「それに、河童を初めとした本物の妖怪はほとんど神経質で、出会いたいと思う気が強いほど会いにくくなるって聞いた事があるよ」
レンが付け加える。
「河童って……本当にいると思う?」
翔が顔を上げ、訊ねた。
「ボクは信じてるよ?」
千速が即座に答える。
「だって小さい頃川で遊んでて溺れかけて、何かに助けられた事あるもん。あれは河童だったって思ってる」
「何かって……じゃあ、見た事は?」
「……それは、ないけど」
それを聞いて、翔は再び肩を落とした。
(……ボクが変化の術で化けた姿見せたら、河童の存在信じてくれるかな?)
やはりここは、かねてから相談しておいたアレを実行するしかなさそうだ。
こっそりと目配せをして、作戦開始。
「あ、ボクは門限があるからそろそろ帰らなきゃ」
ふと思い出した様に千速が言うと、蓮也が同行を申し出た。
「じゃあ、俺も付き合うか。お爺さんに翔の無事を伝える必要もあるしな」
本当に帰る訳ではなかった。これから一芝居打つ為の準備にかかるのだ。
千速が河童に化けるなら、蓮也の変装は必要ない気もするが、せっかく用意したものを使わないのも勿体ない。
「泳ぎは得意だが、河童役は初めてだからな、何とかやってみるか」
近くに温泉でもあれば良いのだが。
「河童って確か妖怪のくせして意外と義理堅い所があるのよね……」
去り行く二人を見送りながら、ナタリアがぽつりと言った。
彼等は本物の河童を助けた事になっている。もしかしたら、恩返しに姿を見せてくれるかもしれない。
もう少し待てば、きっと。
どうしても船を返したいなら、キュウリと一緒に供えておけば良い……レンに言われて、翔は川岸にそれを置いた。
専門家の助言に従って、離れた場所に隠れて夕暮れを待つ。河童は黄昏時に姿を現す事が多いのだそうだ。
やがて陽も暮れかかった頃。
二つの影が岸辺に姿を現した。片方の姿は日陰に入ってよく見えない。しかし、もう片方は……
小さな人影を、夕陽が照らす。背中の甲羅がキラリと光った。
着ぐるみや作り物では出せない質感。
それはゆっくりと供え物に近付くと、キュウリを美味そうに食べた。
食べ終わると、船をそっと取り上げて水に浮かべる。
ポンポンと音を立てながら走る小さな船を、二つの影が追って行き……やがて、闇に紛れて消えた。
「あれは間違いなく本物の河童よ」
専門家に太鼓判を押されるまでもない。
「親子、かな」
河童が残した川魚を手に、少年の顔は満足げに輝いていた。