●はたらくひとたち
海賊船は、波の静かな入り江にその黒い帆を休めていた。
幸せな恋人達の為に企画されたイベントなのに、その会場が黒いボロ帆にドクロのマークが描かれた海賊船とは……主催者は一体どんなセンスをしているのだろう。
「でもそれなりに人が集まってるってことは、別に問題はないのかな……」
黄昏ひりょ(
jb3452)は、託児所のバイト仲間である不知火あけび(
jc1857)と共にその不気味な帆を見上げた。
「そう言えば、ひりょさんはここで遊んだことあるって言ってましたよね」
「うん、でも海賊船は二隻あるんだ。この船だったかどうかは……」
あけびの問いに、ひりょは甲板に視線を彷徨わせる。
(この船って、俺が前に突き刺さった船じゃないよね? 跡が残ってたりしないだろうな)
そして、ある一箇所に釘付けになった。
「なんだ、あれ」
甲板のど真ん中に、何かが建っている。
いや、突き立っていると言ったほうが良いだろうか。
「なんでしょう、何かのオブジェかな?」
「う、うん、そうだね……なんだか、よくわからないけど」
ひりょはとりあえず、そう言って誤魔化しておいた。
しかし、それはどう見ても……
(俺だ、甲板に突き刺さった俺の姿がオブジェになっている!)
跡が残ってるどころのレベルじゃなかった。
その瞬間が永久保存されていた。
誰だ、そんな悪趣味なことを思い付く奴は。
(でもまあ、修理代を請求されなかった代償と思えば……)
いいのかな、うん。
顔は隠れているから、誰の姿かはわからない筈だ。多分。
「そう言えばひりょさん、海賊船にダイレクトアクセスしたって報告書に――」
「あっ、そろそろバイト始まる時間だよ、行かなきゃ!」
誤魔化した。
誤魔化しきれた――と、思いたい。
さて、そんなわけで。
誰かが気持ちよく遊ぶ為には、裏で誰かが額に汗して働かねばならぬのが世の摂理。
皆が遊んでいる時には誰だって一緒に遊びたいものだ。
もしも働くことを強要されているなら、その思いはいっそう募るだろう。
しかし自分から買って出たものなら、それは楽しみながらお金がもらえる美味しい時間となる、かもしれない。
かくして、このスイートシーズンを絶好の稼ぎ時と見定めた者が数名――
託児所には先ほどの二名、ひりょとあけびの他に志願者が一名。
「これから暫く、ご一緒させていただきます。よろしくお願いしますね」
星杜 藤花(
ja0292)はそう言って頭を下げる。
子連れ主婦である藤花は一人息子の望を託児所に預けての託児所バイト……つまり息子の面倒を見ながら他の子供の世話をすることになる。
「先輩主婦が一緒なら心強いね、俺も色々教えてもらおうかな」
孤児院で育ったひりょは子供がわちゃわちゃ大勢いる状況には慣れているものの、専門的な知識があるわけではなかった。
「私にも教えてほしいです」
あけびに至っては育った環境が少々特殊だったため、子供の扱いなどさっぱりわからない。
「可愛いなーとは思うんですけど、泣かれたりしたらどうしたら良いかわからなくて」
「わたしもそんなに、わかっているわけではないんですよ」
藤花が小さく笑う。
「ですから、保育士の資格を取りたいと思って」
今回はその為に少しでも経験を積んでおこうと考えてのバイト志願だった。
「お母さん業だけでも大変そうなのに、ずいぶん頑張ってるんですね」
感心したように言ってから、あけびはふと首を傾げた。
「でも、とても子供がいるようには……あっ、ごめんなさい」
「いいえ、いいんですよ」
よく言われますから、と藤花はにっこり。
実際、結婚して二年と数ヶ月だけど未だに純粋培養継続中だし、息子は養子だし――なんてことは、わざわざ言わないけれど。
そして、こちらは厨房。
ここでは藤花の夫である星杜 焔(
ja5378)が働いていた。
得意料理は和食にカレー、それにパイなら中身を問わず何でも。
「不得意は特にありませんので、手の足りないところで好きに使ってください〜」
何なら皿洗いでもいいし、材料の搬入などの肉体労働でも構わないけれど。
「昼は毎日入れますよ〜」
夜も他のバイトがない時には毎日でも。
そんなに稼いでどうするつもりだと問われても、焔はふわりと笑うばかりで何も答えない。
けれど夢があるから。目標があるから。
今は腕を磨いて、資金を貯めて――
「料理人が間に合っているなら、俺は配膳に回るか」
同じく厨房志願の逢見仙也(
jc1616)が呟く。
しかし大丈夫、厨房の仕事はいくらでもあるし、いくら手があっても足りないくらいだ。
何しろオープンカフェのランチメニューからスイーツ食べ放題、それに続くディナーに、ダンスパーティ用の軽食やドリンク、更には翌日の朝食バイキングまで、料理は船の厨房で一手に引き受けるのだから。
大人数を対象にしたパーティ料理は食材の質や料理人の腕も重要だが、何より重要なのは料理の段取りだ。
温かいものは温かいまま、冷たいものは程よく冷やして、全員に同じものを同じタイミングで出す、それが鉄則。
「……マネジメントなら、お任せ下さい……」
申し出た月乃宮 恋音(
jb1221)は料理の腕もさることながら、マネージャーとしても確かな腕を持っている。
「……それでは……まずは食材とメニューの確認からですねぇ……」
食材が予定通りに搬入されていれば良し、何かのトラブルで確保が難しいものがあれば代替品を探すか、或いはメニューを変更するか。
スタッフ間の意見を調整しながら、恋音はてきぱきと作業を振り分けていった。
「料理の方は大丈夫そうですね」
その様子を見て、木嶋香里(
jb7748)は手が回っていない部分のフォローに当たる。
「ダンスパーティにはドリンクが付き物ですよね」
通常なら大人向けにアルコール飲料が振る舞われるところだが、予約者のリストを見ると未成年の参加も多いようだ。
ならば気分だけでも大人の世界に浸れるように、ノンアルコールカクテルを用意しておこうか。
「仕込みは済ませておきましょう♪」
アルコール抜きでも大人用と見た目が変わらないものが作れるカクテルは、結構ある筈だし。
やがて陽が高く昇る頃から、オープンカフェで昼食やスイーツを楽しもうという人々が集まり始める。
「精一杯のおもてなしをしますね♪」
仕込みを終えた香里は厨房に立った。
「メニューにない料理でも、リクエストがあればお作りしますよ」
ただし材料があれば、だが。
「……それでは……私はお客様の注文を取ってきますねぇ……」
カフェの制服に着替えた恋音が声をかける。
なお対応するサイズが存在しないため、それは自ら改造した特別仕様だった。
「……材料は全て把握していますが……念の為に、リクエストにお応え出来るかどうか……確認を入れてほうがいいでしょうかぁ……」
「いいえ、大丈夫ですよ。これでもサロンの女将ですから♪」
気紛れな客のワガママに見事応えて見せるのも仕事のうちと、香里は微笑む。
寧ろ予想外の注文が舞い込んだほうが楽しい、かも。
「……わかりましたぁ……それでは、メニューのほうにもそう書き添えておきますねぇ……」
もし手が足りなければ応援に戻るからと言い残し、恋音は厨房を後にした。
「さて、せっかくだしバイトついでに面白い物が見れると良いな」
仙也は時折厨房を離れ、配膳のついでに会場の様子を見て回るつもりだった。
今回は料理の経験とバイト代を得ることが主な目的だが、それだけでは面白くない。
久遠ヶ原島内でのイベントだけあって、参加者は殆どが学園生だ。
直接の面識はなくても、新聞や依頼の報告書でよく見かける人物は多い。
もちろん相手はお客様だから、失礼のないよう気を付けるし、例え知り合いでも余計な詮索はしない。
だが「バイトで出会った面白エピソード」のように、個人的な体験談としてメモにまとめる程度のことは構わないはずだ。
「思い出し笑いのネタにするくらい、問題ないだろう」
よほど面白いものがあれば学校の新聞に投稿するかもしれないが、その場合でも個人の特定は出来ないようにすればきっと大丈夫。
まあ、名前を伏せても誰のことかバレバレになる程度には、個性的な有名人が多いのも事実ではあるが。
ともあれ、こうして約一ヶ月にわたる甘い甘いイベントが幕を開けた。
●海賊船に、怪獣あらわる
初日の朝から、託児所は子供達の歓声で溢れていた。
「お客さんの殆どは学生だから、子連れの人はそんなに多くないと思ってたのに」
あけびは半ば呆然と、走り回る子供達を目で追いかける。
出来れば足でも追いかけたかったのだが、彼等の無秩序な動きに翻弄されて身動きが取れなくなっているようだ。
少しもじっとしていないうえにギャーギャーうるさいチビッコ達はまさに怪獣。
「これに比べたら、ディアボロやサーバントのほうがまだ動きを読み易いかも」
はっ、もしかしてこれは動体視力と瞬時の判断力を鍛える為の良い訓練になるのでは!?
「あけびさん、元気に遊んでる子は適度に放っておいても大丈夫だよ」
「えっ、そうなんですか?」
緊張した様子で聞き返したあけびに、ひりょは柔らかな笑顔を返した。
「うん、そういうのは専門の保育士さん達がちゃんと見ててくれるしね。俺達の仕事は、その補助だから――」
子供達の動きを見るよりも、監視カメラのように場所を見ていたほうが良いかもしれない。
「場所、ですか」
「自分の目が届く範囲だけをしっかり見て、その中で問題が起きないかを注意しておく……みたいな感じかな」
「さすがひりょ先輩、アドバイスありがとうございます! 頼もしいです!」
やっぱり良い人だー。
と、ほわほわ気分になったところで耳をつんざく子供の泣き声。
「あ、あ、どうしようケンカしてる、え、これどうやって止めれば……!」
ひとまず引き離して、それから?
子供ってどうすれば泣き止むの?
飴ちゃんでもあげればいいの?
助けてひりょ先輩!
「目線を子供視点にするといいかも?」
「こう、ですか?」
しゃがんでみる。
「どう? 景色が違って見えない?」
「はい、なんか違います!」
目の高さを変えただけで、見えなかったものが見えてくる。
子供達と同じ世界に身を置くことが出来る。
「後は普通に……そうだな、友達が泣いてたらどうする?」
「どうしたのって訊いて、後は慰めたり、話を聞いてあげたり?」
「じゃあ、その子にもそうしてあげればいい」
相手が子供でも大人でも、基本的なことは変わらないから。
言われた通りにしてみると、火が点いたように泣き喚いていた子供がぴたりと泣き止んだ。
(あ、ちょっと自信付いたかも)
暫くすると扱いにも慣れてきて、小さい子を膝に乗せて絵本を読み聞かせる余裕も出て来る。
(髪の毛ふわふわ、可愛い……)
思わず撫でてみたり、マシュマロのようなほっぺをぷにぷにしてみたり。
「子供って可愛いですね」
「そうだね」
無事に馴染んでくれたようで良かったと、ひりょは嬉しそうに微笑んだ。
「皆が笑顔になれるといいな」
ここにいる子供達ばかりではなく、他のスタッフやバイトの人も。
休日を楽しんでいる皆も、顔も知らないどこかの誰かも――
●恒例、ラブラブ大作戦 序
「リュールさん、スイーツ食べ放題にいきませんか?」
風雲荘に顔を出したユウ(
jb5639)が、さりげない様子でリュールを誘う。
勿論、この甘い物好きなオカンがそれを断る筈がなかった――例えその裏に、何かの陰謀の匂いを嗅ぎ付けたとしても。
「他にも知り合いが合流することになっていますが、構いませんよね?」
ほら来た。
この娘は何故こうも余計な世話を焼きたがるのか。
しかし悪い気はしない。
寧ろ嬉しい、なんてことは口が裂けても言わないが。
(まあ、乗せられてやるか)
このところ誰にも誘ってもらえなくて寂しかったし――なんてことも、口が裂けても以下同文。
しかし大丈夫なのだろうか、その「知り合い」とやらは甘い物が苦手だった筈だが。
べつに心配などしていない。
ただ、あのデカブツが倒れでもしたら、後の処理が面倒だと思うだけで。
それだけだからな?
勘違いするなよ?
そしてユウから連絡を受けたその「知り合い」は、はるばる東北は秋田からやって来た。
あまり気乗りのしない様子なのは、スイーツ食べ放題と聞いただけで胸焼けがしてきたせいか、それとも――
「とあるスジからリュールの姉さんも来るって聞いたんですぜ!」
出迎えた愛娘、秋野=桜蓮・紫苑(
jb8416)が放ったその一言のせいか。
「うむ、しかしまたツンツンされやせんかのぅ」
あの元妻にデレ成分が希薄なことは知っている。
ただ、だからといって嫌われているわけでは……ない、と思う、思いたい、けど、ああ胃が痛い。
「もう、しっかりしなせぇよ!」
がつん、紫苑がその尻に頭突きを喰らわせた。
だって相変わらず丁度良い高さにあるんですもの、蹴り飛ばすより楽だし。
それにほら、今日はパーティのためにおめかししてるし。
髪をアップにして、黒のふりふりワンピースに白いファーのボレロを羽織り、黒タイツに少しだけ踵の高い靴を履いて。
だから思いきり足を上げて回し蹴りなんて、そんなハシタナイことは出来ないのです。
れでぃーですから、オトナですから。
「おぅっ!?」
「女心はフクザツなんですぜ? キライなら、なんでいつまでもお父さんの名前持ってるんですかぃ?」
リュールのフルネームは、リュール・オウレアル。
ダルドフが持つ名前のひとつ、オーレンを貰い受けたものだ。
「おれの桜蓮と同じでさ。その名前をずっと持ってるってことは、つまりそういうことなんでしょぉよ」
本気で愛想を尽かしたなら、貰った名前も綺麗さっぱり捨てているはずだ。
「女の恋は上書きなんですぜ?」
歴代彼女からの贈り物を墓場まで持って行こうとする男とは違うのだ、と誰かが言っていた。
「ま、百目鬼の兄さんは何でもすてられないだけの、ただのけちけちおめめですけどねぃ」
「そういう悪たれをきくのはこの口ですかぃ?」
ぐにに、一歩下がって成り行きを見守っていた百目鬼 揺籠(
jb8361)が、紫苑の口元を両手で引っ張る。
「おぉ、ずいぶんと伸びますねぇ」
さすが子供のほっぺは柔らかい……と、それはひとまず置いといて。
「ダルドフさん、今後何があるかわかんねぇってのもそうですがね」
腰に手を当てて背筋を伸ばした揺籠は、準礼装のブラックスーツでびしっと決めていた。
ただし少し遊び心を加えて、光沢のある淡い紫色のタイを黄色い花が付いたヘアピンで留めてある。
「守りたいものは、きちんと目に入れておかなきゃいけませんぜ。いざという時の決断を鈍らせまさぁ」
「……ふむ……ぬしの目には、たくさん入りそうだのぅ」
その「目」は今、殆どが服の下に隠れている。
今の言葉がそうした意味で言われたものではないことも理解していた。
が、だからこそ少し意地悪をしてみたくなる親馬鹿心理。
「しかし色々なものが入りすぎて、却って迷いが生じはせぬか」
だが対する揺籠もこのデカい壁との付き合い方に要領を得てきたのか、動じることなく受け流した。
「そうでもありませんや、確かに目ん玉はたくさんありますがね。入るモンは、ひとつこっきりでさ」
迷う余地など欠片もない。
「そのひとつは、意地でも守り抜きますぜ?」
「ほう、ぬしも言うようになったのぅ」
ニヤリと笑うその目に殺気が宿った、気がする。
しかし。
「はいはいはいはい、二人とも今日は果たし合いに来たわけじゃねぇんですから」
こちらも慣れた様子で紫苑が止めた。
「そんなことより食べほーだいですぜ!」
大丈夫、メニューは事前にチェックしてある。
「スイーツだからって、あまいもんばっかりとはかぎらねぇんですから!」
だから行こう、早く行こう。
「しかし……ぬしは良いのか、紫苑」
まだ煮え切らない様子でダルドフが尋ねる。
「何がですかぃ?」
「某とアレが、その……」
仲良くする、のは難しいとしても。
背中を押してくれるのは有難いが、寂しくはないのだろうか。
「言ったでしょぉよ、おれはもう子供じゃないんですぜ?(ふんすっ」
鼻息も荒く、紫苑は胸を張る。
「お父さんがだれを好きでも、おれのお父さんであることに変わりはねえですし」
何があろうと、この親馬鹿っぷりは不変不動に違いない。
だから大丈夫。
「それに、おれには百目鬼の兄さんもいやすからね」
と、ここで再び湧き上がる殺気を感じ、紫苑は慌てて父の背中を押した。
そして来ました、ご対面。
「あれ、知り合いがダルドフさんって言っていませんでしたか?」
しれっと言い放つユウに、リュールは苦笑混じりの溜息で応える。
「そんなことだろうとは思っていたが、予想以上に予想通りの展開だな」
とは言え、ユウも無理に二人きりにすることは考えていなかった。
(無理に引き合わせても効果がないことは学習しましたから)
だから今回は、大勢の中に混ざる形で皆で楽しく。
皆との雑談の中で、二人が自然に会話を交わすこともあるだろうし――それをきっかけに意外と話が弾むこともある、かもしれない。
というわけで、今日はバイトを休んだ藤花と焔、そして望も一緒だった。
「くまさんー!」
すっかり懐いた望を膝に乗せ、ダルドフは案内されるまま席に着く。
勿論それがリュールの隣であることは言うまでもないだろう。
距離を置いて正面に座った紫苑が、「がんばれー」と口の動きだけでエールを贈る。
「ダルドフさん、子供をあやす姿がずいぶん板についていますね」
リュールの隣に座った藤花がくすりと笑う。
この熊、敵として現れた場合はグリズリー並に怖ろしいが、こうして和んでいると超巨大なテディベアのようだ。
その目の前に、そっとスイーツの皿が差し出された。
「いや、某は……」
「甘いものが苦手なんですよね〜」
知ってます、と焔が笑う。
「だから今日は、非甘党向けのお菓子を作ってみました〜」
チーズや香辛料を使った甘くないクッキーにフロランタンなど、見た目は普通と変わりないが、味も香りも全くの別ものだ。
「でもまだ改良の余地があるかもしれないし。だからダルドフさんの感想が欲しいな〜」
好評ならカフェの正式なメニューに採用してもらうから。
あと、採用されるとボーナスが出るって聞いた!
「ふむ、それは是非とも協力せねばなるまい」
ほんのり甘いクッキーはスパイシーで、ビールによく合いそうだ。
「ふむ、この風呂南蛮とやらは流石に甘いのぅ……それに歯にくっつくわぃ」
なお正確にはフロランタンである。
生地には砂糖を使っていないが、ナッツをキャラメルでコーティングしてあるだけに、流石に甘かったようだ。
「これは改良の余地ありだね〜」
めもめも。
「次はこの丸いものを試すとしようかのぅ」
トリュフチョコに見えるそれは……カカオ99%くらいのチョコか、それともコーヒーの塊か。
「残念でした、中身は里芋だよ〜」
「なんと!?」
あ、ほんとだ、コロコロ丸い小さな里芋の煮付けに無糖のココアパウダーをまぶしてある。
他にも甘いゼリーに見えるものは色とりどりの煮こごりで、つい酒が飲みたくなる旨さだった。
「昨夜は遅くまで、ああでもないこうでもないって試行錯誤してたんですよ」
藤花が夫の奮闘ぶりをリュールに聞かせる。
「お仕事でもずっとお料理してるのに、家に帰ってからも私達の為に色々作ってくれるんです」
覚えたばかりの料理を披露したり、珍しい食材が手に入った時はお土産に持ち帰ってくれたり。
新しい創作料理の試食に付き合わされることもあるけれど、それも大抵は美味しいもので。
「それに、とても家族思いで優しくて。何に対しても真剣に向き合って、特に夢を追いかけることには妥協がなくて……」
幸せがこぼれ落ちてくるような笑顔で語る藤花の様子に、リュールの頬も思わず緩む。
そうして素直に表現できることが、少し羨ましくもあった。
「うちの息子達も、お前達のようになってくれると嬉しいが……」
リュールがぽつりと呟く。
「む?」
「ああ、お前はまだ知らなかったか」
何のことかと尋ねたダルドフに、リュールは最近の出来事を大雑把に話して聞かせた。
「オーレン、孫が出来たらお前もとうとうおじいちゃんだぞ?」
そう言って笑うリュールはいつになく上機嫌で、それはそれは嬉しそうだったが――だからまだ早いと言うのにこの人は。
「お前は何と呼ばせる、今流行りの『じーじ』か?」
「いや、俺はその媚びた調子がどうも気に食わん、やはりそこは普通に――」
だから気が早いって二人とも。
しかしそうして語り合う様子は、ごく普通の仲睦まじい夫婦のようで――
(ああ、やはり心の奥底では互いに深く愛し合っているのですね……!)
ユウがキラキラとその瞳を輝かせる。
ダルドフの口調がいつもと違うが、それが元々の話し方だったのだろう。
それが違和感なく自然に聞こえるのは、きっとリュールが素直に受け入れているからだ。
(これがお二人の、本来の姿なのでしょうね)
うっとり見とれるユウの中で、妄想スイッチがオンになる。
やはりこの場で引き合わせて正解だった。
朱に交われば赤くなると言うし、砂糖の中に放り込めば塩だってきっと甘くなる。
いや、塩が甘さを引き立てて更に甘々になるに違いない。
これをきっかけに再接近、再び夫婦に戻る日も遠くないだろう。
そうしたら親子二代で結婚式とか、とか!
妄想は膨らみ、暴走を始める。
ところで、その息子達はどうしているのか――
●数日前、風雲荘にて
その日、カノン(
jb2648)は聞いてしまった。
いや、盗み聞きしていたわけではない。
帰宅の気配を感じてお出迎えに挑戦してみようと試みたものの、タイミングを計っているうちに計りすぎて機を逸し、その結果として会話が聞こえてしまった……というだけで。
(パーティ、ですか……)
気が付けば、殆ど聞いてしまっていた。
(自分からあんな話を探し出してきたとも思えませんから、誰かに言われたのでしょうけど)
そっと自室に戻ったカノンはじっと待つ。
いつも帰宅してから着替えを済ませてリビングに出て来るまで、大体五分ほど。
声がかかるなら恐らくそのタイミングだろう。
しかし今日の五分はやけに長い。
もしかしたら誘う気がないのだろうか。
それともサプライズを仕掛けるつもりなのか。
或いは何か問題が――と、不安になりかけた頃。
着信音が鳴り響いた。
同じ屋根の下、すぐそこにいるのだから直接声をかければいいのに。
自分でもそう思うが、門木は決してアパートの二階には上がらなかった。
もちろんカノンの部屋には入ったこともなければ見たこともない。
用がある時は電話で呼び出し、話はリビングなど常に誰かしらの目と耳がある場所でと決めていた。
べつに見せ付けているわけではない。
家族として、今まで通り普通にしているだけだ。
とは言え、たまには二人きりになりたい時もある。
というわけで、思いきって誘ってみたのだが――承諾はしてくれたものの、それっきり何の反応もない。
顔を合わせても、その話題に触れることを避けている様子。
楽しみにしているなら、服装はどうしようとか、何をして過ごそうか、とか……何かしらのリアクションがあるもの、ではないのか。
「ごめん、こういうの……興味なかったかな」
しかしカノンは首を振る。
「じゃあ、どうして……?」
「この前は舞い上がりすぎて一段先に勝手に進んでしまって……ですから、今度こそ邪魔しないようにと……」
「邪魔って、何が?」
「何か考えていることがあるんでしょう? それを、また台無しにするようなことは出来ませんから」
「もしかして、それ……ずっと気にしてた?」
こくりと頷いたカノンを見て、門木は塩をかけられた軟体動物のように萎れた。
「ごめん、言葉が足りなかったかな」
今度はきちんと伝えようと、懸命に言葉を探す。
「そうじゃない、寧ろすごく嬉しかった」
次はどんな予想もしないことが飛び出して来るのかと、それが楽しみでもある。
「それに俺……自分からは絶対に言い出せなかったと思う、から」
応えてもらえる自信はあったが、その反面で自分の価値を極端に低く見る癖も変わらず、どうしても最初の一歩が踏み出せない。
お陰で未だに頬へのキスが精一杯という有様だ。
「自覚ない時は全然平気だったのにな」
ソファの背にもたれかかり、苦笑混じりに天井を仰ぐ。
「今だって、本当に俺なんかでいいのか……俺なんかが触れていいのかって、思ってる。でも俺しかいない、他の誰にも指一本触れさせないって思いも同じくらい強くて……」
その間で揺れ動き、結局は何も出来なくなってしまう。
だから何かやりたいことがあるなら遠慮する必要はないし、背中をどついて一段吹っ飛ばすくらいで丁度良いのだ。
それに、あの告白は一生忘れないだろうし、家族の歴史として末代まで語り継がれるに違いない。
「カノン、お前はどうしたい?」
いや、別にアダルトな方面に限った話ではなく。
それに、その方面は婚姻届を出すまでは我慢するらしい――我慢出来るかどうかはともかく。
「何が好きで、何が嬉しくて、何が幸せなのか……俺はまだ、何も知らないんだ」
試行錯誤もたまには良いけれど、全てがそれでは心が折れる。
「だからもっとたくさん、いろんな話をしよう。そして、一緒に考えて……一緒に、飛びたい」
小さく頷き、カノンは逆に尋ねてきた。
「ナーシュは、どうしたいですか?」
そう呼ばれると未だに心臓が跳ね上がるが、もっと呼んでほしい……というのは置いといて。
「俺、フォーマルなパーティとか……苦手」
「だと思いました」
くすりと笑われ、門木は苦笑い。
せっかくの紹介だし、ホログラムには心惹かれるものがあったけれど――
「また今度にしようか」
今はただ、普通のことがしたい。
近所を散歩したり、買い物に行ったり、何もしないことを楽しんだり。
「そういう普通のことが、俺にとってはすごく特別で……だから、もし良かったら……散歩に付き合ってくれないかな」
特別なことは、普通のことが普通に思えるようになってからでいい。
そしていつか、本物のオーロラや映像でしか見たことのない風景を見に行こう。
「……約束」
ほんの僅か、遠慮がちに唇が触れ合った。
あ、これもちゃんと演出とか考えてたのに――
いやいや、大事なのは自然な流れとノリ、そして勢いだから……!
●遊園地も営業中です
「タダで遊園地いけるの!?」
それって入園料だけ無料だけどアトラクションはお金とるよっていうケチくさいやつじゃなくて?
ほんとに全部タダ?
えっ、食事も!?
「行こう行こう!」
無理に予定をネジ込んででも行こう!
行かなきゃ損だよね!
というわけで、シェリー・アルマス(
jc1667)は早速お馴染みの三人、サトル、アヤ、マサトの黒咎ズに声をかけた。
まだまだお子様である彼等も、当然のように二つ返事でOKを寄越したわけだが。
「うーん、やっぱりこの面子じゃ何か物足りないなー」
何て言うか、こう、子供の遠足みたいだし?
ここは少し大人の成分を補充したいところだが、誘いに乗ってくれそうな大人と言えば――
「あ、もしもしテリオスさん?」
やっと電話が繋がった。
そう言えば大抵はゲートの中にいるから、外に出た時にしか普通の電波は届かないんだっけ。
「あのね、皆で遊園地……あっ、待って待って切らないで!」
……え、テリオスさん絶叫マシン駄目なの?
わかった、そこは善処する。
「それ以外なら……え、お化け屋敷も駄目?」
そうだねー、錯乱して武器でも振り回されたら出禁になっちゃいそうだしねー。
「じゃあ回るのはファミリーゾーンだけってことで!」
良いよね、やった!
じゃあ待ち合わせは遊園地の前で!
ちゃんと来てよね、すっぽかしたらジェットコースターの先頭車両に縛り付けるからね!
女の子って、こわい。
でも今日のシェリーさんは、必要以上にテンション高く張り切っている気がする。
これは逆らわないほうが良さそうだ。
というわけで、五人揃って遊園地へ。
約束通りファミリーゾーンへ――と思ったら。
「遊園地に来て絶叫マシン全スルーとかありえねー!」
マサトが駄々をこねる。
「そうね、ファミリーゾーンで楽しめるのは小さい子供を連れた家族とか、何でも楽しい出来たてバカップルくらいなものでしょ」
アヤまでがこの言い草だ。
「べつに、僕はどっちでもいいですけど」
相変わらずノリが悪いサトルはまあ置いといて。
「っつーことで俺ら三人はこっちのアドベンチャーゾーンにいるから!」
「デート、楽しんで来てね☆」
違う、そういうアレじゃないから。
なんて言っても三人は耳を貸さない。
と言うか既に走り去っている。
「もう、人の話はちゃんと聞きなさいよ」
これだからお子様達はと溜息を吐きながら、シェリーはテリオスに向き直った。
「デートじゃないけど、よろしくね?」
なお本日のメニューはテリオスのトラウマ払拭プログラム。
無理にとは言わないけれど、苦手なものが平気になれば嬉しいじゃない。
皆と一緒に遊べる機会も増えるし。
「じゃあまずは……これかな!」
入口を入ってすぐ目に付いた、ミニSL。
飛ばないし、スピードも出ないし、赤ん坊を乗せられるくらい安全だし。
「これなら怖くないでしょ?」
「……多分」
多分か、これでも多分なのか。
どんだけ怖かったのよ。
ミニSLはゴトゴトゆっくり園内を走り、着いた先はこれまたミニの動物園。
ウサギやリスなどの小動物に触って楽しむふれあいコーナーだ。
「テリオスさん動物は好き?」
「わからん」
動物とは何だ、サーバントとは違うのか。
「うん、まあ……まずは触ってみて?」
何事も経験と、シェリーはもふもふのウサギを差し出してみる。
「攻撃性はないのか、噛まれたりはしないだろうな」
「大丈夫、噛み癖のない大人しい子ばっかりだから」
本当か?
本当だな?
「……噛まれたぞ」
「テリオスさん、もしかして動物に嫌われる体質だったりする?」
「知らん」
でも、そうかもしれない。
犬には吠えられネコにはシャーッと噴かれ、ヤギやヒツジは決死の面持ちで後ずさりするし。
「えっと……うん、そうだ。遊園地は遊園地らしく、やっぱり乗り物で楽しもうか」
それがいい、そうしましょ。
スカイサイクルなんてどうかな、自分で漕ぐからスピード調節も思いのままだし、殆ど普通の自転車だし――ただ、レールがものすごーく高い所にあるだけで。
「でも高さは平気だよね、飛べるんだし」
え、だめ?
じゃあティーカップ……は、一歩間違えると絶叫マシンだし。
「じゃ、あれにしよう、メリーゴーランド!」
5歳から一人で乗れますって書いてあるし、これなら怖くないよね?
それがクリア出来たら次はゴーカート、その次はスカイシップ。
「船はだめだ、振り回されて放り出される」
「それはパイレーツとかの絶叫系……って言うか放り出されないから、事故でもない限り」
こっちはレールにぶら下がってゆっくり動くだけだから大丈夫。
「その次は子供用のコースターに挑戦してみる?」
スピードが出るだけで高低差は殆どないから――
「あ、それもダメなんだ」
でも他に怖くない乗り物系って言ったら……観覧車?
「そう言えば今、何かイベントやってたような」
黒咎ズにも招集をかけてみたものの、何故かニヤニヤしながら背中を押され、気が付けば花束を手に二人きりでゴンドラの中。
しかし気まずい、会話が続かない。
いや、会話がないのは元々か、テリオス殆ど喋ってくれないし。
だが暫く後、そのテリオスが珍しく自分から声をかけてきた。
「何かあったのか」
どうも不自然にテンションが高い様子なのが気にかかっていたらしい。
「べつに、どうもしないけど……」
そう言いかけて、シェリーは首を振った。
「ううん、ちょっとあったかな」
先日の大規模作戦で、初めての敗北を喫した。
「それで少し落ち込んでて……」
はしゃいでいるのは、その反動みたいなものだ。
「でも大丈夫、いっぱい遊んで吹っ切れたから」
「そうか」
あまり大丈夫そうには見えなかったが、テリオスにはこんな時にどうすれば良いのかがわからない。
だから、ただ黙って外の景色を眺めていた。
(あの馬鹿兄貴なら、もう少しマシな対応が出来るんだろうな……)
あ、なんか悔しい。
めっちゃムカついてきた。
……後で一発、ぶん殴ってやろうか。
●恒例、ラブラブ大作戦 破
「ダルドフさん、ちょっと」
リュールの意識が藤花やユウ達とのお喋りに向いた頃合いを見計らって、焔が声をかける。
あれを見て、と指差した先には海賊船の黒い帆があった。
先程からそこに、音楽と共に様々な映像が映し出されていたことにはダルドフも気付いていたが――
「あのメッセージは、ここにいるお客さん達から募集したものなんですよ〜」
もちろん飛び入りも大歓迎ということで、そっと耳打ち。
「リュールさんへメッセージ贈ってみてはどうでしょうね〜?」
なお久遠ヶ原の技術は世界の最先端を突っ走る。
プロジェクションマッピングも旧来の技術では周囲が暗くなる夜間にしか行えないが、ここでは真っ昼間からフル稼働。
風で揺れる船の帆にも正確に投影出来るし、飛び入りだって一時間もあればスクリーンに乗せられるのだ。
「ふむ、しかしのぅ……」
一体どんな言葉を贈ればいいのかと、ダルドフは顎髭と脳味噌を捻って考える。
普通に甘い言葉は恥ずかしすぎるし、あの筋金入りのツンデレは暫く口をきいてくれなくなりそうだし。
今は周りの空気に流されているのか無自覚に当たりが柔らかくなっているが、それに気付いたらきっとまたツンツンし始めるだろう。
そこがまた可愛いくもあるのだが、今の空気を壊したくない思いもあるし。
とは言え、せっかくだから使ってみたい気はする。
「ふむ、何か別のことでも構わぬかのぅ」
親馬鹿メッセージなら、いくらでも思い付くんだけど。
●はとコン狂騒曲 番外編
「……竜胆兄、気は確かですか」
樒 和紗(
jb6970)は、色々拗らせまくったはとこ、砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)の顔をまじまじと見る。
「いやだなあ和紗、いくら僕が男も見惚れるイケメンだからって、そんな至近距離で見つめないでよ、照れるじゃない」
勘違いしちゃったらどうするの、しないけど。
だが、和紗はそんなはとこの軽妙おされトークにも耳を貸さず、冷たく言い放った。
「イタメンの間違いでしょう」
今日、2月28日が何の日か、それは知っている。
自分の誕生日だ。
はとこがそれを祝ってくれるつもりだということもわかっている。
しかし、ここはスイーツ食べ放題の会場だ。
「気持ちは嬉しいのですが、竜胆兄。無理をしているのではありませんか」
してますよね、顔が真っ青だし。
甘い匂いだけで生命力ゴリゴリ削られてますよね。
「うん、でも大丈夫。和紗の為なら砂糖責めの拷問だって笑顔で耐えてみせるよ、ほら」
「……うざ」
必死の努力で作った笑顔を一刀両断、しかし素直にエスコートされて席に着く。
「大丈夫、今日はちゃんと付き合うよ。ここは普通のスイーツに見せかけた甘くないお菓子も出してくれるって聞いたし」
だから和紗が食べているところを嬉しそうに眺めてニヤニヤ笑うストーカーみたいなことはしない。
しないから通報しないで、つまみ出さないで!
「しませんよ、そんなこと」
多分。
選んだ席は中央からやや後方寄り。
顔を上げた和紗の正面に黒い帆が広げられていた。
プロジェクションマッピングのスクリーンとなったそこには、様々な映像やメッセージが絶え間なく映し出されている。
今またひとつの映像が終わり、新たなメッセージが映し出された。
『最愛のはとこ殿 誕生日おめでとう』
カランと軽い音を立てて、和紗の手からフォークが逃げていった。
色とりどりの花と共に映し出されたメッセージは勿論、ジェンティアンからのものだ。
『これまで以上の幸いに満ちた未来を祈るよ』
名前は伏せられている。
けれど、カフェに集う全員の目が自分に注がれたような気がした。
平静さを保ちながら手元のケーキを切り分けようとするが、手は滑るし皿は逃げるし。
おまけに目の前のはとこがめっちゃ良い笑顔で自分を見てるし。
「ふふ、照れて可愛うぼぁ!?」
がぼっ!
その口に、甘い甘いケーキを突っ込んだ。
しかも手掴みで。
「……人目が恥ずかしいじゃないですか」
嬉しいけど。
嬉しいに決まってるけど。
「ひっひぇぅ、へれふぁふひふぁおぇ♪(もきゅもきゅ」
訳:知ってる、照れ隠しだよね♪
「……喉に詰まらせて大事になっても困りますから……お茶、どうぞ」
「ありがと和紗、さすが気が利――あっま!!」
そりゃ、砂糖10個入れましたから。
●バラのつぼみと、ひなまつり
「……こう言うの、リコ、喜んでくれるやろか?」
浅茅 いばら(
jb8764)は何度目かの深呼吸を終えて、漸く通話ボタンを押した。
数回のコールで聞き慣れた声が返って来る。
「あ、もしもしリコ? うち、いばらやけど……」
はい、デートのお誘いです。
「こっちに出て来れるやろか……うん、じゃあ……待っとるから」
そして、リコは現れた。
「お誘いありがと、いばらん!」
淡いピンクのミニ丈ワンピースに若草色のストール、白のニーハイソックスにピンクのパンプス。
春らしい装いだが、その配色はまるで菱餅のようだ。
「だって今日はひなまつりだもん☆」
迎えるいばらはクリーム色のセーターにカーキのチノパン、薄い青の春コート。
青のストールとキャスケットを合わせて、こちらも春の装いだった。
「まだ少し寒いけどな」
でも季節を少し先取りするのが粋というものだ。
「ほな行こか」
いばらはリコの手をとって歩き出す。
今日は海賊船にも大きな雛壇が飾られていた。
その前を通ってオープンカフェへ。
「今日はスイーツ食べ放題やからな、なんでもリコの好きなもん取ったらええ。女の子は甘いもん好きやろ?」
言われてリコは素直に頷く、かと思ったら、意外にもダメ出しが来た。
「そこは『女の子は』じゃなくて、『リコは』って言ってほしいな」
女子全般十把一絡げみたいな言い方は容認しかねるのです、夢見る乙女としては。
「そうか、堪忍な」
女の子って難しい。
「じゃあ、リコは甘いもん好きやろ?」
「うん、大好き!」
「うちも好きや」
「お揃いだね♪」
「せやな」
それに、今日は雛祭り。女の子が主役だ。
いや、ここもリコが主役と言い直したほうが良いのだろうか。
好きなスイーツを山盛り取って、二人は席に着く。
「もうすぐ春やなぁ」
リコの服もそうだし、他の皆の服装も明るく春めいている。
「初めて会うたのって、もう二年も前なんやで」
「え、そんなになる?」
「うん、調べてて少し驚いた、そんなに経ってたんや」
その時から、色々なことが変わった。
リコも最初は完全に敵だったし、それに――
いや、湿っぽい話は抜きだ。
今が大事だから、今ここにリコがいて、笑ってくれていることが一番大事だから。
「バレンタイン、ほんまおおきにな」
言われて、リコは照れくさそうに笑う。
「えっと、そんでな? 少しはやいけど、ホワイトデー……欲しいもんとか、ある?」
耳元で囁いてみた。
くすぐったいと笑うリコは、やっぱりまだ子供だ。
「……なんて、な」
本当はもう用意してある。
「これ、受け取ってもらえるやろか」
差し出したのは小さな淡いピンク色の巾着袋。
中にはピンキーリングが入っている。
「幸せのお守りに、どうかと思て」
「うん、ありがと。大事にするね」
リコはお返しに、いばらの頬に口付けを――
あ、クリーム付いちゃった。
●スイートメッセージ
「今日は一緒に楽しみましょう、クリスさん」
「ああ、楽しんでいこうぜ、ゾーイ!」
今日はホワイトデー、川崎 ゾーイ(
ja8018)と川崎 クリス(
ja8055)の記念すべき初デートだ。
いや、デートとしては始めてではない。
二人で出かけた回数はもう数え切れないほどで、思い出は心の整理棚から溢れるほどにたくさんあった。
「でも今日は特別なのです!」
だって恋人から婚約者になってからは、これが初めてだから。
二人ともまだ高校生だから、お付き合いは昼間だけ。
でも、そのらぶらぶ度は大人カップルにも負けないのだ。
ドレスコードはないけれど、ゾーイはいつもより少し甘さを控えた大人カワイイ系のコーディネート。
もちろん、首元にはクリスにもらった緑色の石が光っていた。
「このごろ背が伸びて、大人の服も着られるようになったのですよ?」
「ああ、選択の幅が増えたのは良いことだな」
クリスはそれでもまだずいぶんと下のほうにあるゾーイの頭を撫でる。
「でも、大きくても小さくても、いくつになっても、ゾーイは可愛い。俺が保証する」
なお何を着せても似合いそうなクリスは、それだけに服装に関してはあまり拘りがないらしい。
なのでいつもと変わらない格好だが、男の子なんて大体そんなものだ。
それに、他に拘るべき譲れないことが山ほどあるのだから。
「いらっしゃいませ、どうぞこちらへ」
イベントも最終日が近いとあって、スタッフの応対も慣れたものだ。
二人がけの席にはホワイトデーのプレゼントとして、生花のミニブーケとカラフルなキャンディの詰め合わせが置かれていた。
「これ、もらっていいのでしょうか?」
「んー? なんかカードが添えてあるな。なんて書いてあんだ?」
英語は読めないと、ゾーイに丸投げ。
「幸せなお二人へ、ですね」
「じゃ、もらっていいってことだな!」
なかなか粋なサービスだ。
席を確保した二人は、様々なスイーツが並ぶコーナーへ。
「キラキラしていてとっても素敵なのです!」
洋菓子をメインに取り揃えられたその様子は、まるで宝石箱を引っ繰り返したように輝いて見えた。
「キレイだよなぁ……ゾーイが作るお菓子もかわいいしおいしいけどなっ」
「えへへ、ありがとうなのですよ〜」
とは言え、こんなに種類があるとクリスには何がどれやらわからない。
でも大丈夫、そんな人の為に人気のスイーツがランキング形式で一同に!
「これを押さえとけば間違いないってやつか?」
確かに美味しそうだし、クリスでも知っているようなメジャーなお菓子ばかりが並んでいるけれど。
「でも、それはあくまで他の人の意見や感想で、クリスさんのお口に合うとは限らないのですよ?」
「……それもそうか」
「だから、まずはあたしが食べて選んであげるのです!」
そう来たか。
「確かにゾーイには俺の好みとか知り尽くされてる気がするけどな」
「当然です、だって婚約者ですから!」
そして色々と食べ比べた結果、決定しました。
「発表します、あたしのおすすめはイチゴのタルトなのですよ〜」
真っ赤なイチゴが宝石のようにキラキラと輝くそれを切り分けて、クリスの口元に差し出してみる。
「クリスさん、あーん♪」
「……お、おう……」
目を泳がせながらも、クリスは素直に口を開けた。
うん、確かに美味い、気がする、けど。
「ふふっ、まだまだちょっぴり照れちゃうのですね」
待って、そんなふうに頬を染めてニッコリされるとこっちも照れてくるんだけど、って言うかもう味わかんない。
向き合う二人の頬は、イチゴよりも真っ赤に染まって見えた。
その耳に聞こえてくる、聞き覚えのある曲。
それはプロジェクションマッピングのBGMとして、ゾーイがリクエストしたものだった。
「ね、クリスさん」
見て、とゾーイは船の帆を指差す。
そこには見覚えのある言葉が映し出されていた。
『Ich liebe Sie』
「あれって……3年前のバレンタインの、だよな」
「うん、初めてのバレンタインにチョコと一緒に贈った言葉なのです」
「そうだ、あの時自分で意味を調べて――」
その先を言おうとするクリスを制して、ゾーイはゆっくりと立ち上がった。
今の自分に出来る精一杯の笑顔で、その同じ言葉を贈る。
「クリスさん。あたしは貴方を愛しています。だからプロポーズの言葉の通りになるよう、お傍にいさせてくださいね?」
それに応えて、クリスも立ち上がった。
「ゾーイ。俺はゾーイを愛してる。あの言葉が嘘にならねぇように、俺もゾーイの傍にいたい」
知ってる。
クリスは絶対に嘘をつかないって。
「俺が18になったら結婚する前提でお付き合いしてください。それまで一緒に生きて、その後もゾーイを幸せにするから」
それがプロポーズの言葉だった。
周囲の客達から、暖かな拍手と祝福の声が沸き起こる。
二人の前途に幸あれと――
●恒例、ラブラブ大作戦 急
「お父さん」
ゆさ。
「お父さん、くらしくだからって寝ないでくだせぇ」
ゆさゆさ。
午後のひととき、適度に腹も膨れて最も眠くなる時間帯。
耳に生演奏のクラシックが心地良く響く。
となれば、居眠りをするなと言うのが無理な話だ。
「む? おぉ、すまんのぅ……」
大きく伸びをして、時計を見る。
そろそろ変える時間だった。
「紫苑よ、ぬしはまだ遊ぶつもりか?」
「もちろんでさ! そのために、おめかしして来たんですぜ?」
ダンスパーティで優雅に踊り、マストの天辺で星を見て。
そしてとびきり豪華なロイヤルスイートに泊まるのだ――百目鬼の兄さんと一緒に。
「ふむ、そうか」
いつもならここで「うちの娘に手を出したら殺すビーム」が揺籠を消し炭にする筈なのだが……何故か今日のダルドフは紳士だった。
「世話を焼かせるだろうが、よろしく頼むぞ、百の字」
「え、ええ、そりゃぁもう……」
怖い。
その笑顔がめっちゃ怖い。
やがて皆に招待の礼を言い、ダルドフが名残惜しそうに帰途に就いた後。
笑顔の理由が判明した。
『娘が欲しいか。ならば某の屍を踏み超えて行くが良い!』
時代劇の処刑用BGMと共に流れる、流麗な筆文字で書かれたメッセージ。
これ絶対、踏み越えさせる気ないよね。
どう考えても返り討ちだよね。
「がんばってくだせ」
ぽむ、背伸びした紫苑が揺籠の肩を叩く。
「べ、べつに俺は、そんなんじゃねぇですし!」
周囲の視線が何やら妙に生温かい気がするのは、きっと気のせいだ。
●St. Sweet Birthday
バレンタインの夕刻。
桟橋に立った飛鷹 蓮(
jb3429)は、次々と目の前を通り過ぎて行く人々の姿を見送っていた。
仕立ての良いブラックスーツに、胸元には青い百合。
恋人のユリア・スズノミヤ(
ja9826)と待ち合わせ、海賊船でのディナーに向かうところだ。
待ち人は未だ来たらず。
しかしまだ焦る時間ではない。
「女ってのは仕度に時間がかかるもんだからな」
しかもその仕度が自分の為となれば、いくらでも余裕で待てる……いや、まあ限度はあるが。
暫くして、向こうからユリアが走って来る。
ドレスにハイヒールでも全力疾走出来るのは、流石の運動神経だ。
「ごめん待ったー?」
「いや、俺も今来たところだ」
定番の台詞には定番を。
たとえどれだけ待ったとしても、さらっとそう言うのが粋な男というものだ。
「どうぞ、レディ?」
ユリアは差し出された腕に絡み付く。
「今日はいっぱい甘えちゃおーうっと☆」
「ああ、存分に……気の済むまで甘えるといい」
その為には、きちんとエスコートしなくては……身体も、心も。
「今日も綺麗だな、ユリア。君の姿は目を引く」
蓮は改めて恋人の姿に視線を落とす。
胸元の開いたAラインのイブニングドレスは、パールピンクの地に黒と紫の薔薇が描かれていた。
これを上手く着こなせる女性は、そう多くはないだろう。
少なくとも蓮は他に知らない。
そして左耳にはいつもの百合、今日は黒い花を選んでいた。
「……ただ、俺の傍を離れるなよ?」
「大丈夫、離そうったって離れないから」
主導権はこちらにあると、ユリアは寄りかかるように体重をかけてくる。
(でも、二人だけの時は主導権……渡してあげてもいいよ? なんて、言わなくても奪われちゃうんだろうなー)
他にも色々奪われそうな気がするけれど。
さて、スタートはディナーから。
「先ずはお腹がはっぴーにならないとね☆」
ユリアの場合、通常のフルコースだけではっぴーになれるかは疑問だけれど。
「二周あればなんとか、なんて冗談だよ?」
多分。
でも足りなくても今日は我慢。
だって特別な日だからね☆
食事の後はダンスパーティ、ユリアの本領発揮だ。
「蓮、プロの私と踊る勇気ある?(ふふっ☆」
「ユリアに恥はかかせない」
その言葉に偽りはないと、蓮はユリアをリードする。
ワルツは基本のステップさえ覚えてしまえば、あとはパートナーと息を合わせるだけだ。
前者は単なる技術、習得は難しくない。
そして後者は改めて意識する必要もないだろう。
「素敵、流石に言うだけのことはあるじゃない?」
何も考えなくても、自然に身体が動く。
勝手に動いても受け止めてくれる。
いつまでもこうして踊っていたい、靴の踵が磨り減ってしまっても、ずっと。
「それが望みなら付き合うが」
「ううん、それもいいけど……今日のメインはここじゃないから」
ここまでは前菜、二人きりで部屋に入ってからがメインディッシュだ。
スイートルームの豪華なベッドに、タイを緩めた蓮が座る。
ユリアはその隣にそっと腰を下ろした。
「蓮、はっぴーばれんたいん☆」
チョコの包みを差し出してみる。
しかし蓮は、それを受け取ろうとはしなかった。
拒否したわけではない。
「チョコか。君が銜えてくれたら食べる」
と、そういうわけだ。
「Σうみゅ!? 蓮、やらしー」
頬を染め、ユリアは軽く肘鉄を食らわせる。
しかし蓮は余裕の笑みを崩さない。
「ああ。相手が君だからな。……恥ずかしいのか? 今更だろう?」
今更と言われて、ユリアはますます赤くなった。
これは、ちょっと意地悪してみた罰なのだろうか。
そう、今日はバレンタイン――だけど、蓮の誕生日でもある。
なのに後回しにしたから?
でも知ってる、そんなことでヘソを曲げるような人じゃないってことは。
「ほんとは、はっぴーばーすでぃ……♪」
今度はちゃんと、本気のプレゼント。
小さな箱の中身は表に蓮、裏に百合の花がデザインされたコインのドロップピアスだ。
「付けてくれると嬉しいな☆」
「ああ、ありがとう」
今付けているものと交換するか、それとももうひとつ穴を開けようか。
「私ね、蓮のこと大好き。――本当に。ずっと……一緒にいてね……?」
「……俺は君のものだ。君は、俺のものだ」
蓮はユリアの上気した頬にそっと手を触れる。
「ユリアの身体も心も、この先ずっと……俺だけが触れる」
空気を読んだように、部屋の明かりが次第に絞られていった。
●夜の世界へ
世界が夜の闇に沈む頃、クリス・クリス(
ja2083)は海賊船の甲板へと繋がるステップに足をかけた。
それは大人への階段。
一番上まで昇りきった時、そこには今まで知らなかった夢と浪漫に満ちた煌びやかな世界が広がって――
「あれ、真っ暗だね」
「それはそうだ、周りが明るくちゃ星なんか見えやしないだろう」
エスコート役のダンディパパ、ミハイル・エッカート(
jb0544)がその手を引きながら答える。
「ほら、足元に気を付けろよ?」
「はーい」
港を出た船は今、島の周囲を巡る航路をゆっくりと進んでいた。
街の明かりは既に遠く、足元を僅かに照らす非常灯の他に光源となるものは何もない。
お陰で見上げた夜空には、これでもかというほどに星々が輝いていた。
普段は肉眼で見ることが難しいような、小さな光まではっきりと見える。
「わー、黒い紙に塩をぶちまけたみたいだー」
「ええ、確かにそう見えるわね。わかりやすくて良い表現だわ」
背後でレティシア・バーナード(
jb7849)が小さく喉を鳴らした。
ただ、未来のレディを夢見る乙女の発言としては少々残念な気もするけれど。
「言葉はイメージを的確に伝えてこそですもの、下手に飾るよりずっと良いわ」
流石はジャーナリスト志望、言葉に対する拘りは深い。
「えへへ、褒められたー♪」
素直に喜ぶところがまだまだ子供――いえいえ、人間いくつになっても素直な心を忘れてはいけません。
「冬の夜空って、やっぱり綺麗だねー」
空気がきりっと冴えて、どこまでも遠く見通せる気がする。
けれど……ちょっと寒い。
これが近所の空き地なんかで開かれた星座観察会とかだったら、もっこもこに厚着をしてくるところだけど。
お洒落のためなら多少の寒さは我慢するのが淑女の嗜み。
そんな痩せ我慢に目ざとく気付いて、さりげなくフォローするのが紳士の嗜みだよね?
「ん? ああ、風邪をひくといけないからな」
チラ見されて、ミハイルは自分の上着を脱いでクリスの肩に着せかけてやった。
「大丈夫だ、俺は寒くない」
淑女以上に痩せ我慢が得意な生き物、それが紳士である。
「ありがと、ぱぱ♪」
それじゃ、パパが風邪ひかないうちに星空を堪能しようか。
一番見晴らしが良いのはマストの天辺だが、そこは風に吹かれて更に寒そうだから、下からで。
「船首のほうならマストも邪魔にならないよね」
方角は船が動けば勝手に変わるし、島を一周する間には全方位の観察が出来るはずだ。
「それにしても、どうして冬ってこんなに星が綺麗に見えるのかな?」
「理由は色々ありますが、一番は空気が乾燥しているからでしょうね」
クリスの疑問に真里谷 沙羅(
jc1995)が答えをくれた。
「乾いているということは、水分が少ないということですから……ほら、湯気の向こうは曇って見えにくいでしょう?」
「おー、さすが沙羅せんせ、わかりやすい説明ありがとうだよー」
「どういたしまして」
沙羅は少し前まで小学校の先生、こうした質問に答えるのはお手のものだ。
「先生、俺にも教えてくれないか。天の川が綺麗なのはわかるんだが……」
空を見上げたミハイルが眉を寄せる。
「星が多すぎて、何がどれやらさっぱりわからん」
「ボクも学校で習ったけど、こんなに多いとよくわかんないね。沙羅せんせ、教えてー」
クリスは持参した星座図鑑を差し出した。
事前のアドバイス通り、赤いセロファンを被せた懐中電灯もばっちり用意済みだ。
「はい、ではまず冬の星座のページを開きましょうか」
簡単な星図が見開きで載っているページを探す。
そして方角を合わせ、実際の星空と見比べてみる。
「せんせー、わかりませーん」
「おう、さっぱりだな」
何故実際の星空には線がないのだ。
線もないのにどうして星座の形に見えるのだ。
「それは……」
確かに二つの星を直線で繋いだだけの「こいぬ座」などは、どう頑張っても子犬には見えない。
そうしたビジュアル的に厳しい星座については、その背景にある物語を理解する必要があるだろう。
しかし今回はとりあえず、見付ける喜びを知ってもらおうか。
「線が書かれていなくても、すぐにわかるものもありますよ」
沙羅はほぼ真上の空を指差した。
そこにはいやでも目に付く三つ星が綺麗に並んでいる。
「おお、あれならわかるぞ、オリオンだな!」
「ボクもわかるよー」
「では、その三つ星の左上にある星は何と言うか、わかりますか?」
「ボク知ってる、ベテルギウスだよね! それを含んだ三角形を冬の大三角って言うんだよ♪」
そうそう、よくできました。
しかしミハイルは頭の上に「?」を浮かべたまま首を捻っている。
「三角? どこだ? さっぱり分からん!」
クリスと沙羅には見えているようだが、もしかしてそれを見るには特殊な能力が必要なのか。
女性にしか見えないとか?
「レティには見えるか?」
「見えるわよ、もちろん」
少し下がって三人の様子を楽しげに眺めていたレティシアも、くすくすと笑みを漏らしながら頷く。
「そうか、見えないのは俺だけなのか……!」
刹那に募る孤独感。
人に見えないものが見えるのも大変そうだが、その逆もそれはそれで結構辛いものがある。
「大丈夫ですよ、ちゃんと見方を教えてあげますから」
沙羅が隣に来て、オリオンを指差した。
「ベテルギウスはわかりますね?」
「おう、それくらいはな」
「では、先ほどの三つ星を繋いだ線を左下に延ばして……そこにも明るい星があるのがわかりますか?」
「なんか青白いあれか」
「そう、あれがシリウスです」
「その名前は聞いたことあるぞ、そうか、あれがそうなのか」
それが三角の二つ目。
三つ目はベテルギウスとシリウスを繋いだ線を三角の一辺に見立て、更に左上に線を延ばす。
「そこにも明るい星があるでしょう?」
「こいぬ座のプロキオンだね!」
クリスが答える。
その三つは全天の中でも最も明るい星に数えられる一等星のひとつで、その輝きは数多の星が輝く夜でも埋もれることなく際立って見えた。
「おお、見えた! 俺にも見えたぞ!」
「ぱぱ、よかったねー」
ぱちぱちぱち。
「一度見付けてしまえば、次からは難なく見付けられると思いますよ」
では次は少しレベルアップして――
「星座を探す時はまず北極星を探すと良いのですよ」
北極星はこぐま座の尻尾にあるが、それよりも北斗七星から探したほうが見付けやすい。
二等星だから少し見付けにくいかもしれないが、形が特徴的だからすぐにわかるだろう。
柄杓の一辺を五倍の長さに伸ばしたところにあるのが北極星だ。
コツを掴んだら、少し難しい星座にも挑戦してみようか。
「そうだわ……やまねこ座という星座もあるんです。見つけにくいから星座図鑑の方が良いでしょう」
それは見付けにくいことにかけては全天で一二を争う高難度。
寧ろ見付かることを拒否しているかのようにさえ思える星座だった。
なにしろ名前を付けた本人が、『ここに山猫の姿を見出すには,山猫のような鋭い目が必要だ』と書き残しているくらいだから――
そうして星空に夢中になる三人の姿を、レティシアはそっとカメラに収めた。
星空を背景にして、微笑ましく幻想的に。
邪魔になるからとフラッシュを使わなかったために少し映りは良くないが、それが却って良い感じに仕上がった……かな?
「見出しは『祥あれ星空に描く淑女の未来』で決まりかな」
自分としては満足のいく出来映えだと思うのだけれど。
そうして沙羅先生の授業が終わるころ、船は港に帰り着いた。
甲板やマストに明かりが戻り、それどころかピカピカ光るLEDで飾られた上にスポットライトを浴び、貴婦人のような佇まいを見せている。
そして船内は大人の社交場となった。
「いよいよ社交界デビューね、クリス」
船内の控え室。
レティシアはキラキラ輝く銀色のティアラをその頭に載せる。
「これ、デビューの定番よ?」
「では私からはこれを」
沙羅からは胸元を飾るためのネックレスを。
「これをボクに?」
クリスは大きな鏡に自分の姿を映してみる。
柔らかな風邪を纏ったようなドレスに、ティアラの脇には白百合の髪飾り。
耳には花を模した小さなイヤリングを下げ、胸元では凝ったデザインの繊細なネックレスが揺れる。
足元はちょっと背伸びをしてハイヒールにしてみた。
「なんだかお姫さまみたい」
少し照れながら、嬉しそうにくるりと回ってみる。
足首をひねりそうになったけれど、何とか笑顔で踏ん張った。
「二人とも、ありがとう」
「とても良く似合っていますよ」
沙羅が微笑む。
「それにレティさんも。お二方ともドレスが似合っていて素敵です」
レティシアは背中が大きく開いた黒のバックレスに、腰から下は目の覚めるような鮮やかな青の天鵞絨のセパレートタイプ。
ラインは身体の線を惜しげもなく強調したスレンダーだ。
「あら、沙羅だって男性陣の視線を釘付けにしそうじゃない?」
アップにした髪から流れる後れ毛に目を奪われる男性は少なくないだろう。
Aラインのドレスは露出こそ少ないが、透け感のあるレース素材が妄想、いや想像力を掻き立てる。
結論、全員綺麗で可愛い。
「それじゃ早速、パパを驚かせてやりましょ?」
レティシアが悪戯っぽくウィンクをして、男性控え室のドアを叩いた。
「二人とも綺麗だ、どこの女神かと思ったぞ」
それがミハイルの第一声。
だがそこじゃない、最初に褒めるべきはそこじゃない。
レティシアにそっと肘をつつかれて、ミハイルはクリスに視線を落とした。
「クリスも可愛いぞ、似合ってる」
わざわざ言わなかったのは、娘が可愛いのは当たり前、とっくに知っていることだから――というのは男の言い分。
「女の子はね、わかってても言葉にしてもらえるのが嬉しいんだよ?」
「そうか、肝に銘じておこう」
なおミハイルは黒のタキシード。
サングラスがないと「誰だお前」と言われそうだが、女子にはちゃんとわかるらしい。
「ミハイルさんも、普段も素敵だけれどいつも以上に格好良いです」
沙羅が褒めてくれた。
嬉しい。
でもちょっと照れるぜ。
クリスはミハイルに手を引かれ、ホールに通じる階段を降りる。
頭上には煌めくシャンデリア、そして眼下には精一杯に着飾った人々の姿。
弦楽器が奏でる静かなワルツが耳をくすぐる。
初めて目にする大人の世界に胸はドキドキ、けれど気後れはしない。
目指せレディの一番星☆
「いい笑顔! 今夜の主役ね! もう一枚よ」
その姿をレティシアが写真に収めた。
華やかなドレス姿でもゴツいカメラを手放さないのは流石にプロだ。
「さてお嬢さん、一曲踊って頂けますか?」
そのままエスコートされて、クリスとミハイルは踊りの輪の中へ。
ワルツのステップなんて知らないけれど、パパが上手にリードしてくれるから大丈夫。
繋いだ手を軽く上げるのはターンの合図、そのままくるりんと回れば、ほら結構サマになってるでしょ?
屈めた腰がちょっと心配だけど、遠慮はしない。
遠慮はしないけど、この身長差はちょっと腕が疲れるかなー。
名残惜しいけど、お姉さん達と交代してあげよう。
腰痛の危険から解放されたミハイルは、次に沙羅をダンスに誘った。
折角の綺麗どころが揃っているのだ、壁の花にさせておくのは勿体ない。
それに女性をダンスに誘うのは紳士の嗜みだからな。
「沙羅、俺と踊ってくれないか」
「もちろん、喜んで」
そっと手を取り、ホールの真ん中へ。
優雅なワルツに乗って、二人は軽やかにステップを踏む。
「ミハイルさんはダンスもお上手なのですね。どこで覚えたのですか?」
「まあ、色々とな」
とある企業の秘密工作員としては、ダンスくらい踊れなくては話にならない。
かつて仕込まれた技能が役に立つ場面は多いが、まさかダンスが役に立つとは……人生、何がどこで生きてくるかわからないものだ。
と、それは秘密だが。
「沙羅のほうこそ、なかなか上手いぞ」
「学校の授業で習いましたから」
沙羅がくすりと笑う。
もっとも、その時のお相手は同じ女子学生だったけれど。
「女学院でしたから」
「ああ、桜の園というやつか」
その姿にレティシアはカメラを向ける。
「聖女と紳士の一夜の邂逅か。綺麗……」
ちょっと羨ましいな、なんて思わなくもないけれど。
しかし勿論、女性をダンスに誘うのは以下略。
今は撮影が忙しそうだから、声をかけるのは遠慮しておくが――
「仕事終わったら俺とダンスしないか?」
「あら奇遇ね。たった今終わったところよ?」
カメラを置いて、レティシアはミハイルの手を取る。
「お誘いありがとう、どうぞお手柔らかに」
優雅に一礼し、踊りの輪に加わった。
色とりどりの華やかなドレスに混じって、黒と青の花が開く。
堂々と、そして艶やかに。
「あなたのリード綺麗に踊れるわ。クリスが憧れてくれたら最高ね」
先程から、痛いほどに視線を感じるのだけれど。
二人が踊る様子を、クリスは瞬きもせずに見つめていた。
優雅なステップに、見ているほうが恥ずかしくなるほどの密着度。
「いいなー、ボクもあんなふうに踊ってみたいなー」
隅のテーブルで肘を付き、氷が溶けて薄くなったオレンジジュースをストローでぶくぶくごぼごぼ。
そんな時、ふと声をかけられた。
「こんばんは、楽しんでいますか?」
顔を上げると、翡翠色の鳳凰が大きくあしらわれた着物ドレスにシースルーの透け感が強いストールを羽織った香里が微笑んでいた。
見ればその傍らには、様々なドリンクを積んだワゴンがある。
「よかったら、カクテルをサービスしますよ?」
もちろんアルコールはなしで。
「じゃあお願いしようかな」
注文はお任せで、でも今の気分に合うようなものだと嬉しいな。
「かしこまりました」
香里はオレンジジュースにレモンジュース、それにパイナップルジュースを等量、そこに氷を入れてシェイカーを振り始めた。
「これはシンデレラというノンアルコールカクテルです」
どんな女の子も、魔法をかければ舞踏会の主役になれる。
でも、いつか魔法がなくても素敵に踊れる時が来るからと、そんな想いを込めて。
ダンスのペアは、いつしか沙羅とレティシアに変わっていた。
その華やかで大胆かつ匂い立つような色香に、今や会場全体の注目が集まっている。
いつしか周囲で踊るペアの姿はなくなり、広いホールの真ん中にただ二輪の花が咲いた。
「見られてるわね。女同士も華やかで楽しいわ」
「きっとレティさんが素敵だからですよ」
くすり、どちらからともなく楽しげに笑う。
「次のターンは軽やかにいきましょ」
「えぇ、思いっきり楽しみましょう」
悪いけど、この舞台は誰にも譲らないから。
●はとコン狂騒曲 番外編第二幕
「お嬢さん。ディナーへのご招待、受けてくださいますか?」
菫色のイブニングドレスに着替えた和紗に、シングルのブラックスーツに身を包んだジェンティアンが手を差し伸べる。
レディのエスコートは心得ていますよ、ええ、英国紳士ですから。
和紗のほうもお嬢様育ちだから、こういった席は慣れている。
堂に入った様子で席に座り、テーブルマナーも完璧だ。
料理は定番のフルコースだが、小食な和紗に合わせて量は少なめに頼んである。
前菜にサラダ、スープにパン、魚料理に口直しのシャーベット、肉料理の次はフルーツ。
飲み物はワインの代わりにノンアルコールカクテルだ。
「これは見たことのないカクテルですね」
ここのオリジナルだろうか。
だとしたら是非レシピを教えてほしいと思ってしまうバーテン見習い。
しかし、ふと気が付けば目の前に座っていた筈の彼が消えている。
「竜胆兄?」
コースの途中で席を立つのがマナー違反であることを、彼が知らないはずはないのだが……
その姿はステージの上にあった。
そして始まる、生演奏に乗せた祝福の歌。
滅多に聞くことが出来ない激レア本気歌唱に、居合わせた人々は思わず食事の手を止めた。
だがギャラリーの評価などどうでもいい。
この歌はただ、和紗ひとりに捧げたのだから。
歌の余韻に浸りながら素直に拍手を送り、席に戻った彼に一言。
「流石、唯一の特技だけはありますね」
「……うん、それ褒めてくれてるんだよね?」
「褒め言葉に聞こえませんか」
「いや、ありがと♪」
お嬢様の手をとり、その甲に口付けを。
甘いデザートとコーヒー、最後に一口サイズの小さなケーキを食べて。
演奏を聞きながら暫くゆっくりしたら、次は――
「Shall we dance ?」
「ちゃんとリードして下さいね?」
「もちろん」
だから安心して任せなさい、と言うけれど。
ほんとかな?
ちょっと試してみてもいい?
「俺も結構上達したでしょう?」
「う、うん、そうだね」
今、爪先にヒールがメリ込んだけど、痛くないよ、全然痛くない。
ふむ、合格?
●今宵ダンスのお相手を
「偶にはこういうのも意外性があって良いと聞いたが……風香は喜んでくれるだろうか?」
こうした事には疎い黒羽 拓海(
jb7256)も、クッキーなどのスイーツ系の三倍返しが基本という話は知っていた。
さもなくば高級ブランド品という怖ろしい話も耳にする。
しかも贈る相手は結構評価が厳しい、下手な物では自分の株が急降下――
そう思い悩んでいるところに、海賊船でのパーティの話が舞い込んで来た。
これはきっと天の助けだ。
問題は、それが彼女の趣味に合うか、だが。
「ホワイトデーのお返しが素敵な一夜だなんて、拓海にしては気が利いてますね」
兄からの招待を受けて、黒羽 風香(
jc1325)は遠慮のない素直な感想を漏らした。
この手の返しが出来るようなタイプではなかった気がするが、彼も家の外に出て色々と経験を積んだのだろうか。
いずれにしても、折角の機会だ。
「今夜はきっちりエスコートして貰いましょうか」
交渉成立。
そして当日。
タキシード姿の拓海が着飾った風香を出迎える。
髪はアップにして藍色のカクテルドレスにジュエリーも青系で統一。
胸元には愛用の黒い羽型のペンダントが揺れている。
こうして見ると、普段とは違ってずいぶん大人っぽく見えた。
本人にそれを言うと「もう大人です」と怒られてしまいそうだし、事実その通りなのだが。
「ドレス似合ってるな。普段とは違った魅力がある」
だから、そう言い換えてみた。
「ありがとうございます」
素直にそう応えたところを見ると、正解だったようだ。
拓海は会場までエスコートしようと手を差し伸べる。
(こういう場はあいつの方が慣れてるからな。ダメ出しされないように気をつけよう)
自分は昔から武道一筋だったが、風香はお嬢様だ。
マナーや礼儀作法など、一通りのことは叩き込まれている。
ダンスも同様だが――
「何をぼんやりしているのです?」
風香に言われて我に返る。
気が付けば既に音楽が始まっていた。
それに乗せて軽くステップを踏む。
正式に習ったことはないが、風香のおかげで基礎の動きくらいは身体が覚えていた。
「こうして踊っていると、昔練習に付き合って貰ったのを思い出しますね。……覚えていますか?」
「ああ、何回も足を踏まれたな」
覚えている、それどころかちょうど今、それを思い出していたところだと苦笑い。
お陰でこうして今、拓海もそれなりに踊れるようになったわけだが。
「今では立派に淑女になったつもりですが……どうでしょう?」
そう言われて、拓海は僅かに表情を引き締めた。
「それと自分で言ってる内はまだまだだって、昔言われたろ?」
風香もそれは覚えていた。
だから僅かに下を向く。
「まあ、安心しろ。俺からすると立派な淑女だ」
その俯いた頬を、拓海はそっと撫でた。
再び顔を上げたその表情に変化はなさそうに見えるが、拓海にはわかる――嬉しそうにしていることが。
「それにしても、ずっと続けばいいと思ってしまいますね、これ」
「何故?」
「だって、兄さんが今は私だけを見てくれているんですから」
普段なら、こんなふうに独り占めは出来ないから。
やがて演奏は終わりを迎え、足が止まる。
次の曲はすぐに始まるのだろう。
けれど、その隙間の一瞬。
「愛してますよ、拓海」
風香は拓海の唇を奪った。
不意打ちに驚きはしたものの、拓海は落ち着いた様子でその身体を抱き寄せる。
「ああ、俺も愛してるぞ、風香」
耳元で囁いた声に、次の曲が重なる。
もう一曲、お付き合い願えますか?
●休憩時間
「皆さん お寛ぎくださいね♪」
休みに入っても、香里はまだ接客スイッチが入ったままだった。
「……休憩時間にお客様として楽しんだりは、なさらないのでしょうかぁ……」
恋音の問いに、香里は笑顔で首を振る。
「私はこのままで充分楽しませてもらっていますから♪」
寧ろ接客のほうが楽しいと、そう言われてみれば恋音にも心当たりがあった。
かく言う自分も調理中に書き留めておいた料理のレシピや作業手順のメモなどを、こうして読み返しているのだから。
今は料理のレパートリーを増やして、少しでも腕を磨きたいところ。
仙也に至っては生理的な欲求の他には休憩も取らず、ひたすら厨房で経験値を稼いでいる。
そんなに働きづめで疲れないのだろうかと心配になるが、どうやら接客に出た時の人間観察が疲労回復に一役買っているらしい。
「……何か面白いことは見付かったのでしょうかぁ……」
「ええ、まあ……色々と」
後でメモに纏めるのが楽しみになる程度には。
「……それは良かったですぅ……」
確かに厨房の外にも色々と発見はあるだろう。
たまには提供する側ではなく、もてなしを受ける側に回ってみれば、また違った視点で自分の仕事を見返すことが出来るかもしれない。
「……では、私も少し会場を回ってみますねぇ……」
ドレスコードもそう厳しくはないし、手持ちの服でどうにかなるだろう。
託児所のバイトを終えたひりょは、スーツに着替えてディナーの会場へ。
「ダンスという気分でもない……そもそも相手もいないしな」
苦笑いを漏らしながら席に着く。
まあ、おひとりさまディナーというのも、それはそれで物悲しい響きがあるけれど。
でも気にしない、ペアで参加と決まっているわけでもないのだから。
次々に運ばれて来る料理を機械的に口にしながら、ひりょは物思いにふける。
(今ある力を手放してでも大事な仲間を守れる力を手にするか……)
今の専攻は、そろそろ奥義に手が届く。
地道な積み重ねをこれからも続けていけば、エキスパートになれるかもしれない。
しかし敵の攻撃は多種多様、その全てに対処する為には少し脇道に逸れることも必要な気がする。
自分ひとりで背負うのか、それとも他の誰かと分け合うのか……それによっても必要なものは変わって来るだろう。
(激化していく戦いの中、俺も某かの選択をせねばならんな)
と、その目の前に影が落ちる。
「……ここ……相席させていただいても、よろしいでしょうかぁ……」
顔を上げると恋音の姿があった。
「うん、どうぞ遠慮なく」
少食な恋音はノンアルコールカクテルだけを手に席に着く。
普段からよく話をしているから、こういう席では改まって何を話せばいいのか、ひりょにはよくわからない。
けれど、ひとりではないということが何故か無性に嬉しかった。
「壁の花って、こういうのを言うのかな」
カクテルドレスに着替えたあけびは、文字通りホールの壁に貼り付いていた。
空気を読んでおめかしはしてみたけれど、踊れないし気の利いた会話も出来そうにないし。
万が一誰かに声をかけられでもしたら、パニックを起こして畳返しでも決めかねないし。
「そんなことしたら、あの人に笑われちゃう」
笑っていろとは言われたけれど、笑わせてくれと言われた覚えはない、うん。
そんなことを考えながら、ぼんやりと踊りの輪を見つめる。
華やかで美しく、繊細で……自分が慣れ親しんだ「ヤットウ」の世界とは対極にある、夢のような世界。
でも嫌いではない。
この空気は寧ろ好きだ。
まるでひとつになったように身体を密着させて踊る男女。
互いに相手を信頼しているからこそ、大胆に身を任せることが出来るのだろう。
見ているうちに、なんだか顔が熱くなってきた。
火照った頬を冷まそうと、甲板に出てみる――が、そこは更に刺激的なカップルで溢れていた。
暗いからって何をしてもわからないと思ったら大間違いだよ君達。
慌てて目を逸らし、その場から逃げるように立ち去った先にもまたカップル。
あっちにも、こっちにも、これじゃ逃げ場がないじゃないですかー。
仕方がないから仕事に戻ろうか。
今日はもうシフトは入っていないけれど、子供達の相手をしているほうがずっと楽だ……と、そう思えるまでに慣れてきた。
(いつか私にもあんな風に笑い合ってくれる相手が現れるかな)
そんなことを思いながら船内に戻る。
と、ディナーを終えたひりょと恋音に鉢合わせ。
「あ、ひりょ先輩!」
「……誰?」
あれ、気付いてもらえなかった。
「私です、あけびですよ!」
「ええっ!?」
実はあけびさん、黙って立っていれば容姿端麗なのである。
黙っていれば(ここ重要
「せっかくだし、三人でお茶でもしようか」
ひりょが誘ってくれた。
やっぱり良い人だ。
●星明かりの海で
「あら、どこへ行ったのかしら?」
ルチア・ミラーリア(
jc0579)は船の中で恋人の姿を探す。
つい先ほどまで隣にいた一川 夏海(
jb6806)は、一体どこに消えたのか。
自分の方が迷子になったという可能性は考えない。
たまにやらかしはするが、今回それはない筈だ――先ほどから一歩も動いてないのだから。
「と言うか、自分から誘っておいて姿をくらますとはどういう了見なの」
誘い受けというのは聞いたことがあるが(ただし意味はよくわからない)、これは……誘い逃げ?
せっかくこの日のために黒のイブニングドレスを誂えたのに。
それに何より、これが記念すべき初デートだというのに!
と、その背後から漂って来る甘い香り。
誰かの香水だろうか。
いや、これは花の香りだ。
しかも薔薇、色は情熱の赤、多分。
振り向いたそこには、ルチアが想像した通りの豪華な花束があった。
と、その背後から聞き覚えのある声がする。
「俺と素敵なダンスを踊っていただけませんか、セニョリータ。なんてな」
花束が揺れ、その背後からニヒヒッと笑う夏海が顔を出した。
「もう、どちらへ行かれていたのですか? ダンスが始まってしまいますよ」
機嫌を損ねたルチアは頬を膨らませながら問い質すが、夏海はそれを右から左へ聞き流す。
「チッチッチ、夜空をバックに踊るってのも中々イカしてるとは思わないかァ?」
ニヤリと笑って花束贈呈、その手を取った。
「外へ繰り出そうぜ、ルチア。星達に嫉妬されない程度にな」
そんなふうに言われたら、頷く以外に選択の余地はない。
「私はべつに、嫉妬されても構いませんが」
「リアルコメットが降って来るぜ? いいのか?」
「それでも……私が守りますから」
そう言われれば夏海もまんざら悪い気はしないが。
「そいつは俺の仕事だぜ?」
腕を引き、バランスを崩して倒れかかったところで抱き上げる。
そのまま花束と共にお姫様抱っこで甲板に連行した。
「すごい星ですね……」
ルチアは目を輝かせ、うっとりと夢見るような表情で空を見上げる。
これが「降るような星」と言うのだろうか。
見上げていると、このまま空に吸い込まれてしまいそうだ。
キラキラ光る星屑の雲をベッドにしたら気持ち良いだろうか。
それともキラキラ眩しすぎて眠れないだろうか。
そんなおとめちっくな妄想に浸る耳に、夏海の声がそっと触れた。
「来いよ、夜空のステージだ」
小天使の翼で宙に浮いた夏海に腕を引かれ、自分も光の翼で浮き上がる。
「魔法が切れるまで楽しもう。愛してるぜ、ルチア……」
耳元で囁き、頬に口付けをしたら始まりの合図だ。
船から漏れ聞こえるワルツの音楽に合わせ、空中を舞う。
空には星、凪いだ水面にも映る星。
夏海のリードでくるりくるりと回るうち、どちらが上かわからなくなる。
自分は今、落ちているのか。
それとも昇っているのか――
「すまん、時間切れだ」
落ちている方だった。
小天使の翼は効果時間が余りにも短い。
夢の時間はあっという間に終わりを告げ、後は海へと真っ逆さま。
「あばよ、良い思い出だったぜ」
「だめです、勝手に過去形にしないでください!」
ルチアは慌てて引き上げようとするが、僅か4メートルの落下距離はその余裕を与えなかった。
ばっしゃーん!
派手に水飛沫を上げて寒中水泳に挑む夏海。
ルチアが引き上げた時には全身ずぶ濡れだった。
「水も滴る良い男ってな。どうだ、惚れ直したか?」
「直さなくても惚れてますから」
どうぞご心配なく。
「いいから早く温かいシャワーを浴びて着替えてください、風邪をひきます」
そして着替えを終えた夏海に向かって、ずいっと差し出される小さな袋。
「なんだ?」
「弾除けのお守り、です」
耳まで真っ赤になって視線を逸らしつつ、早く受け取れと促す。
「その……こういった物を渡すもの、だと聞いたので」
なお、中身が想像通りのものだとしたら……
それは渡すのに勇気がいるでしょうし、恥ずかしいでしょうね、うん。
●Chase in Cruise
「ロイヤルスイートが開いていて、幸いだったな」
「はい、これもきっと日頃の行いが良かったからなのでスね☆」
ここはロイヤルスイートととして使われる海賊船の船長室。
部屋に荷物を置いた穂原多門(
ja0895)と巫 桜華(
jb1163)は、興味深そうに室内の様子を眺め渡す。
船尾に大きく開いた窓に、金のフリンジが付いた真っ赤なカーテンがかかっている。
その前には大きな机、上に置かれた航海日誌には今までの宿泊客から寄せられたメッセージが書き込まれていた。
足元にはバスタブほどの大きさがある豪華な宝箱が置かれている。
渡された鍵で開けてみたが、中には何も入っていない。
他に家具の類が見当たらないところを見ると、これは貴重品入れなのだろう。
それにしては大きすぎる気もするがな」
「ほんとでスね、ウチもすっぽり入れそうなのでスよ」
あ、もしかしてこれで「大事な人はここにしまっちゃおうねー」という遊びが出来るかも?
良く見れば小さな空気穴が開いているし。
万が一本気で閉じ込められた時の為に、鍵は中からも開けられる安心設計だし。
後でちょっと試してみるのも良いかもしれない。
「閉じ込めてやろうか?」
まるでその考えを読んだように、多門が声をかけてくる。
差し出すその手にはウェルカムドリンクのグラスがあった。
「多門サンがそうしたいなら、ウチは構わないのでスよ♪」
グラスを受け取り、その縁を軽く触れ合わせる。
キンと高い音がした。
カットグラスに注がれたその液体は、まるで夜空を映し込んだような深い群青色と、青空のような明るい青の二層に分かれている。
光の加減でグラスがキラキラと光り、星が瞬いているように見えた。
「これから始まるナイトクルーズに向けての演出だろうな」
このままゆっくり二人の時間を楽しむのも良い。
けれど、せっかく様々なイベントが用意されているのだから、まずはそちらを楽しもう。
多門はいつもの黒スーツ、桜華は蒼いカクテルドレスに着替えて船室を出る。
見慣れたチャイナドレスと違い、プリンセスラインの膝丈ドレスは新鮮で、多門は思わず目を奪われた。
髪には蒼い薔薇のコサージュが揺れている。
「ふふ、多門サン見とれてるのでスね。多門サンもカッコイイのでスよ?」
いつもと同じだけど。
それはつまり、いつもカッコイイということで。
しかしそれは言葉にせずに、桜華は赤い絨毯が敷かれた廊下を足取りも軽く先へ進む。
途中のホールで流れて来る音楽に耳を傾け、華やかな踊りの輪に目を奪われ、ワゴンに置かれたドリンクや軽食をつまみながら――
甲板に出ると、そこはライトで明るく照らし出されていた。
けれど光が届かない場所には何かが潜み、隙を衝いて飛び掛かってくるのではないかと、そんな想像も掻き立てられる。
「海賊船、カッコイイでスね! わくわくするのでス♪」
と、その明かりが一斉に消えた。
「クルーズが始まるようだな」
その言葉通り、港に錨を降ろしていた海賊船はゆっくりと動き始める。
明かりを落とすと、久遠ヶ原島の夜景が目に入った。
「こうして見ると、島の夜景もなかなか綺麗なのでスね」
舷側に肘を付き、桜華はその様子に見入っている。
「ああ、こうして何度も二人で出かけたが、幾度時を重ねても飽きることがないな」
その隣で多門が囁いた。
「と言うより、新たな発見がある」
この先も幾度となく、こんな時を重ねるのだろう。
何度重ねても、それは新鮮な時間であると多門は確信をもって頷いた。
やがて夜景も遠ざかり、船の周囲は闇に包まれる。
空に輝く星が急に近付いて来たように感じられた。
くいくい、桜華は多門の袖を引き、悪戯っぽく笑う。
「ふふ、海賊サンのように、ウチを攫って下サイな♪」
言葉の直後、桜華はふわりと身を翻した。
「追いかけっこでスよ♪」
ほーら捕まえてごらんなさーい、うふふあはは。
頼りになるのは足元の非常灯と星明かりのみ。
黒いスーツと蒼いドレスは闇に溶け込む。
それでもきっと見えるはず、手が届きそうで届かない、この距離ならば。
「鬼さんこちら、なのでスよ♪」
絶妙な距離を保つのは、掴まえてほしいから。
手を叩いて場所を知らせ、次第次第に追い詰められて。
辿り着いたマストの天辺で、とうとうその腕に囚われた。
「捕まえたぞ、桜華」
「はい、戦利品はどうぞご自由に、なのでス」
宝箱にしまっちゃう?
「ああ、そうだな。でもこの腕の中が、俺の宝箱だ」
ぎゅっと抱き締め、囁く。
「海賊とかではないかもしれないが、欲しいものが腕の中にいてくれると嬉しいな」
「ウチの心はもうずっと前かラ、多門サンのものでスよ……☆」
強く抱き締め返し、桜華はそれに応えた。
今日のこの日に、いつも傍にいてくれることに、感謝を。
「風が冷たい、そろそろ部屋に戻るか」
ホログラムなら寒さを気にせず、いくらでも眺めていられるだろう。
星空や海の景色に包まれて一緒に眠るこの夜は、きっと一生忘れない思い出になる。
●歌姫と星空
他に人の気配がない、船の甲板。
ライトアップの光が当たらない場所は、夜の闇がいっそう濃く感じられた。
足元からは三拍子の音楽が漏れ聞こえて来る。
「ダンスを楽しむ人達の為に、生演奏してるのね」
ケイ・リヒャルト(
ja0004)は、その音にじっと耳を傾ける。
弦楽四重奏、そこにピアノが加わった五重奏か。
「ケイも踊りたいんじゃねーのって」
すぐ後ろに影のように寄り添った藤村 蓮(
jb2813)が尋ねてくる。
「俺だってこんな格好してんだし、踊っても良いんだっての」
「ほんと? 踊れる?」
笑いを含んだ声ととに、ケイは振り向いた。
目の前の蓮はタキシードに身を包んでいるが、いかにも着慣れない感じに収まりが悪い。
服を着ていると言うより、服に着られている感じだ。
「仕方ないだろ、慣れてないんだっての」
よくわからないから店で適当に選んでもらったらこうなっただけだし。
「うん、知ってる。それでもちゃんと、来てくれたのよね。ありがとう」
でも今日は明るい場所で光に包まれるよりも、こうして闇に包まれていたい。
「蓮にだけ、見てもらえればいいから」
胸の部分が大きめにカットされた背中開きのカクテルドレスは黒と紫。
まるで夜に舞う蝶のようなデザインに、シフォン地のストールを羽織って。
それはただ、彼だけに見せたくて選んだものだ。
「少し歩きましょう?」
どちらからともなく腕を絡め、ゆっくりと歩き出す。
「こんな刻があるなんて……考えてもいなかった」
ぽつり、ケイが呟いた。
「隣には……蓮。黒揚羽のあたしの唯一の花。蓮の花」
絡めた腕に力を込める。
愛しさと嬉しさが込み上げて、涙となって溢れ出しそうだ。
やがて立ち止まり、漏れ聞こえてくる音楽に合わせて静かに歌を口ずさむ。
即興の詩を付けて、優しく、蓮だけに聞こえるように。
その歌声を、蓮は目を閉じて静かに聞き入っていた。
大切な人と過ごす、大切な時間。
ただ一度しか歌われないその歌声を記憶に留め、忘れないように胸に刻む。
「もう二度と、同じ歌はきけないだろうからな」
「でも、歌詞とメロディが違っても……想いは同じよ」
いつまでも変わらない、ただひとつの想い。
二人の足は自然と船室のほうに向いた。
ベッドに座り、互いの重さを肩に感じる。
「蓮……強張った過去から続くあたしの鎖を解いてくれた人……」
「そんな大層なこと、した覚えはないっての」
でも、ケイがそう言うなら、きっとそうなのだろう。
「愛してる……狂おしい程に……」
息がかかるほど顔を近付け、その耳にそっと口付けを。
「知ってる? 蓮。耳にキスの意味……」
「知ってるよって、誘惑だろっての」
「なんだ、知ってたのね」
ふっと笑みを漏らし、ケイは潤んだ瞳で蓮を見返す。
「前に言われてされたことあるし……」
囁き返し、蓮はケイの耳に口付けを返した。
心臓の鼓動が重ねた手を通して伝わって来る。
「……じゃあ、この意味は……?」
今度はそっと唇に触れた。
「愛してる、だろ?」
「……そう、愛してる、蓮……」
「俺もだよってね、ケイ……」
唇を重ねたまま、そっと体重をかける。
その首に腕を回し、ケイは目を閉じた。
「だから、あたしを貴方の色にして……」
●大人の時間
「自然の星ってこんなに綺麗なんだね……」
マストの天辺、貸切の見張り台で、黒田 紫音(
jb0864)はうっとりと呟いた。
サイドに纏めて左に流した銀の髪に星の光が降り注ぐ。
シックな黒のベルベットワンピースにファーコートを羽織っていても、風の冷たさは防ぎきれていなかった。
しかし夫、黒田 京也(
jb2030)に背後から腕を回され、背中だけはぽかぽかと温かい。
上等な黒スーツにもたれかかり、紫音は周囲に目を向ける。
右を見ても左を見ても、前も後ろも星だらけ。
見えすぎて少し怖いくらいだ。
「あ、流れ星……」
目の端にキラリと光る筋を残して、小さな星屑が流れ去る。
「お願い、出来なかった」
少し拗ねた様子で、紫音は再び流れ星を探す。
右を見て、左を見て、上を見る……と、京也の顔があった。
「大きな星、太陽かな?」
でもそこでそうして覗き込まれていると、星が見えない。
まるで「そんなの見てないで自分を見ろ」と新聞紙にでーんと乗っかって来るネコのようだ。
どいて、とは言えない。
寧ろこのまま見ていたい、けれど。
「京也は星、見ないの?」
「オレは星より紫音を見ていたい」
「嬉しいけど、見飽きない?」
「紫音はオレの顔を見飽きたのか?」
言われて、ふるふると首を振る。
「なら何も問題はないな」
実際、見飽きるどころか会うのも久しぶりだ――夫婦なのに。
だから本当のことを言えば、京也としてはのんびり星など見ていないでさっさとベッドに連行したい。
しかし我慢だ、今だけは。
少しの我慢が後になってより大きな見返りを生むのだから。
とは言え、吹きさらしの見張り台は寒い。
10分もいれば身体が冷えてくる。
「そろそろ中に入るぞ」
耳元で言われ、ぴくりと身を震わせた紫音は頬を染めた。
が、直後に思い違いに気が付いて、ますます赤くなる。
可愛い。
「どうした?」
ニヤニヤしながら囁いた京也は、妻が何をどう勘違いしたのか、知った上で尋ねているのだろう。
あ、よいこのみんなはわからなくていいからね?
見張り台から降りた二人は船内へ。
まずはディナーで腹拵え、京也は肉が多めのメニューをがっつりと、しかし上品に。
職業柄、パーティなどの改まった席に出ることも多い若頭筆頭は、洋式のマナーもきちんと心得ているのだ。
もちろんその妻である紫音も、立ち居振る舞いは完璧に……完璧……いや、大丈夫?
「心配しないで、京也に恥はかかせないから」
「構わねぇよ、紫音を笑う奴はオレがぶっk(ピーーー」
とにかく、食事は楽しく摂るのが一番だ。
マナーとかしきたりとか、面倒くせぇ。
「そんなことより、楽しめよ?」
「うん、楽しんでる」
にっこり笑って、紫音は甘そうなデザートを京也の皿に分けて寄越した。
本当はそれもマナー違反だが、とやかく言う奴はぶっk(ピーーー
お腹が落ち着いたら、次は――
「踊るか」
「え、聞いてないよ?」
ダンスなんて知らない出来ない予定に入ってない。
「大丈夫だ、オレがエスコートするさ」
何処で覚えたのか、ヤの付く職業の人なのに。
しかしヤが付こうが付くまいが、出来る男はダンスも嗜むものなのだ。
「うん、じゃあ……」
ちょっと恥ずかしいけれど、人前で堂々と密着できるのは悪くない。
「でも足踏んだりしないかな?」
「紫音にならいくら踏まれても痛かねぇよ」
べつに変態さんとかではなく。
「そう、もっとリラックスして……上手だな」
巧みにエスコートしながらニヤリと笑う京也。
その同じ台詞をベッドの中でも聞いた気がすると、紫音の頬が再び染まる。
明るい光の下では、露わになった胸元までがほんのりと朱に染まって見えた。
「我慢出来ないか?」
耳元で囁いてみる。
だが、まだだ……もう少し、焦らす。
そして、ここからは大人の時間。
「わぁ……自宅にもコレ欲しいかも?」
ホログラムの星空の下で無邪気に喜ぶ紫音は、大きなベッドに仰向けに寝転んだ。
ロイヤルスイートなのに天蓋付きではないのは、この大きな星空を楽しむためだろうか。
「気に入ったなら買ってやる……と言いたいところだが」
生憎この技術はまだ市販されていない。
かといって、これを見てしまった後ではホームプラネタリウムなどでは物足りないだろう。
いや、それはそれとして。
寝転ぶ紫音の視界を、またしても京也が塞いだ。
紫音は下から腕を差し伸べ、引き寄せる。
「京也は私の全て……大好き」
「知ってる」
明かりの落ちた中で、白い肌に、ほどけた銀の髪に、星の光だけが降り注ぐ。
甘くとろけるような空気に、紫音のすべてが溶け込んでいった。
●こどものじかん
「昔はどこでも、こんな星が見られたもんですがねぇ」
近頃ではとんと見られなくなったと感慨深げに呟く齢七百。
「紫苑サン知ってますかい、あれは鼓星って言うんですよ」
「つづみぼし?」
「ええ、雅楽でポンポン叩くアレに見えるでしょう?」
揺籠が指差すその星座は紫苑も知っている……オリオン座という名前で。
「そこからちょっと行ったところにあるのが昴(すばる)、あっちのは錨星(いかりぼし)……」
待って、スバルは聞いたことあるけど錨星なんて知らないよ?
「兄さん、それいつの時代の知しきなんですかぃ?」
「今はそう呼ばねぇんですかぃ?」
呼びませんね。
今日は張り切ってエスコートを頑張る揺籠さん、続くディナーでは何故か用意されていた畳の部屋で本格懐石フルコース。渋い。
ダンスパーティでは体の捌き方が日本舞踊だったり、これが年の差というものか。
ともあれそれなりに楽しんで遊び倒し、クタクタになって部屋に転がり込む。
「ろいやるすいーと! ですぜ!」
紫苑は部屋の真ん中に置かれたベッドに靴のままダイブ、仰向けにひっくり返る。
さすがに豪華な部屋はベッドも豪華、綿雲に包まれたようにふっかふかだ――包まれたこと、ないけど。
「紫苑サン、靴はちゃんと脱ぎなせぇよ」
言われて紫苑は寝転んだままポイポイと靴を脱ぎ捨てる。
「まったくお行儀が悪いんですから……」
文句を言いながらも、揺籠はそれを拾ってベッドサイドにきちんと揃えてやった。
「なんなんですかぃこの部屋は、無駄使いもいいとこでさ」
ベッドひとつでも三畳間より広いかもしれない。
それになんだか枕元には見慣れない機械が備え付けてあった。
傍らに操作説明書が置いてあるが、読んでみてもさっぱりわからない。
「ほろぐらむってのはなんなんですかぃ、新顔の妖怪かなんかですかぃ……」
だが子供の頭は柔軟だった。
よくわからなくてもとにかく使ってみる、説明なんか見なくても使ってるうちにきっとわかる。
というわけで、すいっちおん。
「兄さん兄さんすごい! ここ海の底ですぜ!」
海の底と聞いた揺籠は慌てて息を止め、顔を真っ赤にして手足をばたつかせる。
ああ、そう言えば海が苦手なんでしたっけ。
「兄さん、これただの映像ですぜ?」
ぴっと切り替え、次は北極――いや、ペンギンが見えるから南極か。
「さむっ! 紫苑サン、凍えちまいますぜ!?」
気のせいです、空調は適温に設定されていますから。
そしてまた場面が変わり、今度は灼熱の砂漠。
真上にはギラギラの太陽、足元にはホットプレート並に熱を持った砂。
「あつっ! 火傷しますって紫苑サン、勘弁してくだせぇ!」
楽しい。
映像そのものより、兄さんの反応を見るのがめっちゃ楽しい。
しかし流石にそれも何度目かには慣れてくる――理解は出来ていないらしいけれど。
「紫苑サン、子供は寝る時間でさ。早く寝ないと育ちませんぜ?」
「まだ眠くねぇでさ!」
眠くなくても寝ないと……いや。
(こないだも厳しい戦いだったみてぇですし、たまにはそれくらい甘やかしておきますかね、ええ)
多分、このまま放置してもすぐに電池が切れるだろうし。
しかし、この滅暗夢とかいう妖怪は、どうやったら消えてくれるのだろう。
朝になったら勝手に消えてくれるパターンなのだろうか。
●川の字になって
「今夜は家族水入らずで楽しめそうすね」
ロイヤルスイートの船長室、望を膝に載せた藤花はホログラムで映し出される星空に見入る。
夫の焔には夜間のバイトがあるため、一緒に泊まりがけで出かける機会は多くない。
だがバレンタインとホワイトデーの夜だけは、何故か休みがもらえるのだ。
「不思議なんだよねー、書き入れ時の筈なのに」
焔は全く心当たりがないようだが、それは過去の事例から学んだ店長判断によるものだった。
イケメンの彼が顔を出すと、カップル客の女性の視線を奪ってしまうのだ。
それが原因で「バレンタインとホワイトデーにあの店に行ったカップルは別れる」という都市伝説が出来たとか出来なかったとか。
それはともかく、今夜は家族サービスを。
「君と見る星空は特別なんだ」
三人で川の字に寝転んで、まるで本物のような星空を楽しむ。
「ほんと、きれいね……」
藤花が【星】の入った名字になって早二年と数ヶ月。
かわいい息子と素敵な旦那様のおかげで、今がとても幸せだった。
きっと来年も、そのずっと先も。
子どもの保護施設と小料理屋の夢という未来の為に日々精進しつつ、今も同じくらい大切に。
「ありがとう」
藤花はそっと感謝の言葉を贈る。
二人とも大切な家族だから。
●そして時は過ぎ
本年度スイートシーズンの営業は、無事に終了いたしました。
皆様のご利用、まことにありがとうございます。
また来年お会い出来る日まで、皆様が変わらずお幸せでありますように――!