情報が錯綜していた。
「撃退署からの応援要請…ダルドフの支配領域への進攻だと?」
一報を聞いて、黒羽 拓海(
jb7256)は呟く。
「一体、どういう事やろな」
蛇蝎神 黒龍(
jb3200)もまた、首を傾げた。
どうにも腑に落ちない。
ダルドフの支配は比較的緩く、住民の解放は急務ではなかった筈だ。
なのに何故、このタイミングで攻撃を仕掛けるのか。
「救出……ね。些か尚早な感はあるが、何があったのやら」
天風 静流(
ja0373)も、この状況に疑問を感じている様だ。
しかも、いくらベテラン撃退士とは言え、大天使を相手に20人程度で挑むとは。
「勝算ありと見ての行動だとしたら、判断が甘いとしか言えんな」
或いは何か、無理を承知で動かざるを得ない状況が生じたのか。
「そうかもしれないね…」
答えたのは星杜 焔(
ja5378)だ。
「もう半数近くが重体だって言ってたけど、そこまで被害が出たら普通は撤退を考えると思う」
なのに、撃退署からの要請は戦力増強の為の増援だ。
「撤退支援なら判るのだがな」
静流が頷く。
撤退を渋る理由は何だ。
「死んででも……というなら只の馬鹿としか言い様が無いが」
流石にそれは無いと思いたい。
「だとしても、見殺しには出来ん」
拓海が言った。
攻め込まれればダルドフも本気で応じるだろう。
それで返り討ちに遭ったとすれば、自業自得かもしれないが――
「場合によっては、ここで奴の『刃』を折る必要があるやもしれんな…」
自分にそれが出来るのか、それはわからない。
だが、必要とあらば刃を交える覚悟は出来ていた。
己の示した理由を違えない為に。
「とにかく、何がどうなっとるんかは……行けばわかるやろ」
黒龍の言葉に頷き、一同は転送装置に急ぐ。
「ダルドフというのは、どんな方なのでしょうか」
走りながら、知楽 琉命(
jb5410)が訊ねた。
「だんなは、いい人ですぜぃ」
紫苑(
jb8416)がきっぱりと言い放つ。
どうやらその信頼には一点の曇りもない様だ。
他の仲間達に聞いても、否定的な言葉は殆ど出ない。
公明正大、豪放磊落、天衣無縫。
裏で何かを企む事は似合わないし、出来そうもない。
それだけに、今回の件は不可解に思えた。
(ふむ、面白い)
そのやりとりを聞いていたラドゥ・V・アチェスタ(
ja4504)が頷く。
(敵ながら多くに慕われるその真価、如何なるものか見極めさせてもらおう)
しかしその同じ報告書を見、同じ言葉を聞いて、正反対の感想を持つ者もいる。
(話にゃー聞いてるが、寛大な統治者様のつもりか? 好きになれねーな)
藤村 将(
jb5690)はダルドフへの不信感を隠そうしなかった。
(結局は俺達を支配し、従わせようとしてる事に変わりはねえ)
それを隠し、誤魔化す為に良い顔をして見せている。
侵略者なんてそんなものだ。
騙されない、絶対に。
しかし、その目で現場を見ても状況を把握する事は難しかった。
寧ろ余計に分からなくなった気もする。
(ふむ…優秀な支配者だとは聞いていたが、この暴動はどういう事か)
ラドゥの目に映ったのは、工場の敷地内で暴徒と化した人々の姿だった。
興味深い現象だが、そんな報告は受けていない。
「何故人同士で?」
焔が首を傾げるが、話を聞けそうな者達は今、戦闘の真っ最中だった。
「連中を先に鎮めねば話が進まんな」
戦闘を止めようと、フィオナ・ボールドウィン(
ja2611)が進み出る。
鎮めるべきは、黒田側の方か。
「ええ、彼等の方が熱くなりすぎている様ですね」
或瀬院 由真(
ja1687)が頷く。
ダルドフの側は、防戦からの反撃に徹している様に見えた。
それでもこれだけの被害が出ているのは流石に大天使と言うべきか、或いは――黒田が無謀無策なのか。
――ピッピッピィーーーッ!
頭上から紫苑の吹き鳴らすホイッスルが響く中、フィオナは今しもダルドフに挑みかかろうとする黒田の前に割って入った。
赤く発光する双剣を抜き放ち、その攻撃を受け流す。
「そこまでだ。双方刃を引け」
「何……っ!?」
思いもよらない行動に、黒田は思わず剣を引いた。
だが、予想外の行動を取ったのはフィオナだけではない。
後方からダルドフを狙う魔法攻撃は、マジックシールドを展開したファウスト(
jb8866)が受け止める。
レグルス・グラウシード(
ja8064)は盾さえ持たぬまま、両者の間に立った。
攻撃は勿論、防御も、避ける事も、戦いに関する行動は一切しないという意思表示だ。
静流と焔が、レグルスの壁になる形でさりげなく割り込んで来る。
拓海は黒田とダルドフの両者を牽制する様に。
ラドゥも両者の中間に立ち、静観の構えで成り行きを見守っている。
その傍らに立ち、黒龍は意思疎通でダルドフに呼びかけた。
『ダルド、説明してくれ。何がどうなっとるんや』
だが返って来たのは、その問いに対する直接の返事ではなかった。
『助太刀、感謝致す。しかしこれでは、ぬしらの立場が悪くなるのではないか?』
撃退士達は援軍としてこの地に駆けつけた筈だ。
しかし彼等の行動は、その命令に反している。
小天使の翼で飛び込んだ由真に至っては、完全にダルドフを庇う形で立っていた。
手にしたディバインランスは防御の構えではあるが、黒田の方に向けられている。
ダルドフの目の前、手を伸ばせばすぐに届く位置で無防備な背中を晒す事に、迷いはなかった。
『それは多分、心配せんでええと思う』
彼等は上手くやる。
『せやからここはボクらに任せて、重体者の撤退を認めて欲しい』
と、その時。
上空から――
「だんなぁあああっ!!」
「む、その声は紫苑か!」
満面の笑みと共に、小さな人影が降って来た。
ダルドフはここが戦場である事を忘れたかの様に、偃月刀を地面に突き刺し両腕を広げる。
「よし、参れ!」
「いきやすぜぇーっ!」
どーーーん!
全力急降下からのハグ突撃!
攻撃ではない、めいっぱいの愛情表現だ。
それをダルドフは微動だにせず、がっしりと受け止めた。
「だんな! だんな! ひさしぶりですぜぃ!」
「おぉ、ぬしも元気そうで何より!」
ぎゅうぎゅう抱き付いて来る紫苑の背をぽんぽん叩きながら相好を崩すダルドフ。
その様子は、まるで親子の再会だ。
黒田達は毒気を抜かれた様に、呆然とそれを見つめている。
いつの間にか攻撃も止んでいた。
ダルドフに向き直った拓海が言う。
「仕掛けておいて勝手な話だが、矛を引いてくれダルドフ。そうすればこちらも剣を収める」
だがその答えを聞く前に、由真は槍をヒヒイロカネに収めていた。
「突然の無礼を承知で申し上げます」
紳士的対応を使い、丸腰のままダルドフに面と向かう。
「此度の戦は当方の不手際で生じたもの。これ以上の交戦は本意ではありません」
真っ直ぐに見つめる瞳。
それを見返し、ダルドフは目を細めた。
「ぬしらは相も変わらず、面白い事をしおる」
勿論、相手にその気がないなら反撃の必要もない。
その証拠に、先程から配下のサーバントは後ろに下がったきり動かなかった。
収まらないのは寧ろ――
「貴様ら、何のつもりだ!」
我に返った黒田は、怒りも露わに叫んだ。
久遠ヶ原学園に援軍を要請したのは、この劣勢を覆す為だ。
戦いを止める為ではないし、ましてや敵に塩を送る為でもない。
なのに、何だこれは。
天使に刃を向けているのは、向こうっ気の強そうな髪を逆立てた少年ただ一人。
他の者は程度の差こそあれ、天使の側に好意的な態度を見せている。
「これは明らかに、人類に対する裏切り行為だぞ!」
だが、彼等は動じない。
臆する事もなく、由真が言った。
「己が正義を信じるのは良い事でしょう。ですが、それを盲信するが故に視野を狭くするとは、言語道断です!」
「ここは既に負け戦だ、貴様がそれを認識しておらぬとは思えんが」
そう言ったのはラドゥだ。
「それでも退かぬと?」
「当然だ、何の為に貴様らを呼んだと思っている!」
「ふむ、良かろう。では貴様も我々も今ここで皆死ぬが、構わんな?」
「それを防ぐ為の援軍だろう!」
だが、そもそも戦力を逐次投入する時点で敗北は見えている。
「大天使と事を構えるなら、最初から十分な備えが無いと厳しいだろうに」
静流が呆れた様に肩を竦めた。
「もし理由が個人的なプライドとか、予算の出し渋りなら反論など挟ませはせんよ。過信で部下を窮地に追いやっているのだから」
視線の先では、琉命が既に救護活動を始めていた。
指示を待つ余裕はない。
それに、待っていても的確な指示が下されるとは思えなかった。
「今、この状況で尚勝機があると、貴様本気で思っているのか」
ファウストが言った。
「誰かを助けようとする意志は尊い」
だが。
「差し伸べた手が崩れていく様を、貴様はその目の前で見せ付けたいのか?」
本当にベテランならば戦況分析も正しく出来よう。
その経験が机上ではなく、戦場で積み上げたものであるならば。
「…生き延びるのもまた、『希望』の勤めだと思うぞ」
「しかし、彼等はどうなる!」
黒田は工場を指差し、次いで今やその場にどっかりと胡座を掻いたダルドフを指差した。
「貴様らは騙されているのだ、その大天使に!」
「そうかもしれぬ」
フィオナが頷く。
「しかし、今こここで問題にされるべきは、その事ではなかろう」
後方にある工場の敷地に目を向ける。
「先に鎮めるべきは何かを見極めろ。到着した時点で違和感を感じなかったのか? あれは人と人の諍いだ」
勿論、黒田も気付いていた。
だからこそ、一刻も早く救助に向かう必要があると判断したのだ。
それを邪魔だてしたのが、この大天使だ。
「邪魔が入らなければ今頃は我々が介入し、工場そのものを解放していた」
そうすれば暴動など自然に収まっていただろう。
それが黒田の言い分だった。
彼の目から見れば、それが唯一の真実なのだろう。
だが別の角度から見れば、事実はまた違った様相を見せる筈だ。
「あそこの広場が騒がしいようですが……強制労働に対する暴動ですか?」
由真の問いに、ダルドフは顎髭を捻る。
「強制労働……ふむ、ぬしらにはそのように伝わっておるのか」
「それは、事実なのでしょうか」
由真は続ける。
「貴方の事を音に聞く限りでは、とてもその様な事をする方とは思えないのですが」
それにダルドフの支配下では治安も安定していると聞いた。
「なのに、この状況はどうした事かと……私も疑問に思ってな」
静流が言った。
後ろの喧騒は、伝え聞いた噂と違う。
先日の手合わせで得た感触からも違和感を感じる。
「そちらの仕業かどうか、訊ねたい」
だが、ダルドフは一言。
「わからぬ」
一瞬の沈黙。
口を開いたのは黒龍だ。
「なんや、わからんて」
「某の感覚ではわからぬ、という事だ」
自分にそのつもりがなくても、相手にとっては耐えがたい苦痛であった可能性はある。
所詮、自分は加害者。
被害者の痛みは、立場を同じくする者にしかわからないだろう。
「工場に、姉崎という者がおる。その者に話を聞くのがよかろう……まだ、無事でおるなら、な」
ダルドフは暴動の様子を見やった。
その目に苛立ちや怒りの色はなく、むしろ悲しげにさえ見える。
それを見て、フィオナが進み出た。
「我が名はフィオナ・ボールドウィン。今生の円卓の主」
武人には武人らしく相応の礼を尽くし、きちんと名乗ってから言った。
「一つ聞きたい。暴動を鎮圧するのであればサーバント一匹放り込めば済む筈。何故それをしない」
「決まっている、そんな事をすれば折角作り上げた寛大な支配者のイメージが――」
黒田が口を挟む。
しかし。
「今、我はこの者に話を聞いておる」
ダルドフに視線を据えたまま、フィオナが一喝。
その一言で黙らせる。
やがて口を開いたダルドフの答えは、意外なものだった。
「武力による強制排除は、生産性の低下に繋がる。支配効率の悪化を招く事態は、なるべく避けねばならんでな」
「見ろ、やはり――」
「貴様には聞いておらぬと言っている」
口を挟もうとした黒田に、フィオナが再び一喝。
そのやりとりを聞いて、紫苑はこっそりと周囲を見渡してみた。
何処かに三本足の烏がいる筈だ。
今の答えはきっと、聞かれている事を見越してのもの。
(やっぱり!)
道路脇の樹上にその姿を見つけた紫苑は、黒田達に聞こえないように小声で仲間に知らせる。
暫しの沈黙。
「では決まりだな。あちらの鎮圧を優先すべきだろう」
それがフィオナの下した判断だった。
ダルドフが発した言葉はいかにも事務的で型通りだったが、その裏に秘めた思いは見えた気がする。
その真偽は、いずれ自ずと明らかになるだろう。
下した判断が誤りであったとしても、その時はその時だ。
それよりも今は、犠牲者が出る前に事を収めなければ。
「では、此度の失態のお詫びとして、暴動を鎮める御手伝いをさせて頂けませんか?」
由真が言った。
「あれは人同士の争いなんだね?」
焔が訊ねる。
そして恐らく、ダルドフには手出しが出来ない事情があるのだろう。
「…人同士で解決する必要があるなら、ここは俺達に任せて欲しい」
「その代わり」
今度は黒龍だ。
「重体者の撤退を認めてくれへんかな」
双方にとって、悪い取引ではない筈だ。
「だんな、おれらのしせんはアウルもちつれてのてったいでさ。…一ぱん人きゅう出には、うごけねぇ」
紫苑が見上げる。
「これで手うちになりやせんか、だんなとだんなの上しへの」
恐らく、後で恨まれるのは自分達だ。
ダルドフに類は及ばない。
「だから、おねがいしやす」
「安心せい、誰も悪者にはならぬ」
ダルドフは紫苑の頭を掻き回した。
「ぬしらの事よ、何か上手い手を考えておるのだろう?」
悪戯っぽい目で年長者達を見る。
しかしここでも、黒田の側から異論が挟まれた。
「我々は撤退など――!」
「望んでへんか? だとしても、その話は後や」
黒龍は追い払う様に、ひらひらと手を振った。
「言うたやろ、まずは暴動の鎮圧や。黒田さんはここでボクらが抑えてる間に…大事な仲間を助ける事やな」
この後で改めて戦う事になったとしても、まずは戦闘に復帰出来ない怪我人を撤退させる必要がある。
「指示? 聞きたくあらへん。固まったままの意固地は命減らすだけや」
黒龍の言葉に、黒田は拳を握り締めた。
確かに一理ある。
だが、命を惜しんで助けを求める者の声に応えなかったとすれば、何の為の力か。
「お気持ちは、お察しします」
最も怪我の酷い者の手当を終えた琉命が、背後から進み出た。
「仰る様に、私達の見聞なき地域で住民が虐げられているかもしれません。しかし目の前の工場で働く方々を救出した結果、残りの人々がどうなるかはお分かりですよね?」
残りの人々が苛斂誅求に苦しみ、余計に犠牲者が増える可能性がある。
「現時点で支配地域の全住民を解放するだけの力が私達にあると思いますか? 人々が望むのは過程でなく結果です。今、残りの方々を救出できない以上、多くの方々を生存させる結果を目指します。それが私の義です」
「僕も、天魔を『全員』倒す・撃退できないのなら…今は、無理に戦うべきじゃない、と、思います」
レグルスが言った。
「…気持ちは、痛いほどわかります」
住民を天魔から守りたいという、彼らの意志は間違っていない。
その矜持は大事にしたいし、尊重もする。
ただ、今はその時ではないのだ。
「でも…一個しかない命を賭ける時は、きっと今じゃないと思います」
まだ彼ら天魔は強大な勢力を誇っている。
ここで何らかの問題を起こした場合、街自体が…ここに住む全ての人間が消滅させられる可能性もあると、レグルスは危惧していた。
「僕だって! …人間から感情を吸い上げている、天使が許せない! けれども、今無理に戦うことで、むしろ多くの人を救えなくなるくらいなら…」
ここは退いてほしい。
「僕は、あなたたちに死んでほしくない! 例え、敵に頭を下げてでも…護りたい!」
忍法「友達汁」とマインドケアの効果か、或いは純粋にその説得が心を打ったのか。
黒田は言った。
「一切の被害を出すことなく、あの暴動を鎮めてみろ」
それが出来るなら、この場は退こう。
彼等を納得させられるなら。
「それまでは、一歩も動かん」
それを聞いて、琉命はダルドフに向き直る。
勿論、武器は帯びていない。
「私の生殺与奪の権を移譲します。住民を護る行動をしますが、討ちたくばご随意に」
そのままダルドフの脇を抜け、琉命は閉ざされていた工場の門扉を開けた。
「さて、どうしたものかね」
目の前で展開されている状況に、静流は溜息をひとつ。
暴徒と化した従業員達は口々に何事かを叫び、石を投げ合い、殴り合い、罵り合っていた。
何を言っているのかは聞き取れないが、聞く価値があるとも思えなかった。
投げた石のひとつが流れ弾となって黒龍に当たる。
「こんなん痛くもなんともない。残された家族や仲間の恨み辛みの方が痛いんは、ヒトである君らが一番知ってるやろ」
しかし興奮した彼等の耳には、ヒトの言葉は届かなかった。
「まるで獣だな」
ラドゥが呟く。
「発煙手榴弾でも投げて気を逸らしてみるか?」
「いや、獣にはこれで充分だ」
静流を制し、ラドゥは吠えた。
腹の底から響く強烈な叫び声に、暴徒達は震え上がる。
一転、恐慌を来した彼等は闇雲に逃亡を図った。
「おいおい、どうすんだよ? ますます酷くなったんじゃねえか?」
将が呆れた様子で首を振る。
「ま、仲間同士で傷付け合っているよりはマシか」
まだ乱闘を続けている一角に走り、将も咆哮を上げた。
「姉崎さんがいるのは、あの建物だね」
暴動に強制終了をかけたその隙に、焔が小天使の翼で飛ぶ。
続いてファウストが、逃げ惑う人々の頭を闇の翼で越えて行った。
ラドゥと将が咆え続けたお陰で、事務室に向けて投石する者は既にいない。
ガラスが割れて枠だけが残った窓から、二人は室内に入る。
「姉崎さん、ご無事ですか?」
焔が声をかけた。
部屋の隅で物音がする。
近付いてみると、倒れた机の影に身を隠した女性の姿があった。
「案ずるな、我等は暴動を抑えに来ただけだ…今は、な」
ファウストが声をかけると恐る恐る顔を出し、様子を伺う。
「ありがとう、助かったわ」
その手や、顔、足などに切り傷や打ち身の跡が見えるが、どれも深手ではなさそうだ。
「とりあえず医務室に行きましょう」
焔が促す。
「伺いたい事も、色々ありますし」
ダルドフは彼女に訊けと言った。
もう一方から見た、事件の真実を。
その頃、他の仲間達はパニックに陥った暴徒達の収拾に当たっていた。
琉命は彼等の間を回り、派閥の区別なく人々を治療していく。
パニックから抜け出さない者はマインドケアで落ち着かせ、怪我をしていれば程度に応じてライトヒールやヒールを。
「お前ら、静まれ! 落ち着け!」
その向こうでは、将が叫んでいた。
「俺達は撃退士だ!」
その一言に、解放を望む者達の顔が一斉に明るくなる。
だが彼等の目的が叶えられないと知るや、怒りの矛先は撃退士達に向けられる事となった。
「ここまで来て助けないだと!? ふざけるな!」
「助けるつもりがないなら邪魔しないでくれ!」
先頭に立って皆を煽っている男が言った。
「これは聖戦だ、虐げられし人々を救う聖なる戦いなんだ!」
「なら、どうして共に耐えてきた仲間にその『力』を振るっている!?」
拓海が叫ぶ。
「お前はただ『力』に酔っているだけだ!」
自分達の力不足のせいで、彼等に苦労を強いているのは事実だ。
それはしかと受け止めるし、非難も甘んじて受けるが――これは違う。
このやり方に、義はない。
「貴様ら、どっちの味方だ!?」
その声に、フィオナが答える。
「誰の味方か? 愚問だな。我は、我の味方だ」
その余りにも堂々とした物言いに、人々は思わず気圧され、気勢を削がれた。
「我等が何故救出に動かぬか。その理由を知りたくば、大人しくそこへ並べ。そして耳を傾けよ」
ものっすごく偉そうだ。
そして人は、偉そうに堂々としている人物を見ると、思わずひれ伏してしまいたくなる衝動に駆られる生き物であるらしい。
数分前までは暴徒であった工場の従業員達は、解放派と現状維持派に分かれて、その場に大人しく腰を下ろした。
人々の監視役にフィオナと将を残し、他の仲間達は姉崎の話を聞く為、医務室に集まっていた。
「なるほど、そういう事か」
話を聞いた静流が頷く。
「…よくもまぁ、ここまでややこしいじょうたいにできますねぃ」
紫苑が呆れた様に呟いた。
しかし、現状ではこの工場を開放する事が出来ないのも事実。
首謀者を罰し、排除しても、根本の問題が解決しない限り、彼等の怒りや不満はそのまま溜まり続け、いつかまた爆発するだろう。
「本当なら反対派の何人かをそのまま引き離したいのだがね」
静流が呟く。
「どのみち火種は残る。それなら大きい物だけでも何とかしたいのだが……何とか、ならないものかな」
「彼等は人の世を取り戻したかっただけなんだと思います」
焔が言った。
「ある町でも、結界内での食事係だった人が天魔の下僕となりました」
それを繰り返してはいけない。
禍根を残してはいけない。
だから、知って欲しい。
彼等が下僕などではない事を。
「工場の食品で食事を提供しても良いですか?」
お腹が満たされれば、彼等も幾分かは落ち着くかもしれない。
その上で、少し話が出来れば。
「ああ、今日の分はもう間に合わないし、保存の効く物ばかりでもないからね」
姉崎が頷く。
「あのバカ共に教えてやってよ、自分達がどれだけ大事な仕事を任されてるかって事をさ」
将は、よくやったと暴徒達を褒めてやりたかった。
本来はダルドフと刃を交えるつもりで、この仕事を引き受けたのだ。
仲間達の総意を無視してまで我を通すつもりはないが、それならばせめて、言いたい事くらいは思いきりぶちまけたかった。
しかし、それをやってしまえば……恐らくこの仕事は失敗に終わる。
「面白くねぇ」
他の仲間達が戻ったら、この場を離れよう。
ダルドフはまだ、黒田達と睨み合っている筈だ――
「ねぇさんは、おれらがかならず、まもりやす」
説得の場に向かう途中、紫苑が言った。
「…ねぇさんも、にげたくねぇわけじゃねえでしょう。もうしわけねぇでさ」
その手は、しっかりと姉崎の手を握っている。
「でも、おなじじょうきょうの人からのせっきょうは、一ばんあの人らにとっていてぇはずでさ。おねがいしやす」
「うーん、どうだろうねぇ? あたしのお説教は、皆もう聞き飽きてるかもよ?」
「そんなに、おこってばかりいなさるんですかぃ?」
「あはは、まあねー」
だが、まず口を開いたのは由真だった。
「まず最初に、皆様にはお詫び申し上げなければなりません」
この場での救出が不可能である事を。
全力で挑めば、或いはこの工場だけは解放出来るかもしれない。
だが、それでは残された者の負担が増え、苦しみを増やすだけだ。
「ですから、大規模攻勢による一挙開放が行える時まで、もう暫く辛抱して頂けないでしょうか」
その言葉に、あちこちから不満の声が上がる。
しかし。
「逃亡したいならすれば良かろう。好きにし給え」
ラドゥが傲岸不遜にして尊大かつ横柄な笑みを浮かべた。
「当然追手の覚悟も、親族知人に累が及ぶ事も理解した上での事なのだろう?」
リスク無き逃亡など無く、手を差し出す方にも当然害は及ぶ。
「無論恨む分には構わんよ、それもまた貴様の自由だ」
ただし自由には責任が伴う事も、お忘れなき様。
「家族や仲間を置き去りにしてまで助かりたいんか?」
黒龍は護りたい者の末路をわからずしての暴動に内心苦笑する。
「…一応言っておくが、他の天魔の支配下ならとっくに死んでるぞ貴様ら」
ファウストが言葉を継いだ。
その現実を知らぬから、好き勝手な事が言えるのだろう。
「せやな、不満が出るって事はそこまで恐怖に束縛されてない証や」
真の恐怖は不満の芽さえ根こそぎ枯らし、代わりに抵抗も出来ない絶望の種を植え付ける。
「その上で訊くが、一体どの辺りに不満があるのだ?」
具体的に、詳しく。
「ダルドフの目が届かぬ所で何かがある可能性もあるからな」
だが、具体的な「何か」はさっぱり出て来ない。
「ただ気分に踊らされていただけ、か」
ファウストにはもうひとつ、純粋に疑問に感じる事があった。
「人々の食料を作っている彼らが、一体何故『裏切り者』なのだ?」
それが天使の命令で行われている事だから、か。
答えに詰まった人々の鼻を、工場から漂う食欲をそそる匂いがくすぐる。
やがて運ばれて来た、温かい食事。
それは全て、この工場で作られたものだ。
食事を配りながら、焔が言った。
「私達には、今日皆さんを救える力がありません。それは本当に申し訳ないと思います」
撃退士も人でしかない。この手で守れるものにも限りがあるのだ。
「俺は京都の大規模救出戦に参加していました。結界内で衰弱した人々を見てきました」
しかし、ここは違う。
ここに飢えた人はいない。
この工場で作られた物が、結界内の命を繋ぎとめているから。
「皆さんは天使の僕ではない。人類の裏切り者ではない」
人の命をその行いで守ってるのだから。
「力及ばぬ私達に、どうか人の世を取り戻せるその時まで、力を貸して戴けませんか…この食事を待っている人々の為に」
返事はない。
皆、ただ黙って食べていた。
何事もなければ、今日も誰かの食卓に並ぶ筈だったものを。
「じゃ、明日からまた皆で頑張ろっか」
姉崎の言葉に異を唱える者は、一人もいなかった。
その頃、正門前では将が吠えていた。
「寛大な我らが統治者ダルドフ様にお聞きします! 貴方様のデカ尻の下に敷かれた民の事を考えた事はあるのでしょうか! ってか、ははは」
しかしダルドフは眉ひとつ動かさず、寧ろ楽しそうに聞いている。
「お前がやってるのは支配だ。寛大か、厳しいか、関係ない。ケツを完全に乗せてるか、少し乗せてるか程度の違いしかない。ケツを頭の上に載せられた事は?」
ダルドフは笑った。
「この尻が邪魔なら、ぬしの力でどかして見せい」
「面白ぇ、だったらどかしてやる」
「まあ待て」
笑いながら、ダルドフは立ち上がった。
「ぬしは火に投じた栗…いや、爆竹の様だのう。威勢は良いが、さてさて」
「何が言いたい」
「ぬしの刃は何の為にある。ただ己の我を通す為か、怒りに任せて吠える為か。そうであるなら――」
ぴたり、偃月刀の切っ先を突き付ける。
「某を動かす事は出来ぬ」
刀を引き、笑った、
将に背を向け、肩を揺らしながら、豪快に。
だが、その背に挑みかかる事は出来なかった。
「約束通り、収めて参りました」
琉命が頭を下げる。
こうなれば、黒田もそれ以上ゴネる事は出来なかった。
レグルスが残りの負傷者に手当を施す。
何とか動けるようになった彼等は、渋々ではあったが撤退を開始した。
「ダルドフとやら、此度の反乱者はどう処分するつもりかね」
ラドゥが訊ねる。
罰するのか、放置するのか。放置ならば、また同じ事が起こった時、どうするのか。
「もし彼らの大切な何かを奪うと言うのであれば…」
拓海が刀の柄に手を掛ける。
だが、ダルドフは首を振った。
「罰を与えて、どうにかなるものではなかろう」
繰り返すなら、また鎮めれば良い。
「その時はまた、ぬしらの力を借りるやもしれんが」
「…なるほど」
ラドゥは頷いた。
この男に、何時か真っ向から敵対する価値は有るか。
強く、統べる側に相応しい器の持ち主であるか。
「貴様は…精々失望させてくれるでないぞ」
ラドゥが求めるのは、ただ力があるだけの狗ではない。
せめて騎士でなくては此方も楽しくないのだ。
「真偽はどうあれ、私は貴方の言葉を信じます」
今後、無理な労働はさせない。
その誓約を取りつけ、由真が笑みを見せた。
もっとも、これまでもそうしてきた筈なのだが――
『笠に着たパワハラか、他人の悪意か作為があったかもな』
黒龍が意思疎通でこっそり忠告。
「ボクはダルドがボスなら文句はない。が、上や下がどう出てくるか解らない。ダルドの知らぬ処、不満とする処があったかもね」
ここではなかった様だが、不和の種を蒔く場所ならいくらでもあるだろう。
『気ぃつけてな』
だが、人との間には信頼の種を蒔き、育てる事も出来る。
「“信とは、求む物に非ず”――父からの受け売りですが。今なら、その言葉の意味が分かる気がします」
由真が言った。
「人も命を食べ生きている。天使が人を殺さず共存できる方法をとるなら、傷つける理由を俺は持たない」
焔も、そう言って頷く。
彼等とならば、共存も夢ではないかもしれない――そう考えるのは、やはり夢だろうか。
その様子を見て、ファウストが言った。
「我等と人には一つ、決定的な差がある」
それは『時間』だ。
「人の生は我等より遥かに短い。だからこそ、人は急かずにはいられないのだ」
それは今回の原因の一つであろう推測。
「肝に銘じておこう」
確かにそれは、示唆に富んだ意見だ。
「人と天魔、似ている様でも全く同じではない…そして違うが故に、我輩は人を知りたい。天使ダルドフよ、貴様はどうだ?」
「答えるまでもあるまい」
ダルドフは口角を上げ、顎髭を捻る。
そこに紫苑が飛び込んで来た。
「…だんな、おれ、いつだんなの子どもになれるんですかぃ?」
「さて、いつになるかのう」
紫苑の頭に大きな手を置き、ダルドフは相好を崩す。
そんな日がいつか来ると、そう信じたかった。
信じられる気がした。
「未来を拓くは、ぬしらぞ」
彼等なら、きっと――