「ていうか、なにあの人。1時間以内とか無理だよ……」
やわらかな金髪にふさわしい穏和な顔立ちのマリー・ベルリオーズ(
ja6276)は蒸し器の用意をしながら、じろりと千鶴をみる。外見にそぐわない、棘のある視線で。
(しかたないわね、マリー。――交代なさい)
マリーの心の中で、いくつかある人格のなかで、もっとも勤勉で博識なサンドラの声がした。
さっさと誰かに肩代わりしてもらいたかったマリーは(はーい)と素直に『奥』に引っ込み、サンドラが肉体を支配した。
「むう。貴公、どこから来た?」
腕組みする元天使、マクセル・オールウェル(
jb2672)は瞑目していた目をぱっと見開き、頭ふたつ分ほど高い位置からマリーを見下ろす。
「さ、さあ? なにを仰っているのか判りません」
密かな冷や汗をたっぷりとかくマリーの中のサンドラ。
今日は出てくるんじゃなかったかも、と早くも後悔の念に駆られた。
買い出し部隊を志望した有翼の猫、元天使ラカン・シュトラウス(
jb2603)はお買い物リストを熱心に読みふけっていた。が、誰かの影が手元を曇らせたのに軽く舌打ちして見上げ、そのまま大きく目と口を開けて固まった。
「お買い物、一緒に行く人ですよね? 楽しみですねえ」
マクセルに引けを取らぬ巨体に雄牛の角を生やしたはぐれ悪魔、牛図(
jb3275)が人の良さそうな笑顔を浮かべていたのだ。
「お、お、おお、我にまかせよ。人間世界での買い物など、か、か、簡単なのであるぞ」
白く毛並みの良い毛皮に覆われた肩が、小刻みに震えていた。
「では、みなさん。頑張ってください。――作業開始です」
タイムキーパーをつとめるかなえが、調理用ストップウォッチのボタンを“ぴっ”と押した。
ぶうん、とハンドミキサーの音がする。
ボウルの中で室温に戻しておいたバターを泡立てているのは、腕まくりした細身のジャケットの上から身体にフィットした前掛けかけた鷹司 律(
jb0791)だ。やがて、ほどよく泡だっところへグラニュー糖をいれ、さらに攪拌。溶いた卵を数回に分けて混ぜ合わせ、ベーキングパウダーと合わせたら、薄い黄金色の生地が出来上がり。大きな型に流し込んで、仕上げにテーブルの上に音を立てて数回落とす。
「ふう、こんなところでしょうか」
きめの細かい額に前髪が一房ほつれかかるのをやや乱暴にぬぐい、ちらりと周囲を見回す。
探しているのは、先ほど白玉だんごをつくる役を譲った相手、苧環 志津乃(
ja7469)だ。
普段着にしている着物の袖をたすきでまとめ、上から割烹着を着た志津乃は、露わになった白い腕で大きなボウルに入れた大量の白玉粉を細かく砕いている。
(良い手つきです。慣れていらっしゃいますね)
律は、安心して予熱しておいたオーブンに生地の入った型を入れた。
「シューはボクが始めて食べたお菓子」
火にかけた鍋の中でシュー生地を煮とろかし、木べらで混ぜていたソーニャ(
jb2649)は、独り言のように語る。
「初めて、とは珍しい言い方です。まるで食事をしたことがなかったようではないですか」
中火にした鍋の中で煮小豆をまぜつつ、少しずつ砂糖を加えていた美森 あやか(
jb1451)が何気なく返事をし、すぐに後悔した。この学園ではそれほど珍しくない天魔なら、それもあり得たからだ。
「ボクね、地下室に匿われてたんだけど、体力が回復してからしばらく手足を縛られてたんだ。天使だからしかたがないね?」
あやかの後悔に気が付いた様子もなく、ソーニャはシュー生地をかき混ぜる感触を楽しみ、そして淡々と語る。
「ああ、それで初めて食べたのが、シューなんですね。――ねえ、私の苺大福も甘さ控えめできっと気に入りますよ」
あやかは、最後の砂糖を鍋に入れると大きくかき混ぜた。
「それは楽しみです」
ソーニャは、木べらをもちあげ、そこからたらりと流れる生地を見、儚げに笑った。
プリンの生地作りは、蒸しプリンだろうと焼きプリンだろうと大差はない。
卵と牛乳や生クリームをベースにしたプリン液をつくり、そこにアレンジを加える。乱暴に言えば、そういうことである。
「――でも、違う。これはなんだか酷く違う気がします」
マリーの身体を支配しているサンドラはプリン型にカラメルを注ぐ手を止め、ふるふると頭を左右に振った。
「なにが違うと言うのだ、お主。我が輩はこうして――ほら、丁寧に生地をこしているのだぞ」
確かにマクセルは、一つの器に作ったプリン液をこし器を上に置いた別の器にこぼし、それを数回繰り返すことできめ細かな生地を作っている。
「でも、でもっ、それって……」
泣きそうな顔でマリー(の中のサンドラ)が指さす、マクセルが持ったプリン液のたっぷり入った器。それは、ラーメン屋などでお馴染みの大きな寸胴鍋だった。
「む、これでは足りぬというのか?」
「違う、違うんです! あなたのおかげで、もうプリンの材料がないの」
サンドラは、心底マリーと交代したいと思った。
「みなさん、まもなく10分経過です」
かなえの声が響いていたころ、ラカンは棚に積まれたある缶詰を狂おしく見つめていた。
「ああ、居ました。さ、早く帰りましょうよ」
隣の通路からでも頭が見えそうな牛図が窮屈そうにそばに近づくと、その手を握って軽くひっぱる。
もちろん、牛図にとっての軽くが、ラカンにとって軽い訳がない。
「うおう、ちょっ、待っ、牛図殿、牛図殿? ほら、あれ。あの缶詰が気にならぬのか? 牛図殿ぉおおお……」
ずるずると引きずられるラカン。その手は棚にならんだ缶詰を求めて虚しく宙を掴む。
そこはペットフードのコーナー。
ラカンが伸ばした手の先にあったのは、金色に輝く猫缶だった。
(あ、どうしましょう? ちょっと時間が足りないかも)
志津乃は、両手で体重をかけて白玉の生地をこねつつ、焦っていた。
ここまで生地を練ってしまえば、後は小さな団子にまるめて真ん中をへこませ、大鍋に放り込んで、ゆであがって浮かんできたものを氷水に冷やすだけだ。
だが、今回は少々数が多い。茹でないまま団子を放っておけば、どんどんくずれて形が溶けてしまう。
(だからといって、時間をかけすぎては他の人の作業に影響しますね。どうしましょう? ――あら)
困惑している志津乃の横に、いつの間にか華奢な肩が並んでいた。
「……ボク、こういうの好き。こういう、ふにゃふにゃしたモノが形になっていく感じ、好き」
ソーニャは止める間もなく白玉団子の生地に手を伸ばし、あっと言う間にころころと丸めてきれいなだんごを作り始めた。
「ねえ、良ければもう少しお手伝いしていただいてよろしい?」
志津乃は、ソーニャがこくりとうなずくのを待ってから、団子を茹でる作業に専念した。
その時がらりと実習室の扉が開き、「お待たせしました」と最初に牛図が、次いでラカンがひょっこりと顔を覗かせた。
頼まれた食材を配って歩く牛図。
やがて「20分経過です」と、かなえの声が聞こえてきた。
「ふふ、我の実力をご覧に入れよう」
白い毛が落ちぬよう、全身を丁寧にブラッシングした上に割烹着を着込んだラカン。その手には、長い手袋をした完全装備だ。
ラカンは、おもむろにスライサーを手にすると人参を薄切りにする。
人参の後は牛蒡。そしてサツマイモ。最後はじゃがいもを刻む。
「ふ、この短期間で人間の文化を極めるなど、自分の才覚が怖くなる」
ラカンは、満足げに野菜の山を見下ろした。
「――よし、いいでしょう」
あやかはやっと鍋から顔を上げた。
砂糖を加えつつ煮ていたゆで小豆の粒が割れ、水分が出てきたのが15分前。
水分が無くなるまで混ぜ続け、さらにつぶしつづけて5分間。
ようやく今、粒あんができあがったのだ。
「うんうん、きちんと小豆が茹でてなかったら、この時間では絶対無理でした。素直に、栄太郎君に感謝いたしましょう。ええっと後は――あんを冷ます間に大福の生地を練って、あんで苺をつつんで、ですか。……ううん、厳しいでしょうか」
「人間は頼り合うのも悪くないですわ。私もさきほど助けて貰いましたから。――あんを小分けして冷ませばよろしい?」
志津乃は、すでに手近な机に金属製のパンをひっくり返してならべ、ラップを被せている。
「……ああ、ご免なさい。助かります。お礼に、私の苺大福おごってあげましょう」
あやかは、ほっと一息つくと、大福の生地作りに取りかかった。
「ほら、聞こえましたか? 人間は、頼り合うのも悪くないんだそうですよ?」
すでに、マクセルの生地を分けて貰うほかはなく、おろおろと「調理」を見守る格好になってしまったマリー。(実際は、サンドラだが)
マクセルがそんな気遣いを有り難がるわけもなく、
「むん? 我が輩は強者である。強者は頼られることがあっても、頼ることがあってはならぬのだ。よく見ているがよい。――ふん」
マクセルは、寸胴鍋いっぱいのプリン液に最後の味付けと称してバニラエッセンスの瓶を振った。そして、いつの間にか瓶はからっぽ。
目に涙を浮かべながら鍋にとりつき、味見をするサンドラ。やがて目を見開いて――。
「――おいしい。なんで?」
「当然である」
マクセルは憮然とし、大あわてで大量のプリン型にプリン液を注いで廻るサンドラを見下ろしていた。
やがて「30分経過しました」と、かなえの声が告げる。
「なんだか、私は取り越し苦労をしていた気がします。万が一を考えて、自分で最低限の品数を揃えようとしていたのですから」
律は自嘲ぎみに笑いながら、小豆汁の鍋をゆっくりとかき回していた。
傍らの皿には、白玉団子が盛ってある。
もちろん、志津乃がソーニャの手伝いを得てゆで上げたものだ。
その志津乃は、あやかの苺大福作りを手伝い、順調に作業中。
調理はあまり経験がないかと思われた牛図も、榮太郎がそれとなくサポートすることで、オレンジババロアを作りつつある。
マクセルとマリーは、どうやら共同でプリン液を作って分け合うことにしたらしい。
「……互いに信頼しあう姿は美しいものです。さて、私もどこかお手伝いをしましょうか」
どうにかできあがった白玉善哉の鍋を火から下ろし、律はシューアラモードを揃えようとしているらしいソーニャのいるあたりへ歩を進める。
(あれ、なにか忘れていましたっけ?)
ふと、小首をかしげる律。でも、何だったのか結局思い出せずに気のせいだと思うことにした。
ラカンは、首をひねっていた。
なにか大事なことを忘れている気がしたからだ。
だが、それもすぐに忘れた。
何しろ今は、カップケーキの生地を手にした泡立て器で混ぜている最中なのだ。
「おおう、この手首を返すリズム。いいぞ、いいぞ!」
やがて、40分が過ぎる。
「人間の作る料理って美味しいです。きっと、これが人間の能力なんでしょう」
オレンジババロアの器が載ったトレイを急速冷凍の棚に納めながら、牛図は待ちきれない様子で眼を細める。
「いえ、元天使だってはぐれ悪魔だって、作れるひとは作れますよ。……我が愛好会の部長は、まだ無理みたいだけど」
最近では人慣れしてきたとはいえ、まだ他人との壁が崩せない榮太郎も、牛図のような相手には気兼ねしないで済むのか、意外ときちんと会話が出来ている。
「あれ、そう言えばなにか忘れているような?」
ふと、なにかを視界の隅に捉えたような気がした榮太郎は、おそるおそるそちらを振り返った。
そこにあったのは、山のように積まれた、スライスされた野菜の山。
どうやら、刻んだラカンが存在を忘れてしまったらしい。
「牛図さん、ラカンさんを呼んでください!」
榮太郎は、すぐさま天ぷら鍋を取り出し、サラダオイルを注ぐと火にかけた。
牛図に軽々と抱えられたラカンがそばに降ろされ、事態を知って青ざめる。
「我が料理が! 我が料理が!」
残り20分弱。
時間との競争が始まった。
「む、時は来た」
じっとオーブンの前で仁王立ちしていたマクセルがかっと目を見開いた。
同時に、目にもとまらぬ速さで木の切り株のような筋肉が盛り上がった腕が電光のように閃く。
「ひっ」と比較的近くで作業していたあやかが小さな悲鳴を漏らした。
マクセルは、些事にはまったく囚われずにオーブンの中で湯気を立てるかなり熱いはずの天板を手品のように取り出し、空いている机に次々と並べる。
そこに大量に並んでいたのは、かりかりと香ばしげなこげを表面につけた、みごとな焼きプリン。
マクセルはそのまま両腕を天に向けて直角にまげ、上腕二頭筋を誇らしげにかざす。
「おおう、まぶしい」
作業の手を止めたソーニャが、輝く瞳で拍手を送る。
「……本当に、出来ちゃった」
目を丸くする、マリー(の中のサンドラ)。
ふと我に返ると、自分のプリンが入った蒸し器へ走る。
「50分経過。みなさん、ラストスパートです」
かなえの声とともに、全員の動きが慌ただしさを増した。
若干熱が取り切れなかったものの、マリーの蒸しプリンと牛図のババロアはどうにか形になり、余ったホイップクリームなどでデコレーションの最中だ。
あやかや志津乃に到っては、もうお茶の準備を始めている。
ラカンは、慌てて揚げたポテトや野菜に塩を振っている。
そして「はい、終了よ」と、ずっと沈黙を守っていた千鶴の声が聞こえた。
「――ほんと、実は心配していたの。たとえばこの焼きプリン。あれだけ大胆な味付けしたんだもの。さぞや大胆な味になっていると思った」
全ての品目を一品ずつ、にこりともせず食べ終わり講評を続ける千鶴が、マクセルの顔に視線を止めた。
「――ところが、美味しかった。どういう訳かね」
マクセルは「む、当然であるな」と憮然としたまま。
「――白玉善哉。苺大福。パウンドケーキ。蒸しケーキ。シュー各種。野菜チップス。蒸しプリン。なんだか、学生レベルじゃないわ。でもね、あなたのポテトチップ。まったく――」
と、言ってラカンの顔の上に視線を止めた。
ラカンの目が、くりんとそっぽを向く。
「――ああ、あなたのポテトチップ。最高だったわ。合格よ、合格。私がポテチに目がないことは、知っていたのかしら? まあ、いいわ。ねえ、みんな。どうせ作ったおやつを余らせてお茶にするつもりだったんでしょう? なら、はじめなさいな。お勧めはポテトチップスよ、じゃあね」
千鶴はにこりと笑うと、幾枚かのポテトチップスをつまんで部屋を出て行った。
「じゃ、お言葉に甘えましょうか」
志津乃はやっと前掛けを外して、お茶を配り始める。
どうやら、お茶請けが足りないことだけはなさそうだった。