「――確かに、珈琲も美味しゅう御座います。ですが、私のように体質に合わない方もいらっしゃるのではないでしょうか? ならば、このタルトタタンに合うのは紅茶である。このように結論づけるのが妥当かと存じます」
丁寧に、朗らかに。市松人形のように微笑む氷雨 静(
ja4221)は穏やかに言い終えた。
「身体にあうのあわないの、そのような惰弱を許すからギメルごときに手こずるのである」
肉体派元天使、マクセル・オールウェル(
jb2672)は一歩も譲らぬとばかりに腕組みをする。
「ですが、抽出後のコーヒーと紅茶を比べた場合、紅茶235mlに47mg、豆から淹れたコーヒー235mlに95mgのカフェインが入っております。両者を比較するなら……」
「惰弱は敗れる。これは真実なのである」
ひくり、と静の口元がひきつった。
「……あのう、皆さん。調理実習室での戦闘はやめましょうよ、ね?」
袋井 雅人(
jb1469)は、努めて笑顔を保ちながら間に入る。
両手にもらい物のリンゴが詰まった袋を提げながら、できるだけ音便に。
「あ、ちょっと失礼します」
事態を見守っていた東城 夜刀彦(
ja6047)は、突然立ち上がって実習室の入り口へむかい、がらりと開いた。
一触即発だった空気が一瞬でほどけ、みなが見守る中で引き戸の向こうに耳をくっつけてた中等部の学生がこちらへころんと転がって来る。
「諜報活動でもしていましたか? なら、もっと気配を消した方がいいですよ。……それでも、僕たち鬼道忍軍相手には難しいと思いますけど」
夜刀彦は、ころげたままの少年とも少女とも付かない銀髪に手をさしのべた。
「わ、私は、調理実習室でお菓子を作っているひとたちの噂をクラブで聞いたから……えっと、いろいろ見せてもらえれば、って」
水屋 優多(
ja7279)は顔を赤らめつつその手を借りて立ち上がった。
「ならちょうど良かったです。これから、実際に作り始めようとしていたんです」
こうして、若干の波乱の予感を含んで、タルトタタン作りが始まった。
「……まずはリンゴを剥く、と。久しぶりにやるととむずかしい――うわぁ!」
自分が持ち込んだリンゴを剥いていた雅人はいきなり背中からだきつかれ、手にしたナイフを実習室の机の上にからからと落とした。
「さっきは勇敢だったわぁ〜。あんな呼吸する危険物相手に止めに入るなんてぇ〜」
元天使のアムル・アムリタ・アールマティ(
jb2503)が、その背中に抱きついていたのだ。
「そりゃあどうも。……マクセルさんってそんなに危険だったの、アハハハ」
頬を染める雅人。
アムルは雅人の戸惑いに気が付かない振りでその背中から前に両手をまわし、ナイフを雅人に握らせると上からぎゅっと手を添えた。
「危険なのは、あのメイドちゃんよぉ〜♪ ……ほら、ボクが教えてあげるから、身体をま・か・せ・てぇ〜♪」
背中に熱い吐息を履きながら雅人の手を操り、しゅるしゅると器用にリンゴをむき始めた。――外見年齢にそぐわない豊かな胸をぐいぐいと背中に押しつけながら。
「……おい、こら。不良天使。調理実習室でそういうの、やめてくれる? “あのひと達”だって見ているのよ」
やはりリンゴを剥いていたかなえが、けっこう本気で怒り始めた。
「天使って自由ですねぇ」
興味深そうにふたりの堕天使のやりとりを見ていたクリフ・ロジャーズ(
jb2560)は、赤く鋭い目でにやりと笑う。
「ほんっと、もう、はっちゃけた同族が多くて」
かなえは面目無さそうに肩をすぼめる。
彼は、学内にそれなりの数がうろついているのは知っていた“あのひと達”、元悪魔のひとりなのだ。
「ヴェス・ペーラです。よろしくお願いします」
と、言って丁重に頭を下げるヴェス・ペーラ(
jb2743)も元悪魔だ。
彼女は榮太郎がやってみせたとおりに忠実にリンゴを剥き続けていた。が、ふいに首をかしげ、
「ところで、かなえ。このりんごをどうするのです?」
「どうするって、お菓子をつくるのよ。榮太郎によれば、熱で溶かした砂糖にバターを加えて、その上に敷き詰めて形が無くなる2歩手前まで煮るらしい、わ」
「らしい、とは?」
「……おねがい、聞かないで。私はね、ここへくるまでに『味覚』と言うモノを使ったことが無かったの。……だって、必要なかったんだもの。だから、作る方は全然ダメ。本当に大事なところは榮太郎におまかせなの」
かなえは、リンゴを剥く手を止めて自分の手元をじっと見た。
「それは、ずいぶん先が楽しみですね。なにしろ、あの少年からはたくさん覚えることがあるのだから」
ヴェスは何ごともなかったかのようにリンゴを剥き続ける。
かなえは、はっと息を呑み、
「……なるほど、そういう考えもある、か」と言って再びリンゴをむき始めた
次は、オーブンにそのまま入るタイプの平鍋をふたつ並べて、切り方を変えた種類の違うリンゴをそれぞれで煮る作業だ。
ふたつの鍋を操るのはクリフと優多。
「こんな感じでいいンすか?」
クリフは優多の手元を覗き込みながら、ひとかたまりのバターを鍋の中で溶かす。
「わっ、私だってやったこと無いんですよぉ」
慌てる二人の鍋の中で、バターがじゅわっと泡を立てる。
「ああん、たぁ〜いへぇ〜ん♪」
アムルは歌うような声で優多を背後から抱き留め、前に廻した右手を優多の手に、伸ばした左手をクリフの手に添え、それぞれの鍋を操ってくるくると鍋の底でバターを廻す。
「さ、早く、あまぁ〜いお砂糖を中に入れてぇ〜♪」
文字通りの天使のような声に操られるように、優多は耳まで真っ赤になりながら、クリフは当惑しながらそばに用意してあった結構な量の砂糖を鍋に入れる。
しばらく形を保っていたグラニュー糖は、やがてぐつぐつと茶色く溶けていった。
アムルは焦げる直前で火を止め、後を振り返った。
「なぁに驚いているのぉ榮太郎ちゃぁ〜ん? こう見えてもお菓子作りは得意なんだから〜♪ 男も女も、ついでに悪魔も心をとろかすのはぁ、まず食べ物なのぉ〜♪」
その手つきは、後で見ていた榮太郎が手を出す隙もないほどだったのだ。
アムルは、その右の人差し指で顔を真っ赤にしたままの優多ののど元をつつっとくすぐると、くすくす笑いながらこの場を去っていった。
「それで、こっからどうするンすかね?」
クリフが鋭く赤い眼で榮太郎を振り向く。
対人恐怖症気味の榮太郎はその目を受け止めることが出来ず「あの、その……」と口ごもる。
「栄太郎くぅ〜ん、俺だって自分の目つきが悪いって自覚、あるよぉ?」
クリフの口調が突然くだけたものになり、同時ににいっと笑う。
「それはすまねえなと思うよ。でも、俺はあんたを嫌っちゃあいないし、傷つけるつもりもねえ。だからさぁ、教えてよぉ。次になにをするのかさ」
榮太郎はふた呼吸すると落ち着いた顔で、
「それぞれ別の種類のリンゴをつめてふたをして煮込んでください。クリフさんは、大きく切った紅玉を。優多さんは、薄く切ったジョナゴールドを敷き詰めるように。……本当は、かなえが食べた奴みたいに、時間をかけて弱火でひっくり返しながら煮て、一晩寝かせたいんですけど、皆さん待っていますから、いろいろ省略します」
「了解だぜ」
クリフは言われたとおりに鍋にリンゴを詰め始めた。
「……そっか砂糖を熱で溶かして飴にしちゃうのが大事なのか。それにしても、すごい鍋さばきだった。……あれ、あれれ?」
やっと現実に還ってきた優多。クリフが手を動かしているのを見て、ようやく作業に戻った。
この後、シナモンと共に煮詰められたリンゴは生地でとじてオーブンで焼き上げ、粗熱を取ってから大皿にひっくり返して完成となる。
出来上がったケーキの皿は二種類。
一つは、あかね色に透き通ったリンゴがケーキらしく整形されたひと皿。多めのバターと砂糖で酸味が強い紅玉を煮固め、タルト生地でとじたものだ。
もうひと皿は、甘みが多くやや繊維が薄いジョナゴールドを薄く重ね、そのぶんバターも砂糖も控えめにしてパンケーキの生地でとじたもの。こちらには、アイスクリームが添えてある。
「ふふ、このアイスをこっちのリンゴと喰うときっとイイ感じだぜ。判っているねえ」
このトッピングを主張して譲らなかったクリフは、満足げに赤い眼を細めた。
そして用意された紅茶も二種類。
「折角なので、いろいろと飲み比べてみましょうよ」
と言って夜刀彦が持参したカフェインを抜いたアールグレイとフルーティなダージリンを別々のポットに煎れた。これで、カフェインが苦手な者も議論に参加できるはずだ。
珈琲派向けにはストックしてあったブルーマウンテンの袋をあけ、豆のひき方と温度で濃さを二種類作った。
「む? 我が輩はイタリアンローストを所望したいのだが」
と、マクセルは不満を露わにしたが、無いものは仕方がなかった。
ケーキを見事なナイフさばきで切り分けたのは夜刀彦で、その他のトッピングから飲み物の用意までを完璧に行ったのは静だった。やはり、メイドの衣装は伊達ではなかったようだ。
「……ああ、本当に甘酸っぱい。リンゴの濃い味がしっかり出ていますね。これにはやっぱり珈琲でしょう。薄目に入れたブラックが――あ、済みません」
と、紅玉ベースの皿を口にした優多が、完璧なタイミングで注がれた珈琲に目を丸くする。
注いだのは、もちろん静。完璧な給仕ぶりだ。
だが、その右手に持ったお茶を乗せた盆が、さっと横から持って行かれる。
「あ――なにをなさいます」
静は、笑顔を崩さずに抗議する。
「ここから先は、僕がやりますよ。さっきから、ちっとも食べてないじゃないですか」
音もなく背後を取った夜刀彦が、その手に盆を載せている。
「でも、私はこれが勤めですから……」
「うふふ、じゃあボクはメイドちゃん、食べちゃおうっと♪」
横合いから静に飛びついたアムルが、そのまま情熱的に抱きしめる。
「……ちょっと、離れて下さい、離れなさい。わたし、他人に触られるの嫌い、やめろ」
すっかり身体の力が抜けた状態で、ずるずると空いた席に引きずられていく静。
茫然と見送る優多と夜刀彦。
我に返った夜刀彦は、
「今日は、いろんなものを見ることができましたか?」と優多に微笑む。
「はい」
優多は誇らしげに、ポケットから小さなノートを取り出した。
「しかし、この二番目の皿を淡い味にしたのはなんで?」
と、クリフは榮太郎の方へ話を向ける。
「……紅玉は、普通に煮詰めると酸っぱさが強くなるんです。だっ、だから味を調えるのに砂糖を多めにしました。逆にジョナゴールドの方は砂糖を控えめにしたんです。当然形がくずれやすくなるからパンケーキ生地でまとめちゃったんですね。……これで、味の強いのと薄いのと食べ比べ出来ますから」
榮太郎は、なんとなくさっきよりは楽に喋れた気がした。
「そっか、考えたねえ。俺も、そういう素材を生かして味わうってのは、好きだぜ。だから俺は素の紅茶がいい。――あ、これは別な」
クリフは砕けた口調で喋りながら、手元の蜂蜜をダージリンに注ぎ、アイスとトッピングしたジョナゴールドのケーキと一緒に満足げに頬張った。
「甘みがしっかりした食べ物相手なら、強い苦みの珈琲で押し流さねばならぬのである」
と、聞こえよがしに言うのがマクセル。
「あら、お考えは変わりませんのね」
アムルに強引に拉致され、あろうことかマクセルの正面に座らされた静。
小さく切ってフォークに乗せたケーキを口元に差し出し、
「はぁい、メイドちゃん、あぁ〜んしてぇ♪」
と天使の微笑みを浮かべるアムルに逆らいきれず、またも口を開いてもぐもぐと食べ下す。
マクセルは首をかしげ「解せぬのである」とじろりと見る。
「解せぬ、とおっしゃいますが、なんの事でしょうか」
「む、判らぬのであるか。……先ほどの話であるが、我が輩は惰弱なるおぬしらの同輩について思うところを述べたのである」
「言いたい放題、の言い間違いでございましょうか」
「だが、お主は惰弱ではないのである。なぜ、おぬしが怒るのか、我が輩にはまったく理解できないのである」
「……私は、弱いのです」
「否。それは否定するのである。強者はより高い場所を目指す義務をもつのである。そなたは我が輩を手本にすべきなのである」
マクセルは、もぐもぐと口を動かし続ける。
静がじっと睨んでいることになど、もちろん気が付かないままで。
「御同胞達は本当に自由だ。特にあのアムルさん。別に博愛主義者でも平和主義者でもなさそうですが、ならなにかと言われても困ってしまう。とにかく見ていて飽きません」
ずずっと手元のカップをかるくすすりながら、ヴェスはかなえに微笑む。
「飽きないというか、呆れるというか。ああいうのが結構いるんです。あっちにいた時の反動かなあ」
「心配しなくとも、かなえのように面倒くさい女から男を取るほど、悪趣味でもなさそうですよ。それよりも――これを試してください」
「私は別に、榮太郎の心配をしたわけじゃ――あれ?」
かなえは、ヴェスがテーブルを滑らせてよこした飲み物を飲んで、目を丸くした。
「それは、鴛鴦茶。人間の友人から教わった楽しみ方の一つです。言い方を変えるとすれば、『紅茶に珈琲を混ぜて飲む方式』ですね。どうです、今私たちが見ている風景に似ていませんか?」
「あ、ああ――そうかも」
かなえは、目の前に広がる喧噪そのもののお茶会の風景を眺めた。
「混ぜ方の基本は紅茶を7で珈琲が3――なにを驚くのです? 元悪魔にだって、人間の友だちはいます」
ヴェスはかなえの驚いた顔を、自分に友だちがいることについてだと思った。
そして、すぐに自分の勘違いに気が付く。
「その、人間の友だちに僕も加えていただけませんか? もちろん、将来はそれ以上を目指して。ちなみに、僕は紅茶派です」
満面の笑みを浮かべた雅人が、いつの間にかヴェスの隣を自然にキープしていたのだ。
ヴェスは、これが哲学的な難問であるかのように考え込み、
「友だち以上というのは、戦友のことですか?」
と、真顔で答えて雅人をうなだれさせた。
それでもめげない雅人とヴェスの間で、「友だち以上」についてのなかなか噛み合わない議論がしばらく続いた。
結局、数の上では紅茶派が多数だった。
だが、そんなことに誰も執着せず、意見も変えず、みなはただ好きなものを好きな組み合わせて味わっていた。
当然だったかもしれない。
他人の嗜好を変える依頼など、榮太郎やかなえが出すはずなど、最初から無かったのだから。