日が、落ちかけている。
燃えるような赤い灯が西の遠い空の彼方で色を失おうとする頃。
逆に東の空からは深い藍と黒が押し寄せて来ていた。
ただ静かに。
川の底で、鰈の様に平たく沈んでいた巨大な魚。
それは明かりを失いつつある空を見上げて、ゆっくりと身体を持ちあげた。
グワリ。
まるで空気の入っていないビーチボールに息を吹き込んだ時と同じに、平たく潰れた身体はアンコウに似た丸みを帯びて動き出す。
目指すは下流から繋がる海。
元々、この魚に帰省本能などは無い。
ただ、今の川に飽きたから海を越えて次の川に向かうのだ。
音を立てぬよう、ゆらりと、ぬるりと。
ただ、何かを求めるように【獲物】に気が付かれぬように。
巨体を滑らせながら泳いで、もう川の上に広がる空は真っ暗だ。
川を下ってようやく、中流付近まで来ただろうか。
今日に限っては、ここまで不思議とひと気は無い。
サッ。
小さな物音ひとつ。
魚は一瞬止まる。
が、その後すぐに沈黙だけが親友の様に寄りそうだけだった。
深く考える知能も持たない魚である、さらなる下流へと、再び泳ぐのだった。
★
『……目標を補足した。かなり大きい。そしてやはり、下流へそのまま向かっている』
エカテリーナ・コドロワ(
jc0366)からの通信。
彼女は一人、川の中流で敵の捕捉にあたっていた。
そして、揺らぐ巨大な影を敏感に捉えて、下流に待機する仲間へ連絡。
本音で言えば、見つけたその場で抹殺も考えていた、がしかし、罠を設置する下流から離れての単独では、敵の行動の不規則性を生み出す要因や、自身の危険にも繋がるので、話し合いの末斥候に留まった。
エカテリーナからの通信を受けたのは鳳 静矢(
ja3856)
「目標は進行中か。了解した、ではこっちも最後の準備にうつる事にする。折角の新鮮な情報だしな有効に使うとしよう」
『頼んだ。私もそちらの準備が整う頃には先回りで戻れるだろう……奴を野放しにしておけば犠牲者が増える、海に逃げられたら我々の負けだからな』
プツリ、とここで通信は終わりそして。
「さてェ、大物が釣れそうねェ…さっさと釣り上げてェ、処分して中身を取り出しましょうかァ♪」
と、これから悪戯をする子供の様に無邪気な笑みを浮かべる黒百合(
ja0422)は、その笑みのまま、自身の身長よりも大きなロケット砲を悠々と抱え持ち場につく。
それから空に浮かび上がる小さな影。
「大きければ、良いという物では、ありません。それだけ視界や動きが、制限されるものなのですよ。なので私は上から狙ってみますね」
アルティミシア(
jc1611)は翼を広げ舞い上がる。
空からの援護を狙っているようだった。
今回の作戦には組合の協力の元、罠が設置される事となった。
数は全部で3つ。
全て下流の一点に狙いを絞って、かつ容易に敵が抜けだせないように重ね合わせて行う。
また、作戦時に危険となってしまう為組合員は退去しており、罠を確実に作動させる為に六道 鈴音(
ja4192)が探知機を見張る。
「闇に紛れて人を襲う…趣味の悪い魚ね…婚約者の女性も遣る瀬無い想いでしょうね。あたしだったら、きっと発狂してしまうかもしれない。だからこそ、きっちりそんな生臭いモノは始末してやるわ…」
痛む心から絞り出すように。
ケイ・リヒャルト(
ja0004)は敵のやってくるだろう川の上流を眺めて、そう苦言しながら仲間の出す音や血の匂いが無い岸の方へ。
残りのメンバーも、それぞれ罠付近で静かに待機。
敵に悟られぬよう注意しつつも素早く戻ったエカテリーナも下流に合流。
そして罠よりも少し上流の地点では、静矢が精肉店などから分けて貰った動物の血の詰まった袋を持って待機している。
『探知機に反応アリ! 皆、警戒よろしくお願い!』
鈴音からの全体通信。
いよいよ、接敵が近付く。
シン……と静まった川の水面が、わずかに波紋を立ててゆっくりとやってくる。
まずは、と。
最も会敵する地点に近い静矢が、水中へ癇癪玉を投げ入れて音を水中に響かせる。
……魚のものと思われる影は僅かに動きを止めたが、音だけでは攻撃はしてこないらしい。
少しだけ音の方を確認だけした後に、再び下流へ泳ぎ出す。
仕方なしと判断した静矢はそのまま陰に狙いを付ける。
「さて…水中の敵相手にどこまで威力を通せるか?」
阻霊符を握りながら、水面下に漂う影へ睨みを利かせて紫のオーラを帯びる。
淀み無く、綺麗な動作で、長さ2メートルを超す和弓を構えて……
「は……!」
ピンと張られた弦を弾き。
アウルの込められた強烈な矢が、闇中を川底めがけて疾走。
その矢は水面と出会うと水風船が割れた様な音と共に水中の影へ。
途端。
水面下の巨大な影は身をよじらせて暴れ始める。
そして、それにより波打つ水面から……
ビュシュ!
返す刀と言わんばかりに矢の飛んできた方向へ打ちだされる強烈に圧射された【水】
「ちぃ!」
咄嗟の事で、頑丈な弓を盾に受けるが、しかし。
その威力のまま静矢は数メートル弾かれる。
「無事にこの任務が終わったら、皆さんにパインサラダをご馳走しますね。もちろんわたしが奢りますよ」
言いながら銃を構え、ナイトビジョンで様子を伺っていた雁鉄 静寂(
jb3365)は、状況が動き出した事を見届けると、即座に【フラグ】を立てに行く。
(さて、このフラグに乗ってくれるでしょうか?)
その疑問に対し、思惑通りに魚は静寂の立てたフラグの方向へ巨体を揺らし迫りくる。
反応良しとみて、続けざまに。
「この任務が終わったら、引退して農場を経営するんです……」
あたかも、自分の事のように。
見事、魚は巨体の一部を水面に晒して声の主を確かめようと浮上する。
静矢の放った矢が、チラリと刺さっているのが見え、どうやら命中していた事も解る。
「ふふ……と用務員さんに聞いたんです、よ!」
構えた銃を、僅かに露出した魚の身体に撃ちこむ。
乾いた破裂音は魚の体を容易に撃ち抜く……のではなく。
硬い金属や炭素物質、またはガラスといった様な、とても生物とは思えない異音を紛れさせて鉛玉を巨体へ飲みこんでゆく。
「これは……一体? ……くっ!」
射撃により、位置を読まれた静寂に発射される、またも強烈な水。
だがしかし、一度静矢が受けているのをみていたので、自らのスキルを発動し夜霧に紛れ回避に成功。
「お前の相手はこっちです!」
フラグだけではなく、魚の誘導要因となる可能性の高いもう一手別の方法。
それは血。
雫(
ja1894)は自分の指を傷つけて血を川面に垂らす。
ほんの数滴。
夜の明かりの無さで、川に血が浸み込んでも色までは分からない。
しかし、水の中を漂う血には【匂い】がある。
再度、目標の変更で踊らされる魚。
半ば混乱気味に血の匂いを頼りに雫の付近へ泳ぎ出す。
……罠にはまだ距離がある。
探知機のモニターと仲間の位置を確認しつつ、焦る鈴音。
下手をして罠を外しでもしたら、目標が海に逃げてしまう可能性が格段に高くなってしまう。
そのため、仲間が誘導してくれるのをじっと待つしかない。
癇癪玉やフラグ発言、血の香りに誘導されつつも、川の中を勝手気ままに泳ぐ魚。
水中に潜られては弾丸では威力が高すぎて水面で跳ねてしまい当てる事が出来ずにいた。
唯一、矢だけは、威力は陰るものの多少の効果を得ている程度だ。
このままでは弱らせる前に魚が逃げてしまうかもしれない。
だが、確実に罠に近づいてはいる。
そこへ。
最後のひと推しとばかりに。
静矢が持参した血袋を罠に限りなく近い少し上流付近、その空中へと放り投げた。
かと思うと、それを空中からの落ちざまに正確に矢で撃ち抜く。
袋は弾け、中から大量にばら撒かれる食肉の血。
今までに無いほどに強烈な血の匂いは、魚をまるで夢や幻覚でも見せるように高揚させて、歓喜のうちに罠へ誘い込む事に成功する。
「きた! いくよ、みんな!」
「やってくれ。敵を倒しても死者が蘇ることはない。だが、新たな犠牲者が出る前に敵を倒すことが、死んでいった者たちへの唯一の報いだ。彼の死を無駄にしないために、必ず奴を倒す!」
ガコン。ガコン。ガコン。
鈴音はレバーを引き、丈夫に重ね合わせた3つの罠をいっぺんに作動させ、エカテリーナが鼓舞する。
仕掛けられた罠は網。
レバーに連動して岸へ引きあげるように魚を持ちあげる。
「かかったな。海には行かせん、ここで死ぬがいい!」
「JYAGAAAAAAAAAAAAA!」
まだ岸に打ち上げられた訳ではないが、それでも、身体の大部分を水上に晒されたうえの集中攻撃。
初めて魚は咆哮をあげた。
同時に、苦し紛れからか、巨体の全身から雨のように一点射程では無いにせよ、痛烈な水弾が魚を中心に弾きだされる。
「きゃあ!?」
「く!」
「っっぅ!」
意表を付かれた為、運悪く全員が被弾し、僅かに攻撃の手が緩んでしまう。
だがしかし、それは逆に皆を冷静にさせる原因にもなった。
「良く見ると、この敵…色んなモノを付けて…る? あそこにあるのはゴミ、それに動物…あと、人間…も?」
立ち上がりつつケイが言葉にして言うほどに。
姿のほぼ全体を晒した魚の姿は……直接見てディアボロであると解るその姿は。
ただのガラクタの集まりと、そして尊い犠牲になった被害者の遺体で構成された擬態だった。
一言で言うなら【おぞましい】その姿。
既に肉の腐り落ちた死体や、腐敗により膨れ上がった死体などが、川に捨てられていたのであろうゴミと縫い合わせるように犇めいていた。
地獄をそのまま纏っているようにすら映る。
もちろん、襲われた被害者の生存は絶望的。
ふと、不思議な事に、水に浸食されて腐ったような痕跡は殆ど見当たらない。
内部に水が入らないように保護膜でも張っているのだろうか……
ともかく、罠の成功により、弾かれるように戦線へ入った鈴音。
(敵の身体は、被害者の遺体で構成されている!? だとしたら、攻撃する箇所を選ばないと、遺体を傷付けちゃうわね)
見た目の気色悪さに驚きつつも、死者への敬意を思考する。
「敵の本体は内部を絶えず動き回っているようです。擬態の構成からすると、最近取り込まれた遺体は外側、つまりヒレなどの末端にもう一つの依頼である園田さんが居る可能性が高いです」
と、誰よりも早く状況を掴み知らせたのは、既に臨戦態勢に入り、全身を美しく赤い紋様で飾る雫。
その言葉に皆が一瞬で反応し、3か所あるヒレを分断する一斉攻撃に移る。
「酷いよ。園田さんたち、せっかく幸せに、なれるはず、だったのに…。オマエ許さないよ、バラバラにした後に、本体引きずり出して、殺してあげます」
くるり。
抑え難い殺気を迸らせて、空中を急速に旋回したアルティミシア。
燃ゆる花びらの如く、炎を夜空に浮かべて……部位の付け根を狙い大爆撃。
「くらえ、六道鬼雷刃!!」
合わせ技でまばゆい雷を撃つ鈴音。
「でかいな…やはりまとめて穿たないとキリが無い」
すばやく刀に持ち替えた静矢が連撃で綻びだした繋ぎ目を、紫に輝く鳳凰で切り刻んでゆく。
「じゃァ……私も♪」
小さな身体に担いだロケットをぶっ放す黒百合。
末端の部位を止めどなく攻撃され、繋ぎ目はもうボロボロになっていた。
切り裂かれた部分からはゴトゴトとゴミが落ち、内包していた死体から出るガスと死臭を撒き散らし始める。
「遺体から出た可燃性のガスが噴き出ていますね……みなさん、少し伏せてて下さい」
冷静な瞳のまま、雫は懐からオイルライターを取りだす。
シュボッ。
「お前が殺し、自身を護る為に取り込んだ遺体達がお前を追い詰める要因になる…報いを受けなさい」
見慣れたライターの小さな灯。
それをそのまま噴き出るガスへと投げ込む。
……
投げ入れた後の静まり、そしてその刹那。
引火したガスは鼓膜を破らん程に大きな破裂音を一発起こし、ゴミなどの隙間から火が立ち上り、そして。
継ぎ目の弱化したゴミや死体が、吹き飛ぶ事こそ無かったが、隙間をすり抜けるように落ちて行った。
部位にはもう、殆ど擬態が残っていない。
「園田さんの亡骸は返して貰います」
爆風に包まれる敵を前に、取り返すべきものを取り返した雫が一言、そう告げる。
残すは胴体の擬態、それから本体。
「危惧すべき目的は達した。そろそろ終いにしなければな…!」
「くすくす……♪ メインディッシュですねェ」
この惨劇の終止符へ向かい、静矢たちや、最後のひと暴れに胸を高鳴らせる黒百合たち。
未だ擬態の大部分に残された遺体を傷つけぬよう、だが一刻も早く滅するため、渾身の一撃を見舞う。
見る間に、音を立てて擬態を剥がされてゆくディアボロ。
自信を守る壁が無くなりつつある事に焦ったのか、はたまた擬態の再構成でもしようというのか。
ヌルリ。
と、アンコウでいえば提灯のありそうなところから本体が異臭と共に姿を現す。
「あからさまに怪しいのが出てきたわね!」
「狙うわ! スターショット!」
鈴音の言葉の終わりと共に打ちださるアウルの籠ったケイの弾丸。
「GYAAAAAAAAAA!」
擬態もろとも巨体が激しく揺れる。
確実に効いている。
「ならば!」
「いきます!」
「三途の川を泳げ!」
「フルボッコ!」
「死、んで!」
「あははァ♪」
連撃。
連檄。
連戟。
たったの一度。
本体が現れた最大のチャンスに。
夜の闇をその一瞬だけ真昼のように鮮やかに明るく染めて。
ディアボロは、断末魔の悲鳴と。
大量の被害者の遺体を崩れさせながら。
攻撃の終わりと共に明かりを失う夜の暗い空気の中へ小さな呻きをだけ残し。
それ以上の音も無く沈黙していった。
●
夜が明けて。
戦いに疲れた身体のまま、ようやくのこと、遺体に紛れた指輪を見つけた彼らは、組合とは別のもう一人の依頼主の元へソレを届ける。
「多分、生きてはいないと、解ってはいたんです……でも、それでも、私は信じたかった! 彼が生きていてくれたらと! ああぁぁぁああああ……!」
渡された、小さな赤く煌めく指輪を、震える手で握り締めて。
もう、何度も泣いたのだろう、赤く腫れ上がった目に涙を浮かべて。
そんな岡部恭子を静寂はそっと抱きしめる。
言葉では無く。
慰めでも無く。
憐れみでも無く。
同情でも無く。
ただ、心のままに。
「撃退士の皆さん……」
かすれた声で、言いながら左手の薬指に遺品の指輪をはめて。
「私の我儘な依頼を達成してくださって本当に、ありがとうございました」