先んじて張っていると港から流れてくる潮風が鼻をついた。
佐藤 としお(
ja2489)は夕刻を迎えつつある港を検分する。手にはカップ麺があり、時折すすりながら伊達眼鏡のブリッジを上げた。
「ディアボロと交渉、取引ねぇ」
依然としてその目的は不明瞭なものの自分がまずこの地に赴き、先行して網を張っておくのは作戦概要で定まっていた。
「しかし夜、か。腹が減りそうだ」
としおはそう呟いて停泊している巨大船を眺めた。
港に停泊している船が汽笛の音を鈍く低く響かせる。
腹腔に響き渡る汽笛を聞きつつ、男は定刻になった事を確かめてその場所に向かった。同じ場所で何度も取引をすればそれだけ怪しまれる。今回の取引を期に一度見直すべきだと提言するつもりであった。もっとも、相手の知能の程にはよるが。
影のように屹立しているのは巨躯の男である。死んだような瞳をしておりその身体が仮初めであると告げている。
「ブツ、は?」
ぎこちない機械のような喋り方。やはりディアボロ相手では交渉しようがないか。もっと上級の相手を紹介してもらうべきだろうかと男は感じ取る。
「ああ、今回のブツだが……」
「悪いが交渉はそこまでにしてもらおう」
差し挟まれた声に男は振り返る。いつの間に現れたのか、眼鏡をかけた伊達男が潮風に揺れるコートを身に纏っていた。
「気配なんてなかったのに……」
「撃退士だ。大人しくお縄についてくれれば、まぁ言う事はない」
やはり現れたかと男が色めき立つ。
としおは出来るだけ穏便に物事を運びたかった。追従している大男はディアボロであるのは確定だ。ならば、できるだけ小規模に……。
その考えを断ち切るように男が片手を開いた。構築されていくのは小銃である。専用のV兵器、ととしおは緊張を走らせた。
「やるっていうのか。言っておくが包囲はされているんだ」
「包囲、だと。どこにそんなもの――」
その言葉が遮られたのは男が一切の動きを封じられた事を感知してからであった。小銃をとしおへと構えようとするもその腕がまるで動かなくなっている。
「う、動けん……」
「大人しくしてもらいます」
物陰から現れた雫(
ja1894)がナイトビジョンゴーグルを外しつつ、そう口にした。目を凝らせば男とディアボロの大男を拘束する黒い手が構築されている。
「ダークハンド。撃退士ならば拘束術くらいは想定してのものでしょ? 貴方達には聞きたい事があります。動かないでもらいましょうか」
雫が男の小銃に目を留め、「やはり撃退士」と呟く。
「どうしてこのような真似を? 少量の骨では素体にするのも不可能。撃退士の骨を売る、メリットが分かりませんが」
雫の疑問に男は答えない。雫は度し難いとでも言うように声にする。
「神話世界の天使や悪魔とは別でしょう。そんな事も分からなくなるほどに、堕ちたんですか」
雫の言葉に男が目に力を込める。するとディアボロの大男がその姿を変異させた。
瞬時に痩身の獣へと変身したディアボロの動きは機敏である。ダークハンドのスキルでもその変身の一瞬だけ緩んだ。ディアボロが空間を跳ね、雫へと飛びかかる。対応しようとするもあまりに速い。加えて拘束スキルに割いている雫には隙があった。
「もらった!」という男の声。しかし、その爪による攻撃を遮ったのは一枚のトランプであった。
放たれたトランプによる防御が雫をディアボロの一撃から守ったのだ。
トランプに刻まれたハートの文様から引き出されたのは桃色の表皮をした幼生の龍――ヒリュウであった。ヒリュウがディアボロを突き飛ばす。
しかしヒリュウ自体はあまり強い存在ではない。
「狙えば!」
小銃を持ち上げた男の二の腕に弾かれたトランプが突き刺さる。呻いた男が引き下がろうとするのをヒリュウが回り込んで退路を塞ぐ。
困惑する男とディアボロにさらに混乱を浴びせるように、闇の中で浮かび上がった影があった。
「拘束スキルを一時的に破るか。そうまでしてドンパチしたいですかね?」
エイルズレトラ マステリオ(
ja2224)の声に男は歯噛みする。ディアボロへと命じてダークハンドの拘束を破らせた。
「そこだ!」
放たれた小銃の弾丸はしかしエイルズに届く事はない。エイルズは飛び上がったかと思うと、嘲るように真っ逆さまに重力を無視して立ってみせる。パンプキンのマスクに風に翻るマジシャンの正装はまさしく奇術師の装いだ。
「僕に当てたければ、もうちょっと狙いのいい武器を使うんですね」
エイルズが指を鳴らすと服装の中に隠していたトランプが起動し、散弾のように発射されて男の影を縫い止めた。
「クラブのAです。ヒリュウで充分とも思いましたが念のため動きは封じさせてもらいますよ」
男は舌打ちを漏らしディアボロへと目線をやる。
「影をなくせば縫い止められまい! 照明を!」
この港における照明器具の配置は巨大な投光機が数機、小型の電柱が数十個である。ディアボロは素早く動き、照明器具を破壊しようとする。
「それを、読んでいないと思っていたのか? てめぇ」
新たに放たれた声に男が瞠目した瞬間、クロスボウによる乱れ撃ちがディアボロの痩躯を打ち据えた。ディアボロが地面に転がる。電柱の真上で佇んでいる黒衣の女性が赤い瞳に敵意を滲ませた。
「久遠ヶ原のスケバンこと、この天王寺千里様が、罰当たりなてめぇらに引導を渡してやるぜ!」
天王寺千里(
jc0392)が跳躍し、男の眼前へと降り立ったかと思うと片手を引いて攻撃姿勢に移った。長い黒髪が攻撃色の赤に染まり、瞬時に光纏の旋風が彼女の髪を煽った。
その手に握られているのは長大な槍だ。トルネードランスから放たれた凶暴な嵐が男の周囲の地面を抉り飛ばす。そのあまりの迫力に男はたじろいだ。
「一応は聞いておくぜ。てめぇら、何のつもりでこんな事やりやがった?」
突きつけられた槍と千里の気迫に男は声も出せないらしい。千里は鼻を鳴らす。
「本当に撃退士かよ」
しかし男はこの圧倒的不利な局面でにやりと笑ってみせた。
「まだディアボロは倒せていないぞ、若き撃退士共!」
ハッと千里が振り返った瞬間、ディアボロの姿が大写しになった。咄嗟にクロスボウを構えようにも間に合わない。
「雫! 拘束は」
「遅い!」
男が勝利を確信する。しかし、それを制したのは浮かび上がった御符の連鎖であった。
突然の出現に男とディアボロがたじろぐ。暗がりから足音が響き渡り、「そこまでです」と声が発せられた。ナイトビジョンのゴーグルを外した少女の眼光は強く、太い眉がその凄味を引き立たせている。
六道 鈴音(
ja4192)は指先で御符を操り、ディアボロを弾き飛ばした。攻撃を受けたディアボロは地面を転がる。
「助かったぜ、鈴音。にしてもこのディアボロ、素早さで致命傷を避けてやがったか」
倒れ伏したディアボロへとダメ押しのようにダークハンドによる拘束のオマケがつく。
どうやらその自慢の素早さを封じられたディアボロだがまだ牙を剥いて野性を滾らせている。
「とどめは私が」
鈴音が光纏を使用し、浮かび上がった御符から連鎖的に光が放出される。御符から巻き起こったのは殺人的な勢いを誇る風の刃だ。刃一本一本が啼き、ディアボロの断末魔と相乗する。
全身に傷を作ったディアボロが膝を落とす。すると地面から発生した無数の霊的な腕がその身体を拘束した。鈴音はもう一枚、ディアボロの額に貼り付ける。紅蓮と漆黒の炎が同時発生し、ディアボロを挟み込んだ。
「消し炭にしてやるわ。くらえ、六道呪炎煉獄!」
直後、巻き起こった爆発の噴煙が暗闇の港に一時的な夜明けを作り出す。眩いまでの炎の輝きがディアボロの肉体を消し飛ばし、それを放った鈴音が息をつく。
「これで、もうディアボロには頼れませんよ」
振り返った鈴音の声にすっかり及び腰になった男は短く悲鳴を上げる。
「あなたが、撃退士の骸を売る売人ですね」
鈴音が手を振るうと御符が男の逃げ道を塞ぐように展開される。
「既に張っておきました。伊達に遅く登場したわけじゃありません」
「いつの間に」と千里が口笛を吹く。
男とディアボロが余計な抵抗をすれば、という配慮であったが改めて、この対応が正解であったと感じ取る。
鈴音は歩み出て男へと問い質す。
「どうして、撃退士の骨を売る真似を? あなただって、撃退士でしょう?」
男は視線を逸らす。これほどまでの戦力差を見せられても、まだ従う気はないようだ。
「まだ、まだだっ!」
小銃が火を噴く。しかしその小銃が鈴音を捉える事はなかった。動いたのはとしおである。伊達眼鏡を外し、光纏を帯びたとしおの手が小銃を取り押さえていた。
「女性に向けて銃ってのは、穏やかじゃないな」
「おい、あたしに尋問させろ。何で撃退士の骨なんて売りやがる」
男がちら、とディアボロに目をやるも、ディアボロは既に度重なる攻撃で消失寸前であった。
「……怖いとは、思わないのか?」
全員が押し黙る。そんな中、男は独白する。
「お前達が今使ったこの力も、天使や悪魔を恐れない、あまりにも強大な力の一端だ。それを人間が、小さき存在であるはずの人間が容易に振るえる事に、何の恐ろしさも感じないのか? わたしは、この力が使いどころを誤ればそれこそ、悲劇を生む要因になると感じている。だから撃退士の骨を売った。我々が所詮、人間であると言う証明のために」
「天魔に骨を渡して媚売れば、あたし達が人間であるって言いたいのかよ」
千里の言葉に男は沈黙を是とする。千里は鼻を鳴らした。
「女々しいぜ。人間であるっていうんならよ、それこそ死体を漁るなんてあっちゃいけねぇ」
「千里さんの言う通りです。あなたは、あまりにも力への恐怖に身が竦み上がったあまり、人間も信じられなくなってしまっている。もっと世界を、人間の意志の強さを、信じてみたくはないですか?」
としおの同調する声に男は、「だが」と抗弁を発する。
「天魔に下らない、我々のスタンスは正しいのだろうか。ひょっとすると天魔こそが――」
「それ以上は、言わないほうがいいと思いますけれど。僕は」
周辺警戒を行っていたエイルズが降り立ち、忠言する。雫が歩み出て、「信じるべきを失った、と言いましたね」と声にする。
「ですが、天魔をどうこう出来る力があると言っても、最後に信用に足るのは、自らの胸に返ってくる、胸を張って主張出来る答えだけではないでしょうか。あなたはその答えを見失い、やってはならない事に手を染める事で、見ないようにしていただけです。恐れは呑み込まれるものではなく克服し、前に進むもの。それが撃退士ではないですか?」
この中でも年少の雫の声に、男は項垂れる。恐らくは自分の失っていたものを彼ら若き撃退士に見たのだろう。
「間違っていた、と素直に認める事は、まだ出来そうにない。だが、希望はあるのか……。若き撃退士諸君、君達のような希望が……」
男の声が弱々しく汽笛に塗り潰されていく。この終わりのない恐怖の夜から旅立てる日が訪れようとしていた。
「拘束処分、か。極刑には処されないみたいだね」
久遠ヶ原の後始末を目にしてから、としおは朝焼けの昇り始めた港で呟く。手にはやはりカップ麺があった。
「撃退士だって言うんなら、てめぇで天魔を倒せってんだ」
強気な千里の発言にとしおは呟く。
「そう強くあれる人ばかりでもないって事かもしれない。今回の事件、小規模で片付いたがそれこそ、誰もが陥りかねない闇ではあるんだ」
「でも、そのような心の弱さを払えるのもまた、撃退士の素質」
雫の呟いた声に、「だな」と千里が雫の頭を撫でた。
「帰りましょうか。エイルズ君は」
「終わったんなら帰りますよ。天魔がどうだとか、そういうの考えている暇なんて、撃退士には本来ないんですから」
エイルズは既に帰りの車に向けて歩み出し、トランプをシャッフルしている。鈴音は使った御符を手元に戻し、息をつく。
「それでも、強くあれるのなら」
朝焼けが若き撃退士達の目に眩く輝いた。