「昨日までの移動ルートです。それと、本日の移動予測を」
巡回任務についていた警察官が河川を眺めつつ、口にする。
麗奈=Z=オルフェウス(
jc1389)は地図と、封鎖線の張られた河川状況を鑑みた。
「これやと、やっぱり今夜中に決着つけなあかんそうやね」
しとしとと降り注ぐ雨。今週はずっとで、麗奈の足首ほどまでは確実に増水している。
「あたしも、麗奈さんに賛成。これ以上増水すれば相手の位置取りも難しくなってくるし、何よりも……」
稲田四季(
jc1489)が濁したのは既に下流の団地に入りかけていること。これ以上、カニバサミの進行を許せば下流域に被害が出る。
「寝ずの番ですよ、カニバサミ相手にね。だから今のところ、報告以上の被害は出ていませんが」
透明な雨合羽を着込んだ巡査は帽子をくいっと上げてカニバサミがいるであろう場所を睨んだ。
警察としては被害が真っ先に出ただけに忌々しいのだろう。
麗奈は雅な赤い番傘を手に、降りしきる雨空を仰いだ。
「蟹かぁ……。もうすぐおいしい季節やもんね」
巡査が離れてから麗奈は独りごちる。四季は対照的にげんなりしていた。
「カニが相手かぁ……。うへぇ……何だか食べられなくなっちゃいそう……!」
「そういう割り切りも必要よ」
「麗奈さん、今日はポニテなんだね。いつも以上に色っぽい」
四季の指摘に、「動きやすいように、よ」と麗奈は返す。
「でもま……あの巡査さんの目線はゲットできたみたいやけれどね♪」
自分のうなじを見ていた巡査の眼差しを麗奈は見逃していなかった。
「殿方にとっては、雨もいいんかもしれんね」
「雨に、蟹、か。僕は蟹、あんまり好きではなくってね。特に、蟹味噌のおいしさがまだ分からないから、基本は子供なのかもしれない」
呟いた狩野 峰雪(
ja0345)の声に、バスに揺られて現場に向かっている六道 鈴音(
ja4192)は小首を傾げる。
「蟹味噌のおいしさが分かるのが、大人なんですか?」
「そうらしい。まぁ、今回の目標を鑑みるに、別段カニが好きでも嫌いでも関係がなさそうだ」
雨空の下のバスは二人しか乗っておらず、寒々しい光景が広がっていた。
「目標はカニバサミ……この名前、警察がつけたんですよね? 事前情報では炎に耐性あり、と。私の炎にも耐えられるか試してやるわ」
「元気のいいことで。僕は無難に攻めるよ。事前に麗奈さんと示し合わせた通りに、装甲の弱い個体から各個撃破を狙う」
今回の作戦で、鈴音はまず装甲強度の弱い、脱皮直後のカニバサミを狙うことになっていた。バスの窓に降りしきる雨風はことさら強いわけではないが、今夜辺り本降りになると言う。
「嫌ですね。雨天での戦闘っていうのは」
「僕は、任務に私情を持ち込まない主義でね。雨が降ろうが槍が降ろうがやることは同じさ。敵を撃破する。その一点においては、ね」
どことなく諦観さえも漂わせる狩野の声音に、鈴音は後頭部に手をやって窓の外を眺めた。
「ちょっとばかし、冷えてきそうね」
「私は硬いほうの個体との戦闘へ。ああ、万事抜かりありません。河川の増水具合からして、少しぬかるむかもしれないですが」
河川を観察しながら礼野 智美(
ja3600)は通話口に吹き込む。通話しているのは麗奈だ。自分は麗奈達よりも下流域にまず降り立ち、戦闘になりそうな場所を検分している。
カニバサミは一日にそう何キロも動く類のディアボロではないと聞いた。だが、増水すれば動きは速くなる、とも。智美は最悪の想定と共に下流域を見据えていた。
『この雨脚からして、そう下流までは行かないと思うけれど、硬いほうのカニバサミを担当してもらう手前、万全の注意は』
「分かっています。そちらも、戦いに油断は持ち込まぬよう」
通話を切って智美は河川のにおいを肺に取り込む。じめっとしていて、特に鼻につくような異臭もないが、カニバサミの出現時には磯のにおいが発生すると言う。
「嗅ぎ慣れた、とはいえディアボロの出現に合わせた異臭だ。判別できるだろう」
カニバサミがどれほどの相手であれ、と智美は腰に提げた刀へと視線を落とす。
「おいおい、傘も差さないのかい?」
その言葉に振り返ると鋭い眼差しを柔和に細めたノーチェ=ソーンブラ(
jc0655)が佇んでいた。青い傘を手にしている。差し出されたそれに、智美は目を背けた。
「いりません。どうせ戦闘時には混戦が予想されます。最初から、びしょ濡れになるのを恐れているんじゃ……」
その言葉が消える前に、ノーチェが、「強がるでないよ」と言いやった。
「お嬢さん方が雨に濡れているのを、ただ見ているのは忍びない」
その言い回しに智美はむっとする。
「お嬢さんって……。俺をそこいらの女だと思って侮らないでいただきたい」
「俺、ねぇ……。強がりもいいが、今宵は冷える」
曇天を眺めたノーチェが首を少しばかり傾けて智美を見やった。
「お嬢さんが身体を冷やすといけないよ」
「俺は、女である前に戦士だ。だから、そんな軟派な優しさは要らない」
強い語調と眼差しを前に、ノーチェは少しばかりたじろぐ。
「まぁ、強いお嬢さんがいても、なんら不思議ではないがね。俺の美徳さ。勝手だと思えば勝手に聞き流してくれればいい」
「そうさせてもらおう。俺は硬いほうのカニバサミを。あなたは柔らかいほう、脱皮直後のほうを担当だろう? いいのか? 悠長に河を見ているだけなんて」
「なに、ゆるりゆるりと戦ってやればいいだけの話。たとえるならば水のように、掴みどころのない戦法を取るだけさ」
智美は鼻を鳴らし、「そういう実直さのないのは」と言い返す。
「信用に足るかどうか」
「それは戦闘時に誠意を見せればあるいは、ということでいいのかな?」
智美は答えなかった。
ぎしり、と河川を影が移動する。
巨大なハサミを持ち上げて、カニバサミが鎌首をもたげた。
流水の加護を得て、カニバサミが進行する。黒い眼球が張り出し、その触覚が前方、数メートル先にいる人影を感知した。
カニバサミが水面から身体を持ち上げて甲高く鳴く。
人影――智美が刀を上段に構えた。
「柔らかいほうは……、やはり脱皮直後のせいか警戒心が少しばかりあるのか」
智美の視界に脱皮直後の半透明のカニバサミは映らない。潜行しているのか? と一瞬だけ身体に緊張が走ったが、迷いは命取りだ。
「参る!」
智美が阻霊符を展開させ、周囲からの攻撃を掻い潜り、カニバサミへと一気に肉迫した。
こちらのほうが速い、と智美が刀でハサミのあるほうの肩口へと切りつける。
だが、刀身は装甲を叩いただけだった。
「硬いな……」
カニバサミのもう一方の手が迫ろうとする。智美は跳躍して、宙返りをした。
空を切ったカニバサミへと飛び蹴りを叩き込む。
有効打にはならないが、これでカニバサミは自分を敵だと認識したはずだ。
「懐から!」
下段から振り上げた刀でなで斬りにしようとするが、その瞬間、背後の水面が揺れた。強烈な磯のにおい。
――後ろ! だと判じた戦闘神経よりももう一体のカニバサミの動きが僅かに速い。
そのハサミが動きかけたその時、声が弾けた。
「おっと……、一人だけだと思わないことね」
半透明のカニバサミを襲ったのは火球である。カニバサミの装甲を焼いた火球の主は鈴音であった。手を払い、次の手を打つ。
「食らい知れ! 六道鬼雷撃!」
半透明のカニバサミを襲ったのは強烈な雷撃による内部からの炎熱であった。
仰け反った半透明のカニバサミへともう一体が援護に向かおうとする。
それを阻んだのは、「ちょーっと待った!」という声であった。
カニバサミは援護も忘れてその声の主へと振り返る。
四季が腕を組んで佇んでいた。カニバサミを手招いて挑発する。
「来なよ。硬いほうはこっちの領分なんだから」
四季は川面に足をつけていない。微妙に浮き上がっており、カニバサミの一閃を難なく避ける。
「うっわー、本当にカニなんだ……。それに人間の下半身……、キモッ」
しかしこれで作戦通りの展開になった。硬いほうのカニバサミは智美と四季に集中している。
その最中、脱皮直後のカニバサミを襲ったのは、桜の花びらの舞であった。
首からフラッシュライトを提げたノーチェが御符を手にしてふっと息を吹く。
するとその吐息に呼応して桜の花びらに攻撃性能が宿り、カニバサミの甲殻を叩きつけた。
「亀裂、くらいは入るもんかと思ったが、脱皮直後と言ってもやはりカニはカニ、かな」
カニバサミが仰け反る。その機を鈴音は見逃さない。
「弱点が丸見えよ! くらえ、六道呪炎煉獄!」
印を切り、鈴音の放った巨大な熱の塊がカニバサミの薄皮部分を瞬く間に炎熱の地獄へと叩き落す。
カニバサミの表層が赤らんだ。
「焼き切った?」
倒れるか、に思われた瞬間、カニバサミは水の中へと潜行する。
今の増水具合は膝丈。頬を叩く雨もきつくなってきている。即座に奇襲の可能性に思い至った鈴音へと、カニバサミが襲いかかる。
「駄目だねぇ、そういう風に油断しちゃ」
鈴音とカニバサミの間に割って入ったのは、スーツを着込んだ狩野であった。
その手から弾き出された雷の剣がカニバサミを袈裟斬りにする。
後ずさったカニバサミへと狩野が連続攻撃を浴びせた。
「僕はなにも彼女にだけ言ったわけじゃない。君も、だよ。カニのディアボロ君」
手を払った狩野の動作に呼応して彗星の輝きが連鎖し、カニバサミの表皮を押し潰そうとする。
この時になってカニバサミの頭頂部に大きく亀裂が走った。
「脳が湯だったのかい? まぁカニだからね。彼女の炎にやられてもう調理は済んでいる。あとは――」
「切り崩すだけ、よね」
言葉尻を引き継いだのは中空で展開していた麗奈であった。河川へとカードを投げる。
カードから武器が投影され、それを手に取ったのはノーチェと狩野の両方だ。
「カニのさばきは任せてもらおう」
「右に同じく」
二人が同時に投影された剣をカニバサミの脇に向かって一閃する。下部装甲をやられたカニバサミがよろめいた。
「さぁて、丸焼き行っちゃいましょうか! 鈴音ちゃん!」
ハッとした鈴音が再び印を結び、声を張り上げる。
「分かっています! 六道鬼雷刃! 中から焼かれてしまえ!」
鎌を振り上げた麗奈の攻撃と、真正面から雷を纏った鈴音の攻撃が同時にカニバサミへと突き刺さる。
カニバサミの内側から煙が棚引き、次の瞬間、緑色の粘液を吐き出したかと思うとその活動が停止した。
「これが蟹味噌、ですか……。確かにこれはおいしいとは思えないかも……」
鈴音の呟きを他所に、四人はもう一方のカニバサミを見据えた。
智美の刀とカニバサミのハサミが交差し、火花を宵闇に散らせている。
「やるな。ディアボロ風情とはいえ、切り結びができるとは」
しかし智美のほうが剣術は上だ。弾いた隙を狙って下段から拳を叩き込む。
堅牢な外骨格が衝撃に震え、内部からの衝撃波が背筋を突き抜けてカニバサミの背後の水面を荒立たせた。
カニバサミが横っ飛びする。智美の射程から逃れるつもりなのだろうが、その背後を取っていたのは四季であった。
「礼野先輩だけが相手だとは思わないことだね! ほら、逃げるのはナシ! だよ!」
四季が円形の盾を振りかぶり、カニバサミの背筋を打ち据える。水面へと叩きつけられたカニバサミであったが、出現の気配がない。
「潜行か!」
刀を構え直す智美に、声が発せられる。
「おいおい、逃がすと思っているのかな」
ノーチェの放った桜の花びらが弾丸のようにカニバサミの進行方向を阻む。
跳び上がったカニバサミがノーチェへと注意を向けた。
「さぁさ、こっちへおいで。俺が相手をしようじゃないか」
カニバサミが河川の壁を蹴りつけてノーチェへと突き進もうとする。その身体へと横合いから突っ込んできたのは火炎の連鎖だ。
「こっちも! 脳天まで沸騰させてあげる!」
火炎弾がカニバサミの進行を僅かに鈍らせる。
その背中へと、鎌の一撃が食い込んだ。
宙から肉迫していた麗奈がフッと雅に笑む。
「背中、さっき智美ちゃんと四季ちゃんの攻撃で脆くなったみたいやねぇ。見てないとでも?」
鎌の切っ先から雷が放射され、カニバサミが痙攣して水面に叩きつけられた。
最後の足掻きのように無茶苦茶にハサミを振るう。
そのハサミを近接で受け止めたのは狩野だ。
「結局、蟹って好きになれんかな。僕の場合は、ね」
瞬時に空気が振動し、気温が瞬く間に下がってゆく。凍てつく大気に、熱した体内との温度差が発生し、内側から甲殻に皹が入った。
「そのまま眠るかい? だが、夜を味方につけたのは――」
「俺たちのほうだ」
跳躍した智美が刀をカニバサミの亀裂へと突っ込む。
脳髄を貫通し、下部の薄皮部分へと切っ先が抉り込んだ。
そのまま頭蓋を叩き割り、カニバサミが沈黙する。
「情況終了、っと! お疲れさまー」
四季が歩み寄って智美の肩に手をやる。
「もうびしょびしょじゃない! あー、シャワー浴びたい! それとご飯も。カニチャーハンがいいかなぁ」
「討ち取った後でカニチャーハンかい? まぁ、僕もお腹が空いたなぁ」
手を払っていた狩野が少し考えた後、声にした。
「よければ奢ろう。夕食組は、僕についてくるといい」
「やった! カニチャーハン、カニチャーハン♪」
「私は温泉でも行こうかしらねぇ。ちょうどいい名湯があるのよ」
「あっ、あたし、温泉組ね! どんなところ?」
「早く身体あっためんとねぇ……。せっかくやから豪華会席蟹料理としゃれ込みたいわぁ♪」
三々五々に撃退士達が散ってゆく中、智美は準備しておいたタオルで頭を拭いていた。
ノーチェは夕食組にも温泉組にも合流しないらしい。タオルで顔を拭いて息をついている。
「やれやれ……水も滴るいい男、とでも?」
「言っていませんが」
「冷やすといけない。さっさと帰ろうじゃないか」
「だから、そんじゃそこらの女と同じ扱いをしないでくれと……」
智美はそこまで言ってから、ぷいと視線を背けた。
「待てよ」
「何ですか――」
「傘くらい、持っていくといい」
ノーチェは、といえば自分は傘を差さずにタクシーを呼び止めた。
智美はノーチェの青い傘をしばらく眺めていたが、やがて差した。
雨音がそれぞれの境遇を語る中、撃退士達は歩み出す。