件の廃墟。その玄関前。
……おかしい。
撃退士たちは「違和感」を覚えていた。
「なんだ、ここは。……全く『殺気』がねえじゃあねーか」
向坂 玲治(
ja6214)が、その「違和感」を口にする。
そう、この建物の内部には、警戒すべき危険な存在がいる。故に……その「何か」に対して、十分に注意したうえで、彼らはこの場所に赴いたのだが。
実際にその場所、玄関を目前に臨む場所に立ったところ。警戒心を起こさせるような「殺気」「危険な空気」といったものが、全く漂ってこなかった。
「確かにな。だが……ある意味『殺気が無い』って事は、中で潜んでいる奴にとっては望むところなんじゃないか?」
後藤知也(
jb6379)が、視線を「建物」に向けつつ言った。その言葉に、伊藤司(
jb7383)は首をかしげる。
「どういう事?」
「考えてもみてくれ。敵さんの目的は、犠牲者が自分から屋内に入ってくれる事。なら……誘い込むためには、殺気を出して警戒させず、中に入ってくるように仕向けるものだ。つまり……」
この「殺気の無さ」こそが、中に「何か」がいる事の証。
「でも、その『何か』は、この建物に潜んでいるのか、あるいは『部屋または建物自体』が『何か』なのか……どっちなんだろうね? 標的は、正しく認識しなくちゃ……」御門 彰(
jb7305)の言葉は、元気な声に妨げられる。
「そんなコトは、入ってみればわかるネー。ここでゴチャゴチャ言うより先に、行動あるのみヨー!」
と、口元をハンカチで覆いながら、キョン・シー(
jc1472)が入り込もうとしたが。
「……あ、あの……あれを……!」山里赤薔薇(
jb4090)が、何かを指さした。
キョン・シーは立ち止まり、彼女と共に、撃退士たちもそちらへと視線を向ける。
玄関脇には、干からびた「毛の塊」があった。
それは、死体。干からびた猫の死体だった。
現場の周囲。件の建物の周辺地域は、警察により人払いが行われていた。
建物からは、距離を取ってパトカーや救急車が待機している。芹香を救い出したら、すぐに処置できるようにと準備していたのだ。
後は……実際に内部に入り、芹香を助け出すのみ。
それを実行するため……撃退士たちは、玄関の扉を開き、中に足を踏み入れた。
玄関から入ると、そこは報告通り、長い廊下が一直線に。
そして、廊下のその先に、件の「部屋」と思しき扉が。窓らしきものは見当たらない……いや、無くはないが、内側から板が打ち付けられている。
後藤は、既に屋根の上に登っていた。この光景を見ているのは、後藤以外の五名。
伊藤は、用意していた飴やガムを取り出し、口に入れた。
飴は刺激の強い、ジンジャー風味やトウガラシ風味など、様々な物。ガムは眠気覚ましの苦いカフェインガムやコーヒー味のガム。それらを舐め、噛むと、口の中がひりひりし、苦味が走り回る。
「ううっ、辛いネー」
伊藤からトウガラシ飴を受け取ったキョン・シーも、それを口に含んだ。
「んっ……!」
赤薔薇が口にしたのは、苦味の強い漢方薬の丸薬。
向坂も、味と香りが強い飴や菓子を口に入れた。
御門が口にするは、ミントキャンディとコーヒーガム。
「……でも、本当にこんなのが効くのかなあ」
御門の言葉に、向坂はかぶりを振る。
「さあな。だが、やるしかないだろう」
送風機は、残念ながら警察からは借りられなかった。だが、ガスマスクは借りられた。少なくとも、鼻や口から得体のしれない何かを吸わずには済む。
「さて、それじゃ……行くか」
向坂の言葉に、皆はうなずき……一歩を踏み出した。
口元をハンカチで覆ったキョン・シーは、廊下を先へ、先へと進む。腰にはロープが巻きつけてあり、その先端は後ろに控える仲間たちが握っていた。何かあったら、すぐに引っ張ってもらえる。
内部は、話に聞いていた通り。確かに埃にまみれた、廃墟らしい廃墟。
そして、そこから距離を取り、ロープを手にした伊藤と向坂、赤薔薇、御門とが控えて付いてきている。キョン・シー以外は皆、ガスマスクで顔を覆っていた。
後藤は、建物の屋根に上り、そこから周辺を見張っているはずだ。そして、内部から「何か」が逃げだしたとしたら、それを発見する役割も兼ねている。
後は、このまま突っ切っていけば良いだけネー。それにしても……。
確かに汚いけど、ここはそう悪くない建物じゃあないかと思うアルねー。
いや、そんなに汚い? それほど汚くも無いんじゃあないかアル。そんなに埃も塵も見当たらないし、第一、静かだし、良い匂いがするし、そんなに警戒するほどの事アルか?
先刻からの埃っぽい空気は、澄み切ったそれに(おそらくこれはハンカチのおかげネー)。そればかりか、すごく元気が出てくる。頭がすっきりとして、気分もうきうきに。
暗かった周囲は、明るくなっていた。天井には照明が付き、まるで太陽の明るい陽射し、健康的な日差しがこの場に来ているかのよう。陰鬱さなど全くない。
例えるなら、南国のリゾート地。あたりに漂うのは、心地よい温度と湿度と澄み切った清らかな空気。
それは、「部屋」に近づくたびに、強まっている様子。
「………」
遠くから、何かが聞こえるアル。そう、きっとこれは天国に行けという誰かからの……。
「……しっかり! 大丈夫!?」
気が付くと、御門の言葉。そして。
「……あ、あれ? 何かあったネー?」
そこで初めて、キョン・シーは気付いた。自分もまた、「部屋」の魔力にあっさりと魅入られた事に。
「……どうやら、普通に口元を覆っただけじゃあ、だめなようだな」
向坂がつぶやく。
「廊下を進んで、部屋に近づくにつれ……何か、足元がおぼつかなくなるのが見えた。そのうち、何やらフラフラになってたもんだから、ロープを引っ張って助けたんだ」
「むー、口元覆っただけじゃだめネー?」
仕方なく、彼女もガスマスクを装着した。
「……うん?」
だが、その様子を見守っていた御門は、最初に感じたのとは別の「違和感」が。
それが何かは、わからない。きっと緊張しているせいだろう。そう思い……再び「部屋」に向かうために立ち上がった。
再び、「部屋」へと進む一行。
短い距離なのに、これだけ進むのに気を張り詰めるのは……正直、気疲れする。
そして、とうとう「部屋」の扉の前に来た。
伊藤は召喚獣……スレイプニルを召喚し、その口元を覆った。キョン・シーが扉のノブを握り……。
開いた。
「部屋」は、薄暗かった。内部は光源が無く、撃退士たちが入って来た扉から以外に光をもたらす者は無い。
御門は、そんな室内から「何か」の空気が出て、自分たちへとまとわりつくのを感じ取った。
それは、どこか濃密、しかし「爽やか」で……肌に絡みつき、染み込んでくるかのような感触がある。
御門はその「何か」を肌に感じても……別段、何も起こらなかった。だが……それと同時に、先刻の「違和感」が更に強まっていく。
「違和感」の正体は、すぐに判明した。御門以外の皆の動きが、鈍くなっているのだ。疲れている? いや、それもどこか違う。
「……まさか!」
キョン・シーの足が、再びおぼつかないそれに。彼女だけではない。向坂も、伊藤も、赤薔薇も、御門以外の全員が同じような状況に陥っていたのだ。
「ちょ……ちょっと! 皆さん、気をしっかり!」
だが、座り込んでしまった四人は、力が抜けてしまったのか。立ち上がる気配を見せない。
「そんな……これ、どういう事なんだよ!」
マスクをしているから、吸い込まないはずなのに!
「あ、ああ……大丈夫……」
伊藤だけが、ふらふらになりつつ立ち上がった。しかし……苦しそうではない。
むしろ、「楽しそう」。どこかの温泉宿で、温泉に入って汗を流し、その後でマッサージ椅子に座ってマッサージを受けて、心身ともにリラックスしたような、そんな印象を与える。
そう言えば、先刻からの、肌にまとわりつくような「何か」の感触。それが……消えていない。
まさか……「肌」からも?
色々と考えていくうち、御門の頭ははっきりとしてきた。
まちがいない。自分以外の四人は、無力化しつつある。
「なんだか、ちょっと……いい気分、だね」
伊藤の言葉には、苦しみが無い。向坂も同じく、力が抜けたようにへたり込んでいる。
そして、伊藤は召喚したスレイプニルとともに、再びその場に座り込んだ。
一体、この部屋には……。
やがて、徐々に目が慣れて、薄暗い「部屋」の内部が明らかになると……。
御門はそこに、おぞましい光景を見た。
証言にあったような、「居心地の良さ」は、そこには全く存在しなかった。
埃だらけ、ゴミだらけの室内は、ある意味「建物の他の場所」に似合いの汚さだった。
しかし……その汚さにさらに拍車をかけるかのような、おぞましい「それ」が、部屋中をおおっていた。
室内には、糸……蜘蛛や、虫の幼虫などが吐いた糸のようなものが、所狭しと張り巡らされていたのだ。その糸の色は、まるで腐肉から滴る腐汁のようだ……と、御門は連想した。
それらの糸は、あちこちにいくつもの大きな塊を作っていた。部屋の一番奥には、おぞましい糸の塊による、ソファまたはベッドのようなものが作られており……。
一人の女性が、そこに寄りかかっていた。間違いない、芹香だ。
しかし……彼女の頭には、何か別の糸が絡まっている。そして本人も、まるで眠っているかのように、開け放たれた扉にも、御門たちにも気付いていない様子。
まずい。何かがまずい。薄暗いこの中、この糸、何かが潜んでいるに違いないが……自分以外の仲間たちが、戦える状態にない。
口の中のミントキャンディの味が、徐々に薄れていく。それと共に……目前の光景に霞がかかり……。
居心地の良さそうな部屋の光景が、そこに現れつつある。
……早く、早くしなければ……!
「無音歩行」と「遁甲の術」で、御門は内部に入こんだ。そして……一目散に、芹香へと突き進む。
室内にいる「何か」には、気付かれていない様子。だが……こちらも、「何か」が何なのか、わからない状態のまま。
「!」
芹香の手首をひっつかむと、御門は……。
そのまま、踵を返して室外へと駆け出した。
芹香は抵抗しなかった。だが、御門に引かれると同時に、頭に絡みついている糸が切れ……。
その、糸の先にある、「何か」の姿が露わになった。御門は、一瞬だが……その「何か」の姿、この異様な空間を作り出した犯人に間違いない「何か」の姿を見た。
「……大丈夫?」
「はい、何とか……」
御門の問いに、伊藤が答える。
「くそっ……吸い込むだけじゃなく、『肌』からも吸収されるとは。計算外だったな」
向坂もまた、忌々しげにつぶやいていた。
御門は芹香を室外に引っ張り出した後、すぐに扉を閉めた。
そして、皆の頬を叩き、すぐに外へと脱出するように促したのだ。
芹香は、待機させていた救急隊員たちに引き渡し、すぐに病院へと向かわせた。ひどくやつれて、ぼうっとしていたが……外傷は見当たらなかった。おそらく、あの「心地よく思わせる何か」が、彼女をあのようにしたのだろう。
そしてそれは、撃退士たちも巻き込むほどの強力な物だったと。
「すみません……お役に、立てませんでした」
赤薔薇が、しょんぼりした様子で小さくなっている。
「しかたねえさ。時には、そんな事もある」後藤はそんな赤薔薇を慰めるように、彼女の肩を軽く叩く。
「だが……御門。本当に、『奴ら』を見たのか?」
「うん。まちがいなく……後藤さんが見たのと同じだと思う」
御門は請け合った。室内で見た『おぞましい何か』と同じものを、屋根の上で待機していた後藤も見たというのだ。
芹香を救い出した御門は、なんとか皆を立たせ、建物外に脱出。そこで後藤と合流した。
だが、後藤は皆が脱出する直前、屋根からそれを見たというのだ。
『……ああ、俺が屋根の上で待機していたら……ちょうど、建物の裏口だな。
そちらで、何かガラスが割れる音がした。で、行ってみたら……あのおぞましい奴らが、内側からガラスを割って、ぞろぞろと這い出てくるのが見えた。
そいつらは……一言で言えば、「芋虫」にそっくりな姿をしていた。大きさは1mくらいで、ちょっと見たところはカイコの幼虫に似ていなくもないが……あんなぶよぶよして気味の悪い奴は、見たことが無い。数は、十匹以上はいたと思う。
ともかく。連絡しようか、先手必勝で攻撃するか……と考えていたんだが、そのどちらもできなかった。
そいつらは、いきなり背中から翼を生やしたんだ。そしてその翼を羽ばたかせて宙に浮くと……超スピードで飛んで行っちまった。
その直後、お前さんたちが建物から出て来たのを知って、降りて合流した……というわけだ』
後藤から話を聞き終わり……皆は確信した。その「芋虫」が今回の犯人だと。そして、そいつは幻覚を見せる「何か」を放つ能力を持っている、と。
その、放つ「何か」。当初はガスか何かと思っていたが、それは吸引するだけでなく、「肌」からも吸収され、影響を与える事が可能。おそらくは……体液か分泌液、もしくはフェロモンを、霧状にして放っているのか。
だが、はっきりしているのは。放たれるその何かは、かなり強力だという事。
「……でも、どうして御門さんは大丈夫だったんでしょう?」と、赤薔薇が疑問を口にする。
「……御門さん。さっき口に入れたのは、何と何でしたっけ?」その疑問を解き明かさんと、伊藤が御門に問いかけた。
「ええっと……このコーヒーガムと、ミントキャンディだけど」
「……やはり、そうか」自身が持参した飴と、御門の用意したそれとを比べ、伊藤はうなずいた。
「やはりって、何がだ?」向坂が問いかける。
「今回俺たちは、飴や菓子を口にしてこの建物に入りました。でも、御門さんだけが口にして、俺を含めた他の皆が口にしていないものが、一つだけあったんですよ」
そう言って、伊藤は一つの飴を取り上げた。
「……ミントキャンディか!」
後藤の言葉に、伊藤はうなずく。
「はい。今回のこの件で、はっきりしました。その犯人の『芋虫』は……強力な幻覚を放つ能力を持っているが、ミントキャンディでそれを無効化できる、とね」
「じゃ、次にそのクソ虫が出て来たとしたら、皆でミントキャンディを口にすりゃ良いって事か。へっ、勝ちが見えて来たな!」
「でも、まだわからないヨー?」
向坂の言葉に、キョン・シーが横槍を入れた。
「わからない?」
「その虫は、何でこんな事してるネー? こんな事をする理由は、まだわからないヨー?」
確かに、まだわからない。でも……。
「でも、『芋虫』は、きっとまた誰かを襲う。その時に……」
その時に、必ず倒してみせる。赤薔薇の言葉が、皆の誓いになって胸の中に刻まれた。