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その香りは、とてもとても甘かった。
ねっとりと絡みつくような甘さ。
その甘さに囚われたのは、六人の撃退士達である。
思考に霧が掛り、虚ろな瞳をした撃退士達。
ゆらりとそんな彼らに触手が伸ばされた……。
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橋場 アイリス(
ja1078)は、その時自分が一人で居ることを認識した。
何か紫陽花を見ながら思っていたような気がしたが、それを思い出すことが出来ず、ゆるりと辺りを見渡す。
「こんな廃寺に……家に帰らないと……」
家に帰ろうと踵を返そうとした所、はた、と気がつく。
一体、一人で何をやっていたというか。
「一人」
(……一人……?)
背中に手を伸ばし、大剣をするりと引き抜きつつ周りを警戒する。
それは、思考するよりも体が覚えているようで。
甘い香りが一段と濃くなったような気がしたが、それでも思う。
(剣。一人)
思考が、巡る。
甘い香りを振り払うように思考が巡り続ける。
(殺さなければ……)
一体、何を殺せばいいというのか。
(敵……)
その答えは、自分の心の奥底にあった。
浮かんでくるその言葉。
そう、敵だ、自分には、倒すべき敵がいる。
剣を握りしめた指先に力が籠る。
自問自答を繰り返した先に、答えが見えそうで。
(敵を殺さないと……)
それは、なぜか。
「……失わないために」
自分の声が甘い香りをかきわけるように響く。
何よりも、大切なこと。
それは。
「助けられるものを助けるために」
そのために、剣を手に取るのだから。
だから、自分は。
瞳が焦点を結んだ時、見えたのは赤い触手だった。
「……忘れるわけにはいかないんですよ」
その視線に、自分の術が敗れたのを理解したのだろう、素早く触手を戻したのを確認し、仲間達にと視線をやるのだった。
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同時刻。
甘い香りに囚われ、何かが抜け落ちた感覚を大河内 康希(
jc1245)は味わう。
とてつもない消失感。
康希は呆然としながら掌を見つめる。
一体何が、自分の中から抜け落ちて行ってしまったのだろうか。
だがそんな中、ふつふつと湧き起こる思いがあった。
「何か……絶対に忘れちゃいけないことがあったはずだ……!」
甘い香りが包み込み、思考がどんどん霞かかっていく。
思い出せない「何か」。
イライラと思考を巡らせても、甘い香りが邪魔をする。
「何か……なんだ……」
思い出せないのに鬱憤が溜まって行くのが分かった。
何度頭を振って思いだそうにも、何も思い出せない。
気がつけば、拳をきつくきつく握りしめていて。
ドカッ!
そんな音と共に、ぎしぎしと廃寺の壁が軋んだ。
「……っ!」
ぱっと広がる赤い赤い血。
声が出たのは痛みにではなく、脳裏に浮かぶ映像にだった。
殴りつけた顔面、掌についた赤い血。
消えない傷、それでも、大丈夫だと笑った……。
ぎしぎしと、心が軋む音がした気がした。その心の痛みは、忘れてはいけないモノ。
「そうだ、忘れちゃいけないんだ!」
かつての友人の笑顔が目の前に広がる。
それと同時に、甘い香りが晴れた気がした。
それに伴いぱっと晴れた視界の先に、赤い触手がびくりと驚いたように動きを止めたのが目に入った。
元凶はこいつだ、と理解する。
「大丈夫……俺は思い出したから」
構えた布槍が、そんな触手にと突き刺さる……。
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マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)は、その時、何度目かの脱出を試みた所だった。
まるで、迷路のよう。
同じような紫陽花の所為で、道に迷うというのか。
「……また」
ここか、と小さく呟き息を吐く。
否、それ以前に、と改めて思う。
霞かがったこの意識が、何かを忘れさせているとマキナは理解していた。
先程まで誰かと居た気がするし、それに一体ここに至るまで何をしていたというのだろう。
(思い出せ、何か些細な事でも良い)
目を閉じれば、胸に灯る漠然とした……然し確かに宿した「想い」があった。
(そう、これは……一番大切な物だ)
それは、揺るがぬ信念。
(……そう、信念だ)
はっと何かが繋がった気がした。
自分は一体何を決めた? 何を成すと。
不意に向いた視線は、自分の右腕を捉えた。
(何故、今まで目を逸らしていたのだろう)
襤褸の包帯に封じたこの偽腕。
この腕は何しか掴めないと定めたのだったか。
そのために、成すまでは名乗らぬと、その名を負ったというのか。
「『終焉を齎す偽り神』、その果てに『災禍を引き起こす者』」
そう言って、師に皮肉られた事を、忘れてなどいないはずだ。
「そう、私が希うのは『終焉』だ」
甘い香りが一気に晴れれば、そこにはもう自分を惑わすものは何一つない。
晴れた視界の先に居たのは、赤き触手だった。
既に足に巻き付いていたそれを睨み付ける。
ここで停まっていい筈がないのだから、だからこそ、今。
「醜悪ですね」
切り付け、落とした触手の声にならない悲鳴を聞いた気がした。
信念という揺るぎないものがある限り、一歩、また、前へと進んで行ける。
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ユリア・スズノミヤ(
ja9826)は、道に迷ってしまったことを悟った。
何度、紫陽花の迷路を潜り抜けても廃寺へとたどり着いてしまう。
足も疲れたし、とユリアは「誰」かに声を掛けた。
「ね、おんぶしてー? ぇーと……」
辺りを見渡してみるけれど、居るのは自分だけだ。
それなのに、なぜ?
「……あれ ? えと……誰、だっけ? や、だ……何で、思い出せないんですけどー!」
ガッテム! そんなことを小さく呟きつつ頭を抱えてしゃがみ込む。
ぱさりと音を立てて百合の花が転がっていくのも気づかず、状況を確認する。
大切な人、大切な事、大切な言葉。
その「大切」が自分から毀れて落ちていく喪失感。
怖くないと言ったら嘘になるし、不安だって勿論ある。
それでも泣いたり叫んだりしないのは、真がしっかりしているからか。
時々、ところてん方式に物事を忘れてしまう自分だけれど、流石にコレは可笑しいと伝えてくる。
「うみゅ、絶対に可笑しい!」
こういう時は、と一旦息を吸い込み、ぱっと出てきた言葉を呟く。
「ぇーと、先ずは……一+一は二。んと、赤巻き紙青巻き紙きゅまきがみっ!」
ちょっと噛んでしまったけれど、お蔭で落ち着いたような気がする。
ぱたぱたと全身を探ってる中で、ポケットにあるものを見つけた。
それは、カードだ。
「タロット……カード…」
じーっと見詰めれば、みゅ。みゅみゅみゅみゅっ!? となんだかだんだん思いだせそう。
甘い香りを掻い潜り、なんだか思考がはっきりしてきたような。
ぱらぱらと絵柄を見ていき、空へばらりとほおり投げる。
自然に動く体は、どこまでも軽やかだ。
ひらりひらりと舞う中を、優雅に一回転。
無意識にとった一枚。
「……みゅう。楽しい事、好きな事、頭が忘れても身体と心は忘れないよん」
そのカードを確認すれば、小さく笑みが浮かぶ。
「よっしゃ、お待ちなすってなさーい、蓮ー!」
取り出した携帯が、大切な恋人の元へと自分を導いてくれる。
ぱっと晴れた意識の向こう。
紫陽花の間に、大切な恋人が此方を見ていた。
視線が合えば、自然と毀れ落ちる笑顔。
無意識に手に取った恋人たちのカード。
握りしめたそのカードが、どこかほんのりと暖かく感じて。
それはどんなことがあっても消えない、確かな絆だった。
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飛鷹 蓮(
jb3429)は眉間を指で押さえ、目を瞑っていた。
「……酷く、不愉快な甘い匂いだな。効果は……腹正しいくらいに効いているようだが……」
冷静に、と小さく息を吸い、吐いてを繰り返す。
(落ちつけ……これしきの事で忘れてしまう俺であれば、それまでの男だったという事)
人の記憶の渦の深さを思い知らせてやる、と小さく独りごちる。
掌をじっとみつめ、ゆっくりと開閉しながら意識を集中するのを試みた。
甘い甘い香りが、邪魔をしようとするが、そこから見えてくるものがある。
この掌で何を得てきたのか。また、失ってきたのか。
それらが、思考を掠めて行く。
(何を好み、何を嫌い、何に触れ、誰に触れ、誰を愛してきたか)
ゆるりと移動していた足元に、ふと、一輪の百合の花が落ちているのに気がついた。
先程までなかったというのに、一体、と見詰めれば。
「……真白の百合、か」
良い香りだ、とその花を一輪手に取る。
(清く、反面には艶やかで……『彼女』のように優美に彩る……)
ふっと、その言葉に思考が止まった。
「……『彼女』? ……。俺は、誰に触れ、誰を愛していたんだ……?」
思いだそうと思考を巡らせていく。
その時、スマホの着メロが鳴った。
クラシックのモルダウが甘香りをかきわけるようにその場を満たした。
自然と鼻歌を口ずさみ、音符と百合の香りが記憶の中の楽譜を奏でていく。
「……そうだ。俺は音楽に触れ、ヴァイオリンと歌を愛し、百合の花に触れ、彼女を愛することを誓ったんだ」
頭の中の霧が晴れて行く。
焦点を結び始める瞳。
「……俺の最も大切な事、人――」
その視線の先に、誰かが居るような気がして。
「ユリア、記憶からもこの掌からも、もう二度と離さないぞ」
しっかりと見据えた先に、自分よりも先に目を覚ましていた愛おしい姿。
彼女だけは、失いたくない。
「……ユリア、ただいま。と、……おかえり。君が愛しい、何よりも 」
髪に挿した百合の花。
それ以上に美しい微笑みが、蓮を迎えてくれたのだった。
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(ここはどこだ? 俺は何をしていたんだ?)
ミハイル・エッカート(
jb0544) は少々混乱したまま、辺りを見渡す。
「戻らなくては……」
それは、一体どこへだというのか。
ミハイルはだがしかし、すぐに思い出した、そうだ会社にだと。
されど、目の前に見えた赤い紫陽花に足を止める。
「何だ、この紫陽花は」
見渡せば、辺り一面紫陽花ばかりだ。
なぜ自分がここに居るのかは分からないが、それよりも明日のことだ。
何事もなければ楽な仕事だけれど、覚醒者だからといって、銃で撃たれて痛くない訳じゃない。
(重役だけじゃなくて護衛達まで俺を盾代わりにしやがって)
「死にづらいだけで痛いものは痛いんだぜ」
足を進め、会社へ向かおうと歩いているが、先程から景色が変わる兆しはまったくなかった。
されど、ミハイルはそこまで思考が至らない。
「そうだ、覚醒者……俺を半殺しにしたアイツ……いつか殺して……」
自分の覚醒したきっかけを作った男を思い出し、毒づく。
激しい苦痛に、怒り、屈辱……それらが波のように何度も何度も押し寄せる。
それとは違い、よどみなく進む足。
けれど何度も何度も同じ場所へと行きつく。
「学園へ行けだと? 俺は復讐を……ん? 学園って何だ??」
その時になって、初めて足を止めた。
何かが可笑しい。
されど、どこまでも思考は甘い香りに溶けて行き、過去へと行きついてしまう。
会社の命令で無理やり学園へ放り込まれたこと。
やさぐれていた時に出会った少女。
親子程の年の差。
そして、裏の世界に生きてきた自分に光を与えてくれた屈託の無い笑顔。
怖がらずになぜか懐いてきた少女の与えてくれたものは大きかった、はず……なのに。
「名前は……顔は……?」
掴めない光を掴もうとしているような感覚。
そして、甘い香りが濃くなった気がした。
「……」
ふらりと、体が倒れ込む。
あぁ、もう、これ以上何も考えられなく……。
「起きなさい」
アイリスの手刀の衝撃に、はっと意識がクリアになる。
「……!!」
足に巻きついた触手が、ずりずりと体を引きずっていたようで。
アイリスの大剣がそんな触手を斬り落とした後、触手の攻撃を避けて本体へと向かって行く。
「ありがとうな」
ミハイルも立ち上がり、銃にと手を伸ばすのだった。
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六人は、改めてその姿を視界に収める。
紫陽花に擬態したそのディアボロは、触手を何本も伸ばし絡め取ろうと蠢いた。
すでに屠られた触手の一部をも取り上げ、自らの口にほおりこむ。
「醜悪だな」
布槍を再度伸ばされた触手に突きつけ、康希が瞳を細める。
その姿は、醜悪だった。
絆を奪い去ろうとするその性質に似合った、姿なのかもしれない。
触手を切り捨て、近づいた康希の回し蹴りが炸裂すれば、その身を震わせるディアボロ。
それを逃さず、蓮の銃撃が被弾する。
「卑怯な真似をしてくれたな。報いを受けるがいい」
「いらんことを思い出させやがって!」
ミハイルの破魔の射手がディアボロに突き刺さされば、苦しげに触手が右へ左へと彷徨う。
それを舞い踊るように鉄扇で切り捨てて行くユリア。
きらきらと輝く氷の錐。
思い出した踊りは、二度と奪われはしない。
ディアボロの攻撃を全て無視し、その身を傷つけながらアイリスが振りあげた深紅のアウルを纏わせた剣がディアボロに向けられる。
「……消えろ」
上段から振り下ろされたそれが、その身を二つに分け、地面にと転がった。
「……」
足で踏みつぶしたその肉片が、べちゃりと音を立てる。
ふらり、ふらりとそのまま飛翔し帰還するアイリスを見送り、ミハイルが皆を見た。
「大丈夫……みたいだな?」
「あぁ、大丈夫だ」
蓮が頷き、隣に立つユリアを見つめる。
視線があったユリアが微笑んだ。
再確認できた大切なもの、それがこうやって隣に居てくれる。
「大丈夫だよ」
そんな皆を見て、康希がほっと息を吐いた。
(今はまだ……お前を傷付けた拳で誰かを守る気にはなれないけど……いつかきっと、この拳で誰かを守ってみせる)
「……それまでは蹴りと槍で頑張るさ」
康希の呟きに、ミハイルが視線を空へとやる。
(人助けなんて俺の柄じゃないが、少女や友人達が生きるこの世界を守るのも悪くないな)
「……帰ろう」
見つけた信念を、今一度、確認しおえたマキナ。
嫌と言うほどみた紫陽花に背を向け、マキナが帰りを促した。
紫陽花は咲き誇る。
赤、青、紫、ピンク……そんな紫陽花たちが、去って行く六人を見送るのだった。