●寒風の中で
海から吹きつける突風が、倉庫のシャッターを激しく揺さぶる。
舞鶴国際埠頭へ続く唯一の取付道路を抜けると、右手は珊瑚樹の群れ。あの中にも多くの人が囚われているはずだが、今はまだ救出の手は届かない。
正面から左手には、幾つかの倉庫や事務所の低い建物が道路沿いに点在していた。
建物の陰に居てもなお身に沁みる寒風に、森田良助(
ja9460)は傷ついた身体を震わせる。
「ううっ体が痛い……でも泣き言を言ってる場合じゃないか」
自分を叱咤するように声を上げ、テレスコープアイで視界に入る海面を舐めるように見渡す。
すでに数隻の黒塗りの船舶が埠頭に接近しているはずだ。
ポラリス(
ja8467)が中山律紀(jz0021)の前でぐぐっと両手を握り締める。
「今回も頼りにしてるわね。前に私たちを殺さなかったこと後悔させてやりましょ!」
本気の程が伝わる、真剣な表情。それは前回の救出作戦が上手く行かなかったことに対する負い目もあるのだろう。
だが後悔して立ち止まるのはポラリスの性に合わない。強気で前に進むのが流儀だ。
「うん、今度は成功させようね。俺も頑張るよ」
ポラリスがそうこなくちゃ! という様に片目をつぶると、その明るさに緊張がほぐれる。
東の方角を睨みながら、雀原 麦子(
ja1553)が軽く律紀の肩に肘をかけた。
「りっちゃん、味方の女の子と仲良くするのは構わないけど。敵のナイスバディには魅了されちゃだめよ〜?」
「えーと……善処します」
正直なところ、サキュバスを前にしてその肢体の美しさを堪能する暇はない。
本人の好みとは無関係に操られるのが、サキュバスと呼ばれるヴァニタスの恐ろしい能力なのだ。
桜井・L・瑞穂(
ja0027)はその力をよく見知っていた。
今暫し目を伏せ、かつて対峙したサキュバスを思い返す。
「わたくしは逢わなくてはなりませんわね」
東北での作戦で倒れたサキュバス、イリーナ。撃退士を彼女の仇と呼ぶヴァニタスの存在に、瑞穂は一つの決意を胸にこの地へ赴いた。
「ラリサ。貴女はわたくしと踊って下さいますかしら」
まずはその存在を確かめたい。蛇腹剣を握る手に力が籠る。
光信機に連絡が入る。公務員撃退士のチームが、行動を開始したのだ。
「例え一秒でも長く、救助の時間を確保したいですね」
考え込むようにリディア・バックフィード(
jb7300)が呟く。
撃退士にとっては長い時間を必要とする作戦だが、救助の為に命を賭ける覚悟である。
だが、これまでの人間の行動で、救出を目的として作戦を売って来ることは相手にも判っているはずだ。
ここまで近づいたのに、未だサキュバスはおろか、ディアボロ一匹でてこない。
(……警戒は必要ですわね)
リディアは唇を噛み締め、前を睨む。
突然、小さな銃声。一斉に視線が集まる先は、良助が潜む建物だ。
『今何か変な鳥みたいなのが飛んだんだ。あれが斥候だったんだと思う!』
光信機を通じて報告し、良助は胸をなでおろす。
天魔とて、テレパシーが使える訳ではない。異変を感知するにはそれなりの手段が必要だ。そこで海側からは見えない位置に、小さな斥候ディアボロを置いていたのだ。
これまでの救出作戦では珊瑚樹を傷つけた段階で、この斥候が異変を知らせてきた。
今回は陸側からの監視で貴重な数分を稼ぎ出せたという訳だ。
動けなくても、やれることはある。良助は阻霊符を発動し、更に警戒を強める。
●珊瑚樹の番人
風に紛れて、異様な物音が届く。サキュバス・ラリサ(jz0240)は眉を顰め、手近の珊瑚樹に優美な白い手をかざした。手は珊瑚樹をすり抜けず、表面にひたりと添う。
「……やられたかしら。いつもの連中と違うようね」
ラリサは直ぐにディアボロ達を呼び集める。だが、密集した珊瑚樹の間を小回りの効かないサントールが駆けるのは時間がかかる。人を寄せつけない為の作りなのだから仕方がないが。
「なるべく急ぎなさい!」
斥候を潰したことで稼いだ時間。そして阻霊符により東に密集する珊瑚樹を、ディアボロ達がすり抜けられず、避ける為の余計な時間。
結果としてこの時間稼ぎが、ラリサを単身呼び寄せることにも貢献した。
薄紅色の不気味な林の上を飛ぶヴァニタスに、巌瀬 紘司(
ja0207)が鋭い目を向けた。
「来たか、ラリサ……今度は前のようにはいかんぞ」
我を忘れるほどの業火ではない、静かな熱が湧き上がる。
雪辱に燃えるのは神谷春樹(
jb7335)も同様だ。
「これでも負けたまま引っ込むほど大人しい性格じゃないんだよ!」
前回尤も接近し、そして最も痛手を受けた春樹だ。激情を抑え込み、ラリサを待ち受ける。
ロキ(
jb7437)も頷いた。
「負けっぱなしは嫌。やられた分、返させて貰うよ」
絶対守り抜くと誓った春樹に、みすみす酷い怪我をさせてしまった。今度は絶対に、失敗はしない。
接近してきたラリサが突然中空で止まると、ふわりと地上に爪先を下ろす。
「あら、貴方達だったのね。また来たの?」
挑発する様な口調。
瑞穂はその姿に、驚きと共に不快感を覚えた。
(あれがラリサ……本当にそっくりだけど、イリーナとはどこか違いますわね)
建物の陰から出ると、堂々と身を晒す。
「貴女がラリサですのね。私は桜井・L・瑞穂。イリーナの姉を自称するなら、貴女にはわたくしの話を聞く義務がありますわ」
ラリサはそれには答えず、値踏みするような視線で瑞穂を眺める。
「なぜならイリーナに最後に対峙し、攻撃を放ったのがわたくしだからです」
瑞穂の凛とした声が、海風を切るように響く。だがラリサは動かない。
それはこちらにとって好都合だ。だが露骨に引き延ばせばいずれ目論見は伝わるだろう。
何より瑞穂はラリサにイリーナの最期を伝えに来たのだ。淡々と、事実のみを告げる。それでも彼女が誇り高い自決を選んだことを語るには、感情の揺らぎは抑えようもなかった。
「たしかにわたくし、いえわたくしたちは『仇』なのでしょう。恨むなとは申しませんわ。けれど」
鋭い視線がラリサに真っ直ぐ注がれる。
「仇を敢えて苦しめる貴女のやり方は、イリーナへの侮辱ですわ! 貴女、本当に彼女の為に動いてますの?」
そこまで一度も言葉を発しなかったラリサが、不意に声を発した。それは笑い声だった。
「くっ……くく……やっと判ったわ」
ラリサが豊かな髪をかきあげ、冷笑を向ける。
「どうしてこんなに腹立たしいのかがね。私は生きることをあっさり諦めた、不甲斐ないあの娘にも怒っているのよ!」
会話によって得られた時間は、撃退士だけの為ではなかった。
ここでようやく追いついたサントールが、ラリサの背後に現れる。
「……話は終わったってことかしらね? えと、あなたは私達の敵ってことでOK?」
サントールの接近に備え、闘気解放で力を溜めていた麦子。
お前など恐るるに足らぬと言わんばかりに、不敵な笑みを浮かべる。
「それじゃ、私と戦り合いましょうか。勝ったらこの埠頭ごと貰い受けるわよ♪」
それが宣戦布告となった。
●意地と意地
麦子の突進に、ラリサは翼を広げふわりと舞いあがった。
ヴァニタスにも色々なものがいるが、彼女は悪魔並みに飛ぶ能力があるらしい。
「しょうがないわね。まあいいわ、せめてこっちを!」
接近して来る槍を構えたサントールが、奪刻によって意識を刈り取られ、その場で動かなくなる。
さすがに空のヴァニタスと陸のディアボロを同時に相手するのは避けたい。
麦子に寄って足止めされた敵に向けて、紘司がコメットを撃ち込んだ。
「ラリサ、お前からの挑戦状、確かに受け取った。これが俺達の返答だ」
アウルの奔流にサントールが二体巻き込まれ、苦悶の呻きを上げる。すぐさまカバーするように、別の一団が紘司に向かって来た。
「あーなんかもう、いちいち腹立つわねっ! 早い話が八つ当たりじゃないっ」
ポラリスはそう言いながらも、紘司の援護に回る。小さな火花を散らして飛ぶ銃弾が、弓を引き絞るサントールのわき腹を抉った。
リディアが構える黒い銃身のラストラスから雷光の如くアウルが迸り、ポラリスによって傷ついたサントールの足を薙ぐ。
「サキュバスの名に期待したのですけど……案外普通の容姿でしたわ」
ラリサを評するリディアに、ポラリスが鼻を鳴らして賛同する。
「そうでしょっ! たまにはスキルに頼らないで戦ってみたらいいのよ。私みたいねっ! ねっ、中山君!」
「えっ、あ、はい」
律紀は背後から同意を求められ、思わず頷く。
(こんなときでもそういうことで天魔と真面目に張り合うのか……女の子ってすごいな)
何だかわからないけど感心しつつ、律紀はラリサの動きに警戒する。
もしもこちらに来るようなら、二人の楯とならねばならない。
一方でコメットを討ち尽くした紘司。守りは固いが、次の手が打てないままにサントールの矢が狙う。
「だいじょぶ、私がフォローしてあげる!」
「すまない、助かる」
ポラリスの回避射撃が矢を逸らす隙に、紘司は審判の鎖を用意する。
「動きを止めれば狙いやすいだろう」
既に三体のサントールが倒れた。こちらを脅威と認識すれば、サキュバスはサントールをもっとこちらへ差し向けるはずだ。
「話は終わったね。前回のやられた分、きっちり返させて貰うよ」
中空に浮いたラリサに向かって、ロキはプルガシオンを開く。
つい先日、冷たいコンクリートにぐったりと倒れていた春樹の姿。思い出すだけでもぞっとする。
(今回は春樹には指一本触れさせないよ……)
例え自分の身が危うくなったとしても。
春樹自身、煮え湯を飲まされた相手を前に、必死で内心の怒りを抑え込んでいた。
「ラリサ、僕の事を覚えているか?」
「あら坊や、今日はお得意のワイヤーはどうしたの?」
薄い笑みを浮かべるラリサ。
「こ、今度こそは負けないって決めたんだよ!」
わざと震え声をあげ、相手の意識が自分を向くように。ラリサの攻撃が自分に向くように。
そして春樹は、西の救出班から遠く、南へ向かって少しずつ下がり始める。
だがラリサはようやく気付いた。
南へと移動する撃退士達の位置取り。彼らのこれまでの行動。そこから導き出される目的は……。
「また連中ね!」
ラリサの表情から微笑が消えた。そして再び高度を上げようとする。
「……やられた分は返すって言ったでしょ。返すまでどこにも行かせないよ」
ロキが飛び出し、異界の呼び手でラリサを束縛しようと試みる。だが距離を詰める間に、ラリサは高く舞い上がっていた。
瑞穂はその姿を睨みつけた。
「潔く死んだイリーナの為、わたくしは貴女の自己満足は認めなくてよ」
瑞穂の足元にアウルの光の花が咲き乱れた。
「戦華神槍……彼女に最後に使った技ですわ」
光り輝く槍がラリサ目がけて空を駆ける。だが、その光軌はラリサの髪を僅かに揺らすだけだった。
「足掻いてこその生よ。潔い死なんて欺瞞だわ」
吐き捨てるように言うと、ラリサは身を翻した。
「妹の仇を無視するなんて結局のところ薄情なんだな!」
春樹は隼の名を持つ弓を具現化し、強い矢を射た。だがその矢はラリサのいた中空をむなしく抜けて行く。
続いて指揮官に代わり相手するかのように、槍兵達が春樹を狙って進み出た。
「お前達の相手をしている暇はないんだ!」
春樹は木遁・宿木の術でサントールの動きを止めた。
「……動かない敵ならはずさないよ」
ロキの魔法書から生じたアウルの光に、サントールがあえなく膝を折った。
●真の敵
宙を舞う女の姿。それが近付くのを、良助は息を殺して待っていた。
「今だ……当たれっ!」
渾身のイカロスバレットがサキュバスの白い腿を掠め、赤い飛沫が舞う。
「な……っ!?」
先を急ぐあまり無警戒だった。強力な一撃に、ラリサが良助を睨みつける。
が、囁く声は飽くまでも優しく、甘く。
「貴方の敵は……誰かしら?」
「え……?」
良助の腕がだらりと下がった。
「はーい、いたいけな青少年をたぶらかすのはそこまでよ!」
猛然と突っ込んできた麦子が、ラリサにむけて薙ぎ払いをかける。
「しま……ッ!!」
ラリサの身体ががくりと傾くと、地面に崩れ落ちた。
「貰ったわ!」
次撃をと狙う麦子。ラリサは良助に命令する。
「私の敵を討ちなさい!!」
ポラリスが慌てて律紀の襟を掴む。
「ちょっと中山君! あっち!」
「え? わーっ待って待って!!」
ポラリスの指さす方へ律紀が慌てて駆け出した。
麦子は上手くかわすだろうが、早く良助を正気に戻さねばならない。
一方でラリサは術をかけることに長けている。つまり、術からの回復も早いのだ。このままでは麦子も危ない。
撃退士達は混乱に陥っていた。
だが一方で、ラリサは撃退士達に構いすぎていたのだ。
ここでついに公務員撃退士達からの朗報が届く。
『救出完了、今から離脱します!』
しかしリディアはその瞬間が最も危険だと思っていた。
「今はもう少し、完全に撤退するまでの時間を稼ぎましょう」
船が見渡せる位置まで移動すると、海面を睨む。
何故今まで敵はこの船を狙わなかったのか。
人はエネルギー源であるという。僅かずつでも見逃すのは得策ではないだろう。
「まさか……敵の狙いは……」
大規模な救出作戦を待って、そこで大きなダメージを与え、こちらの戦意を挫くつもりではないか。
「ここは僕の仕事ですね」
回復した良助も、海面に目を凝らす。
効果のないクリアランス(物理)で余計にダメージを負っているが、テレスコープアイは健在だ。
少しずつ岸壁を離れゆく船の一団。
後に続く白い泡の下に、影が揺らぐ。
「海に何かいます! 気をつけてください!」
良助が光信機に叫ぶのとほぼ同時に、海面が大きく盛り上がる。
現れたのは、巨大な蛟。その頭の部分には人間の上半身に鰭のような大きな翼。
『うわあッ! なんだッまだこんなのがいたのか!?』
光信機を通じた叫び声が耳を打つ。
だが知らせが早かった分だけ、対処もどうにか間に合ったようだ。
直ぐに幾筋ものアウルの光が蛟に向かって放たれる。
魔物は幾度か水を跳ね上げ、あるいは海に潜り、あるいは顔を出ししていたが、やがて本来の速度まで加速した船に追いつくことはできず、気がつけばその姿は海中に消えていた。
いつの間にかラリサの姿も、討ち漏らしたサントールの姿も消えていた。
「人間は極力殺さないつもりって? ふん、ありがたい話よね。バカにしてるのかしら」
ごっそりと海面に向かって崩れ落ちた西側の珊瑚樹と東側を見比べ、ポラリスが呟いた。
恐らくはあれがゲートの主。あの蛇の化け物の餌になるために、人々は囚われているのだ。
「ま、長居しても得る者も無し、あれが戻って来ないうちに今日は帰りましょ」
麦子が促す。
いずれラリサとも、あの蛟とも決着をつける日が来るだろう。
今日の所は、ひとときの休息を……。
<了>