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マスター:樹 シロカ
シナリオ形態:ショート
難易度:非常に難しい
参加人数:6人
サポート:1人
リプレイ完成日時:2012/03/01


みんなの思い出



オープニング

●雪山の記憶
 何故こんなところにいるのだったか。
 ときどき、そんなあり得ない疑問が湧いてくる。

 岩陰に雪洞を堀ってビバーク(※一時避難の為の簡易野営)したものの、じっとしていると却って身体が冷えてくる。だがすぐ前を歩く同僚の背中も見失いそうな程の吹雪では、どうしようもない。
 県警選りすぐりのレンジャー隊員による遭難者救助を想定した訓練。それがこのような事態になるとは、指導教官ですら想像していなかったに違いない。

 あまりの寒さに、感覚も記憶も混濁してくる。
 指先は、冷感より痛覚が勝っている。凍傷になっているのかもしれない。
 常にお互いに声を掛け合っていないと、眠ってしまいそうになる。

 いや、確かに眠ってしまっていたのだ。それが数秒か数分かはわからないが。
 まずい、と思い、隣にいるはずの同僚の名を呼ぶ。返事がない。
 背筋に冷たいものが走る。
 仲間の名前を叫びながら、懐中電灯を雪洞の中で振り回す。
 その頼りない灯りに反応する者は、誰もいなかった。
 ただ一人、雪洞の入り口のほっそりとした人影を除いて…。

●喫茶ウエダ
 久遠ヶ原の学生や教職員がよく立ち寄る喫茶店のひとつ、喫茶ウエダ。
 手軽なランチセットや結構おいしいと評判のコーヒーもさることながら、近畿地方出身のマスターこだわりの「ミックスジュース」目当てに熱心に通う者もいるとかいないとか。

『都合により暫く休業いたします 店主』

 珍しく膝の深さほど雪が積もった日の朝、店に立ち寄った者は、その貼り紙に店内を見透かす。
 美人と評判の上田夫人が、ぐったりと客席に座りこんでいる。そっと扉を押すと、はっと顔をあげ、弱々しく微笑みながら次第を説明した。

 その日マスターは、店の前の雪かきをすると言って朝早く起き出したそうだ。なかなか戻って来ないので外を見ると、雪の中で倒れていたのだ。
 数年前まで上田氏は撃退士であった。現役を退いたとはいえ、一般人よりははるかに頑健であるにもかかわらず、低体温症で危うく命を落とすところだった。
 上田氏はしばらくの入院が必要になり、当面店を閉めるのだという。
 
「それで、あの、お客さまにこんなことをお願いして申し訳ないのですが…」
 夫人が、ためらいがちに切り出す。
 今日は夫人の弟が、久遠ヶ原の温泉旅館に来ている。
 自分には何も言わなかったが、弟は「元・撃退士」である夫に折り入って聞いて欲しい話があるらしかった。
 もし良ければ夫の代わりに話を聞いてやってくれないか。
 夫人はそう頼んで病院へと向かった。

●それは狂気か
 喫茶ウエダにやってきたのは、上田夫人に面差しの似た美男子だった。撃退士の眼から見ても切れのある身のこなしに似合わず、目が落ちくぼんで疲れた表情だ。
 途中で姉から連絡があったのだろう、店内の初対面の人物に、身を屈めて丁寧に挨拶した。

 青年は江藤と名乗った。滋賀県警に勤務する事務系の職員だそうだ。
 夫人も動転していたのだろう、上田氏の話を詳しく聞いていなかったらしい。
 経緯を説明すると、江藤氏はみるみる青ざめた。手袋を嵌めたままの両手で顔を覆い、絞り出すような声で呻く。
「どうしよう…俺のせいだ…」

 どうしたのかと聞いても、首を振るばかりで答えようとしない。暖かいはずの店内で、がっしりした身体がずっと小刻みに震えている。落ちつかせるために水を飲ませ、夫人から依頼された撃退士だと説明する。
 青年は一瞬すがるような目を向け、手元のコップに視線を落とす。

「雪女、という怪談をご存知ですか?」
 こぼれ出たのは、拍子抜けするような言葉。
 こちらの表情を見てとったのだろう、苦笑いを浮かべ江藤氏は続けた。
「小泉八雲の物が有名ですよね」

 よく知られた怪談だ。
 雪山で数人の男が遭難し、雪女に生気を吸い取られて凍え死ぬ。ただ一人の青年が若く美しいからかわいそうだと見逃されるが、その日見たことは決して誰にも話してはいけない、話したらお前の命を貰う、と約束させられる。
 青年は後に美しい妻を得て子供にも恵まれるが、ある雪の夜、妻を相手にかつて会った雪女の話をする。すると妻が雪女の正体を現す。が、子供までできた以上、殺すには忍びないと去っていく…。

「自分は雪女に会ったんです」
 さぞ妙な表情をしてしまったのだろう。江藤氏の口から乾いた笑いが漏れた。
「と言っても、今までは半信半疑でしたけどね」
 真顔になり言葉を続ける。
「自分は昔、県警のレンジャー部隊に所属していて、冬山で訓練の最中に遭難しましてね。隊で唯一の生存者だったのですが、前後の記憶を一切失ってたんです。そのときの凍傷で拳銃も握れなくなったので、事務方に移りました。それでも結婚して、子供にも恵まれ、まずまず幸せな生活を送っていたのですが」

 江藤氏は、コップに残っていた水を、一気に飲み干す。
「先日酷く雪の積もった日、所轄内で、家の中で一家全員が凍死したという事件がありまして。それを聞いて突然記憶が戻ったんです。あの日、自分が雪女に会ったことを」
 コップを握る手袋の手が、激しく震えだす。

「そして妻が、その雪女にそっくりだということに気づいてしまったんです…!」
 彼の眼はもう何も見ていなかった。

「自分でも馬鹿らしいと思いました。ですが、考えれてみれば妻の行動がときどき奇妙なのです。真冬でも薄着で素足ですし、暖かいものはほとんど口にしません」
 堰を切ったように言葉が溢れだす。
「雪女はともかく、天魔の絡む事件も多発しています。これでも警察勤務です、そういう事件もよく聞いています。なので撃退士だった義兄に先日相談したんです。他に頼るあてもなかったので…」

 江藤氏の顔は蒼白だった。
「その義兄が…雪に埋もれて見つかるなんて…!」

 確かに上田氏の災難のタイミングは気味が悪い。だが偶然とも考えられる。それに雪女の伝説を信じるならば、上田氏の前に江藤氏が倒れるのではないだろうか。
 江藤夫人の奇妙な行動というのも、聞く限りでは「そういう人もいる」といえる範疇だ。
 しかし上田氏は江藤氏一家をわざわざ久遠ヶ原へ呼び出している。江藤氏の近所の件もあり、天魔の絡む事件を疑ってのことかもしれない。

「頭がおかしくなりそうだ…!」
 手袋の両手で髪を掻き毟るようにして、江藤氏はテーブルに顔を伏せた。


リプレイ本文

●雪が降る
 なごりの雪というには本格的な雪が、久遠ヶ原に降り積もる。

 如月 敦志(ja0941)がしゃがみ込み、江藤氏の両腕を力強く握り微笑む。
「落ち着いてください。不安な気持ちはわかりますが、自分自身の奥さんを疑るのはよしましょう。最愛の人なんじゃないですか。真相はこちらで調査しますので、まずは落ち着いてください」
 優しく語りかける口調と手のぬくもりに、彷徨っていた視線が多少なりとも定まる。

(一家凍死事件、上田氏の件、雪山での遭難事件。全ての点は線で繋がっているのか?それとも全く関係が無いのか…?)
 小田切ルビィ(ja0841)は考え込んでいる。
(一家凍死事件がトリガーになって、過去のトラウマが蘇ったって事なのか?)

 学園の講義では、天魔の眷属は戦闘能力にのみ特化された存在で、生殖機能は持たないと聞いた。夫人が天魔なら、子供は出来ないはずだ。
(遭難時のトラウマが疑心暗鬼の原因ならば、過去との対峙は必須。奥さんの行動も現状じゃ単なる疑心暗鬼の域を出無ぇしな) 
 赤い瞳がひたと見つめる。
「奥さんが雪女に似てるってコトだが―アンタは一度、きちんと過去と向き合うべきなんじゃないか?」
 
「そのためにも、一度情報を整理する必要がありますね」
 感情論を切り捨てるように、天羽 流司(ja0366)が口を開いた。
 彼は、天魔が人の振りをして子供まで作って、人の社会の中で暮らすような面倒な事をする理由はないと考える。
(だが…江藤さんが一度疑って錯乱してると考えれば仕方ない、か)

「奥さんの身の潔白を証明してみせますよ!」
 七海結愛(ja6016)が明るい声で、江藤氏の肩をバンと叩いた。
 驚きつつ、ようやくかすかな笑みがその顔に浮かぶ。

 とりあえず義兄を見舞い姉に会いたいという江藤氏に、或瀬院 涅槃(ja0828)が留守番はお任せあれ、と手を振った。
 病院まではすぐだったが、敦志とルビィが素早く視線を合わせ、道案内を申し出る。
 ルビィがさりげなく、最後に店を出た。
 敦志が江藤氏に明るく話しかける隙に、背後から掌に隠した小石を弾き飛ばす。
 小石は江藤氏の背中で跳ね、積もった雪にうずもれた。
(少なくとも透過はしない、か…)
 三人は雪の中を、並んで歩きだす。

●それぞれの成果
 通い慣れた図書館で、蒼波セツナ(ja1159)は資料の山に埋もれていた。
「雪女か…にわかには信じがたいけど、あながち嘘とは言い難いわね」
 ファンタジー小説好きにとっては、ある種格好のネタである。
(ふふ、しっかり調査したら面白いことがわかりそうだわ)
 遭難事件や一家凍死事件についての新聞縮刷版、そして雪女の伝承についての本をめくる。
 物語から雪女の弱点、逆に雪女とは無関係だと断言できる事柄が見つかれば話が早い。

 ほどなくして視線が、ある資料の上で止まった。
「あら、これは…」
 普段の冷静な表情を崩すことなく付箋を手にする。ページに貼りつけ、別の資料に手を伸ばす。

−−−

 「喫茶ウエダ」で待機する涅槃と結愛の携帯に、ルビィからの一斉送信メールが届く。
 まず医者の言うには、上田氏は足を滑らせて頭を打ち、脳震盪を起こした後に雪の上に倒れていたために、低体温症になったらしいということ。つまり、不自然な点は見当たらないという診断だ。
 また夫人から、上田氏の部屋で資料を探す許可を得たことが書かれていた。
 そして、と続く少し奇妙な情報。それを手に、店の二階へ上がる。

 上田氏の自室は、綺麗に整頓されていた。
 机の上には菓子箱がひとつあり、中には今回の事件に関係する数々の資料がまとめられていた。手分けして、次々と目を通していく。
 江藤氏からの電話の内容のメモ、それについての上田氏の感想。 
 涅槃は一枚の葉書を取り出す。
 幸せそうに微笑むふたりの写真が印刷されている。差出人は「江藤克実・涼子」。

「雪女とはまた古風だが、奥方のイメージには合うか」
 江藤夫人はかなりの美人だ。色白で、髪は黒く艶やかだ。

 だが涅槃は、敢えて彼女が雪女だという可能性を排除している。
「江藤氏が雪女と思い込んでいるだけで、別のタイプである可能性も否めないからな」
 この事件には、彼女以外の『何か』が存在するという前提だ。
「ま、俺の調査が外れれば外れる程、江藤夫人が雪女である線が濃厚になるという寸法だ」

 結愛が別の葉書を手にして、首をかしげた。今年の年賀状だ。
 つい最近のことだから、既に子供は生まれているはずだ。
 だがそれには、干支のイラストに丁寧な女文字の手書き文章だけが綴られていた。

 『結婚報告』に写真を載せて、年賀状に『家族が増えました』写真を載せない人は珍しくはないか…?
 先刻のルビィの報告の内容が気にかかる。涅槃がメールを一斉送信する。

『とりあえずルビィちゃんの件もあるし、旅館には全員で行こうぜーい』

−−−

 流司は、久遠ヶ原学園の事務室で電話中だった。メールの軽いノリに、一瞬眉根を寄せる。
 だがすぐに、メモを取ることに意識を向けた。

 電話の相手は、滋賀県警。
 証拠品を確認する必要があれば現地へ行くべきだが、学園が必要とする調査ならば、上手く行けば電話でほとんどの要件が済む。
 久遠ヶ原の電話番号と、年の割に大人びた流司の話術が功を奏し、相手は終始好意的だった。

「流石に二件目なんでねえ。一度そちらにご相談した方がええかなて、ちょうど話してた所なんですわ」
 二件目…?流司はそこを聞き直す。
「そうなんですよ。去年の三月とついこの前」

 電話の相手が、事件担当に代わる。
「ああ去年の凍死事件ね。今年のもなんですがね、暖房器具もあり電気もガスも来とる家で、一家全員が凍死した状態で発見されたんですわ。ここらで寒いいうても、家ん中で死ぬほどの気温には普通ならんしねえ」
 相手がしかも、と続ける。
「去年の事件は、娘さんがお産で親御さん処に帰っとってねえ。不思議なことに、赤んぼの遺体だけが今だに見つかっとらんのですわ」

−−−−−

 同じ頃、ルビィと敦志は久遠ヶ原学園生徒会の事務室にいた。
 いくつかの疑問を解消するため、江藤氏の戸籍と住民票を確認する必要があるのだが、学園が正式に斡旋した依頼ではないため担当者に拒否されているのだ。
 人命がかかっていること、天魔絡みの事件である可能性が高いことを二人で必死に訴えた結果、書面をは出さず担当者が内容を確認し読み上げることで渋々承諾してくれた。

「住所に間違いはないんだね。確かにそこに江藤克実さんの住民登録はある。戸籍も確認できたけど、単独戸籍だね。住所地に住んでいるのも登録上はその人だけだ」
 ルビィと敦志が思わず顔を見合わせた。

「雪女が天魔なら、堕天使・はぐれ悪魔・シュトラッサー・ヴァニタスのどれかになるか?」
 集合場所に向かいながら、ルビィが呟いた。
「まだ奥さんが雪女と決まった訳じゃない!何か事情はありそうだけど…」
 敦志は、江藤氏の心情を思うと認めたくないのだろう。ルビィもその気持ちは判るのだが、事実は冷徹だ。
「それでも江藤さんの疑念を晴らそうとすると、疑惑は逆に強くなる」
 敦志が唇を噛む。


 先刻、江藤氏を病院に送りながら、敢えて雑談を振ってみたのだ。
 そこで判ったことは、仲間にメールで送信済みだ。

 まず、夫人の涼子さんには身寄りがないこと。
 知り合ったきっかけは、夜道で暴漢に襲われかけた涼子さんを助けたこと。
 仕事が忙しくて、家のことは全て奥さん任せであること。

『実は婚姻届も一緒に出しに行けず、嫁さんに頼んじゃったんですよねぇ』
 江藤氏は、苦笑いしながら頭を掻いた。
『去年子供が生まれたときも、自分はどうしても出張が外せなくて…家に帰ったら、嫁さんが子供抱いてたって状態で。よく我慢してくれてますよ、ハハハ』
 世の男性の何割かは、こういうタイプである。

 何らかの事情がない限り、戸籍や住民票がどうなっているかなど普通は知らない。婚姻の場合でも姓が変わらない方は、特に大した手続きも必要ない。
 そして記録上『江藤涼子』が存在しないことは、今日まで気づかれなかったのだ。

「雪女でないとしても、奥さんに謎が多いことは確かだ」
 その意見には、敦志も同意するしかなかった。

●白い悪夢
 最後に届いたメールは、セツナからだった。
『雪山遭難事件と一家凍死事件の新聞記事については、天羽さんの調査と合致。私は直接旅館に行きます。あと、雪女の伝承でちょっと面白いことが判りました。後で説明しますね』

 「喫茶ウエダ」に集まっていた五名は、すぐに腰を上げた。
「江藤さんは、ここで待っていてください」
 流司が江藤氏を制した。
 危険を避けるためもあるが、万が一夫人との『今後の生活』があるならば、知らない方がいいこともあるだろう。

 だが江藤氏は、どんな事実もこの目で確認すると言い張った。
 面識のない学生の集団が、夫人を訪ねて旅館に押し掛けるのはかなり無理があるのも確かだ。
 …いざというときは、全員で彼を守るしかないだろう。
 マスターのワゴンを借り、全員で旅館へと向かった。

 江藤氏が一人で接触しないよう、フロントの館内電話で夫人を呼び出してもらう。
 その様子を横目に、セツナが一同に囁く。
「雪女伝説は色々なバリエーションがあるの。中には雪女が赤ん坊を抱いて現れ、その子を抱っこしてくれと言いだしてそれを受け取ると大変なことになる、というのもあるわ。江藤さんが子供を抱かないように注意して!」
 
 やがて、階段を下りて来る人影が目に入った。
 ほっそりした立ち姿、透き通る白い肌に艶やかな黒髪が映える。江藤夫人の涼子さんだ。服や帽子で顔は見えないが、腕には子供を抱いていた。
「義兄さんのことでお世話になった学生さんたちなんだ。君からもお礼を言ってくれよ」
 江藤氏が声をかけると、夫人は優しげな微笑を浮かべ、丁寧に礼を述べた。
 一見したところ、上品な若奥さんという風情だ。
 だが温泉旅館の中とはいえ、この雪の日に薄いブラウス一枚で、柔らかな生地のスカートを纏う素足が寒々しい。

 夫人のつま先が、タイルを敷き詰めた土間に並んだ履物に伸びる。
 江藤氏が子供を受け取ろうと近寄り、手を差し出した。

 
 それが合図となった。
 セツナが江藤氏の前に出て、素早く子供を抱き、数歩下がる。
 視線は真っすぐに江藤夫人を見据えたままで。

 涅槃が飄々とした表情のまま切り出す。
「奥さん、唐突なんだけど。なんで婚姻届、出してないのかなあ」
「婚姻届…ですか?」
 夫人は首をかしげる。
「好きな人と結婚したんだもの、本当は出しに行こうと思ってたんですよね?」
 夫人をフォローするかのように、結愛が近づき語りかける。

 ルビィがしなやかな身のこなしで、滑るように江藤氏の前に出た。

「待ってくれ、少し奥さんの話を聞こう!」
 敦志が手を広げる。
「あなた、これはいったい…?」
 夫人が困ったように、夫を見た。江藤氏はその視線を避けるように僅かに下を向く。
「…君は婚姻届を役所に出していないんだってね。どうしてなんだ?この子の戸籍はどうしたんだ?僕たちは…家族じゃないのか?」

 突然、夫人の目が釣り上がる。と思った瞬間には、駆け出していた。
「返してえ!」
 虚をつかれたセツナの腕から、赤ん坊を奪い取る。
 幾ら予想外の行動とはいえ、一般人のスピードではない。

 素足で土間に立つ夫人が、敵意に燃える眼で一同を見渡す。
 その視線が江藤氏を捕えた。
「酷い人…私を、私達を、捨てるのね」
 ぞっとするような凄みのある声。
 
 敦志が声を上げる。
「待ってくれ!害意がない天魔を受け入れる用意が学園にはある。そこで幸せを得るのも悪くないんじゃないのか?」
 セツナも後を続けた。
「学園には、人間についた天使や悪魔だっているの!江藤さんが好きなら、あなた次第で幸せに生きられるわ!」

 夫人の眼が、敦志とセツナをじっとりと見つめる。

 その隙にルビィが、手にした小石を弾いた。
 小石は夫人の肩に当たり…跳ね返る。
 その行く末を見て、ルビィは内心しまった!と舌打ちした。撥ねた石が、抱かれた赤ん坊めがけて落下する。
 小石は―赤ん坊を通り越し―夫人の腕に当たり、床に落ちた。

「おい、その赤ん坊…!」
 
 そのとき、地の底から響くような、異様な音が辺りに満ちた。
 何かが、笑っている。いや、嗤っている…。

『くくく…くはは…』
 笑い声は、徐々に大きくなる。
『これは…傑作。幸せにか、いやはや傑作だ、ぐはははは』

 笑い声は、赤ん坊から響いていた。めくれた服がはらりと落ちる。
 夫人の腕に残ったのは、オオサンショウウオが干からびたような身体に、人の赤ん坊の顔がついた化け物…。

 そいつが身体を回転させ、地面に飛び降りた。
 いわゆるブリッジの形だが、頭部だけは正面を向いた異様な姿。
 江藤夫人が立ち姿のまま、まるでマネキンのように、音を立てて土間に倒れた。
 化け物の視線が、立ちすくむ江藤氏をとらえる。

『その男、まこと実直で任務に従順な性格でな。この女を使って取り込み、いずれ我らが眷属にと思い生かしておいたが。この身を養う餌を獲った場が近すぎたわ…幻惑が解けてしもうたな』
 
 小さな体から発する、圧倒的な力の気配。
 流司が、化け物の視線から江藤氏を遮る位置に移動する。ルビィの身体が真紅の光を纏い、その手に楯が具現化する。涅槃の手には愛用の拳銃。
 
 それを眺め、化け物が老人のような顔で嗤った。 
『人間ども、今回は笑わせてもらった礼に命はとるまい。だがその甘さには報いをくれてやろう』

 来ることは判った。だが、江藤氏が居た。
 近くにいた流司と涅槃が化け物の正面に身を晒す。ルビィは楯にあらん限りの力を籠める。
 江藤夫人の説得を試みた敦志、セツナと結愛は、そもそも相手に近づきすぎていた。


 轟音。衝撃。冷気。
 雪と氷でできた爆弾が炸裂したかのような、一瞬だった。
 
●彼我を知る者達
 旅館の手配で、救急車が呼ばれた。
 ほぼ全員が酷い傷を負い、冷気を浴びた者は暫くの間、身動きもままならなかった。
 それでも江藤氏を庇うことができたのは、奇跡的と言えるだろう。

 圧倒的な彼我の力の差―あれがヴァニタスか。
 化け物はいつの間にか姿を消していた。
 後に残されたのは、元はどこの誰だったのかも判らない、酷く傷つけられた女の遺体。
 
「すみません、江藤さん…」
 腕から血を滴らせたまま、敦志が悔しそうに頭を下げた。
「いや、僕の方こそ本当にすまない…君達を危険な目にあわせてしまった」

 江藤氏は女の遺体の傍にひざまずいた。
「君は少なくとも、雪女ではなかったんだね」
 瞼を閉じさせ、乱れた髪をそっと撫でつける。
「今まで幸せだったよ、有難う。…ゆっくりおやすみ」

 眼を閉じた女の白い頬に、暖かい滴がはたはたと落ちた。
 
<了>


依頼結果

依頼成功度:普通
MVP: 涅槃三世・或瀬院 涅槃(ja0828)
 憐憫穿ちし真理の魔女・蒼波セツナ(ja1159)
重体: −
面白かった!:6人

終演の舞台に立つ魔術師・
天羽 流司(ja0366)

大学部5年125組 男 ダアト
涅槃三世・
或瀬院 涅槃(ja0828)

大学部4年234組 男 インフィルトレイター
戦場ジャーナリスト・
小田切ルビィ(ja0841)

卒業 男 ルインズブレイド
厨房の魔術師・
如月 敦志(ja0941)

大学部7年133組 男 アカシックレコーダー:タイプB
憐憫穿ちし真理の魔女・
蒼波セツナ(ja1159)

大学部4年327組 女 ダアト
にゃんこスレイヤー・
七海結愛(ja6016)

大学部5年259組 女 ルインズブレイド