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大八木 梨香(jz0061)は広げた教科書を前に、呆然としていた。
(どうしたらいいのかしら……)
シェリア・ロウ・ド・ロンド(
jb3671)が小柄な身体を反らせて立ち、梨香を見下ろす。
「それで、どこの国の言語ができないのかしら? 英語、仏語、独語、露語、中国語?」
欧州の名家出身であり、幼少の頃から最高の教育を受けて育ったシェリアにしてみれば、数ヶ国語はできて当然なのだ。
相手に悪気がないのは判っている。
以前、依頼で同行した時には一晩語り明かしたこともあるのだ。
親切心からこうして部室に来てくれたのも判っている。
それだけに、素直な言葉がぐさりと突き刺さる。
まさかできないのは英語だけです、とはとても言い出せない雰囲気だ。
「成程、大八木は外国語が苦手なのですね」
真面目な表情を崩さずに樒 和紗(
jb6970)が頷いた。
通りすがりに大声を聞きつけ、何が事件でもあったのかと部室を覗いた。
「……試験勉強が捗らないのについ前日に部屋の大掃除を始めてしまったり。そういった経験は俺にもありますよ」
事情を知ると、まっすぐ梨香を見た。
「幸い外国語専攻の上級生もいるようですし。俺も高等部レベルの英語ぐらいでしたら教える事は可能です」
紫の瞳は鋭く口調は凛々しいが、和紗はれっきとした女子学生である。
「もっとも下級生に教えて貰うのは複雑かもしれませんが。気にしないなら遠慮なく声をかけて下さい」
そう言って椅子にかけると、広げた分厚い洋書に目を落とす。
「あ、はい、恐れ入ります」
思わず低姿勢になる梨香だった。
自分でもちょっと大げさな声だったかな、とは思った。
だがまさか、廊下を通りかかった人を呼び込む程だったとは。
「しけん……ええと、これやらないとまた同じ学年なの?」
チャイム・エアフライト(
jb4289)が空色の瞳を大きく見開き、何か不思議な物を眺めるように教科書を開いた。ちなみに逆さだ。
まだ人界に来て間がないチャイムに、試験のなんたるかなどわかるはずもない。
とりあえず判ったことは、人界には進級試験という物があること。
そしてそれを乗り越えなければクラスメイトに置き去りにされ、来年も同じ学年であるということだった。
どうやら、目の前にいる眼鏡の女子はその試験に悩まされているらしい。
心の声どころじゃなく、すごい声が聞こえていたからだ。
「大八木先輩、わかんないことはええっと……サンニンヨレバモンジャノチエ、だっけ? そんな言葉があるなの」
「そうですね、ゼロは幾つかけてもゼロって言葉もありますね」
虚ろな目で呟く梨香。会話が全くかみ合っていない。
「まあまあ、落ちついて」
いつもの笑顔で見守るのは、閑話部部員の雨宮 祈羅(
ja7600)だ。梨香が姉と慕う存在である。
「でも梨香ちゃんが逃げたい気持ちもわからなくはないけどねぇ……うちだって、数学だと逃げたくなるし……って、そこ違うよ?」
「くそっだから英語は……英語はぁ……!!!」
祈羅の指導を受けているのは、やはり部員の虎落 九朗(
jb0008)。
「ここは日本だ、全部日本語でいーじゃねえか?! 数国理社、それから実技は問題はねーっすし!!」
土下座せんばかりの勢いで指導を頼んだ手前、なんとか頑張ってはみたものの、苦手な物は苦手なのだ。
「でも言葉を覚えたら、それだけ世界が広がって楽しいと思う」
祈羅は翻訳のバイトをこなす程に、外国語が堪能だ。
「……俺もそう思って一度手を出したんっすけどね、挫折しあした」
(大八木先輩含めて、皆なんだかんだで洋書とか読めるんだよな……!)
九朗の顔が曇る。
「ええと、なんってったっけ……? 映画やって流行った、魔法使いの奴……ハ……は……?」
「そこでもうちょっと頑張ってたら、英語が好きになってたかもね♪」
「でも……学校の勉強とはまた違いますしね……」
今日の梨香はやたらネガティブだ。英文法のできる奴なんて、今は天魔より遠い存在に思える。
そんな雰囲気を感じ取り、祈羅が笑いながら抱きついた。
「そうだね、今やるべきことは勉強なんだ。今自分の『やるべきこと』なんだもんね。うちも頑張るから、梨香ちゃんも頑張って♪」
が、そう言ったほんの僅かの後。
「あーーーー勉強めんどくさい!!」
真っ先に叫んだ祈羅であった。数学が立ち塞がるらしい。
「何かこう、やる気の出る何かが……何かが欲しいですよねっ!!」
梨香がペンを折らんばかりの勢いで拳を握る。
「モチベーションの維持に必要な物は何か、だって……?」
教室の扉が、からりと開いた。
「ふ、愚問だな……そんなのは問うまでもなく決まっているだろう」
\紅茶だよ!/
室内の一同は、レトラック・ルトゥーチ(
jb0553)の長身と派手ないでたちをぽかんと見つめる。
だがレトラックはそんなことは意に介さず、帽子を軽く持ち上げ慇懃に会釈。
それから室内を眺め、梨香に目を止めた。
「やあ、いつぞやの三つ編みのアリスじゃあないか。良い茶葉を探して彷徨う中、巡り合うとは誠に奇遇。……となれば、この不肖帽子屋、手を貸さない訳にはいかないな」
レトラックは満面の笑みで片眼鏡の位置を直す。
「愛らしくも麗しいアリス達と子鼠一匹の小さな勉強会の為に。細やかながらこの帽子屋、腕を揮ってみせようじゃあないか」
(子ネズミ!?)
九朗が思わず周囲の面子を見渡した。
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良質な学習のためには頭の回りを良くするものが必要だ、つまり紅茶だ
良質な勉強会のためにはその場を和ませるものが必要だ、つまり紅茶だ
つまり紅茶のない勉強会など、良い勉強会とはいえないのさ!!
レトラックは高らかに自説を主張しつつ、慎重に茶葉を計り、ポットに入れた。
和紗はその手元と、部室内を興味津津という風情で眺めている。
「随分と設備が充実していますね。……コンロはともかく、炊飯器まであるとは」
やがて興味が押さえられなくなったか、部室内を見回りだした。
小型冷蔵庫を開くと、何やら箱が。
「おや、美味しそうなお菓子が。これも出して良いですか?」
「あ、どうぞどうぞ」
反射的に梨香が答えた。
「食べて危ない物はなかったはずですので」
「何?」
和紗が怪訝な顔になる。
「そうだよね、リラックスも大事だとうちも思う!」
祈羅は持参したカップケーキにクッキー、その他のお菓子を机に並べる。
シェリアが我が意を得たりという表情で頷いた。
「イライラしたり不安になったりしたときは、一度休息をとることも大切ですわ」
言いつつ、取り出したのは茶葉に茶菓子。
「こちらは鎮静効果のあるラベンダーのハーブティ。祖国の銘菓も持参しましたの。皆さんも良かったらご一緒にどうぞ」
お嬢様育ちのシェリアもお年頃。
単身学園に来たからには、普通の女友達とのおしゃべりも心ゆくまで楽しみたいのだ。
チャイムも身を乗り出した。
「そうなの。疲れて頭に栄養いかないと、大変なの。そんなときは食べるほうが頭回るかもなの!」
何故か出て来る、クッキーの包み。
「あ、そーいや俺もこれ、冷蔵庫に入れようと思ってたんすよね」
九朗が大きな梨が入った袋を取り出した。
「実家からの差し入れなんすけどね。一人暮らしの息子相手に、ダンボール一箱送りつけられても困るっつーか……」
梨香が思わすくすりと笑う。
「虎落さんには、お友達がたくさんいると思われているのでしょう」
「はは……とりあえず、剥いときあす!」
頭を掻きながら、九朗は果物ナイフを探す。
こうして奇妙なお茶会が始まった。
普段ココアだのコーヒーだの好き勝手に入れられている部室のマグカップは、レトラックにより使用を却下された。
「良い紅茶には相応しいカップというものがあるのだよ」
そんな物を持ち歩いているのかという疑問はさておき、手品のように取り出した私物のティーカップを芝居がかった所作で並べる。
芳醇な香りが室内を満たす。梨香が目を閉じた。
「いい香りですね……」
茶葉というのは不思議なもので、淹れ方一つで香りまで違う。
「うーん、たまにはこういうのもいいよね♪ 今度みんなにも飲ませてあげたいな」
祈羅はいつもの部室に集まる仲間を思い、少し残念に思ったようだ。
「それにしても色々揃ってる部室ですね。この学園にはこういう部活が多いのですか? 俺は編入して日が浅いので、まだまだ驚く事も多いです」
「そっか、じゃあ、あちこちで迷いそうだね」
祈羅が笑顔を向けると、和紗は苦笑いを浮かべる。
「場所もですし、人が多過ぎて目が回りそうですよ」
「でも今日ここの部室は覚えたよね。九朗ちゃんも部員だし、ここは大体いつもこんな感じ♪」
一応勉強会だが、いつもの感じらしい。
「あたしの部活の先輩もいるはずなの!」
うずうずしていたチャイムが会話に混ざる。
「そういえば部活の先輩の作るカレーはすっごく美味しいなの。今度お願いしてみるなの!」
「部室でカレーを食べるんですの?」
シェリアが声を上げた。久遠ヶ原の部活、なんでもありである。
「割と普通だと思っていました……実は男性の方がお料理上手な方が多くて。カレーもいただきますし、このケーキも手作りの差し入れですね」
「うん、いっつもおやつには不自由しないよね♪」
梨香と祈羅が頷き合う。
「……もしかして。差し入れの方って、梨香さんのお付き合いしている方とか!?」
「はぁ!?」
身を乗り出すシェリアに、梨香が素っ頓狂な声を出した。
「い、いえ、違いますよ! 皆さん素敵な恋人がいらっしゃる方ばかりですけれど!」
「まあっ! 恋人の方は部員ではありませんの?」
シェリア、ガンガン食らいつく。もとよりこういう話は大好きだ。
「ふふ、部内でカップルというのも。ね?」
「ちょっと、そこでこっちに振る!?」
「祈羅姉さん、今日は本当はがっかりしてるんでしょう」
赤くなって梨香の頭を抱きかかえようとする祈羅の腕を、シェリアが掴んだ。
「お待ちになって! そこのところもっと詳しくお願い致しますわっ」
何やら賑やかになってきた一同を、チャイムが小首を傾げて眺めている。
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お茶会とおしゃべりが一通り続いたところで、シェリアがはっと我に返った。
「いけませんわ。肝心の勉強がまだ残っていたのですわ」
(今日は勉強会ですもの。でも機会を改めて、じっくりお話を伺いたいものですわ……!)
シェリアが心中を隠すように軽く咳払い。
「……はっ、食べ物美味しいとすぐ時間が過ぎちゃうの」
チャイムも慌てて時計を見た。
「えっと、こういう時は参考書を食べるといいって教えてもらったなの……」
誰だ、純真な堕天使にそんなことを教えた奴。
「でも参考書って美味しいなの? 美味しいなら食べてもいいけどそうじゃなかったら食べるのは嫌なの……」
「それは作り話ですよ。実行したらお腹をこわしてしまいます」
梨香がやや強張った笑顔を向けた。
「ではそろそろ本題に入りましょう」
シェリアがお茶の道具を脇に避ける。
「課題を暗記するのでなく、勉学に対するモチベーションが大切だと思いますの。ネガティブ思考に嵌まるのではなく、どうすれば覚えるコツを掴めるかを前向きに考えてみましょう」
黙って頷いていた和紗が口を開いた。
「そうですね。例えば社会は俺達の生活に密着したものですし、過去の歴史あっての現在です。過去から学び現在に活かせる事も多いですから、そう考えながら勉強すると面白いですね」
「確かに、現社なんかは新聞読むのは大事だな。時事問題は必ず出てくるし。逆にそういう興味を持って読むと、新聞も面白いっすよね」
一見スポーツマン風の九朗、意外と知性派である。
「あと歴史はまあ、歴史漫画のお陰? っつーわけで」
大きな紙袋から取り出す、大河連載歴史漫画のフルセット。
「ちょいと揃えてみたんで部室置いときあす!」
それはダメだ、九朗。はまりこんで失敗するフラグだ。
「あ、そういえば」
祈羅が魔法書『アルス・ノトリア』を取り出した。
「これに言語を習うコツ書かれてた気がする……ちょっとそこ勉強すれば梨香ちゃんの役にも立つかな?」
魔術の儀式に関する事柄や、知識や言語の習得についてサポートしてくれる便利な魔法書だ。
試験の内容によってはあるいは希望が持てるかもしれない。
「でもやっぱり、何よりも愉しむことかな。言語も、使われるためにあるものだし」
興味を持つこと、愉しむこと。本来、勉学が目指すのはそこなのだろう。
いつか大人になって、試験に右往左往したことすら懐かしく思い返すとき、ようやく腑に落ちることなのかもしれないが。
しかしここに、腑に落ちていないらしい大人が一人。
「なに、学年など日常を送るには些細なもの。そうは思わないか?」
レトラックが微笑を浮かべ、カップを口に運ぶ。
「帽子屋さんには、試験勉強は不要なのですね……」
梨香が羨ましそうにレトラックを見た。
「勉強? ふっ……良いかいアリス達、考えても見るんだ……美味なる紅茶を淹れるのに、社会や語学が必要かな?」
ちょっといい話になりかけたが、そんなことは全然なかった。
「いやいや、こう見えて語学『は』問題なく堪能さ。言葉遊びもできるぐらいにね! ただ、その為に勉強はした事がないがね」
精一杯のキメ顔で人差し指を立ててみせる。
「勉強しなくてもできるならいいですよ……!」
「いやはや、小難しい本や数字を目にすると湿疹に悩まされるという、不治の病の哀しさよ! もしも椅子に縛り付けられる位なら逃げる、当然だろう」
「うう……」
この人は一体何しに来たの。もしそう問えば、簡潔かつ明瞭に答えは返ってくるだろう。
曰く、紅茶を淹れに、と。
「んー……さすがに試験前はのんびり覚えさせる暇ないか……」
祈羅が笑いながら、可愛いリボンのついた包みを梨香の前に置いた。
「梨香ちゃん誕生日おめでとうー♪」
「えっ」
自分でも忘れていたが、そういえば誕生日だった。
「あ、有難うございます……」
「うん、但しそれ開けるのは、勉強が終わってからね。とりあえずここの単語暗記して♪」
優しくも厳しい、それが愛。
和紗の口元がほんの少し、緩んだ。そこでふと思い出す。
「あ。俺、自分の勉強すっかり忘れてました」
とはいえ、普段の積み重ねがあるので、さして焦ってはいない。
のんびりと過ごせる、こんな空間がこの学園にもあったこと。それは収穫だった。
複雑な表情の梨香をチャイムが励ます。
「こういう時はカミダノミがいいっていうの。よくわからないけど、お守りを持ってればいいなの?」
「ああ……購買の支給品でも効果があるでしょうか」
「シンジルモノハスグワレルって聞いたなの。きっと壁がわれるなの。先輩方も、しけんで進級、がんばるなの!」
ぐぐっと小さな拳を握り、チャイムが気合を入れてくれた。
さて、この勉強会の顛末は如何に。
それは成績一覧をお楽しみに!
<了>