●桜の庭
屋敷はただ静かだった。
「桜、もうすぐ咲きそうですね!!」
庭の南西に枝を広げる樹を見上げ、藤咲千尋(
ja8564)が言った。
「もう咲いてる頃だと思ってました!」
「この辺りは、近畿の中ではちょっと遅めかもですねー」
マーシー(
jb2391)が地元民らしく解説する。
「もうすぐ見頃になりますねーそういえばあのホテル、今どーなってるんでしょうね? 今回の報酬にホテル無料券追加です? なんてね」
あながち冗談ばかりでもない口調で、笑みを向ける。
(……地元を悪魔の好きには、させたくはない)
内心の感情は全く窺い知れなかった。
任務2日目の夕刻。広い客間で撃退士達はお互いの情報を交換する。
依頼内容はこの家の主、大村悟一郎の警護。彼の長男である健造が、警備員としてプロの撃退士を呼んでいる。彼らは3班に分かれ、常に屋敷の内外を見回っていた。若杉 英斗(
ja4230)とRehni Nam(
ja5283)もそれに加わっている。
ヤナギ・エリューナク(
ja0006)が大村亜矢から聞きこんできた、この家に関わる情報を報告する。
「ホテルで一彦に襲撃されていたのが、修司だったよな? んで、もう1人怪我してたのが……」
亜矢によると、同じ事件で外に倒れていたのが、一彦の養父にあたる史郎だった。
「あの人は修司氏に比べたら、怪我は軽かったはずだよ」
そのときに史郎を見つけた中山律紀(jz0021)だ。
事実、史郎はその後数日入院しただけで、自宅で静養していたという。
巌瀬 紘司(
ja0207)が地図を広げた。
「その史郎さんだが……」
大村家の関係者は一様に、ヴァニタスとなった奥居一彦の襲撃に怯えている。
その為、久遠ヶ原の名前を出すと比較的スムーズに情報をくれた。
その中で唯一、史郎だけが今朝出社して以来、連絡が取れなくなっているという。
「関連企業の生鮮品運搬用の大型トラックを1台持ち出している。GPSで現在位置を特定できるはずなんだが、どうやらそれが故障したらしく、所在も不明だ。最後に確認されたのが、この辺り」
地図に付けられた赤い丸。それは事件の発端となったホテルと、暴走族襲撃事件のあった琵琶湖岸、そして奥居一彦が住んでいた別荘の付近だった。
「一応警察に不審車両の確認頼んどくか」
ヤナギが苦々しげに言うと、紘司が頷いた。
「このことは学園にも報告した。修司さんが襲われている以上、内通者がいる可能性は高いだろう。ただ判らないのは、悪魔が奥居さんを取り込んでからも大村家に関わらせる理由だ」
一彦自身がヴァニタスとなる際何かしらの取り引きをした、悪魔にとっても何か益がある可能性。
となれば、やはり一彦から情報を得るしかない。
「亜矢に頼むしか、ねえんだな」
ヤナギは再会した時に、憔悴しきっているにもかかわらず笑って見せた亜矢の身を案じる。
先日の事件で一彦は、亜矢のヒステリックな行動にほんの僅かながら戸惑いとも見える反応を示した。
もしかしたら人間であった頃の記憶、負の面だけでない感情が、多少なりとも残っているのかもしれない。そこを突けば今回の一連の事件の裏側について知ることができる可能性がある。
それができるのは亜矢だけだろう。
だが、ヤナギは迷う。情報の引き出しに失敗した場合、そこに待つのはヴァニタスとしての一彦との対決だ。
(亜矢は……そこまで納得できんのかな)
佐藤 としお(
ja2489)が拳を握り、悔しそうに声を絞り出す。
「僕達は、同じ世界に暮らす事は出来ないのかな……!」
例え天魔でも、判り合えると信じていた。信じていたかった。
だが、人の身でありながら悪魔の眷属となったヴァニタスは、もう人ではない。
それでもまだどこかで、一彦が罪を悔い、亜矢と二人で静かに暮らせないかという望みを捨てきれないのだ。
自分が当の一彦から痛手を負わされても尚、としおはそれを望んでしまう。
「ヴァニタスになったらもう生きてはいないって、ギアよく知っているから……」
少女のような外見に反し齢経たはぐれ悪魔、蒸姫 ギア(
jb4049)が一見冷たくも見える表情のまま、淡々と呟いた。
大方の事情は、過去に事件に関わった者から聞いている。
「むしろこのままじゃ亜矢が可哀想な気が……」
そこでふと、紅玉の瞳に感情の片鱗がよぎる。
「って、別にギア同情なんてしてないんだからな、今回も人界で騒動起こるのが嫌なだけだっ」
千尋がその言葉に、笑いをかみ殺す。だがすぐ真顔になると、部屋を見渡した。
「ここで、一彦さんはピアノを弾いていたんですね」
14歳でこの家に来た一彦は、毎日のようにこの部屋でピアノを練習していたらしい。
昨夜悟一郎は今にも命を狙いに来るであろう義理の孫の話を、寧ろ同情するかのように語っていた。
一彦の実父は亡くなっている。事業に失敗し、自ら命を絶ったのだという。
その後一彦の母が遠縁の大村家の史郎と再婚し、この家に来た。
しかし結局その母も一彦と共に乗っていた車で交通事故に遭い、命を落とす。一彦自身も左腕に大怪我を負い、切れた筋は完治しなかった。それが17歳の時。
学業成績は優秀だった為、それまで目指していた音楽の道を諦め、一彦は大村家の一員として生きることを選んだ。
だが大きな利害が絡む大人達の世界は、彼にとって居心地のいい場所ではなかった。
「ある人達がその営みに対し影響力を持つ限り、中立の立場はありません」
御堂・玲獅(
ja0388)が黄昏に支配されてゆく庭を見つめ、静かに言った。
「ある行動に対しノーと言わない限りそれは肯定。イエスと言わない限りそれは否定です」
この家の人々は、一彦が追い詰められていくことにノーと言わず黙認し、助けを求める信号にイエスと言わず拒絶した。家全体への復讐に至るには十分な理由といえるだろう。……だが。
「ですが、天魔の力を借り犠牲者を増やす一彦氏は倒さねばなりません」
白い頬には静かな決意が宿る。
「その点は亜矢殿にも納得してもらわねばならないのである」
人間大の白猫着ぐるみのようなラカン・シュトラウス(
jb2603)が、重々しく頷いた。
「愛する者が愛する者を殺すのは悲しきことである。亜矢殿をこれ以上悲しませはしないのである。その為には何としても、悟一郎殿を守らねばならぬ」
重い沈黙が、同意を示した。
●鎮魂歌
撃退士達は2班に分かれ、交替で悟一郎と亜矢を護衛することになっていた。
2人にはなるべく客間で過ごして貰い、複数が常時傍にいる。阻霊符は展開し続け、互いにいつでも連絡が取れるようにしていた。
そんな3日目の夜。
邸内に鋭い警報音が鳴り、全員の携帯電話が反応する。発信主は、屋根に上がり『テレスコープアイ』で周囲を監視するとしおだった。
「ディアボロです! 1、2……10体以上は確実にいる!」
その頃には、屋敷の周囲を警戒していた警備会社の撃退士達が戦闘に入る物音が聞こえていた。
青白い靄のような光を纏うRehniが、『生命探知』で周囲の気配を探ろうとする。
「何が来ても護りきって見せます。それこそ、私の本懐です……!」
悟一郎は表情も変えず、泰然と客間の椅子に落ちついている。
その横でやや青ざめた固い表情の亜矢に向かって、英斗が励ますように声を掛けた。
「大丈夫です。俺達が必ず守ります」
玲獅はその間も油断なく庭先を見据える。
「ディアボロしかいませんね。陽動の可能性があります」
マーシーが『索敵』で塀を超え、庭木の影に潜む黒い大狼の影を示す。
「あ、そちらに1体います。そちらにも」
その口調は普段通りだが、銀色の光を纏い左目を閉じた表情は引き締まっている。
暖かなオレンジ色の光に包まれた千尋は、マーシーが指し示す方へ、自分の身長を超える程大きな重籐の弓を引き絞る。
ひょうと放たれた矢は天界の気を帯びた『スターショット』となって、冥界の眷属を撃ち抜いた。
悲鳴のような声を上げ、魔狼が跳ねる。
だが1頭が下がると、別の2頭がその背後から飛び出す。
普通のディアボロにこれほど統率のとれた行動を取る知能はない。
(やっぱり、一彦さんもいる……でも健造さんや亜矢さんを今まで殺さなかったのは何故? 何か目的が?)
だが考える間もなく、次々と魔狼は襲いかかって来る。
「どこに隠れてやがんだ、一彦」
群がるディアボロに鉤爪を叩き込んでは離脱を繰り返すヤナギ。
数が多い為、ひとまず相手の移動力を削ぐべく四肢を狙う。だが相手も動いている以上、なかなか狙い通りの場所には当たらない。
その時だった。
「……バイオリン?」
血生臭い戦いの場に不似合いな、優しい旋律が響いた。
亜矢の奏でるその曲は、夜の闇へと吸い込まれるように流れて行く。
その音楽に乗るようにギアが軽やかに駆け出すや、『鎌鼬』で魔狼を斬りつける。
「行け、高圧蒸気の刃!」
「風穴開けます」
マーシーは容赦なく、弱った敵に狙いを定め、『凡人の弾丸(タダノダンガン)』を撃ち込む。
痛撃を食らい地面に転がるディアボロを、銀の右目が冷たく見下ろす。
「凡人でも、これぐらいできます」
ただの人間であるからこそ。平穏を乱す存在は許し難いのだ。
「一彦、恨みが強い分、確実に仕留めようとして裏を掻いてくるかな? それとも堂々と?」
ギアが一息ついたところで周囲を見回す。
バイオリンの旋律が途絶えたのとほぼ同時に、邸内のRehniから連絡が届く。
『ヴァニタスです、こちらに来ました』
それを聞いたマーシーが即座に反応した。
「人面蜥蜴はいませんでした?」
『え?』
「人面蜥蜴、ハンザキさんでしたか……あちらにはお会いしたいですが。 奥居さんは皆さんに任せます」
凡人を自称するマーシーの関心の対象は、以前にホテルで襲撃を受け、大事なコートを傷つけたヴァニタスだった。
ギアはこれまで一彦に関わって来た仲間達に道を譲ることにした。
「邪魔はさせないよ……絡みつけ蒸気の鎖、スチームストリーム!」
押し寄せる魔狼を『呪縛陣』で足止めする。
「危ない!」
脇から襲いかかる1頭に、律紀が槍を突き出す。
室内には異様な緊張が満ちていた。
下げた右手に血濡れた刀を持った一彦が、並んだ面々を見回す。
「今日は随分お客さんが多いようだ」
予想通り庭のディアボロは陽動で、自分は玄関から入って来たらしい。
「亜矢、今のは僕の曲だよね」
ぞっとするほど優しい声。
「……そうよ。あなたの『エリニュス』よ」
「主旋律を弾きやすくアレンジしたんだね。綺麗な曲だった」
一彦が右手を振ると、赤い飛沫が床から壁に飛び散る。
「エリニュスって何か知ってる? 復讐の女神でね、弱者に対する強者の横柄な態度を追及するんだ」
抑えた笑いが漏れる。
一彦から眼を離さず、ラカンが声を掛けた。
「一彦殿は亜矢殿を悲しませるつもりか? 何故悟一郎殿を殺めようとするのである? そんなにこの家が憎いのであるか?」
「憎いというより、怖かったんだよ」
刀を持ち上げ、切っ先を真っ直ぐ悟一郎に向かって突き出す。
「君達には力があるから、判らないかもしれないな。無力なぼくにとって、この祖父が体現する力が何より怖かった。自分に向けられる悪意が怖かった。父を自殺に追い遣り、母を奪った力が怖かった。でも……」
何処か陶酔に似た光が、一彦の眼に宿る。
「あの日、怖い奴の1人を、ディアボロがあっさり倒すのを見た。余りに強くて、怖いより凄いと思ったんだ」
恐怖から逃れる為力に焦がれ、一彦は近隣に出現するディアボロを追いかける。
そしてヴァニタスと遭遇し、自らもヴァニタスへと変じた。
「じゃあその後は? 一体何を企んでいる? ……悪魔がタダで何かしてくれるはずがない」
としおが油断なく銃を構え、呻いた。
「復讐して……それで、その後どうするのですか? 人の道を捨て、悪魔の眷属として生きていくと?」
紘司が低く囁き進み出ると、一彦の視線が移る。
「彼らも時には人界の力が必要らしいね。折角だから一族の力を纏めてくれてやつもりだったんだが……邪魔されたね。……今度は、見逃さないよ」
それが合図だった。
玲獅が『アウルの鎧』を悟一郎と亜矢に纏わせる。万が一にも攻撃が掠めては、一般人はひとたまりもない。
「ヴァ二タスとはいえ防御力を失えばっ!」
一彦の前に立ち塞がる紘司を楯にするように、としおが『アシッドショット』を見舞う。
続けて『防壁陣』で守りを固めたラカンの背後から、千尋が『精密狙撃』を放つ。
「ごめんなさい、狙わせてもらいます!!」
狙いは、彼の怨念が籠ったかのような危険な左手。
「おい、そっちはマズイ……!」
ヤナギが叫ぶ。一彦の拘りを思えば、逆上を招きかねないと思ったのだ。咄嗟に『迅雷』で突っ込むと、鉤爪で脚を狙う。
その攻撃をすんでのところでかわすと、一彦は猛烈な勢いで突っ込む。薙いだ刀の一閃で立ちはだかる紘司を吹き飛ばし、ラカンのぬいぐるみの頭に左手の爪を突き立てる。
彼らを振り返ることなく、尚も突きこむ刀を、玲獅が一歩も引かず白蛇の盾で受け止めた。左手が伸びる瞬間、相討ちのように『審判の鎖』を使う。
電撃を受けよろめく玲獅の身体を、英斗が支えた。
「しっかりしてください!」
英斗は身構えたが、一彦の動きが止まったことを知った。
悪意が噴き出すような視線が、悟一郎を睨んでいる。石像のように動かぬ老人が、突然口を開いた。
「亜矢。お前はここから出なさい」
その言葉に亜矢が激しく首を振った。
「できません、そんなこと。一彦さん、もうやめて。あなたも死んでしまうわ!」
死。人の死。
既に一彦はその状態だ。
だが目の前で動き、過去を語る存在を、死体と認識するのは難しいだろう。
少なくとも、亜矢にはそうだった。
「待て!」
駆け出す亜矢を、ヤナギが回り込んで抱きとめる。
一彦がもう少し強い心を持っていれば、あるいは亜矢がもう少し物を見渡すことができれば。
……全ては仮定の話だ。
「じゃ、バイバイ」
マーシーが宣告する。
撃退士達はヴァニタスとなった男を永遠の眠りにつかせた。
それは救いだったのだろうか。
茫然と座り込む亜矢の前、一彦はもう何も語らない。
「俺は……人としての救いをもたらせる世界を、望む」
紘司が祈るように目を伏せた。
「あ……こんな時期に雪?」
目をこすり慌てて顔を上げた千尋の目に、咲きこぼれる桜吹雪のように舞うなごり雪が映った。
* * *
「は? ……左様ですか、一彦は倒れましたか」
人面の大山椒魚、ハンザキが主である悪魔にひれ伏す。
「強い情念が仇となりましたかの……それが強みでもありましたが。何、あ奴は問題ありませぬ」
含み笑いは、ハンドルを握る史郎には届かなかった。
後日、高速道路の利用記録から、大村一族の所有する一台の大型トラックが、日本海側へと向かったのが判った。
その後、トラックは見つかっていない。
<了>