●災禍、再び
転移した先は、眩い銀世界が広がっていた。
白い雪原を、ラカン・シュトラウス(
jb2603)は急ぎ駆け抜ける。
(大村殿は、まるで付け狙われておるようであるの……疾くゆかねば命が危ないやもしれぬ)
大村亜矢から久遠ヶ原への依頼はこれで3回目だが、今回が最も危険が差し迫っている状況だ。
「今助けに行くのである」
ソーニャ(
jb2649)はそのラカンを、いや正確にはその毛並みを見ている。
(わぁ、猫だぁ。もふもふ)
ラカンは精巧な猫の着ぐるみを着ているのだが、ソーニャはネコ型天使だと信じ込んでいた。
(天使も色々いるんだね)
ソーニャには堕天するまでの天界での記憶が全くないので、どんな天使がいたのかも覚えていないのだ。
勿論、ラカンにだけ気をとられている訳ではない。
目指すホテルが近付いた所で『索敵』を使用し、辺りに潜む敵がいないか確認する。
その目に、動く物が見えた。一瞬身構えたが、人間だった。
「あの車の影、人が倒れてるよ」
「判った、ソーニャさん達は先に行って。俺が見てくる」
中山律紀(jz0021)が駆け出すのに、クライシュ・アラフマン(
ja0515)が声をかける。
「待て中山、罠かも知れん」
クライシュはその真白い仮面に隠された凄惨な経験から、あらゆる予測を導き出す。
じりじりと距離を詰めるが、男はピクリとも動かない。
「少なくとも、ヴァニ……奥居さんじゃないよ」
律紀が窺うように覗きこむ。
「しっかりしてください、大丈夫ですか?」
見ると、男の左大腿部からの出血が、雪を赤く染めていた。だが死んではいない。
応急手当てを施すと、クライシュと共に担ぎ上げ、鍵の開いていた車の後部座席に横たえる。
まだ救急車を呼べない以上、阻霊符の範囲内の閉鎖空間に居て貰う方がまだしもである。
「このまま暫くじっとしていてくださいね」
聞こえているかどうか判らないが、律紀は声をかけ、ドアをロックした。
その間に、一同はホテルの正面玄関にたどり着く。
「人気が多い訳ではない此処を再び襲うとは、一族の者か、あるいはこのホテル自体に用があるということだろうか……」
巌瀬 紘司(
ja0207)は、以前にも出動した建物を見上げる。前回ディアボロに襲われた際には、1名が命を落とした。
(あのときは爬虫類型が潜んでいたな……だが捜索は、先ずは要救助者の安全確保の目処が立ってからか)
「ともかく一刻も早く被害者の安全を確保しなくてはなりませんね。猶予はあまりなさそうですから迅速に事を運ぶこととしましょう」
楊 玲花(
ja0249)が柔らかくもきっぱりとした口調で言った。
既にホテル内の見取り図は頭に入っている。
「警備班の撃退士と連絡は?」
合流したクライシュが確認すると、佐藤 としお(
ja2489)が首を振った。
「だめですね、応答がありません」
手いっぱいなのか、応答できない状態なのかは判らない。だが、急ぐしかない。
事前に決めた段取りを簡単に確認し、一斉に玄関へと飛び込む。
ヤナギ・エリューナク(
ja0006)は、正面に見える大階段に真っ直ぐ向かっていく。
(亜矢は確か、こっちだったよな……)
これまでに2度、ヤナギは彼女に会っている。いつも亜矢は、縋るような眼で撃退士達を見ていた。今もきっと怯えているだろう。
(無事で居ろよ……っ!)
到着を知らせてやるべきか一瞬迷い、ヤナギはそれを諦めた。
階段の上から、低い獣の唸り声が聞こえてきたからだ。
一瞬の躊躇も許されない。現れたのは、凶悪な牙を剥き出す巨大な狼。
流れるような動作で拳銃を手にすると、ヤナギはそのまま狼の前足を狙って撃つ。
ギャウン!
攻撃を受けることなど予測していなかったかのように、狼が叫んだ。
だがすぐにヤナギを敵と判断し、突進してくる。
「今は忙しいからな、後でゆっくり遊んでやるぜ!」
引きつけて『影手裏剣』を見舞うと身体を捻り、怯んだ狼の横腹を力一杯蹴り飛ばす。
「後は頼むぜ」
転げ落ちた階段の下の仲間に声をかけると、階段を駆け上がる。
上がりきった所に、大きなグランドピアノがあるのが目に入った。
(……一彦……アンタ何してんだ、今)
最初に出会った時の、怯えた表情。2度目に出逢った時の、残忍な目。
それらを振り払うように、ヤナギは宴会場の扉に手をかける。
ラカンとソーニャは、『光の翼』で宙へと舞い上がる。
2階の宴会場は、壁面がガラス張りだった。
「助けに来たのである。窓から失礼するのである」
携帯電話で呼びかけると、中にいた女が振り向いた。窓の外に、羽の生えた巨大な猫と、少女。流石に驚いたようだが、すぐに駆け寄り窓のロックを外した。
「あ……有難うございます……!」
もう1人の壮年の男は、ぐったりと床に倒れている。これが亜矢の父、健造だろう。肩からかなり出血している。
健造と亜矢が必死で詰み上げたと思われるテーブルや椅子を取り除き、ようやくヤナギが合流した。
「よ。亜矢、無事か? も、大丈夫だからなっ」
「はい! きっと来てくださると思っていました」
敢えて軽い調子でヤナギが声をかけると、亜矢の緊張が目に見えてほぐれて行った。
●邪念の巣
ヤナギが蹴り落としてきたディアボロは、新たな敵に牙を剥いた。
クライシュが『タウント』を使うと、大狼は唸り声を上げ飛びかかる。
「目障りな駄犬如き、捉えきれぬとでも?」
腕につけたカイトシールドで牙を受け止め、星煌の魔法の刃で斬りつける。
その間に、残る5人はレストランに到着した。壊れた扉から中を覗きこむと、5人の男女がそれぞれに武器を手に、3体のディアボロと対峙していた。
厨房への出入口を隠している衝立を背に、陣形を組んでいる。そこに一般人達をかくまっているのだろう。それぞれ負傷しているのが、離れていても良く判った。
天宮 佳槻(
jb1989)が考え込むような表情をする。
「妙ですよね? 報告書によると、悪魔がしばしば快楽犯的な思考で行動を起こしている事はありますが」
一般人である大村健造が、娘の所までたどり着ける程度の負傷で済んだこと自体が不自然だ。
「ディアボロがそんな知能を持っている可能性は低いですし……」
それについては紘司も同じ懸念を持っている。それを淡々と口にした。
「厨房は拙いな。窓はないかもしれないが、通気口や配管が多すぎる。前に見たヴァニタスが潜んでいたら、ひとたまりもない」
指揮をしている存在がいる。それは間違いないだろう。
だが、考え込んでいる暇はない。
「ほら、こちらよ!」
玲花が飛び出すと、胡蝶扇を投げつけた。それは炎の軌跡を残し大狼の背を抉ると、そのまま玲花の手元へと戻って来る。
別の1頭が玲花に飛びかかった。すぐさま『影縛の術』を使うと、狼はその場に釘づけになる。
続けて紘司が一気に間合いを詰めると、『審判の鎖』で1頭の動きを止める。
動きを止めたディアボロに、とどめを差すのにそう手間はかからなかった。
残る1頭、玲花に背中を傷つけられた狼が、床を、壁を蹴り、撃退士達の追撃を逃れながら、反撃の機を窺う。
「大きい割に良く動く……だけどっ!」
狙いをつけていたとしおのアサルトライフルから黄金色の光が放たれる。『スターショット』で天界の力を得たアウルの銃弾が、ディアボロに致命傷を与えた。
「今のうちに、安全な場所に移動していただきいます。落ち着いて行動すれば絶対に助かります!」
声をかけると衝立の向こうから、恐る恐る顔を出す人々。
「そんなことより、早くここから連れ出してくれ!」
「そうだ、化け物が動かないなら、今のうちにここを離れた方がいいだろう!」
命が長らえたと知るや、口々に喚き始める。
「新手が来る可能性があります。今にも後ろから現れるかもしれないですよ」
佳槻は事実のみを伝えたのだが、その静かな口調は却って相手の熱を冷ました。
一同は大人しく、誘導に従い、レストランを出る。
向かうのは、2階のクロークルームだ。
客の荷物を預かる部屋なので、入口は狭く、防犯カメラも設置されている。万に一つも水滴等が滴らないよう、配管の類も少ない。
ヤナギの連絡で、今の所2階には敵がいないことが確認されていた。だが紘司は、撃退士の警備員の傷を癒してやると、フロントの後ろにあるモニタールームの監視に当たってもらうよう頼んだ。
もしもヴァニタスの存在が確認できた場合は、手勢を集中させて対応する必要があるからだ。
ヴァニタスの目的が何処にあるにしろ、元凶を断つまでは同じことの繰り返しになるだろう。
クロークルームに集められた人々は、息を殺すように座り込んでいた。
律紀が様子を見て回り、怪我人がいないか調べている。
ソーニャは、父親が気がついてようやく落ち着いた様子の亜矢に、声をかけた。
「ねぇ亜矢さん、どうして一彦さんはヴァニタスになったと思う?」
亜矢の表情が曇る。
「ああ、ボクはそんなにヴァニタスに否定的じゃないよ。はぐれ天魔がいるんだから、はぐれ人間がいてもいてもいいよね」
ソーニャが少し考え込むような様子で、続ける。
「ボクは元いた場所を覚えてないから。許されるならば 人間の世界に、居場所をつくりたいな」
「居場所……?」
「うん。誰かが『ここにいてもいいよ』って言って抱きしめてくれる。そう、そんな場所」
亜矢が少し自嘲気味に微笑した。
「そうですね、じゃあ私は彼の居場所になれなかったのかしら……」
「なあ亜矢、いつから一彦は例の『エリニュス』ってェヤツを創り出したんだ?」
ヤナギが空気を変えようと、声を掛けた。
「だって『復讐の女神』だろ? 穏やかじゃねーよな。何か……キッカケは無かったのかねェ?」
「私が気付いたのは……怪我のあとかしら?」
亜矢が目を伏せて考え込む。
「怪我というのは、ピアノが弾けなくなった原因の?」
佳槻が重ねて尋ねた。
「差し支えなければ、その事故について教えて欲しいんですが」
何故かその瞬間、クロークルームに陰鬱な沈黙が訪れた。
亜矢と父親の健造だけでなく、大村家の関係者と思しき面々が一斉に視線をさまよわせたのだ。
「……ん? 修司がおらんな」
誰かが呟いた。
●執念
その時だった。
凄まじい絶叫が、耳を打つ。クライシュが素早く駆け出す。
「中山、ここを頼むぞ」
「皆気をつけて!」
律紀と警備担当の撃退士に人々の保護を任せ、一斉に皆が飛び出そうとする。
「待って!」
亜矢が呼びとめる。
「もし……もし一彦さんが来たら。少しだけでいいんです、話をさせて!」
危険すぎる。
誰もがそう思いながらも、その縋るような訴えを、即座に却下することは難しかった。
階段の上から見下ろすと、亜矢には叫び声の主が誰なのかすぐに判った。
「修司叔父さん……一彦さん……!」
そして倒れる男を踏みつけ、その左肩を日本刀のような鋭利な刃物で貫いているのは奥居一彦だった。
「伯父さんは、相変わらず個人プレイが好きですね。撃退士さん達の言うことをきかないからこんなことになる」
「た、助けてくれ!」
一彦の顔には薄笑いすら浮かんでいる。
「死ぬのは怖いですか? それとも自分を押さえつける力が怖い? 少なくとも、僕はそうでした」
刀に力を籠めると、修司が悲鳴を上げる。
手で顔を覆う亜矢に、紘司が低い声で告げた。
「酷いことを言うようですが、一彦さんは、もう人間ではありません。このままでは被害が大きくなります。……戦うことを、認めてください」
亜矢が涙に濡れた顔を上げた。
「何か、一彦さんに伝えたい事がありますか?」
としおが沈痛な面持ちで声をかけるが、亜矢はただ震えるように首を振る。
「だって、あんなに、叔父さんを……悪魔になったら、人間の心はないのでしょう?」
「問題はヴァニタスに感情があるかどうかでは無い。そこを間違えてはならない」
佳槻が諭すように言った。
一彦の感情、心の鬱憤という過去の『事実』、それが遠因であるにせよ、今彼がヴァニタスとなってここにいる。つまり背後にいる、本物の悪魔の存在があるのは間違いない。
「悪魔は、しばしば快楽的な目的で、感情を操る。今の一彦がかつての一彦と同じとは限らない」
亜矢が絶望の表情で見上げる。
一彦が亜矢に呼びかけた。とても優しい声で。
「亜矢なら判ってくれるよね? 僕の父と、僕の左手を奪ったのは、修司伯父さんなんだから」
「違う! あれは事故だ!」
修司のかすれ声は、左肩の激痛に遮られる。
「良くできた事故だったよね。僕が死んでいれば、完璧だった。でもね、見てたんだよ。あれは伯父さんの所の運転手だ」
修司が目を剥く。
「なんで黙ってたかって? 怖かったからね。喋ったら今度こそ殺される。それができる力が怖かった。でもこのホテルで、人間なんか一瞬で吹き飛ばすディアボロを見た。あの力なら、何があっても怖くない。そして僕は力を手に入れたんだ」
その瞬間、一彦が刀を引き抜いた。
「よぉ、此間の礼をしなくちゃ、な」
ヤナギが『迅雷』で一瞬のうちに接近し、振り被った鉤爪が、一彦の刃と擦り合う。
振り払うとお互いに飛び退り、距離が開く。
「余り無茶はするな」
「わぁってるって」
紘司も十字槍を構え、そこに加わる。翻弄するのはヤナギが、重い一撃を受けるのは自分の方が向いている。
大狼が1頭飛び出し、一彦を護るように唸った。
玲花が一気に突っ込むと、『目隠』の霧で狼の視界を奪う。その隙にクライシュが天界の気を強めた『報復遂げし英雄王』の一撃を叩き込むと、ディアボロは衝撃で吹き飛ぶ。
階段の影から、としおは剣を振るう一彦を狙う。左手を使われては仲間が痛手を受ける。
「当てて見せる!」
自分が体験したからこそ、あれを防ぎたい。
身を顰め、佳槻は倒れた修司に近寄ると『治癒膏』で傷を癒す。
「人間の感情だけが尊いとは言わない。天魔より傲慢で卑劣な人間などざらにいる。……さっきの話が本当なら、この男もだな」
青ざめたまま動かない壮年の男を無感動に見下ろす。
「それでも。天魔の力を借りて道を見失う事が、正しいとは思わない」
突然、女の声と乱暴なピアノの音が響いた。
「一彦さん、代わりに私の手をあげるわ! だからもうやめて!」
亜矢がピアノの蓋を右手で押さえ、鍵盤の上に置いた左手に叩きつけようとしていた。
「めちゃくちゃなのである……!」
ラカンが『光の翼』を広げて飛び出し、亜矢に跳び付く。
だがその一瞬。
一彦の意識が逸れ、隙ができたのだ。ほとんど反射的にとしおが引鉄を引く。
相手の守りの力を奪う『アシッドショット』が、一彦の腕に撃ち込まれた。
「……ッ!」
一彦が呻くと、跳び退る。そのまま上着の裾を翻し、玄関へと駆け出した。
追いすがろうとする仲間を、クライシュが止める。
「もう充分だ、怪我人の保護が先だ」
亜矢はただ、一彦の背中を見送りながら涙を流していた。
<了>